Ball'n'Chain

雑記

渚のジョイス~第4回ユリシーズ読書会メモ・パート2

www.stephens-workshop.com

 

(この記事は2019年10月に開催されたユリシーズ読書会参加にあたって調べた内容を、2019年12月~2020年10月の間にまとめたものです。現在、読書会はオンラインで継続して開催されています)。

 「京都から深夜バスで東京までやってきて、未曽有の重量のカバンを持ち、ネットカフェを転々としながら読書会に参加した」者の、ユリシーズ読書会第4回(第三挿話・2019年10月20日開催)の予習&再調査のメモ・パート2です。この挿話ではスティーヴンの浜辺散策中の思索の変遷が描かれているため、一度にすべてを調べると半年以上かかると判断し、数パートに分けて掲載することにしました。

・この読書会に参加するにあたり、私のような予習や調査は必要ありません。柳瀬氏の訳による『ユリシーズ』を読み、何となく気になったところや分からなかったところなどを頭の隅に留めておくだけでOKです。どういう点に着目すればいいか、などのアドバイスは、事前に主催者の方がメールで送ってくれたりもします。とにかく気軽に読んで、気軽に参加し、気軽に発言してみてください。読書会の趣旨や雰囲気については、上記サイトまたは同サイト内で紹介されている他の参加者の方々のブログなどを是非ご覧ください。

 スティーヴンの思索の絶え間ない変遷に伴い、わたしの調査や考察も四方八方に広がってしまいました。ほぼすべての文章で「引っかかって」しまっているので、興味がおありのところを中心にご覧いただくことをおすすめします。

(読書会で作成される言葉の地図の略称に合わせ、柳瀬訳をU-Y、丸谷才一らによる鼎訳(集英社文庫版)をU-Δと表記し、その後にページ数を書いています(挿話番号はページ数の前に表記されています)。ガブラー版はまだ持っていないため、引用部分を表記できません(申し訳ございません)。グーテンベルクのものを参照しているため、ガブラー版との差異が生じている可能性があることをご了承ください。)

 

 念のため、パート1のリンクを。

cafedenowhere.hatenablog.com

  

 では早速。

 

<U-Y 75‐76 ~石部金吉、ゴンドラ漕ぎ、泣く神とイエス~> 

・U-Y 75「若き石部金吉といくんだ」

 U-Δ103「おりこうでとんまな若者らしく振舞おうぜ」

 “like a good young imbecile”

 →goodは「立派な、善良な、利口な、親切な、元気な、優秀な」等の意味で(この他にもあり、こういうシンプルな言葉は文脈によって様々な意味を持つので注意したい)、imbecileはばか者、愚か者の意。スティーヴンは金を使い過ぎないようにしている。舟(シップという名の酒場)でどうふるまうかを考え、金は無駄遣いせずとも、周りのばか者や友人のばか騒ぎにはのってやろう、という意味だろうか。「石部金吉」という言葉は厳密な意味を知らずとも何となく雰囲気が伝わると思うのだが、ちょっと言葉としては古い(昔の人にはなじみのある言葉かもしれない)。調べてみると、「(石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語)非常にきまじめで物堅い人。特に、娘に惑わされない人、融通の利かない人」の意とのこと。U-Yにはimbecileの意味が入っていない。「石部金吉」で「くそ真面目、馬鹿みたいに真面目」という意味を出したかったのだろうか? ただ、金の使い過ぎには注意しよう、財布の紐は簡単にはゆるめまい、というニュアンスは伝わる。U-Δのほうが、説明的ではあるがニュアンスも含め原文に近い感じがする。

 

ここからスティーヴンとスティーヴンの父(サイモン)とスティーヴンの叔父(リッチー)のいつも発しているような言葉がスティーヴンの意識の中でまじり合う

 

・U-Y 75-76「歩みがのろくなる。ここだ。セアラ叔母さんのところへでも行くか? おれと同一実体の父の声。近頃、文士先生のスティーヴンを見かけたか? 見かけん? まさかストラスバーグ高台のサリー叔母の所にいるんじゃあるまい? あいつももうちと高台なる志を抱けぬものかいな。でででで、スティーヴン、サイ伯父は元気か? ああ、ありがたくてめそめそ泣けるね、ああいうのと縁続きになっちまって! 坊主どもは秣棚だ。飲んだくれのちんけな代言銭せびりに弟はコルネット吹き。たいそうご立派なゴンドラ漕ぎどもだよ! それにやぶにらみのウォルターがあの父親になんと様づけのお行儀だ! お父様。はい、そうです。いえ、違います。イエス泣き給えりか。そりゃそうだろう、耶蘇めそ泣けるって!」

 U-Δ103-104「彼の歩みが遅くなった。ここだ。セアラ叔母さんの家へ行くのか行かないのか? ぼくの同一実体の親父の声が聞こえる。このごろ、芸術家のスティーヴン兄さんの影かたちでも見かけるかい? 見かけない? まさかストラスバーグ台地のサリー叔母さんの家じゃああるまいな? あれも、もうちいっと高いところを飛べないものかねえ、ええ? そんで、そんで、そんで、そんで、どうだい、スティーヴン、サイ伯父さんは元気かね、ってんだろう? まったく神様も泣きますよ、結婚したおかげでとんだ連中と親戚になっちまったなあ! むすごらは納屋の二がいか。飲んだくれのけちな訴訟費用見積人にコルネット吹きの弟ときた。真っ当しごくなゴンドラ船頭さ。そのくせ、やぶにらみのウォルターはてめえの父親に、なんと、です、ます調だからねえ。お父さん。そうです、お父さん。違います、お父さん。イエス涙を流したもうってな。無理もないやね、キリストにかけて言うけどさ!」

 “His pace slackened. Here. Am I going to aunt Sara's or not? My consubstantial father's voice. Did you see anything of your artist brother Stephen lately?  No? Sure he’s not down in Strasburg terrace with his aunt Sally? Couldn’t he fly a bit higher than that, eh? And and and and tell us, Stephen, how is uncle Si? O, weeping God, the things I married into! De boys up in de hayloft. The drunken little costdrawer and his brother, the cornet player. Highly respectable gondoliers! And skewed Walter sirring his father, no loss! Sir. Yes, sir. No, sir. Jesus wept: and no wonder, by Christ!”

 →「文士先生…アイルランド英語で「詐欺師、ペテン師」の意味がある。/ストラスバーグ高台…当時の漁村アイリッシュタウンにあった。/セアラ叔母さん…サリーはセアラの愛称。/あいつももうちと高台なる志を抱けぬものかいな…もう少し上品な人たちとつきあえないものか。ディーダラス(ギリシア神話ダイダロス)の飛翔とストラスバーグ台地の高さをかけて。/でででで…スティーヴンの父親サイモン(通称サイ)が義弟リチャード(リチー)・グールディングの口癖をまねて嘲笑する。セアラ(サリー)はその妻。/たいそうご立派なゴンドラ漕ぎどもだよ…ギルバートとサリバン合作のコミックオペラ『ゴンドラ船頭』(1889)の台詞から」(U-Δ注)。

 slackenは「(速度など)弱める、のろくなる、ゆるまる、減じる」の意。“aunt Sara”(セアラ叔母さん)で思い出したのだが、いつも「叔父・叔母」と「伯父・伯母」の違いを忘れてしまう。「叔父・叔母」は父母の妹または弟。「伯父・伯母」は父母の兄または姉のこと。セアラ叔母さんがスティーヴンの両親のどちらの妹なのかははっきりしないが、サイモンがリッチーの悪口を言っていることから、スティーヴンの母親の妹なのではないだろうか?(つまりサイモンとリッチーの間に血のつながりはない)brotherは「兄弟分の仲間、同胞、同一教会員、聖職につかない修道僧、平修士、相棒、だんな」等の意味がある。“your artist brother”をU-Yでは「文士先生」、U-Δでは「芸術家」と訳しているが、U-Yのほうはからかい、嘲笑、皮肉のニュアンスが感じられる。一方で、U-Δではbrotherを「仲間」の意味でとっていたとしても、この部分には反映されていない感じがする。その後の「スティーヴン兄さん」のほうに反映させたのではないかと思うが、父が誰かに息子のことを訊いている文脈だと考えると、やはりあまり適切ではないのでは、という気がする。それともこの「兄さん」にも何かからかいめいた響きを持たせているのだろうか。“Sure he’s not down in Strasburg”のdownは「南へ、離れて」などの意味があるが、「(主にアイルランドで)Away from the city」という意味があり、これは南北に関係がないらしい。“Couldn’t he fly a bit higher than that”の部分だが、U-Yでは「あいつももうちと高台なる志を抱けぬものかいな」とし、U-Δでは「あれも、もうちいっと高いところを飛べないものかねえ」としている。もちろんU-Yのこの部分の「高台」は「高大(高く大きいこと、たいそう優れていること)」にかけている。U-Y.74-75で、「高台」は三回繰り返されている。U-Δ注ではサイモンがスティーヴンに「もう少し上品な人たちとつきあってほしい」と望んでいるというような解釈だが、U-Yではサイモンがスティーヴンに「もっと高い志を抱いてほしい」と思っているような訳になっている。「高大」を「高台」としたことで、もしかしたらダイダロスの飛翔の含みも入れているのかもしれないが、少なくともU-Δ注で述べられているような「もっと上品な人とのつきあい」を望むニュアンスは感じられない。サイモンは息子スティーヴンに詩人になる以上の志を求めているのだろうか? サイモン側からの父と息子との親子関係は今まで全くと言っていいほど触れられていないので、今後の描かれ方が楽しみでもある。また、ここまでのスティーヴンの想像する父は、一体誰に向かってスティーヴンのことを話していると想像されているのだろうか? 

 “And and and and tell us, Stephen”の部分だが、Andの繰り返しとマナナーンとの繋がりはパート1の記事で少し触れた。この部分をU-Yでは「でででで」と訳し、U-Δでは「そんで、そんで、そんで、そんで」と訳している。andの繰り返しがマナナーンという言葉に見られる波の形を連想させるとすれば、ここは「でででで」のほうがその連想に対応する表現としてU-Δよりふさわしい。読書会ではこの「でででで」の「で」の字を右に90度回転させると波のような形になる、ということが指摘されていた(偶然なのか意図してなのかは分からないが、本を回転させてまで隠れた意味を読み取ろうとしたことにとても驚いたと同時に、凄いな…と思わざるを得なかった)。そして、“tell us”なのだが、ここはなぜtell meではないのだろうかと思い、調べてみたところ、usは口語で通例命令文の中で「私に、私を」という単数の意味をも持つらしい。用例を調べてみたところ、ジョイスの「遭遇」(“An Encounter”、『ダブリン市民』収録)のなかで、“tell us”を「ねえ」と訳しているものがみつかった*1のだが、ざっと目を通したところ実際に「ねえ」と発話しているのはマホニーと呼ばれる少年で、「ねえ」と呼びかけられた男に対し語り手である少年とマホニーとが言葉を交わしているようなので、この部分でusを単数ととらえていいのかは何とも言えない。ちなみに、柳瀬訳の『ダブリナーズ』でこの部分は「それじゃさ」と訳されており*2、安藤一郎訳の『ダブリン市民』では「そんなら」と訳されている*3。日本語の問題でもあるが、特に命令文で「誰に」というのは明示されないことが多いので、この部分については文脈でそれぞれ訳者の解釈により表現を考えるよりほかなく、とりあえずusが命令文の中で単数をも示しうる、ということだけ頭の片隅に入れておこうと思う。ちなみに、関係はないと思うが、Tellus(テルース)(またはTerra(tera))はローマ神話で大地の女神のことだ*4

 weeping Godは熟語か慣用句かと思ったのだが、そうではないらしい。神は泣くだろうか? 聖書でGod(父なる神)は、特に旧約で「怒る」「嘆く」などと描写されることはあるが、「怒って顔をしかめる」「嘆いて頭を抱える」といった人間的な動作はせず、その感情を人間の世界に対する災いや異変でもって示すことが多いのではと思う。この点について「ギリシャ哲学の理解に基づいた伝統的なキリスト教の考えでは、父なる神が他のすべての存在・実体から完全に無関係であることを要求し、それによって神が「感情を持たない」存在でなければならない、無感覚でなければならないということを前提条件とすべきと考える人々を生み出すこととなった……ゆえに、すべての被造物の行いや状況に対し、神が心に悲しむことは不可能である、ということになる……『オックスフォードキリスト教辞典』(The Oxford Dictionary of the Christian Church)では、「この理論は……ギリシア人の哲学的神学内での定義であり、キリスト教の源泉におけるその基礎は、恐らくギリシアの影響に直接的に起因するものである」としている。つまり、これ(神は被造物とは無関係であり、感情を持たないという考え)は、聖書固有の教えというわけではない――聖書と混交した人間の哲学とでもいうべきものである」*5という説がある。ちなみに、ジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith , Jr. 1805-1844、モルモン教の設立者)による『モーセ書』第7章.28には、“And it came to pass that the God of heaven looked upon the residue of the people, and he wept”(「すると、天の神が民の残りの者を見て泣かれた」)という記述がある*6。この部分は、「ああいうのと縁続きになってしまった」という状況に対し「神ですら泣く」という嘆きの強調で、それ以上の意味を持たない会話上の言葉なのか、あるいはジョイスがこのモルモン教の『モーセ書』を参考にしたものなのか、それともまた別の解釈があるのだろうか。

 thingsは「(軽蔑、非難、称賛などの意を込めて)(口語)人(主に女性、子供)」とある。“marry into”で「…と姻戚になる(姻戚は婚姻によってできた血のつながりのない親戚のこと)」の意。Deがtheの方言であるという記載は辞書にもなく、参考サイトにも説明はなかったが、黒人の話し言葉をそのまま(音で聞いたまま)文字に起こした作品(チェスナットの“The Goophered Grapevine”の中に、明らかにTheをDeと発音しているのをそのままDeと表記している記述が見られた*7)。hayloftは「干し草置場、(一般に馬小屋、納屋の屋根裏)、秣置場、upper storage of a barn used for storing hay」の意。この部分だが、なぜ息子たちは納屋の2階にいるのだろうかと思った。彼らは家畜を飼っているのだろうか? または他に藁を使う生活上の必要があるのだろうか? 

