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雑記

そんなジョイスに騙されて~第10回ユリシーズ読書会・第1部まとめと感想

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 第3挿話精読の途中だが、12月6日に行われたユリシーズ読書会(第9挿話の回)の第1部の主催者発表を少しまとめて文章化し、適宜感想などをつけてみた。内容は以前にツイッター上で公開したもののほぼコピーだが、参加者の方々の中にはツイッターを使っておられない方もいるし、ツイートだと流れてしまうので、ブログに載せたほうがいいというご意見を頂いて。
(普段よりは短いです(笑)。第3挿話はもう少し時間をください… いつも見てくださっている方々、本当にありがとうございます。)
 例によって引用は柳瀬訳より。

 初めは小林さんの、ep.9における内容面についての発表。ジョイスの生きていた当時のシェイクスピアを巡る言説まで予習では追えなかったので、ありがたい。まず、図書館グループ達(ラッセル、エグリントン、ベスト氏)のシェイクスピア崇拝的な観点対スティーヴンの人間シェイクスピア的な観点という見方について説明される。ちなみに読書会では図書館グループの「3人」を図書館長リスター、エグリントン、ベスト氏とする見解で、スティーヴンと図書館の3人をプラトン派とアリストテレス派に分けると、プラトン派は図書館グループで、アリストテレス派はスティーヴン、という意見を私が出したわけだが(笑)、私は図書館グループ(プラトン派)がラッセル、エグリントン、ベスト氏の3人で、リスターはどちらかというと中庸の位置にいるのでは、と考えている。
 アイルランドにはまだ「サクソン人シェイクスピア」に並ぶ人物がいない(ep.9、p.317)、という登場人物の発言の背景には文化的ナショナリズムがあり、更にその背景にはアイルランド文芸復興運動がある=文化的な側面からナショナリズムを打ち立てようとしていたという二項対立的な状況があったこと、アイルランド的なものがある意味ロマン主義的(イデア論的)なものであったこと、それに対し、文化は様々な他国の影響を受けて造られていくものでありながら、アイルランドという辺境性に凝り固まっている文芸復興へのジョイスの懐疑・嫌悪があったという一連の流れが非常に分かりやすかった。当時の支配的な考え方は、エグリントンの言うようにハムレットシェイクスピアを反映したキャラクターであり、ロマン派的天才は実人生や現実を超越しているというものだったが、スティーヴンはそういったシェイクスピア崇拝や天才の概念を転覆しようとし、シェイクスピア作品にはシェイクスピアの実人生や過去が反映されているとする。このロマン派的天才という考え自体がある種プラトン的、イデア論的だな、と思った。シェイクスピアの作品創作はイデア界から得られたもの、普通の人間では到達できないところからその想を得ているという考えが感じ取られる。
 シェイクスピアの作品の根元を人間シェイクスピアに求めるスティーヴンの考えはアリストテレス的で、実人生が質料(可能態)、作品が形相(現実態)であり、シェイクスピアが「寝とられ亭主」であり、年上の女性と結婚したという説を持ち出すことで、シェイクスピアは性的劣等性を植え付けられており、ハムレット父王がシェイクスピアの反映であると考える。ハムレット父王の王位の剥奪や、妻を弟に取られたのは、シェイクスピア自身にその経験があるから(シェイクスピアの人生の反映)とスティーヴンは考えている。スティーヴンの、ハムレット父王=シェイクスピア、母=アン、ハムレット=ハムネット(シェイクスピアの亡き息子)という当てはめ方には、エディプス・コンプレックス(母と結ばれようとして父を殺す、対立する)の影響が見られる(フロイトなどの新ウィーン学派的考え)とエグリントンによって批判されているが、スティーヴンはそれを否定する。この辺がなぜだろう? と思った。単にそこから先の自説を展開したいからか、エグリントンによって既説に回収されたくなかったからか、自身のエディプス・コンプレックス的なものを感じていて、それに対する反感か…?
 そしてスティーヴンは「幽霊とは? ハムネット王とは?」と問う(ep.9、p.322)。発表では、亡霊とは、死して尚生者に対し影響力を持つものとして考えられるとする(cf. 『ダブリナーズ』の「死者たち」「姉妹たち」。「姉妹たち」、読み直さなければ…)。つまり、現在に憑りつく過去=トラウマの一つであるとし、楽しい過去も一種の亡霊として考えられるのではという指摘されている。ここで「亡霊」という言葉の持つ意味範疇が拡大されているのはとても面白い。当時の文学者たちも、私たち現代人も、シェイクスピア以降の文学者は何を天才シェイクスピアの後に描けばいいのかという問題に答えなければならない。
 第二の問題として、『ハムレット』の自己言及性の問題があげられている。ベスト氏が発言しているように、「(シェイクスピアは)己の書を」読んでいる(ep.9、p.320)。つまりシェイクスピアは自己言及している、自分自身について書いていることがテクストに明示されている。ここで自己言及性についての説明。自己言及性とは「テクストがテクストそのものを反映・言及すること。すなわちテクスト、語りの中でみずからの物語の起源と構成について語ること」(川口喬一、岡本靖正編『最新 文学批評用語辞典』研究社、1998より)。これはある種の入れ子構造(作品内の人物がその作品自体に言及したりすることで、作品を「作品」が覆い包んでいる、ということですね)で、ポストモダン小説を論じる時にこの言葉が使われがちとのこと。発表ではこれまで作品に出てきた「輪廻転生」(柳瀬訳では「輪廻転生」という言葉そのものは、あるかもしれないが見つけられなかった。「会者定離輪廻」ep.4、p.115他)、「視差」(ep.8、p.266)、「回顧整理」(eg. ep.6、p.161)に着目し、「ユリシーズ」はオデュッセウスラテン語名であることから、ブルームはユリシーズ(オデュッセウス)が輪廻転生した存在であるという考えを打ち出している。