 costdrawerは“cost drawer”で、“(In later use chiefly in Ireland) a person who draws up a solicitor’s bill of (legal) cost”(法的費用の請求書の文書を作成する人)で、solicitorは「(事務)弁護士(法律顧問を務めたり、法廷弁護士(barrister)と訴訟依頼人の間に立って裁判事務を扱う弁護士で、上位裁判所の弁護は不可)」という意味らしい。このcostdrawerをU-Yでは「代言銭せびり」と訳しているが、代言人とは弁護士の旧称のこと。「代言銭」という用例は他に見当たらなかったのだが、代言人という言葉が分かれば代言銭が弁護士費用を指すであろうことは予測できる。U-Δではそのまま「訴訟費用見積人」としているが、その前に「飲んだくれのけちな」とついていて、明らかに口語体で悪口を言っている中でこういう硬い言葉が出てくるのが不自然に感じる。ただ、やはりU-Δのほうが正確性は高く、U-Yのほうがニュアンスは近い。この“The drunken little costdrawer and his brother, the cornet player”の部分だが、その前に「坊主どもは秣棚」と言っているので、最初リッチーの二人の息子たちのことを指しているのかと思ったが、違うようだ。代言人はリッチーのことなので、コルネット吹きはここに出てきていないが彼の弟のことを指しているのではないかと思う。グールディング家の家族構成がよく分からないので(息子は二人だけなのか?とか)、もう少し知りたい。「秣棚」という言葉は辞書にはないが(秣という言葉はある)、調べてみると他の文学作品等でもこの言葉は使われているようだ。

 “Highly respectable gondoliers”についてだが、U-Δ注を補足すると、ギルバートとサリヴァンの喜歌劇『ゴンドラの漕ぎ手、またはバラタリアの王』(1889年、ロンドンで初演)の中の、ドン・アルハンブラのアリアにこの台詞が出てくる*8。内容が面白いので、本筋には関係ないが(今に始まったことではないが)以下に紹介しておく。「ヴェニスの二人のゴンドラ漕ぎ、マルコ・パルミエーリとジュゼッペ・パルミエーリは、優しい気性と男性的な美しさから女性に大人気だった。二人は自分たちと結婚したいと思っているたくさんの女性たちの中から一人ずつ選んで結婚する。ある日、スペインからプラザ・トロの公爵が、公爵夫人、その美しい娘カシルダと、公爵の持つ楽団の鼓手ルイスを連れて、ヴェニスにやってくる。公爵夫妻は宗教裁判所長、ドン・アルハンブラ・デル・ボレロと話しに来たのだが、その事情を娘に話す。カシルダは六歳の時、バラタリアの王の息子と結婚させられていた。しかし宗教裁判所長は、当時のバラタリア王がメソジストに改宗したことを理由にバラタリア王の息子を誘拐し、ヴェニスへと連れ去った。先日、バラタリア王が殺害されてしまったので、ヴェニスにいるはずのその息子が今はバラタリア王で、公爵夫妻は娘をその王子と会わせるため、宗教裁判所長を訪ねてヴェニスまでやってきたのだった。カシルダはその事実を今まで秘密にされていたこと、自分の同意なしに結婚させられていたことに憤る。しかもカシルダは鼓手ルイスと愛し合っていたのだ。宗教裁判所長がやってきて、王子は身分の低いゴンドラ漕ぎのバプティスト・パルミエーリに育てさせた、と言う。バプティストには王子とほぼ同い年の息子がいた。しかしバプティストは大酒飲みで、いつしかどちらが自分の息子で、どちらが王子だったかが分からなくなってしまっていた。少年たちは成長し、二人ともゴンドラ漕ぎ(=マルコとジュゼッペ)になる。幸い乳母(鼓手ルイスの母親)がまだ生きていた。彼女の夫は「大変立派な山賊師」(“highly respectable brigand”)だった。宗教裁判所長は乳母なら二人のうちどちらが王子か分かるだろうから、乳母を見つけ出すと約束する。後日、マルコとジュゼッペの二組の夫婦のもとに宗教裁判所長がやってきて、二人のうちのどちらかが王子なのだが、どちらかは分からない、ということを告げる。二人のゴンドラ漕ぎたちは共和主義者だったが、バラタリアへすぐ行き、本当の王が分かるまで二人で一人のように行動し、国を治めることに同意する。このとき、宗教裁判所長は、二人のうちの一人が、つまり王となるほうが重婚していることには触れなかった。離婚するのが嫌だからその件には関わらないと、二人に拒否されるのを恐れたのだ。バラタリアへ行った二人は、共和主義をもって国を治め、「全員を平等にする」と宣言し、あらゆる人々を貴族階級に昇格した。マルコとジュゼッペが宮殿のすべての仕事をしながら三か月過ごしていると、宗教裁判所長がバラタリアにやってきて、ゴンドラ漕ぎたちが国民全員を貴族階級にしたと知り、貴族と平民の階級の差の必要性を説く。「誰もが何者かになってしまったら、誰もが何者でもなくなってしまうのだ」と。そして宗教裁判所長は一方のゴンドラ漕ぎが既にカシルダと結婚していて、意図せぬ重婚をしていることを明かす。そこへ公爵一家がやってきて、自分たちの出迎え方に驚き、正式な王室の作法をゴンドラ漕ぎたちに教える。公爵夫妻が退室すると、ゴンドラ漕ぎたち夫妻とカシルダが残され、カシルダは自分にはどうしようもなく愛している人がいることを打ち明ける。それを聞いたゴンドラ漕ぎたちは、自分たちの妻を紹介する。五人は自分たちの苦境を嘆いて歌う。そして宗教裁判所長が乳母を連れてやってくる。彼女は宗教裁判所長が王子を連れて行こうとしたとき、王への忠誠を誓ってその子を隠し、代わりに自分の息子を連れて行かせたことを話す。乳母は隠した王子を自分の子として育てたのだ。つまり、王はマルコでもジュゼッペでもなく、乳母の息子ルイスということになる。これですべての人々が満足し、カシルダは自分が愛していたルイスとすでに結婚していたことが分かった。ゴンドラ漕ぎたちはルイスに王権を渡し、ヴェニスへ戻って妻たちと幸せに暮らす」*9

 第三挿話に戻ると、ここではサイモンがグールディング家の社会的地位の低さを嘲笑している。サイモンの馬鹿にしている「ゴンドラ漕ぎたち」が複数形であることを考えると、この言葉はマルコとジュゼッペを指しているように思えるが、彼ら二人は非常に立派な青年たちだ。一方で、その親のバプティストは、二人の息子のどちらが自分の実の息子だか分からなくなるほどの大酒飲みだという点でリッチーと共通点があるので、ここで言う「ゴンドラ漕ぎ」はバプティストのことを指し、リッチーに兄弟がいることから複数形にしていると考えるのが妥当だろうか(戯曲原文も単数形である)。そう考えた上で、マルコとジュゼッペの父親に対する「たいそうご立派なゴンドラ漕ぎ」という呼称に込められた皮肉は、この表現がその後の乳母の夫に対する「たいそう立派な山賊師」と同列に扱われ、GondolierがBrigandまで貶められていることから分かり、それをリッチー(と兄弟らしき人物)に当てはめている。しかし「この戯曲は喜劇的な転覆(既存の社会階級や権力の価値体系の逆転のこと。演劇等で用いられると風刺や笑いをもたらす効果がある*10)を扱ってはいるが、やはり若きゴンドラ漕ぎたちは身分の高い人間ではなく、彼らがヴェニスに戻った後、召使いたちはスペインの宮殿での元の仕事に戻り、貴族たちは「何もしない」という元の生活に戻ることで、階級の違いが「そうあらなければならないもの」として確認されている。一方で、公爵たちとゴンドラ漕ぎを分断しているのは、本質的でなく、取るに足らない些細なことにすぎないという事実も示唆されている。サイモンの皮肉は幾分ずれたもののように思える」*11との指摘がある。つまりサイモンは「本質的ではないもの」を指摘することで、その嘲笑を的外れなものにしてしまっている、ということだろう。ところで、ここに言及されているディーダラス家とグールディング家の「社会階級」の差とは具体的に何を指しているのだろう? 代々続く家柄のことだろうか? それとも現在の自分たちの家族の職業のことを言っているのだろうか?

 sirは動詞で「(人を)Sirで呼ぶ」の意。この“sirring his father”をU-Yでは「様づけ」、U-Δでは「です、ます調」と訳している。この部分だけだとU-Yのほうが原文に即しているのだが、その後繰り返されるsirに「お父様」という言葉を対応させていないので、不完全な感じが残る。対してU-Δはsirringを「ですます調」と変え、その後のウォルターとリッチーとのやり取りも「そうです」「違います」と続けており、こちらの方が自然な感じがするのだが、sirringをより反映させるとすれば、「なんとお父様呼ばわりだ。お父様。はい、お父様。いいえ、お父様」などと訳すのはどうだろうか。「お父様」の繰り返しがくどいだろうか。“no less”は「なお、その上、さらに、…に加えて」等の意味がある。“Jesus wept”は辞書によると「(間投詞)Expresses annoyed incredulity(困惑を伴う不信感・懐疑の表現)、(強い怒り、驚き、失望、苦痛など)ちくしょう、あっ」の意。また、「イギリス・アイルランド(特にダブリン、ベルファスト)・オーストラリアを含む英語圏のいくつかの地域では、何かが失敗したときや、懐疑心を表すときの軽い間投詞、他人の感じた不運な状況や自己憐憫に対する冷淡な無関心を表すときの皮肉としても使われる」との説明もある*12

 U-Δ注に基づきさらに調べてみると、この言葉は新約聖書の「ヨハネによる福音書」内の、ラザロの死から復活に至る話の中に登場する。該当する内容を以下にまとめてみる。「イエスを信じるマリアとマルタの兄弟ラザロは病気だった。マリアたちがそのことをイエスに告げるが、イエスは「その病気は死で終わるものではなく、それによって彼は神の栄光を受ける」と答える。その二日後、イエスはラザロのもとへ行くことを決める。イエスには既にラザロが亡くなっていると分かっていた。その場に立ち合わなかったのは、弟子たちが自分を信じることが目的だったと言う。イエスがラザロたちの住む場所についたのは、ラザロが葬られてから四日後だった。マルタとマリアの家にはたくさんのユダヤ人が来て二人を慰めていた。イエスが近くへやって来たことを知ったマルタは、イエスのもとへ行き、あなたがいてくれたらラザロは死ななかった、と言う。それに対しイエスは、自分を信じる者は死んでも生きること、ラザロは復活することを説く。家に戻ったマルタは、イエスがマリアを呼んでいると伝え、マリアはイエスのもとへ行く。ユダヤ人たちはマリアが墓へ行って泣くのだろうと思って彼女についていく。マリアはイエスにマルタと同じことを言い、泣くと、一緒にいたユダヤ人たちも泣く。それを見たイエスは憤り、興奮する。そしてイエスは泣く。イエスはラザロの墓のもとへ来ると、墓穴の石を取り除かせ、父なる神に、いつもあなたが私の願いを聞き入ってくださることを感謝している、私がこのようなことを言うのは、周りの人のため、あなたが私をお遣わしになったことを信じさせるためだ、と言う。そしてラザロに出てくるよう呼びかけると、ラザロはよみがえり、包帯姿で出てくる。この出来事に危機感を覚えたパリサイ派は、イエスを逮捕し、殺す計画をたてる(皆がイエスを信じると、ローマ人が来て自分たちが滅ぼされてしまうことを危惧した)。しかしユダヤ人の大祭司は預言者であったので、いずれイエスが人々のために死ぬことを分かっていた」(ヨハネによる福音書11:1-53)。この節で何故イエスが泣いたのか、についての解釈は複数ある。その中のいくつかを紹介すると、これはイエスが真に人間であることの強調だという説、あるいは人類に対する悲しみ、哀れみを表しているという説、また、人間に対する死という暴君への怒りを表しているという説、最後に、自分を信じる者が自分の説いた復活を思い出せないでいる、誤解しているから「憤って」もいるのだ、という説などがある*13

 U-Yではこの部分を「イエス泣き給えりか」と訳し、U-Δでは「イエス涙を流したもうってな」と訳している。文脈ではウォルターが父親のリッチーをサー呼ばわりしていることに対する反応なのだが、この二つの表現から先に述べたような皮肉や懐疑を感じ取ることができるかどうか。ウォルターが父親をサー呼ばわりしていることに感心しているような皮肉なら、U-Δのほうがニュアンスが比較的伝わりやすいように感じる。また、聖書の内容にこだわらず、辞書等の意味を前面に出すなら、「ほんとのとこはどんなもんかね」「まったくたまげたもんだよ」というような訳になるだろうか。あるいは、このヨハネによる福音書の内容とは少し離れてしまうが、「イエス」の名を使いつつ、皮肉を持たせるとすれば、ウォルターの行いに「イエス様も感涙にむせぶだろうよ」というような訳になるだろうか? そしてその前に出てくる“weeping God”と、この“Jesus wept”、その後の“by Chirist”は、「父なる神」と「イエス」と「キリスト」がテキスト上で分割されている状態になっているのだが、これは意図的なものだろうか。更に、JesusとChristの間に挟まれた“and no wonder”にも何かしらの意図があるのだろうか? 皮肉や懐疑のニュアンスの問題も含め、この部分だけでは判断が難しいので、次の“and no wonder, by Christ!”と合わせて考えるべきだと思う。

 “no wonder”は「なるほど、道理で、それもそのはず、もっともだ、無理もない、当たり前、もちろん」等の意味。U-Yでは「そりゃそうだろう」、U-Δでは「無理もないやね」と訳されており、どちらも辞書通りの意味だ。“by Christ”は「神かけて、きっと」という意味で、辞書の説明では、「“By Jove”“By cracky”などと同じように、驚きや賛成、強意、称賛の意を示す。このような言葉(軽い罵り、悪口)は婉曲語法として“By Jesus”“By God”などの代わりに使われた。“by cracky”は“By Christ”のくだけた表現のバリエーション」とある。この説明と文脈を考えると、「まったくねえ!」くらいの軽い訳になるだろうか。前述したように“Jesus wept”からの一文で考えてみると、原文は“Jesus wept: and no wonder, by Christ!”となっており、U-Yは「イエス泣き給えりか。そりゃそうだろう、耶蘇めそ泣けるって!」という訳、U-Δは「イエス涙を流したもうってな。無理もないやね、キリストにかけて言うけどさ!」という訳になっている。U-Yでは恐らく「耶蘇めそ」にChristを反映させ、「イエス」と「耶蘇めそ」を繋げている(厳密には「耶蘇」はJesusの中国音訳語の音読みが由来で、Christのことではないが)。そしてU-Yでは「泣ける(泣く)」ことをここで強調している。U-Δでは辞書通り、“by Christ”がその前の「無理もないやね」の強調として使われている感じが強い。そしてU-Yと同様、最初の「イエス」と呼応させるように、原文に忠実に「キリスト」という言葉を出している。結局、この文章では「イエスが泣くのも無理はない」ということを言っているだけなのだが、具体的になぜ「イエスが泣く」のかの理由の選択肢としては、サイモンの考えるグールディング家の全体的なひどさ、その家と親戚になっていること、リッチーたちが大した職についていないこと、ウォルターが父親をサーで呼ぶことなどが挙げられるが、どの選択肢も完全に否定はできないのではないだろうか? 単純に考えれば、またこの文章が“Jesus wept”の一言であったなら、ここはウォルターの父親の呼び方に対するただの皮肉だということもできると思うのだが、“and no wonder, by Christ!”というふうに言葉を継ぐことで、ウォルターだけでなくその前に話された事柄についても皮肉の対象が広がっているように感じられる。「そりゃそうだろう」「無理もないやね」といった何かを限定しない漠然とした言葉が、リッチーたちのうだつの上がらなさや、親戚になってしまったことへの不満にまで皮肉や愚痴の対象を広げているように思えるのだ。ここでは文章が延びることで、その文章の言及範囲も延びているのではないだろうか? この節全体を通して見ると、 “s”という文字が多いのと、down-fly a bit higher-up-Highlyという言葉のつながりによって、上下の移動が強調されているように思われるのだが、これは何を言わんとしているのだろうか? 特に意味はないのだろうか?

 

ここからスティーヴンがグールディング家を訪ねるシーンの回想(または想像)が始まる。

 <U-Y 76-77 ~グールディング家への訪問の想像、マクベス、マシュー・アーノルド、イル・トロヴァトーレ、この風のほうが美声だ~>

・U-Y 76「おれは鎧戸を閉めきったちっぽけな家の喘息持ちみたいな呼鈴をひっぱる。そして待つ」

 U-Δ104「ぼくは鎧戸を閉め切った家の前に立ち、ぜいぜい喘ぐベルを鳴らして、待つ」

 “I pull the wheezy bell of their shuttered cottage: and wait”

 →pullという言葉をU-Yでは「ひっぱる」、U-Δでは「鳴らして」としており、U-Δのほうではpullそのままの意味は反映していない。wheezyは「ぜいぜいいう音を出す、呼吸困難な、陳腐な、having a tone of a reed instrument(リード楽器の音色を持つ)」という意で、wheezeを調べてみると、「ブーブーと(曲などを)鳴らす、ぜいぜい息を切らす、ひゅうひゅういう音で呼吸する、a piping or whistling sound caused by difficult respiration(呼吸困難によって生じるパイプ楽器や笛を吹くような音)、 (of a device) make an irregular rattling or spluttering sound(ガタガタ、パチパチといった不規則な音を出す(機械))」などの意味がある。この“wheezy bell”を「喘息持ちみたいな呼鈴」「ぜいぜい喘ぐベル」と訳しているが、呼鈴やベルは「ぜいぜい」というような音をたてるだろうか、と思い、bellを調べてみたところ、「押した際に音が鳴る、またはブザーがなって合図するドアの外側についた押しボタン(a push button at an outer door that gives a ringing or buzzing signal when pushed)」という意味があるので、これは鈴のようなタイプの呼鈴ではなく、ブザータイプの呼鈴なのではないだろうか?

*14。">

f:id:cafedenowhere:20200927212722j:plain

エジンバラの古いドアベル。滑車式のものなのか、電気式のものなのかは不明*15

 画像を探したところ見つかった写真は、エジンバラの古いドアにつけられた、引くタイプの呼鈴。ワイヤーと滑車を使ったものなのか、電気を使ったものなのかは不明。かと言ってここのbellがブザータイプのものであると断言はできないのだが、ブザータイプのものであれば、古かったり壊れかけていたりすると、それこそリード楽器のような音が出るのは想像しやすい。ここで敢えて「呼鈴」「ベル」という訳語をあてたのは、単にブザーの可能性を考えていなかったのか、それとも他挿話に出てくる鈴や鐘との関連性を意識したものなのか。また、U-Yの「喘息持ちみたいな」という訳は、家そのものも病んでいて、不健康であるという含みを持たせたかったのだろうか。「鎧戸」は「小幅の横板を傾斜をもたせて並べた鎧板を取りつけてある戸。錣戸(しころど)。がらり戸。日よけ、目隠しとなり、同時に通風、換気ができる」。shutteredは「雨戸・鎧戸を閉めた」の意。と言われても、私は鎧戸を見たことがなく、雨戸のある家にすら住んだことがないのでいまいち想像ができない。ここはドアの扉本体の外側にさらに鎧戸がつけられている(二重のドアになっている)のか、それとも窓に鎧戸があるのか、と考え、画像を調べてみたところ、玄関の戸の外側に鎧戸らしきものがついている家も見つかったが、多くは窓に鎧戸がつけられていた。さらに、「彼(スティーヴン)は親戚が鎧戸の閉まった窓の向こうから外を覗き見ているのを想像している」*16という解説があり、やはりここで鎧戸がつけられているのは窓のほうなのだろう、と思った(恐らく多くの方には分かりきったことなのでしょうが、鎧戸も雨戸も知らない私には分かりませんでした)。“cottage”は「ちっぽけな家」「家」と訳されている。辞書には「(田舎の農民、鉱員などの住む)小屋、いなか家、小さな家、コテージ、(英国の典型的なcottageは背の低い草ぶき屋根(thatched roof)で、石造りの小さな家である。一階建てのものが多い)」とある。間違える例としてよく挙げられる言葉だが、必ずしも日本人が想像するようないわゆる「コテージ」ではないことが多い。文脈によってかなり意味が異なる難しい言葉だ。この文章の中の“cottage”は「(一階建ての)小さな家」の意味がふさわしいのでは。

・U-Y 76「借金取りと勘違いして、向うは有利の一角から窺う」

 U-Δ104「みんなはぼくを借金取りと間違えて、見やすい場所から様子をうかがう」

 “They take me for a dun, peer out from a coign of vantage”

 →「見やすい場所(有利の一角)…『マクベス』1幕6場より」(U-Δ注)。dunは借金の返済をうるさく催促する人、の意。coignは「(壁、建物の)外角、(部屋の)隅(corner)、くさび台の支え、台木、くさび石、(古)quoin」の意。vantageは「有利な立場、優位」の意で、“coign of vantage”は熟語のようだが、coignだけで「観察・行動に有利な立場、見晴らしのきく地点、有利な立場」という意味が辞書に出てくる。U-Δ注にあるように、『マクベス』の該当部分を確かめてみた。

 “Duncun: This castle hath a pleasant seat; the air / Nimbly and sweetly recommends itself / Unto our gentle senses. / Banquo: This guest of summer, / The temple-haunting martlet, does approve / By his lov’d mansionry , that the heaven’s breath / Smells wooingly here: no jutty, frieze, / Battress, nor coign of vantage, but this bird / Hath made his pendant bed and procreant cradle: / Where they most breed and haunt, I have observ’d / The air is delicate”*17 

 シェイクスピアの英語で普通の辞書には載っていない意味を持つ単語と、今でも使われている意味の単語が混ざっているので、調べた部分を列挙しておく。seatは“The place occupied by anything, or where any person, thing or quality is situated or resides: a site”の意。「場所」くらいの意味でとらえていいと思う。Nimblyは「素早く」、sweetlyは「快い」、recommendsは“be acceptable, make itself agreeable(喜ばれるものとする、快いものにする)”の意。templeは「寺院」、martletは「岩燕」、approveは“demonstrate to be true(真実であることを示す)”、mansionryは「住居、住みか」juttyは“projecting part of a wall or building(壁や建物で突き出たところ)”、friezeは「部屋や壁にめぐらした水平の帯状の彫刻のある小壁」、battressは「控え壁」、pendantは「吊り」、procreantは「出産に係る」、cradleは「揺り籠」、breedは「繁殖する」、hauntは「住む、to inhabit, visit frequently」、observ’dはobservedで「気づく」、delicateは「柔かい」の意味。norとbutの用法は、よく出てくる“It never rains but it pours”の用法と同じで、前から訳せばいい。つまり、「鳥が巣をつくらないいかなる軒先などもない」ということで、「軒先などがあれば必ず鳥が巣をつくる」という意味になる。これを、福田恆存は以下のように訳している。「ダンカン:よいところにあるな、この城は。吹きすぎる風が、いかにも爽やかでに甘く、ものうい官能をなぶってゆく。/バンクォー:それ、あそこに夏の客、寺院にすまう岩燕が、せっせと巣づくりに精を出しております、それが何よりの証拠、このあたりは格別、大気の匂いに心がうずくらしゅうございます。この鳥は、軒先、なげし下、控え壁、その他どこでも、ところ構わず、都合のよい隅々を見つけては、吊床を造り、雛鳥の揺籠をしつらえるとか。この連中が好んで巣をつくる場所は、かならず空気がやわらかいような気がいたします」*18

 「なげし下」とは柱から柱へと水平に打ちつけた材のこと。意訳であることは分かっていても、どうしてもgentle sensesを「ものうい官能」と訳した意味が分からず、調べてみると、「ものうい」は「なんとなく気がふさいで、動くのも面倒だ、憂うつだ、けだるい、大儀だ、なんとなく苦しい、つらい」等の意味を持つ。「官能」は「感覚器官が機能すること。目、鼻、耳、舌、皮膚などの感覚器官が刺激を受けとることを指す語。とりわけ性的な刺激、性的快感を指すことが多い」とあった。ここでの「官能」が性的な意味を含んでいないことは分かっても、やはりgentleを「ものうい」と訳した根拠が辞書では見つからなかったのだが、これはこの後ダンカン王が殺されることを予見している発言として解釈しているのかもしれない。ちなみに坪内逍遥訳も参照してみたのだが、言葉は古くともこちらのほうが私にはしっくりくる。「ダンカ:こりゃ氣持の好い(ところ)ぢゃ。(さわや)かな、柔かな空氣の肌に(さわ)るのが、いかにも好い心持ぢゃ。/バンク:寺院を好みまする、あの、夏の客の岩燕が熱心に(こて)細工をやってをりますのを見ましても、 此邊(こゝら)では、天の息が懷しらしう薫ってをりますことが分ります。 檐先(のきさき)長押(なげし)下、控へ壁、其他便宜の隅々に、彼れめが吊床(つるしどこ)をこしらへて、 雛の搖籃を掛けてをらん處はございません。()の鳥が好んで巣をくひまする處は、經驗によりますと、 空氣がよろしうございます」*19。問題の“coign of vantage”だが、この言葉の含まれる上記引用部分では、「爽やかな風」「空気が柔らかい」ことと、「鳥は都合のよい隅々に巣をつくる」ということが語られている。この部分と『マクベス』との関係については以下のような指摘がある。「吊床の中から外を覗き見ている鳥たちの考えが、恐らく全く悪意なしにスティーヴンの意識の中に現れ、彼は借金の取り立て屋が戸口にいるのではと、鎧戸のすき間から覗き見る自分の叔母の家族を思う。バンクォーがこの言葉を発した文脈は無視しがたい。ダンカン王は、自分がじきに、自らの寝床で、そこの主人によって殺される城へと入っていく。その前にマクベス夫人は、王の到着を告げる、あまりめでたいとは言えない鳥を想起している。「私の城の下では、ダンカンの死を招く入城を告げる烏の声さえしゃがれている」(“The raven himself is hoarse / That croaks the fatal entrance of Duncan / Under my battlements”)(1幕5場)(「烏の声もしわがれる、運命に見入られたダンカンが私の城に乗り込んでくるのを告げようとして」(福田訳*20))(「鴉さへも嗄れ声をして、不運なダンカンが予の此城へ来るのを知らせる」(坪内訳*21))。そしてダンカンとバンクォーが話を交わした直後に、自分の城の下にいる王を歓迎してマクベス夫人が入ってくる。スティーヴンは自分の叔母の家で殺されるなどと恐れてはいないかもしれないが、この言及は鎧戸を閉めた家に入ることへのある種のためらいを確かに示している。彼は浜辺の風を味わっていたばかりだ(「風が周りを躍り跳ねる。身を切る寒風だっけな」)。その家の中で目にするだろう光景のようなものを長い間考えた後、彼はその「風」(=グールディング家のair)を試さないことに決める。ストラスバーグ高台で、天の息(風)はそのように喜びをかき立てるものではない」*22

 「有利の一角」から外を覗くグールディング家の人物は、『マクベス』で「有利の一角」から巣の外を覗く燕と結びつけられ、グールディングの家とマクベスの城とがスティーヴンの頭の中で重なることで、「中へ入ることへのためらい」へと繋がっている、という説だ。スティーヴンには、グールディング家の中のairが今サンディマウントの浜辺で感じているairよりも快いものではないことを既に知っている。このairという言葉が、マクベスの城の下の心地よい風(air)、リッチー叔父の登場のアリア(aria)、「ぐっとアリアを盛り上げ(“with rushes of the air”)」(U-Y 77)、「この風のほうが美声だ“This wind is sweeter”」(U-Y 77)というふうに繋がっていく。