 同時に、『ユリシーズ』にはそれ自体の構成・読み方、解釈の仕方、原理を自ら説明するメタ的な単語が散りばめられているとする。それはスティーヴンのシェイクスピア論 (『ハムレット』はシェイクスピア自身について書かれた作品)からも導き出され、ひいては『ユリシーズ』がジョイス自身について書かれた本、という考え方へと繋がる(テクスト自身についての二つ目の反映性が明らかにされる)。つまり、『ユリシーズ』にはジョイス自身の実人生や過去が反映されているのではとのこと。このように、ep.9ではスティーヴンの『ハムレット』におけるシェイクスピアの実人生の反映と、『ユリシーズ』のジョイス自身の人生の反映という二つの反映が見られる。またエグリントンは、シェイクスピアは過ちを犯した(アンと結婚したこと)とするが、スティーヴンは「天才は過ちを犯しません。天才の過ちは有意のもので、発見の入口です」(ep.9、p.325)と反論する(ここは「でも失うことが彼には利得なので」(ep.9、p.336)という記述にも繋がるかと考えられる)。この言葉にはコンテクストが重要で、直前にスティーヴンの母の臨床の床についての記述があり、スティーヴンは死んだ母のことを思い出している。天才がやることは全て作品に何らかの影響を及ぼしている、過ちであってもそれは作品に影響を及ぼす、作品を生み出す原動力とスティーヴン(ジョイス)は考えている、と指摘される。
 さて、ここでシェイクスピアの「過ち」とは、スティーヴン曰くアンによってもたらされた性的劣等感、弟に妻をとられたことだが、スティーヴン/ジョイスの「過ち」とは?という話になる。それは母の最期の願い、臨終の祈りを拒否したことであり、スティーヴンは過ちによって良心の呵責にとらわれているが、それによって自分もシェイクスピアのように作品を生み出すことができるという自己正当化、ある種の自己弁明とも読めるとする。
 最後に、人類に共通する過ちとは(キリスト教圏においては)原罪である。ここで、キリスト教的な原罪と、個々人の犯す「元々の罪」についての言及がなされる。人類の歴史はある意味楽園追放以降のものである一方、原罪以降の世界、シェイクスピアが『ハムレット』を書く以前、ハムレットが父王の亡霊と出会う前に犯された「罪」「過ち」があるのではという問いと同時に、ジョイスが『ユリシーズ』を書く以前に、スティーヴンが母の亡霊と出会う前に犯された「罪」「過ち」があるのではという問いが提示される。ここでもシェイクスピアジョイスハムレットとスティーヴンとのある種の対応関係があると見てとることができる。改めて考察し直すと、ep.9以前に『ハムレット』を「幽霊譚」として読む「議論」は既に始まっているとも言えるとのこと。つまり、ep.9は『ユリシーズ』全体の構成を自己反映的に明らかにしており、『ユリシーズ』は作者=ジョイス自身について書かれた本であると語られる。
 エグリントンは「真理は中庸にあり」(ep.9、p.360)、「彼は亡霊であり王子だ」(ep.9、p.360)、「彼は全てにおける全てだ」(ep.9、p.360)と論争をまとめ、スティーヴンもそれを認める。亡霊と王子という関係は、父と息子という関係と結びつき、三位一体の問題にも繋がると指摘される。先の「罪」の話に戻ると、ジョイスがスティーヴンでありブルームでもあるとすれば、「楽園」はep.8でのホウスの丘の記憶(ep.8、pp.298‐299)になぞらえられ、その意味で「原罪」は既にジョイスの実人生にも起きていたとする。「彼は現実態としての外界に、可能態としての己の内なる世界を見出した。メーテルリンクは言っています…あらゆる人生は数多の日々です、明けては暮れる日々です。ぼくらは己自身の中を通って歩いていき、追剥ぎ、亡霊、巨人、老人、若者、人妻、後家、色事仲間に出会う。しかしつねに己自身に出会う」(ep.9、p.361)。事実、スティーヴンはこの挿話の最後で二人(スティーヴンとマリガン)の間を通り抜けて行き、頭を下げて、会釈するブルームに出会い(ep.9、p.369)、その直後に鳥占いをしていたかつての自分に「出会」う(「ここで鳥たちを眺めて占ったっけ」(ep.9、p.369)(『肖像』第5章))。スティーヴンは図書館の外で鳥占いをしていたことを思い出しており、それによってかつての自分に出会っていると指摘されている。
 現在のスティーヴンが未来の自分(=ブルーム)と過去の自分(母が亡くなる前に鳥占いをしていた自分)の間、その「中途の地点」にいるという意味で、ep.9でのスティーヴンは二つの巨岩「スキュレーとカリュブディス」の間を通り抜けて行く存在であることを示唆している、というお話だった。この辺、ep.3で世界を認識しようとしながら自身の思索世界を逍遙するスティーヴンの試みがテキストとして明示されているのでは? さらにその間を通り抜けるブルームによって物語が進展しているのでは? と思いました。
 一人間としての作家、過ち、罪、といった点でシェイクスピアジョイスシェイクスピア作品と『ユリシーズ』、『オデュッセイア』と『ユリシーズ』が重ねられていることがテキストを軸にまとめられている。すごい。