・U-Y 76「入ってもらえ、スティーヴンに入ってもらえ」

 “Let him in. Let Stephen in”

 →リッチーはスティーヴンを家のなかへと呼び込む。

・U-Y 76「ほかの人かと思った」

 U-Δ104「ほかの男だと思ったんでね」

 “We thought you were someone else”

 →実際にドアを開けたのは息子のウォルターだが、この言葉を発したのはウォルターだろうか、リッチーだろうか? U-Yだとウォルターの台詞のように見えるが、U-Δではどちらとも言えない。そもそも誰が「有利の一角」から外を覗いていたのかも明らかではない。ただ、外にいるのがスティーヴンだと気づいたのはウォルターだ。借金取りと間違えてドアを開けなかった弁解をリッチーがしている可能性と、ウォルターがリッチーの代弁をしている可能性とがある。

・U-Y 76「リッチー叔父貴」

 U-Δ104「リチー叔父」

 “nuncle Richie”

 →nuncleはuncleの古語・方言。ソーントンによると、このnuncleは「シェイクスピアリア王』の中で17回使われており(シェイクスピアの他の作品でこの言葉は使われていない)」*23、道化がリア王のことを、本人の目の前でnuncle Learと呼んでいる。両者の関係性と挿話との関連については、「この二人―取るに足りないおどけ者が、乱暴で自己中心的な老人にお世辞抜きの言葉をかける―の登場人物の関係を考慮すると、スティーヴンの口には出されることのない呼び方(彼が実際に叔父に話しかけるときはuncle Richie)が皮肉を含みうると考えるのは理に敵っている」*24と指摘されている。シェイクスピアリア王は高齢で退位するにあたり、国を三人の娘たちに分け与えることにする。長女、次女は甘言を弄し父を喜ばせるが、末娘コーディリアは父を喜ばせようとするよりも、自らの真の思いを率直に伝える。それにリア王は腹を立て、コーディリアを勘当する*25。老齢のためか、傲慢で暴力的になり、城内の風紀を乱す原因となっていることを周囲の人々に目されるようになったリア王に、道化はおどけた調子で真実を辛辣に突きつける*26。確かに、リッチーはベッドに横たわったまま様々な要求をし、ウォルターはリッチーをサー呼ばわりしている。また、リッチーが老いていること(正確な年齢は分からないが、スティーヴンが20代前半で、その父サイモンと同年代と考えると、40~50歳くらいなのではないかと推測される。このくらいの年齢を「老いている」と言っていいのかどうかは分からないが…)、傲慢で自己中心的な点はリア王と少し共通している。しかし、傲慢で老いたリア王と道化との関係は、そのままリッチーとスティーヴンとの関係と全く同じとは言い難い。nuncleという言葉でしか『リア王』との関係は示唆されておらず、スティーヴンは直接リッチーのことをnuncleと呼ぶことはないが、この言葉がリッチーに対するスティーヴンの内心での皮肉を表しているのだろうとは思われる。

・U-Y 76「幅広のベッドの上でリッチー叔父貴が、枕を支い、毛布にくるまり、小山になった膝のところからごつい二の腕を差し伸べる。こぎれいな胸。上半分は洗ったばかり」

 U-Δ104「大きなベッドの上からリチー叔父が、枕を当て、毛布にくるまったまま、膝の小山越しにがっしりとした腕を差し伸べる。きれいな胸だ。上半身を洗ったところ」

 “In his broad bed nuncle Richie, pillowed and blanketed, extends over the hillock of his knees a sturdy forearm. Cleanchested. He has washed the upper moiety”

 →「リチー・グールディングはブライト病(現在の腎炎)のため背中を痛めている。(cf.第六挿話、第11挿話他)」(U-Δ注)。ブライト病とは腎臓に起こった炎症性病変のことで、腎臓炎とも言う。1827年ブライト(Richard Bright、1789-1858)が、タンパク質と浮腫を腎臓の組織異常と関連づけてブライト病を記載、泌尿器科的疾患とは異なる腎臓疾患があることを明らかにした*27。pillowは動詞の形で「枕で支える」の意。blanketも動詞の形で「毛布で覆う、くるむ」の意。hillockは「小さい丘、小山」の意。この後でリッチーは「膝盤を脇へ押しやる」ので、膝盤を置いている状態のリッチーは、膝を毛布の中で曲げて(体育座りのような脚の形で)膝盤を載せやすい体勢にしているのではないかと思われる。sturdyは「逞しい、がっしりとした」の意。forearmは「肘から手首までの部分、前腕」。これをU-Yでは「二の腕」と訳しているが、二の腕は肩から肘までの部分のことだ。そもそも前腕を突きださずに二の腕だけ差し伸べることはできない。これは何か版が違うのか、それとも単なる誤訳か。moietyは「半分」の意。寝たきりだと上半身しか洗えないのだろうか? それともこの後で下半身も洗う、ということだろうか。そして、なぜここでhalfではなくmoietyという言葉を使ったのだろう? moietyを詳しく調べてみると、「(財産などの)半分、(文化人類学)半族(一つの社会を相互補完的に組織する、二分された集団の片方)、(化学)分子の一部分、語源は古フランス語のmeitié(half)、中世フランス語のmoytié」とのこと。調べてみても、どうしてわざわざここでmoietyにしたのかは分からない。この部分全体を通して、forearmしか出さない、上半身しか洗わない、という「半分さ」が何か不完全さを連想させる。

・U-Y 76「座って散歩でもするか」

 U-Δ104「腰をおろして散歩でもしろや」

 “Sit down and take a walk”

 →「リチーのユーモアのつもりらしい」(U-Δ注)。とあるが、両訳で解釈が少し違う。Sitとtakeが命令形なら、U-Δの訳で原文通りの意味になるのだが、U-Yでは恐らく“Let’s”を省略した形として訳しているのではないかと思われる(一緒に散歩しようとしている)。U-Yでは、腰をおろして散歩をすること自体が無理なうえに、寝たきりのリッチー本人にとっては散歩そのものができないという、二重の「できないこと」が描かれている。

・U-Y 76「膝盤」

 U-Δ104「膝のボード」

 “lapboard”

 →lapboardは“a board used on the lap as a table or desk(テーブル代わりに)膝にのせる平たい板、ひざ板(テーブル、机のかわりに膝の上に載せる薄い平板)”の意。「膝盤」という言葉を辞書等で探してみたが見当たらなかったので(ネットで検索すると膝の半月板の記事が出てくる)、造語の可能性もある。その意味ではU-Δのほうが分かりやすいし正しいのだが、漢字の意味はほぼずれていないので「膝盤」でも言っていることは何となくわかる。

・U-Y 76「証拠携帯出廷(ドゥケス・テクム)」

 U-Δ104「証拠物件携帯出廷」

 “Duces Tecum”

 →法律用語。証拠書類などを持って出廷しなさいという令状で、英語にすると“Bring with you”となる*28。ここに限ったことではないが、なぜこの挿話ではここまで多くの他言語が用いられるのか? 覚えているだけでドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語が他挿話よりも頻繁に使われているように思われる。

・U-Y 76「禿頭」

 “bald head”

 →リッチーは禿げていることが分かる。

・U-Y 76「埋れオーク」

 U-Δ104「泥炭オーク」

 “A bogoak”

 →「泥炭地帯に埋もれて炭化したオーク材。細工物に用いる」(U-Δ注)。bogoakはbogwoodのこと。bogは泥炭地の意。「埋れ木」という言葉は、日本語では世間から見捨てられた存在や、忘れられてしまった存在の喩えとして使われることもあるらしい*29。もしかしたらU-Yではリッチーのことを「埋れ木」的存在と解釈しているのだろうか?

・U-Y 76「ワイルドの鎮魂祈祷(レクイスカト)」

 U-Δ104「ワイルドの《安らかに眠れ》だ」

 “Wilde's Requiescat”

 →「ワイルドの抒情詩。妹アイソラの墓によせる歌。題名のラテン語は死者哀悼の言葉として用いる」(U-Δ注)。1874年に書かれたワイルド初期の作品。「英語で“May she rest (in peace)”(安らかに眠れ)の意味で、“Requiescat in pace”は教会で唱えられる祈りの言葉に由来する。この詩は1853年に出版されたマシュー・アーノルドの同名の詩から部分的にインスピレーションをうけた可能性がある」*30。マシュー・アーノルド(1822-1888)はイギリスの詩人・批評家。しばしばテニスンやブラウニングと共に、偉大なヴィクトリア朝詩人の第三世代とも呼ばれている*31。「著書『教養と無秩序』(1869)の中に収録された批評の中で、アーノルドはイギリス文化の自己満足的な、時代遅れの「偏狭さ」を攻撃している。この「偏狭さ」はお行儀のよい、貴族主義的「野蛮人」が、また道徳的でまじめな中産階級の「俗物たち」がより強く優勢を誇った風潮だった。第四の批評作品の中で、アーノルドは俗物たちのヘブライ主義(宗教において明るみにされた真実を、誰の行動にも導かない)への衝動と、ヘレニズム主義(神の導きではなく、人間の力で公平無私に真実を探求する)の理知的・審美的衝動を区別する。彼はイギリス文化が過度にヘブライ人的で、再びバランスを取り直すことが必要だと感じていたのだ。アーノルドは不可知論者だったが、敬虔な同時代人を称賛もしていた。しかし世紀末になる頃には、アーノルドの言説は抑圧的な中産階級の「俗物」と、自由を愛し、芸術的な「ボヘミアン」(この言葉はパリで19世紀初頭に現れ、芸術家を呼び示すのに用いられた)の間での、白黒をはっきり分けるような文化的論争の中に包摂されてしまった。ギフォードは、当時「ギリシャ人」がボヘミアン的自由、官能的な喜び、感覚的な美しさを暗示する一方で、「ユダヤ人」は社会的抑圧、「堅物なヴィクトリア朝の道徳観」、芸術に対する反感を含意していたと述べている。またギフォードは、『ユリシーズ』内でアーノルドに関連したいくつかの文章について以下のように指摘している。『抑圧、安定、品性、そして同時代人が文学の中の「倫理的要素」と呼んだものに対するアーノルドの強調は、世紀転換期の唯美主義者たちにより、俗物根性の具現化したものとしてみなされたが、しかしまたこれら唯美主義者たちの言葉の多くもアーノルドに由来し、アーノルドの影響は(学問的観点から)英国批評において未だ重要なテーマである』」*32

 この指摘にあるように作品内には何度かマシュー・アーノルドに関連する言葉が出てくる(e,g.「なあ、キンチ、きみとおれとで力を合せてなにかできれば、この島国のために役立てそうだがね。ギリシア化するんだ」(U-Y 1. 17-18))。ワイルドのRequiescatと、アーノルドのRequiescatを以下に引用しておく。

"Requiescat" written by Oscar Wilde

“Tread lightly, she is near / Under the snow, / Speak gently, she can hear / The daisies grow. / All her bright golden hair / Tarnished with rust, / She that was young and fair / Fallen to dust. / Lily-like, white as snow, / She hardly knew / She was a woman, so / Sweetly she grew. / Coffin-board, heavy stone, / Lie on her breast, / I vex my heart alone / She is at rest. / Peace, Peace, she cannot hear / Lyre or sonnet, / All my life’s buried here, / Heap earth upon it.”*33

 

"Requiescat" written by Matthew Arnold

“Strew on her roses, roses, / And never a spray of yew! / In quiet she reposes; / Ah, would that I did too! / Her mirth the world required; / She bathed it in smiles of glee. / But her heart was tired, tired, / And now they let her be. / Her life was turning, turning, / In mazes of heat and sound. / But for peace her soul was yearning. / And now peace laps her round. / Her cabin’d, ample spirit, / It flutter’d and fail’d for breath. / To-night it doth inherit / The vasty hall of death.”*34

 アーノルドのRequiescatからは抽象的・審美的な印象をうけるが、ワイルドのRequiescatからは、彼が実際に妹の墓前に立っていて、彼女の姿を回想すると同時に、今墓の下にいるであろう彼女をも想像しているような、直接的な表現と感情の吐露が表されているように思われる。表現の仕方はアーノルドのほうが力強く感じる。一方で、ワイルドの表現は意外にも静かだ。リッチーの家にこのワイルドの妹の死を悼む詩を飾るということは、忘却あるいは回想の重複を示すものだろうか?

・U-Y 76「取り違えるのもむりない口笛がウォルターを呼び戻す」

 U-Δ104「低くうなる口笛の意味を取り違えて、ウォルターが戻って来る」

 “The drone of his misleading whistle brings Walter back”

 →droneは「(ハチなどが)ブンブンいう音、持続低音、ブーンとうなる音」の意。misleadingは「人を誤らせる、惑わせる、紛らわしい」などの意。ウォルターはリッチーの口笛で自分が呼ばれたと勘違いして戻って来る、ということになっているが、実際この後でリッチーはウォルターに用を言いつけている。リッチーは無意味に口笛を吹いていたのか(それでたまたまウォルターが戻ってきたからついでに用を言いつけたのか)、それとも本当にウォルターを呼び戻すつもりでリッチーは口笛を吹いていたのか? いずれにせよ、リッチーの口笛がここでウォルターを呼び戻している。

・U-Y 76「リッチーとスティーヴンにモールトだ、母さんに言え」

 U-Δ105「リチーとスティーヴンにモルトを出せって、お母さんに言いな」

 “Malt for Richie and Stephen, tell mother”

 →モルト(ウィスキー)という言葉は既に日本でも馴染んでいるが、Maltの発音記号を見ると正確には「モールト」だ。この部分はどちらの訳ともリッチーが自分のことをリッチー(リチー)と呼んでいるのに違和感を覚える。なぜ“Malt for me and Stephen”ではないのだろう? 原文を見れば命令文で、“Tell mother (to bring) malt for Richie and Stephen”という意味なのは分かるが、やはり「俺」などと訳さずにそのままリッチー(リチー)を使っている。ここでリッチーが自分の名を自ら名指しているということに何か意味があるのだろうか。また、U-Δでは「お母さんに言いな」と命じているが、「言いな」というぞんざいな命令と「お母さん」という呼び方が合わない気がする。「お母さんに言いなさい」か「母さんに言いな」のほうがよかったのではないだろうか。

・U-Y 76「クリッシーを洗ってやってます」

 “Bathing Crissie, sir”

 →クリッシーはお母さんと風呂に入る(体を洗う)ほどの小さな子供であることが分かる、が、当時の子供は一体何歳くらいまで親に体を洗ってもらうということをしていたのだろうか? 性別や家の社会階層によっても違いがあるかもしれない。スティーヴンが水嫌いで月1回しか海の中に入らないことを考えると、上半身を洗ったばかりのリッチーと、風呂に入っているクリッシーのいるグールディング家は借金取りに怯えているような貧しい家ではあるが、かなりきれい好きな家庭なのだろうか? それとも「体を洗う」ということに何か意味があるのだろうか?

・U-Y 76「パパの幼いベッド仲良し。接吻愛子」

 U-Δ105「パパのちいちゃなベッド友だち。愛の塊」

 “Papa’s little bedpal. Lump of love”

 →bedpalは“bed pal”。palが「仲良し、友だち」の意味なので、両訳とも辞書の意味をそのまま使った感じか。lumpは「塊、a protuberance or swelling(傷や腫瘍などで晴れたものの意)、something that protrudes, sticks out(突出物、突き出たもの) or sticks together(くっついたもの)、a cluster or blob: a mound of mass of no particular shape」の意だが、the lump of loveで“a term of endearment for baby(赤ん坊への愛撫、愛情の表示)”という意味があるようだ*35。U-Yの「接吻愛子」は造語だと思うが、「突き出たもの、突出したもの」の意から突き出した唇につなげ、何度もキスをせずにはいられないほど愛している子供、というニュアンスを出したものか。またこの「キス」の意味での解釈は、後出するスティーヴンの空想上のキスへと連想を誘う効果を狙ったものかもしれない。U-Δは字義通りの訳。普通に、「可愛らしくてしょうがない」というような訳でもいいかもしれないと思った。両訳ともニュアンスは伝わると思うので、どちらがいいかは読者の好みによるかと思う。

・U-Y 76「リチア水なんて飲んでられるか。滅入っちまう。ワスキーだ!」

 U-Δ105「リチア水なんてくそくらえだ。力が抜けちまうぜ。ウィスキーを出せ!」

 “Damn your lithia water. It lowers. Whisky!”

 →「リチア水…痛風の薬。リチーは痛風持ちでもあるらしい」(U-Δ注)。痛風は尿酸が関節の中で固まって結晶化することで引き起こす関節炎を主な症状とする疾患。その症状は足の親指の付け根に最も多いが、足首や膝にも生じ、痛みは激しく、歩行困難になることも少なくない。また、腎機能障害も起こりやすくなる*36 。「リチア水は世紀転換期に人気のあった、鉱物(ミネラル)を含む水。アメリカ・ジョージア州のリチア・スプリングスで採取される。水に含まれるリチウム塩は様々な病に効くと考えられていて、医者によっても処方された。リチア・スプリングスは1888年に保養地が開かれ、そこで水がボトル詰めされ販売されるようになった。リッチーは、スティーヴンの好みのことを言っているのか(スティーヴンはリチア水が好き、という意味?)、一般的な意味で“your”という言葉を使っているのか、はっきりしない。リチア水は代謝を下げるのか? 元気がなくなるのか? モルトの味を損ねるのか? OEDでは“lower”という語が「水などで薄める」という意味を持つとある(cf.ディケンズ『マーティン・チャズルウィット』)。リッチーが「ワスキー」は水一滴、特に鉱物入りの水で薄めるべきという説を拒んでいる可能性は非常に高い。『ダブリン市民』の“A little clowd”の中で、イグナティウス・ギャラハーは古くからの親友に対して挨拶するときに、この話題に触れている。『よう、トミー、久しぶりだね! 何にするかね? 何を飲む? いま、ウィスキーをやっているところだがね、イギリスのよりうまいよ。ソーダか? リシア(酸化リチウム水)か? 炭酸水なし? 俺もそうだ。味をなくすからね… おうい、給仕、半ジル(一ジルは一パイントの四分の一、約八匁位)のモルト・ウィスキーをくれ』*37*38

 この解説によると、リチア水はウィスキーを薄めるためのものとして解釈している感じが強いが、U-Δ注にもあるように薬としても認識されているので、ここでリッチーが単体としてリチア水を飲むことを指しているのか、ウィスキーを割るための水のことを指しているのかがはっきりしない。また同解説で、lowerを「代謝を下げる」の意味として解釈する可能性を挙げているが、U-Yでは「気が滅入る」、U-Δでは「力が弱まる」というふうに解釈している。薬効のあるリチア水を拒否し、「ワスキー」を所望するリッチーが、代謝のこと、健康のことを気にするだろうか? ちなみに、リチア水について調べてみると、1859年、アルフレッド・バーリング・ギャロット医師が、痛風患者の治療にリチア水を使用し、その治療効果について発表した。彼は軟骨に沈着した尿酸が、炭酸リチウムによって分解されると報告。1880年代から1890年代にかけて、尿酸は多くの疾病の重要因子として考えられていた*39。「ワスキー」については、「ウィスキー」のゲール語とアルスター訛りと英語が入り混じった発音をそのまま表記したものであるようだ*40。とにかく、リッチーは病んでいる。

・U-Y 77「座るものがありません、お父様」

 U-Δ105「坐るものの持ち合わせがないんですよ、お父さん」

 “He has nothing to sit down on, sir”

 →「ウォルターの言い方では、スティーヴンには坐る部分、つまり尻がないともとれる」(U-Δ注)。スティーヴンに尻がなければどうなるというのだろう…? スティーヴンに関しても「持っていない」という要素をU-Δでは出したいのだろうか。

・U-Y 77「尻の置き場がないってのか、この阿呆め」

 U-Δ105「けつを置くものがないと言え、この間抜け」

 “He has nothing to put it, you mug”

 →mugは「間抜け、とんま」の意。原文を直訳すると「彼にはそれを置く場所がどこにもない(置くための何ものも持っていない)」というふうになろうか。リッチーがウォルターの発言を言い直している。とすれば、スティーヴンの「持っていない」という要素をリッチーがここで訂正している形になるのだろうか。それとも、スティーヴンに対し“He has nothing”と言うな、「(何も)持っていない」ということを言うな、と命じることで、貧しいスティーヴンに同情を示したのか、または「何も持っていない」自分の自意識に障ったのか。

・U-Y 77「チッペンデイル」

 “Chippendale”

 →「18世紀の高級家具師の名で、彼が考案した曲線の多い優雅な家具をも指す。リチー叔父の苦しまぎれの冗談か」(U-Δ注)。チッペンデイルについてもう少し詳しく調べてみると、「18世紀のイギリスの家具デザイナー、トーマス=チッペンデール(1718-1779)が作り出した家具様式。マホガニー材の使用、ロココ様式・ゴシック様式シノワズリなどを折衷した。チッペンデールはジョージアン朝のロンドンの市民生活にふさわしい品位と実用性を重視した家具を制作。背もたれにリボンを絡ませたような優雅な模様の透かし彫りを施した椅子が知られている。18世紀のヨーロッパで広く受け入れられた」*41とのこと。また、「グールディング家の唯一のチッペンデイル家具には、アイルランドカトリック信者と、ジョージアン王朝期、1790年代の数々の紛争と連合法がカトリック中流階級との無関係さを確固たるものにする前に、彼らがやっと享受できた中流階級としての社会的地位との弱い繋がりの一例を見ることができるかもしれない」*42との指摘がある。ということは、グールディング家にあったとされているチッペンデイルの椅子は、彼らが凋落する前に買ったもので、以前彼らは中流階級に属していたのだろうか。また、「アイルランドのチッペンデイル家具は、その彫りが英国の正規のものより幾分優雅さに欠ける、マホガニー家具の「派生物」だった」*43とも言われている。とはいえ、アイルランドで購入できるチッペンデイル(風)家具はやはり高価なものだったのだろうと思われる。チッペンデール制作による本物のチッペンデイルチェアと、アイルランドで19世紀末に作られた「チッペンデールチェア」を見比べてみてほしい。やはり、彫りや造形の違いが分かる。

*44。">

f:id:cafedenowhere:20200928165158g:plain

本物のチッペンデールチェア*45
*46。">

f:id:cafedenowhere:20200928165345g:plain

本物のチッペンデールチェア、脚部分*47
*48。">

f:id:cafedenowhere:20200929221358p:plain

アイルランドのチッペンデールチェア。19世紀末に制作*49
*50。">

f:id:cafedenowhere:20200928165615j:plain

アイルランドのチッペンデールチェアの脚部分。確かに本物と違う感じがする。よく言えば素朴*51


・U-Y 77「うちへ来て阿呆ん面こくんじゃないぞ」

 U-Δ105「この家じゃあ、おまえのくそったれなお上品ぶりなんて通用せんぞ」

 →Noneで始まる文章には「相手に対する命令の表現、~はよせ、やめなさい」という意味がある。lawdeedawは“la-di-dah”で、「気取った、もったいぶった、尊大な、見栄を張った、上流階級の」の意があるようだ*52。ここでのairsは「外見、様子、風采、態度、(特に女性の)気取った様子」の意味と思われる。

 U-Δ105「助かったよ」

・U-Y 77「ならよかろう」

 “So much the better”

 →この原文は、“That is or would be even better”で、「そのほうがよりいい、いいだろう」の意と思われる。U-Δは原文の意味にほぼ即している一方、U-Yではリッチーの傲慢さ、尊大さを強調して、「ほんとはそのほうがいい」と言いたいところを「それならいい、構わない」という風にスティーブンの遠慮を許可する形で本心を隠しているようなニュアンスを出しているのだろうか。

・U-Y 77「見張れ(アッレルタ)!」

 U-Δ105「《気をつけろ!》」

 “All’erta!”

 →「イタリア語。次の導入のアリアaria di sortitaの歌詞。前段の「そうとも、気をつけなくちゃあ(そう、そうしなくては(Yes, I must)(U-Y 75))」を受けて。ポケットの中の金のことも頭に置いている」(U-Δ注)。“All’erta!”は英語にすると“On guard!(見張れ!)”“Be on the alert!(警戒せよ、油断するな)”となる*53。U-Δ注での解釈では、「気をつけろ!」が、もらった給料を使い過ぎないようにと考えるスティーヴンによる、「そうとも、気をつけなくちゃあ」という言葉への繋がりを重視しているように思われるが、この部分を「見張れ!」と訳し、p.75では「そう、そうしなくては」と訳したU-YからはU-Δほどの強い連関を意識していないような印象を覚える。

・U-Y 77「フェランド」

 “Ferrando”

 →「ヴェルディのオペラ『トロヴァトーレ』(1853年初演)の脇役の傭兵隊長(バス)」(U-Δ注)。『イル・トロヴァトーレ』の題名は11~13世紀頃のフランス南部で活躍した吟遊詩人のことを指す。ローマで初演、ロンドン・パリでは1855年に初演された*54。“All’erta!”は夜中に自分の妃にしたいと思っているレオノーラの窓の下をずっと歩き回っているルーナ伯爵を警護する眠そうな警備員たちに対して、警備隊長が発した言葉。眠気覚ましに警備員たちが何か目の覚めるような話をしてくれと隊長に頼み、隊長が先代の伯爵にまつわる恐ろしい話をする、というところからオペラが始まる*55。プロットは非常に複雑だが、主なテーマとしては、火刑に処されるジプシーの魔女(または伯爵の弟)、処刑後もフクロウに姿を変え飛び回っていると言われるジプシー女の言い伝え、レオノーラを巡る伯爵とレオノーラの恋人マンリーコとの争い、人物の取り違えによる悲劇(火刑に処されたのがジプシーの魔女なのか伯爵の弟なのかはっきりしない、夜中にレオノーラがマンリーコと間違えて伯爵に抱きついてしまう、最後に処刑されたマンリーコは実は伯爵の弟だった)等が挙げられ*56、全体を通して考えると多層的な復讐劇の一種であるとも言える。

・U-Y 77「節回したっぷりの口笛がふたたびひびく。細かな陰影をつけ、ぐっとアリアを盛り上げ、両のこぶしで毛布の下の膝頭を大きく打つ」

 U-Δ106「甘美な口笛がまた鳴り響く、こまやかな陰影をつけて、懸命に息を継いで。詰物を当てた膝を大きな拳でとんとん叩きながら」

 “His tuneful whistle sounds again, finely shaded, with rushes of the air, his fists bigdrumming on his padded knees