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ハムレットといえばこれ。ミレーの『オフィーリア』(1851-1852)*2

 南谷さんの発表は、ep.9の語りについて。その読みにくさの説明と、それが何を意味し、何を読者に求めるか、私たちはどのように読めばいいのかについての、先行研究を元にした指摘とアドバイス。冒頭からの分かりにくさは、この挿話のCypherjugglers(「暗号曲芸師」、ep.9、p.333)のいたずらに惑わされず、それを読みとくことを要求し、Mocker(「嘲笑う者」ep.9、p.337)に代表されるような「アレンジャー」の存在を示唆しているとのこと。前へ、後ろへと繋がる「穴」が「発見の入口」(ep.9、p.325)となる。「外=前後の各挿話」を参照すること「裏=膨大な背景知識」に広がる世界と、「横」からの茶々=Mockerに着目することが大事というお話。
 アレンジャーについての概念だが、作品内で何か妙なことが起こったり、テクストの分断や意味を持っているのか持っていないのかわからない挿句が見つかった場合、そういった「変さ」を何でもかんでも「それはアレンジャーがいるせい」と考えて終わらせないことが重要だな、と思った。「この言葉、文章、何か変」→「アレンジャーがいる!」→「ここでアレンジャーが出てきた理由は? 作者はどのような効果をもたらすことを意図してここにアレンジャーを入れたのか?」というように、「アレンジャー発見!」の先へ進まないと、『ユリシーズ』はアレンジャーがいるというだけの作品になり、思考停止してしまう。発表内で言われていたように、前後の挿話や、そのテクストの裏にある膨大な知識を参照することは、「なぜここでアレンジャーが出てきたのか?」の問いに答える一端になるとも思う。また、読書会のディスカッションでは、「アレンジャー」を表すのに「アレンジャー」という言葉は弱い、もっと暴力的で、可能態が現実態に変わるときのようなダイナミズムを表す表現が適切なのでは、という非常に面白い指摘があった。これに関して主催者の方は、この先の挿話でもアレンジャーは出てくるので、その中でのアレンジャーの出現を見てから名称については検討したほうがいい、とのこと。
 発表の骨子そのものとは関係ないが、スライドで見た引用を改めて見直すと、"The mocker is never taken seriously when he is most serious. They talked seriously of mocker's seriousness."(「戯れ者は本気で真面目になると決して真面目に受取ってもらえないからね」(ep.9、p.339))、「美の感覚はぼくらを迷わせるからね」(ep.9、p.348)、語りの形式が語りの内容そのものになっていること(形式=内容)、といった文章や特徴がすごくワイルドっぽく感じた。
 最後の、主に第9挿話に出てくる著作家・文学者たちを中心にした3D年表のクオリティが、Eテレを超えるんじゃないかと思うほどすごい。他の方がコメントしていたが、途中でぽっかり穴があいている。ジョイス古今東西、あらゆる年代の哲学者・思想家や文学者を『ユリシーズ』の中に取り込んだわけではない、ということが分かる。それは誰なのか? いつの時代なのか? なぜジョイスは「そこを抜かしたのか」ということを考えるのも面白い。
 

 今回、平繁さんは論文書きが超多忙ということでお休み(残念…頑張ってください!)。