 →tunefulは“having or producing a pleasant tune、美しい、調子のよい、melodious”の意。ここをU-Yでは「節回したっぷり」としているが、「節回し」は「歌謡や語り物などの調子、抑揚」の意味で、「調子よく」の意訳であろう。shadeは“to vary or approach something slightly, particularly in color”の意が当てはまるか。U-Yでは「陰影をつけ」と訳しているが、「陰影」は「物事の色、音、調子に感情や含みや趣があること、ニュアンス」の意味として使われていると思われる。rushは「突然の力強い流れ、突発、激発、めまぐるしさ、快感、恍惚感」の意。airはここでは「空気、旋律、調べ」の意が当てはまると思う。bigdrummingのdrumは「トントン打つ、ドンドン叩く」の意。ここは両訳で解釈や訳出が割と大きく異なっている。「ぐっとアリアを盛り上げ」「懸命に息を継いで」の部分で、U-YのほうはrushをU-Δよりも強めに「激発、恍惚感」のニュアンスのほうで解釈しているように思われる。airをU-Yでは「調子、旋律」の意味で「アリア」としていて、U-Δではリッチーの吸う息として解釈している。rushが「出すこと」としての意味を柱としているように思われるので、「息を吸う」「息継ぎをする(息継ぎは辞書では「歌唱中や水泳などで息を吸い込むこと」とされている)」という訳はどう位置付けたらいいのかと考えたが(単純に「懸命に息を吐き」でもいいのではないかと思った)、息継ぎをすれば息を吐く量も多くなると自然と連想されることを思えば、意訳の範囲内なのだろう。airがアリアの意味も指しうることを考えると、訳出の難しい部分かと思われる。

 paddedを「毛布の下の」と訳すのと、「詰物を当てた」という部分でも異なる。「毛布の下の」のほうが文脈上自然な感じはするが、厳密に言えば、padという語自体に「毛布を掛ける、くるまる」という意味はない(ただ、その前に下半身に毛布を掛けているという記述があるので、膝が毛布の下にあることは自然と分かることではある)。膝に詰物を当てるのはなぜか、と考えてみたところ、やはり痛風のせいで膝が痛いのではないか、と思いついた。前述のとおり痛風は膝関節の痛みも伴うことがあるので、関節が痛むとサポーターのようなものを当てるのはありうることだろうと思う。あと、膝のボードを置いて仕事をするのに、高さを調節するために詰物を入れていた、という可能性もあるかもしれない。bigdrummingの部分は、U-Yでは「大きく打つ」とし、U-Δでは「大きな拳でとんとん叩きながら」としている。bigdrummingで一語になっているのに、U-Δでなぜbigをfistsのほうにかけているのかが分からない(がっしりとした腕を持つリッチーの拳なら大きそうではあるが)。U-Yでは「トントン、ドンドン」等の修飾語は訳出していない。このグールディング家に関する記述全体を見ると、リッチー(リチー)とリッチーの患うブライト病について報告をしたリチャード・ブライトとリチア水で名前を重ねているのかもしれない。ただ、リチア水に関してはLithia waterで「チ」の部分がthの発音になるので、日本語の発音では重なっているように見えるが、厳密に言えば英語の発音では重なっていない。また、パトリック・マッケイブ未亡人はブライト通りに住んでいる(U-Y 74)が、名前が同じというだけで特に意味があるようには思えないので、考えすぎなのではという感じもする。スティーヴンの連想の繋がりとして考えるには、あまりにも出来すぎている。

 

ここでグールディング家についての記述が終わる

 

・U-Y 77「この風のほうが美声だ」

 U-Δ106「こっちの風のほうがさわやかだよ」

 “This wind is sweeter”

 →スティーヴンはサンディマウントの浜辺の風を改めて感じ直し、グールディング家を訪れることをやめる。U-Yではリッチーの歌うアリアと風の歌の美しさを比較しているような表現になっている。U-Δでは『マクベス』の中でダンカン王が城下で感じた風の快さを反映しているのかもしれない。読書会中では、風の音を聞いていることがリッチー叔父の吹く口笛の想像に繋がっているのではないか、という指摘があった。確かに、スティーヴンは浜辺を歩きながらグールディング家を訪れる想像をしていて、その間聞いていたであろう風の音と、想像の中でのリッチー叔父の口笛やアリアは、一瞬の「音楽」という点で繋がると思う。

・U-Y 77「凋落の家。おれの家にしろ叔父の家にしろ」

 U-Δ106「没落の家さ。ぼくの家も、叔父の家も、みんな」

 “House of decay, mine, his and all”

 →decayは「腐る、衰える、衰退する」等の意。「凋落」は「花や葉がしぼんで落ちること、おちぶれること、落魄(らくはく)、容色などが衰えること、人間が衰えて死ぬこと」等の意味。“and all”は“(Britain, informal)As well, in addition (Northern England) used to add emphasis、(口語)…だったりして(不満の口調)”等の意。「どちらも」ということだろう。「みんな」とまで言ってしまっていいのだろうか、と思ったが、もしかしたら何かすべてが「落ちぶれてしまった」ことを示唆しているのだろうか。後に出てくるマーシュ図書館のある自由区への連想を誘う訳語なのかもしれない。ここでデッダラス家もグールディング家も昔より貧しくなったこと、困窮していることがわかる。

・U-Y 77「クロンゴウズの連中に言ったっけな、判事の叔父がいるとか将軍の叔父がいるとか」

 U-Δ106「おまえはクロンゴーズの坊っちゃん連中に言ったっけ、ぼくには判事の叔父と将軍の叔父がいるんだって」

 “You told the Clongowes gentry you had an uncle a judge and an uncle a general in the army”

 →「クロンゴウズ…スティーヴンが六歳の時に入学したイエズス会経営の寄宿学校クロンゴーズ・ウッド・カレッジ(cf.『肖像』)」(U-Δ注)。「幼少年時代のスティーヴンは純真で敬虔なカトリック信者で、ミサの侍者を務めたこともある」(第一挿話のU-Δ注より)。gentryは「紳士階級の人たち、お歴々、人々、良家の人々、連中」の意。“an uncle a judge”は名詞を二つ並べて同格関係になっている(限定用法)。リッチーは元判事だったのだろうか。スティーヴンには将軍の叔父がいたのだろうか。U-Δで「おまえは」と「ぼくには」を重ねるのはしつこい感じがするので、「おまえは」は取ってもいいのではないかと思う。

・U-Y 77「あの輩とは手を切れっての、スティーヴン。ああいうつきあいに美はないじゃないか」

 U-Δ106「そんな家から抜け出せよ、スティーヴン。美はそこにないぜ」

 “Come out of them, Stephen. Beauty is not there”

 →前文まではスティーヴンが頭の中で自分に言っている言葉だと分かるが、これはスティーヴンの脳内の声と判断していいのだろうか? スティーヴンが誰かに言われた言葉を思い出しているという可能性はないだろうか? スティーヴンの声か、父の声か、今付きあっている友人たちの声か、クロンゴウズの学友たちの声か、他にも可能性があるかもしれない。そして、U-Yの「あの輩」、U-Δの「そんな家」とは何を指すのか。U-Yではthemを「人づきあい」として訳出しているが、U-Δでは「家(の人々)」と解釈している。themが複数形なので、「輩」としないほうがいいのではないかと思ったが、調べてみると「輩」は「仲間、ともがら、連中、同類」という意味だった(「輩」そのものが複数形をも指すことをちゃんと分かっていなかった)。U-Δの「そんな家」という言葉は、スティーヴンの家族の住む家か、マーテロー塔のことか、グールディング家など親戚の家のことかがはっきりしない。文脈からすると、「判事の叔父と将軍の叔父」のいる家から抜け出せ、ということになるかと思うが、それはつまり実家や親戚と縁を切れ、ということだろうか? ここに限らず第三挿話でのスティーヴンの思索はあちこちに飛躍しているので、誰の言葉なのかを断定することができない。また、「美はそこにない」という言葉が唐突な台詞のようにも思える。

 

ここから思索はマーシュ図書館へ移る

 <U-Y 77-78 ~マーシュ図書館、ヨアキム、ガリヴァー旅行記、テンプル・マリガン・キャンベル、禿頭、エリシア、降り来れ、バジリスク眼~>

・U-Y 77「あるいはあのマーシュ図書館の澱んだ柱間にも。あそこでおまえはヨアキム・アバスの色褪せかけた予言を読んだっけな」

 U-Δ106「それに、マーシュ図書館のどんよりよどんだ柱間にだって。おまえはあそこで大修道院長ヨアキムの色あせた預言を読んだけれど」

 “Nor in the stagnant bay of Marsh’s library where you read the fading prophecies of Joachim Abbas”

 →「マーシュ図書館…正式の名前は聖墓地図書館。聖パトリック大聖堂のそばにあり、神学書、医学書、歴史書などがおもな蔵書。1707年開設。マーシュは創設者のダブリン大司教の名前。普通名詞の「沼地」にもかけて。「柱間(はしらま)」(bay)は柱と柱の間の奥まった場所だが、「入江」の意味もある」。/ヨアキム・アバス(大修道院長ヨアキム)…称号Abbasはラテン語。イタリア南部のフィオーレに修道院を開設した神秘思想家(1145年頃-1202)。三位一体説に従って信仰の歴史を三段階に分けた」(U-Δ注)。

 stagnantは「よどんだ」の意。U-Δ注にあるマーシュ図書館の名前の由来となったダブリン大司教はナルシサス・マーシュ大司教のこと*57。「マーシュ図書館は聖パトリック大聖堂の境内にあり、周りを高い石壁に囲まれているが、図書館の敷地内には入り組んだ建物があり、大聖堂境内は人のごった返すスラムの中心だった。様々な分野の本を置いているが、特に神学関係のものが多い。ギフォードは“stagnant bay”(よどんだ柱間)を、利用者が特別貴重な本を読むときに入れられることのある、金網で囲まれた奥まった小室であると解釈している。この小室は三つあり、本の盗難を防ぐため1770年代に作られた」*58。第二挿話でのスティーヴンのパリ時代の図書館の回想とは雰囲気が大分違って面白い。パリ時代の図書館の周りの学生たちは明るい光の中で勉学に励んでいる中、スティーヴンの心の中には怠惰のモンスターがいた。一方で、このマーシュ図書館は貧民街の中心にある上に、稀覯本を読むには(上記の説によると)盗難を防ぐための檻の中に閉じこめられなければならない。

 「ヨアキム・アバス(大修道院長ヨアキム)はヨアキム・オブ・フィオーレ(Joachim of Fore)。12世紀のカラブリア出身の神秘主義者。聖書に隠された意味、特に黙示録の意味を研究した。彼の黙示録哲学は、歴史についての神の計画に革新的な理解を示したという点で大きな影響を与えた。ジョイスは“Abbas”という言葉をダンテの『神曲』の「天国篇」(第12歌、140)で見つけたのかもしれないが、作中でヨアキムとジョナサン・スウィフト(この後に出てきます)を結びつけたのは、この二人がイェイツの「掟の銘文」(The Tables of the Law、1897年)の中で関連づけられているという要因もあるようだ。ギフォードは『スティーヴン・ヒアロー』の中で主人公オーウェンがヨアキムの予言を信じ、その予言の熱情をスウィフトのものと結びつけていると指摘している。ヨアキムの“fading prophecies”(色あせた預言)は初期キリスト教教義において確立された、歴史の直線的・目的論的理解と、中世に発達した歴史編纂の、人間・動物像の形成における見地を刷新した。それまでの歴史編纂の中で、聖書中の記述は後の出来事を予言する「比喩・象徴」「類型」として考えられていた。例えば神学者たちは、出エジプト記中でのユダヤ人の四十年にわたる荒野の放浪を、マタイによる福音書ルカによる福音書におけるキリストの砂漠での四十日間を予言的に先読みしたものとみなしていて、彼らはそれを神という「考案者」によって書かれた大きな意義を持つ様式としてとらえていた。ヨアキムはこの類型論的な歴史編纂を三位一体のイメージで作り直した。ヨアキムによると、旧約聖書に表された時代(創造からキリストの誕生まで)は父なる神の治世を構成し、人類は十戒という神の律法に従っていた。新約聖書からヨアキム自身の生きていた時代(1260年)は御子であるキリストの治世を構成し、人類はキリスト信仰と、その新しい法(隣人愛)によって神的本質と結びつけられる。未来は聖霊の治世となり、人類は神と直接接触することができるようになり、新しい法に従うことになるであろう、と説いている。それぞれの時代は人類に対し、神の目的を前の時代よりもより完璧に示すものである。聖霊の時代が来れば教会のヒエラルキーはなくなり、キリスト教徒はイスラム教徒と共通の目的を見つけるであろう。聖書の神秘的意味は、テキストの文字通りの意味から分析されるのではなく、直感的に理解されるようになるだろう。人間は最終的に、福音書に予言されている根源的な自由と愛を実現することになるであろう、と述べている。スティーヴンのブレイクへの興味を考えると、この終末論的な考え方に興味を持っていたであろうことは容易に想像できる。しかしスティーヴンが人類の歴史の悲惨かつ改善していくことのない過程と折り合いをつけるようになっていくことから、ヨアキムの予言は、古門書の紙上だけではなく、スティーヴンの希望の中でも「色あせていく」ようだ」*59

 「掟の銘板」を調べてみると、確かにヨアキムについての記述が主で、スウィフトについての言及もある。「ジョナサン・スウィフトは、自己自身を憎むように隣人を憎むことによって、この都会の紳士方のために一つの魂を作ったのだ」*60。しかしなぜイェイツはここでヨアキムとスウィフトを結びつけたのか(それを理解するにはイェイツとスウィフトについて深く調べることが必要…)。それよりも、前掲の解説中にあるように、ヨアキムとダンテとのつながりを強く感じる。「僕はジョアキム・オヴ・フローラ(ヨアキムのこと)のことを殆ど知らないが……ダンテは後に博士たちと一緒に彼を天国に置いているね。彼(ヨアキム)がこんな特異な異端の説を唱えていたのなら、どうしてその噂がダンテの耳に入らなかったのか、ということも分からないな」*61。教会教義や信仰について疑念を抱いていたスティーヴンは、ヨアキムの示すような未来への希望のある思想に共感を抱きつつも、結局実現されなかった「第二の時代」やこれまでの悲惨な歴史を認識するという苦悩の狭間にあるのかもしれない。またヨアキムについては以下のような説明もある。「(ヨアキムの述べる)第三の時代は「聖霊の時代」であり、第一、第二は過渡的なもので、第三の時代によってそれは克服され、世界は完成する。地上において第三の時代は修道士の時代であり、現在(また、ヨアキムの生きていた当時)の教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序はなくなり、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。ミルキアエリアーデは『世界宗教史』において、ヨアキム主義がレッシングの『啓蒙の世紀』などに影響を与えているとしている」*62。ここでせっかくレッシング(「順列」と「並列態」の人)の名が挙げられているのだから、『啓蒙の世紀』について調べてみるべきだったのだが、関連する論文をざっと見たところレッシングではとても終わりそうにない予感しかしなかったので、今後もまた現れるかもしれない謎の一つとして残しておく。

・U-Y 77「誰に宛てた予言だ?」

 U-Δ106「誰に与える預言を?」

 “For whom?”

 →両訳では「予言が」誰のためか、と解釈しているようにとれるが、「誰のためにスティーヴンがそんな本を読んでいたのか?」との解釈もある*63。次に続く文章から、一見後者の説のほうが正しいのではとも思われるのだが、もしかしたらヨアキムの「予言」があたっていないこと(第三の時代は訪れず、修道士による治世もなく、自由区の中の貧民たちに代表されるように人々は苦しみつづけていること)に対する皮肉として解釈することもできるだろう。

・U-Y 77「大寺院境内の百頭の烏合の衆にだ」

 U-Δ106「大聖堂境内にうごめく百の頭の衆愚連中にさ」

 “The hundredheaded rabble of the cathedral close”

 →「百頭」は仏教説話にも登場する怪魚。外見は巨大魚だが、頭部は馬、猿、犬、豚、虎、狐、羊、蛇などそれぞれ異なる百の頭からなる*64  また、ギリシャ神話ほか諸国の伝説・神話に登場するラードーンという怪物(ロターン、イルヤンカ等様々な呼称を持つ)は、百の頭を持って描かれることもある(cf.アリストテレスの『蛙』(475行))*65。この言葉は「烏合の衆」の実際のたくさんの頭を意味してはいるが、第三挿話のテーマでもある事物の変幻自在性のニュアンスも含んでいるのだろうか?(さらに言えば、「烏合の衆」の「烏」という文字にもこのニュアンスは波及している)。rabbleは「下層階級、群衆、烏合の衆」の意。closeは「(カテドラルなどの)境内」の意。結局この文章で言っているのは大聖堂境内(図書館敷地内)にいる貧しい人々のことを指しているのだろう。

・U-Y 77「己の同類たちを嫌悪した男が同類たちを逃れて狂気の森へ走った」

 U-Δ106「一人の人間嫌いがやつらを避けて狂気の森へ逃れた」

 “A hater of this kind ran from them to the wood of madness”

 →「一人の人間嫌い(己の同類たちを嫌悪した男)…諷刺作家、聖パトリック大聖堂の首席司祭ジョナサン・スウィフト(1667-1745)。晩年、人間嫌いが高じて発狂した。墓碑銘の一節に「激シキ怒リモソノ心ヲ引キ裂クコトアタワヌトコロヘ」とある。後の「憤怒に狂う首席司祭」(狂乱の主席司祭)もスウィフト」(U-Δ注)。haterは「(人・物事を)ひどく嫌う(憎む)人」の意。

 ジョナサン・スウィフトはダブリンのトリニティ・カレッジで学士号を得た後、アイルランドでの政治的混乱(名誉革命の影響による)のためイングランドへ移住、そこでサー・ウィリアム・テンプル卿の秘書兼個人的助手の職を得て、大いに信頼されるようになる。テンプル卿は彼をイングランド王三世に紹介し、ロンドンへ派遣するなどして重用し、その後も彼の面倒を見た。テンプルの死後、スウィフトは人間の中で善良なものは全てテンプル卿とともに死んだ、と述べている*66。いかにテンプル卿以外の人間を嫌っていたかが分かるエピソードでもある。調べられる限りで調べた中で、彼が「人間嫌い」だったという言及は随所でなされているが、どういう経緯で「人間嫌い」になったのか、それは先天的な性質によるものなのか、それともいくつもの挫折、敵対関係から生じたものなのかまでは分からなかった(スウィフトの伝記などを読めばわかるかもしれない)。ただ、『ガリヴァー旅行記』を含む彼の多くの批判的な著作を読めば、その特質は容易に推し測ることができる。『ガリヴァー旅行記』について調べると(恥ずかしながら読んだことがありません… パブリックイメージしか知らなかった。そのうちちゃんと読むつもりです)人間に対する彼の辛辣な批判と同時に、いかに彼が人間性に対する懐疑を持ち、人間を嫌っていたかが分かる。というわけで長くなるが、『ガリヴァー旅行記』についての説明とあらすじをなるべくまとめて書きだしてみる。

 「『ガリヴァー旅行記』は1735年に完全版が出版されるまでに、大きな改変が加えられている。当時のイギリスの対アイルランド政策により、イギリスが富を享受する一方でアイルランドが極度の貧困にあえいでいたという状況が執筆の契機となった。法における判例上の対立、数理哲学、不死の追求、男性性、動物を含めた弱者の権利等、今日でも行われている様々な議論が予見されている。旅はリリパット国から始まる。ここは小人の国。隣国のブレフスキュ国との戦争は、ヘンリー8世による処刑、追放刑で始まったイングランド国教会カトリック教徒の諍いを反映している。二国間の諍いの原因(卵のむき方)を嘲笑することで、聖書解釈は多様であることを示しつつ、些細な出来事が大きな争いに展開する状況を風刺している。次はブロブディンナグ国という巨人の王国。ガリヴァーは王妃の歓待を受け、宮廷の女官たちが彼のもとを訪問するが、その女性たちがいかに不潔、不道徳であるかを繰り返し述べることで女性への嫌悪感を示している。国王はガリヴァーにイギリスについて細かく質問し、ガリヴァーはそれに答えることで大英帝国の諸問題を提示し、政策批判を加えている。火薬の製法を教えようとするガリヴァーに国王は戦慄し、国王は人類が地球上最も哀れな種族であると考えるようになる。そしてガリヴァーはラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップ、日本を訪れる。ラピュータは「空飛ぶ島」で、バルニバービの首都。ラピュータの市民は全員科学者だが、表向きは啓蒙的である一方、実際には学問のための学問を行っているにすぎないという記述から、科学における啓蒙主義を批判している。ラピュータに搾取されているバルニバービの人々はしばしば反乱を起こすが、その度に国王はラピュータを反乱地の上空へ動かして、ラピュータによる空からの投石を行い、天候を荒らし飢餓と病をもたらす。このくだりはロンドンに搾取されるアイルランド、実際にアイルランドで起こった反乱を反映している。グラブダブドリップでガリヴァーは降霊術により歴史上の偉人と会い、彼らがいかに堕落した不快な人物であったかを知る。歴史の修正の問題と、幾世代にもわたる人間性の堕落がいかに根強いものであるかを示している。ラグナグ王国では不死の人間ストラルドプラグの噂を聞く。彼らは死なないけれども、老いは免れない。その結果、心身の不自由に愚痴をこぼし続け、高齢というだけで無駄に強大な自尊心をもつ低俗極まりない人間になる。彼らは80歳になると法的に死者とされ、老い続けるまま世間から厄介者扱いされる、という悲惨な境遇にあり、老いと死のテーマについての批判と考察がここで語られている。そして最後はフウイヌム国。フウイヌムの住民は馬の姿をした種族。平和で合理的な社会を営んでおり、戦争、疫病や大きな悲嘆といったものに苦しむことはないが、エリート主義的、官僚的であり、創造性に欠け、厳密なカースト制度を保っているという点で、イギリスの貴族制を風刺している。フウイヌムは、ヤフーと呼ばれる邪悪で汚らわしく、毛深い生物に悩まされている。ヤフーは人類を否定的に歪めた野蛮な猿のような種族であると同時に、退化した人間性をもつものとして描かれている。ガリヴァーと友人になったフウイヌムは、無益なことで絶え間なく争うヤフーと人間との類似性を見いだす。その友人は、ヤフーにはまだ文明を発展させる知恵がないから、知恵のある人間よりまだまし、と評している。ガリヴァーの国(イギリス)の馬が、飼い馬も野生の馬も荒々しいが誇り高い存在で、ヤフーのように粗野で、卑しくもないと話し、人間が馬(動物)以下であるというような記述によって人間の低俗さに対し痛烈な批判を加える。ヤフーとガリヴァーは肉体的な性質の点で言えば全く同じものではないが、雌のヤフーに性交を求められる。それによってガリヴァーは自分がヤフーであると信じるようになり、フウイヌムであることを切望するが、フウイヌムの議会によって二者は同一の存在との判決を受け、処刑または国外追放を言い渡される。故国に帰ったガリヴァーは、出来る限り人間性から遠ざかろうと考え(自分がヤフーと同一と判断されたという考えから)、妻よりも厩舎の臭気を好み、フウイヌムから習った言語で馬たちと会話をすることで心の平安を得た」*67

 これを読むと確かにスウィフトの人間批判は的確であり、大いに的を射ているのだが、一方でスウィフトは人間というものに期待をし過ぎていたのではないか、という感想も覚えた。“one’s (own) kind”は「(自分と)同類の人」の意味で、これは人間一般のことを指しているのか、アイルランド人のことを指しているのか、スウィフトと似たような人間のような人を指しているのか、聖職者のことか、それ以外の可能性をさしているのかと考えたが、上に記したあらすじを考えると、人間一般のことを指しているのだろうと思う。「己の同類たち」という訳語からはスウィフトと似たような人間のニュアンスが感じられる一方で、U-Δの訳のほうが人類一般を指している感じが強い。これまでの挿話にも「馬」に関する表現や言葉はしばしば出てきているが、ここで「馬」の存在が大きな意味を持っている『ガリヴァー旅行記』を出してくることにどういった意味を持たせているのだろうか。少なくともこの表現は、スティーヴンの第一挿話~第二挿話での態度と、特に批判精神という点で共通点があるように思われる。そしてヨアキムとスウィフトは「聖職者・異端者」という共通点で繋がる。“wood of madness”に関して言えば、スウィフトは1738年に病の兆候をきたし始め、1742年には脳卒中を患い、精神障害者になるのではないかと非常に恐れていた。Thomas. H. Bewleyは彼の衰えを「末期の認知症」としている*68

・U-Y 77「月明かりに揺髪が泡を吹き、目玉は星」

 U-Δ106「月光のなかで彼のたてがみが汗ばみ眼球は星となった」

 “his mane foaming in the moon, his eyeballs stars”

 →「揺髪」は馬のたてがみの肩の付け根部分の長い髪(毛)のこと。foamingは「泡、(馬などの)泡汗」の意。馬の汗は泡立つのだろうか、と思って調べたところ、馬の汗には界面活性剤のようなもの(ラセリン)が含まれていて、泡立ちやすいらしい*69

 

*70。">

f:id:cafedenowhere:20200929220859p:plain

馬の汗。確かに泡立っている*71

 「目玉は星」というのは月明かりの下で輝くスウィフト-馬の目の詩的表現なのか、狂気の表現なのか、それともスウィフトの知性の表現なのだろうか。

・U-Y 77「フウィーンヒヒン族、馬鼻穴、縦長の馬面たち」

 U-Δ106「馬の鼻孔をひろげるフーイヌムだ。楕円形の馬づらども」

 “Houyhnhnm, horsenostrilled. The oval equine faces”

 →「フーイヌム(フウィーンヒヒン族)…スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する動物。馬の姿をしているが怜悧で分別に富み、人間の姿をした野卑で猥雑な動物ヤフーを飼っている」(U-Δ注)。「フウィーンヒヒン族」というのは敢えて馬のいななきを模した表現だろうか。『ガリヴァー旅行記』内の言葉ではあるが、あくまで『ユリシーズ』の翻訳なのでそれをそのまま使わなければならないわけでもないだろう。nostrilは動詞になると“having (specific type or number of) nostrils”という意味になる。ovalは「卵型の」、equineは「馬のような」の意。U-Yでは「縦長の馬面たち」、U-Δでは「楕円形の馬づらども」としているが、「馬」が強調されていることを考えると、楕円形というより縦長という言葉のほうが馬っぽい感じがする。楕円形ではやはり人間の顔の形を想起させる効果が強いと思う。U-Yでは「馬鼻穴」、U-Yでは「馬の鼻孔を広げ」と訳しているが、horsenostrilledという言葉に即しているのはU-Yのほうだろうか。U-Δではその後の憤怒の表現を考えて、怒りで鼻の穴を膨らませている感じを出しているのかもしれない。この後も文章は続くが、両訳とも一旦ここで文章を切っている。ちなみにだが、この“Houyhnhnm”という単語は、横から見た馬の体形に似ていないだろうか? 最初のHをhにするともっと分かってもらえるかもしれない。“houyhnhnm”。最初のhが頭部、hnhnが脚、mが尾…

・U-Y 77「テンプル。バック・マリガン、提灯顎の狐キャンベル」

 “Temple, Buck Mulligan, Foxy Campbell, Lanternjaws”

 →「テンプル…スティーヴンの大学時代の友人。『肖像』に登場。第二挿話の債権者の一人。/提灯顎の狐キャンベル(Foxy Campbell, Lanternjaws)…どちらもベルヴェディア・コレッジの教師リチャード・キャンベルの綽名(『肖像』参照)。「フォクシー」は「狐づらの」「ずる賢い」「提灯あご」(またはカンテラあご)。Lantern jawsは頬がこけて顎の長い顔」(U-Δ注)。

 templeは辞書によって「(キリスト教以外の)寺院、神殿、教会堂」という意味と、「(キリスト教の)(大)礼拝堂、聖堂、教会堂(特にフランス(語圏)の新教徒の教会堂)、聖霊の宮(キリスト教徒自身)」という意味の記載されているものがあるのだが、聖パトリック大聖堂と「テンプル」との連想が全くないとは言えないと思う。ちなみにtempleには「こめかみ」の意味もある。マリガンは馬面(U-Y 1. 11)。「提灯顎の狐キャンベル」の「狐」については第二挿話でスティーヴンが再び死んだ母を思い出す場面で、その記憶を思い出したり思い出さないようにしたり、思い出したくなくても思い出してしまうかのように、夜のヒースの野で穴を掘る狐が登場している(U-Y 2. 55-56)。ちなみにここでも「星明かり」が出てきているが、この「狐」「星」とここで出てくる「狐づら」「目玉は星」との間に何か意味があるのかどうか、特に意味はないのかどうかは分からない。

 

*72。">

f:id:cafedenowhere:20200929014721j:plain

アクションマンというイギリスのフィギュア(アメリカのG.I.Joeを元にしている)の写真だが、ブログ記事内で筆者はこの顎をlantern jawと呼んでいる*73

・U-Y 77-78「大修道院長神父、狂乱の主席司祭、何に憤慨してあの二人の脳天に火がついてしまったのか?」

 U-Δ106「教父大修道院長よ、憤怒に狂う首席司祭よ、いかなる侮辱を受けて彼らの脳髄は燃えあがったのか?」

 “Abbas father, furious dean, what offence laid fire to their brains?”

 →Abbasは前述のとおりラテン語で、「大修道院長」。「教父」は「古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々」*74との説明がある。となると、ヨアキムもスウィフトも教父とは言えないのではないだろうか? fatherには「修道院長、神父」の意味がある。U-Yではfuriousを「狂乱」としているが、これはスウィフトの晩年の状況を踏まえた訳だろうか。deanは「(英国国教会)cathedralの首席司祭」とあるが、辞書によっては「英国国教会では「主席司祭」、cathedralの長」、「カトリックでは「首席司祭」、地方司教代理」「主席司祭」というように一定していない。「主席」の意味が「首席」と同じ、としている辞書もあるので、どれに合わせていいのか分からないところ。offenceは「侮辱、立腹、気を悪くすること」の意。brainは「脳、脳髄(特に複数形で)、頭脳」等の意。この「大修道院長神父、狂乱の主席司祭」「教父大修道院長、憤怒に狂う首席司祭」は改めて言うまでもなくヨアキムとスウィフトのことと考えられるが、fatherもdeanも複数形ではない(その後にはtheirがきているのに)。それともAbbas fatherはヨアキムのことで、furious deanはスウィフトを指すのか(前掲したヨアキムとスウィフトの説明からその可能性が高いように思われてきた)。「憤怒に狂う」という訳は確かにヨアキムもスウィフトも批判や異端扱いをされているので、特にスウィフトに関してはふさわしい訳かもしれないが、その後に「脳天に火がついて」と続けていることと(類似の表現が重なり、怒りを強調しすぎている感じがする)、二人とも教会権威に理解されないという経験をしていることから、U-Δの「いかなる侮辱を受けて」のほうが原文解釈の広がりが出るように思われる。

 “laid fire to their brains”を「脳天に火がつく」と訳したのは、先のfuriousやoffenceを受けたものなのだろう。fireには“burning intensity of feeling; ardor or enthusiasm, liveliness and vivacity of imagination; brilliance”という意味もあり、また「火がつく」という言葉には「勢いが出る、感情や情熱が高まる」という意味があるので、ここでは自身の活動、思索、情熱がますます盛んになる、というニュアンスも入れている可能性がある。「脳髄が燃え上がる」という表現は確かに辞書通りであるが、もしかしたらU-Yと同じく立腹する以外の含意もあるのかもしれない。スウィフトの生涯や作品から、彼の怒りは分かる。しかしヨアキムに関して言えば、確かに侮辱を受けたと感じたのかもしれないが、「憤怒」していたのだろうか? この問いに関して、ヨアキムの「スウィフトと共通する「人間的すぎる人間」からの逃避に対する絶望・困惑と、この二人への感嘆の念との間に、スティーヴンがどのような調和を見出しているのかははっきりしていない」*75という言及がある。また、「ヨアキムは(三位一体に基づく預言において)未だ不完全な社会を暗に示す「正義の治世」や「法の治世」と、完全な世界を表す「自由の治世」とを区別した」*76という解釈を考えると、ヨアキムが自らの生きる時代を不完全と認識し、それを批判していたのだ、と言えなくもない。

 しかし同時に「ヨアキムの理論は1263年、アルル会議で異端と宣言される。その後も彼の見解は様々な宗教的派閥に影響を与えたが、これらはすべてカトリック教会によって異端とされた。しかし非難されたのは彼を取り巻く思想や運動であって、ヨアキム自身が非難されていたのではない。彼は存命中高い評価を受けていた」*77とも言われている。以上の説から、高い評価を受けつつ、同時にその考えを弾圧されていたヨアキムを表現するのに、「憤怒に狂う」という強い表現は適切であろうか、と思わざるを得ない。

 また、スウィフトから始まり脳天に火がつくまでの部分については、以下のような指摘と問いがある。「スティーヴンは『肖像』でキャンベルのことを「生徒たちが「提灯あご」とか「狐づらキャンベル」と呼んでいた」イエズス会士として考えている。第一挿話で「縦長の馬面」と表現されていたマリガンと、『肖像』の中で「黒い卵型の眼」*78“dark oval eyes”をしていると描写されているテンプルの二人は、この節でのスティーヴンの「縦長の馬面たち」に当てはめることができる。『肖像』の中でキャンベルは少ししか登場していない。スティーヴンは自分がイエズス会修道士になることを想像し、「はっきりしない顔ないし顔いろが心に浮び出る。その褪せた色は、冴えない赤煉瓦のたえず移ろい変る輝きのように強烈なものとなった。それは冬の朝、司祭たちのひげを剃った顎の下によく見かけた、あのなまなましい赤い色じゃないだろうか? のっぺらぼうで、苦虫を噛みつぶしたようで、信心深そうで、しかし押し殺している怒りのため桃色がかっている」*79という印象をキャンベルから受けている。そして、「縦長の馬面たち」を想起したのは、キャンベルの顔に拠っていたのかもしれないとスティーヴンは考えることになる。この三つの顔が一つに合成されることで、簡単には答えの出ない、より困難な問題が生じることになる。スティーヴンは聖職者たちからの支配から何とか逃げることを考えているのだろうか? 「大聖堂境内の中にある」マーシュ図書館の神学書に美は存在しない、というスティーヴンの回想の後には、司祭たちのことと彼自身の「ひどく信心深かった」時期を思う三つほどのパラグラフが続く。第一挿話でマリガンが司祭の真似をしているとき、スティーヴンは彼の顔を馬のようだと思っている。しかしテンプルという名前を「聖職者」と結びつけるものはない。スティーヴンのあらゆる発言にまとわりついてくる「ジプシーのような学生」テンプルは、社会主義者共和党員であり、頑なな反聖職者主義だ。エルマンによると、テンプルのモデルは当時(1903-1904)ジョイスと付きあいのあったジョン・エルウッドというダブリンの医学生である。だとすると「テンプル、バック・マリガン」という言葉の繋がりは意味をなす。だが「縦長の馬面たち」がこの若き芸術家の才能に少しだけ触れた若い男たちのことである、という大雑把な推論はキャンベルの存在によって打ち消され、この挿話でのスティーヴンの思索の流れの中ではほとんど意味をなさない。さらに、スティーヴンはスウィフトを馬好きのガリヴァー的な人物としてだけではなく、スウィフト自身を馬として、分別のない大衆から「狂気の森へ走った。月明かりに揺髪が泡を吹き」と表現されているように逃げる姿を想像している。彼は才気煥発なスウィフトをもう一人の才能豊かな聖職者であるヨアキムと結びつける。「大修道院長神父、狂乱の主席司祭、何に憤慨してあの二人の脳天に火がついてしまったのか?」この二人の天才に対するスティーヴンの称賛と、あまりにも人間的すぎる「人間」からの逃亡(本質的には宗教的な逃亡か?)に対する落胆との間に、スティーヴンがどのような落としどころをつけていたのかははっきりしない。このスウィフトとヨアキムの問題に、馬面のマリガン、テンプル、「狐づら」キャンベルを結びつけると、テキストの意味するところはさらに不透明になる。何か不愉快なことや侮辱がマリガンら三人の脳天に火をつけたのだろうか?」*80

 この指摘と問いについてだが、スティーヴン自身が聖職者による支配から逃げだすことを想像しているというイメージは、この部分のテキストからはあまり感じられないのでは、と思う。また、テンプルと聖職者との繋がりはない、と述べているが、スウィフトの職のあっせんをした恩人はテンプル卿だ。直接の関連はないが同じ名前である以上、全く関係がないとも言えないのではないだろうか。また、大聖堂境内の中にあるマーシュ図書館の神学書に美は存在しない、と書かれているが、「美が存在しない」のは神学書にではなく、大聖堂境内、あるいはマーシュ図書館の敷地内のことではないだろうか。さらに、ヨアキム-スウィフトと後の三人の共通点についてははっきりしない、とされているが、上記指摘中の引用に見られるように、『肖像』の聖職者の描写(それはキャンベルに繋がる)にも「怒り」は描かれているという点でスウィフトと関連しうる。テンプルについては前述のとおり「教会・寺院」からの連想である可能性があり、マリガンは第一挿話でのスティーヴンとの会話の中で、ほぼ始終ふざけているように思えるが、塔にいつまでも滞在するヘインズを罵っているし、マリガンがスティーヴンの母親を「畜生みたいに」死んだ(U-Y 1. 19)と言ったことに対して、スティーヴンがそれを自分への侮辱だと言い返した際に、マリガンの顔には「ぱっと赤み」が差し(U-Y 1. 19)、「ぎこちなさを苛めきつつふりほど」きながら(U-Y 1. 19)スティーヴンに反論し、段々「ふてぶてしく」なっていく(U-Y 1. 20)。マリガンのそれは強い怒りとは言えないが、彼の描写にも幾分かの「怒り」は感じ取ることができる。この五人に皆同じ共通点があるとは言えないが、一人からもう一人へ、という形での繋がりは漠然とあるのではないだろうか。

・U-Y 78「ふふっ! 降り来れ、光頭の君、総禿とならぬまに」

 U-Δ106「ポン! 《降リテ来イ、禿頭、イマヨリモット禿ゲナイウチニ》」

 “Paff! Descende, calve, ut ne amplius decalveris”

 →「ラテン語。ヨアキム『預言の書』(1589)の一節をもじって。その一節自体は「列王紀略下」2.23「かれ(エリシヤ)そこよりベテルに上りしが、上りて途にありけるとき、小童ども邑よりいでて彼を嘲り、彼にむかって、禿頭よのぼれ、といいければ」に拠っている。世に容れられぬ預言者への嘲笑と解すべきものか。アダムズによれば、1902年10月22、23日の両日に、ジョイスがマーシュの図書館から本書を借り出した記録が残っている」(U-Δ注)。Paffは“used to represent the sound of an impact, blow explosion etc.(bang, pow), used as an expression of contempt: (nonsense, rubbish(rare))(爆発音、衝撃の音の表現、または嘲りの表現として用いられる)”の意味とのことで、両訳でははっきりと解釈が分かれている。U-Yの「ふふっ」は笑っているのだろうが、何かを思い出して笑っているのか、ヨアキム、聖職者、他の誰かを嘲って笑っているのか、それとも自分の言葉の改変が面白くて笑っているのか。U-Δの「ポン」は前文で出てきた脳髄の燃え上がる音か、「禿頭」が降りてきた音か、この言葉を思いついた音か。「降り来れ」という言葉は、もしかしたら「俗人に戻れ」という意味を含んでいるかもしれない。

 ここで一つ問題が生じている。U-Δ注では“Paff”以下の文章が「ヨアキムの『預言の書』(1589)」をもじったものとしている。しかしヨアキムは13世紀に亡くなっている。ヨアキムの著作について調べてみて、一番『預言の書』という題名に近いと思われるものは、“Expositio in Apocalipsim”(“Exposition of the Book of Revelation”、1196–1199年頃に著された。『ヨハネ黙示録注解』とでも訳すべきか)くらいしか見つからないのだが、ヨハネ黙示録の中に「列王紀略下」の言葉に依拠し、「禿頭よのぼれ」をもじったと読める記述は見当たらない。ではU-Δ注にある1589年の『預言の書』とは何を指しているのか。出版年(あるいは公にされたとみなされている年)という点では1589年に出現したとされている『大修道院長ヨアキムの予言』という偽書(ヨアキムの著ではないとみなされている)*81とも考えられるのだが、この偽書について触れているのがインターネット上ではこのサイトしか見つからず、原題もはっきりしない。ここは著作の出現年に関して厳密な一致を基にして推測するべきではないかもしれない。この『大修道院長ヨアキムの予言』は措いておくことにして、「ジョイスがマーシュ図書館で読んでいたのは、13世紀後半以降に公にされた一連の写本・印刷物で、教皇ニコラス三世以降(1270年代~)の教皇たちについての予言が書かれている。これらの書物の題名は“Vaticinia Pontificum”(『教皇たちについての予言』)、“Vaticinia de Summis Pontificubus”(『全ての教皇に関する預言』)などであり、15世紀中にヨアキムの著作と考えられるようになった」*82という指摘に着目したい。この『全ての教皇に関する預言』が15世紀初頭のヨーロッパに現れた予言書で、現在ではヨアキムの名を騙って何者かが書いた偽文書と理解されている*83という説、またこの偽文書は、本来別の作品であった『諸悪の端緒』と『禿頭よ登れ』の二つを合わせたものであり、『禿頭よ登れ』という言葉が旧約聖書の「列王記伝下」第二章二十三節に出てくること、『禿頭よ登れ』がニコラス三世を暗示した絵から始まる15組の挿絵と文章から構成されている*84ことから、U-Δ注において「降り来れ、光頭の君、総禿とならぬまに」という表現をその典拠としている「1589年の『預言の書』」とは、ヨアキムの偽文書である『全ての教皇に関する預言』のことなのではないだろうかと推測される。いずれにせよ、「ヨアキム『預言の書』(1589)」と書いてしまうと、13世紀に死んだはずのヨアキムが1589年にこの書物を著したように誤解してしまうので、注を付けるのであればもう少し補足説明を入れるべきだと思う。

 「禿頭よ登れ」という言葉の出てくる「列王記伝下」第二章二十三節のエリシア(エリシヤ)は、BC9年代のイスラエル王国で活躍した預言者旧約聖書の登場人物の中でもとりわけ魅力のある人物の一人と感じる人も多いようなのだが、それは預言者らしからぬ人間的な苦悩を背負いながら生きた彼の人生が描写されているためと認識されている傾向が強い。彼の行ったとされる奇跡の数は非常に多い。また、エリシアに関する説話は、彼が社会的弱者の救済を惜しまない義人であったことを示す反面、気難しく激しやすい性格や、無慈悲で残酷ともいえる人物像をも反映している。U-Δ注内に挙げられている逸話は、エリシアがエリコから帰る途中で、他の町から出てきた子供たちに「禿げ頭、上って行け」とからかわれたため、神の名において子供たちを呪い、その結果出てきた熊によって42名の子供たちが熊に引き裂かれ殺された、という内容だ。ちなみに、この逸話から「根も葉もない、何の根拠もない」という意味で「熊もなければ森もない」(“Neither bears nor forest”(原文はヘブライ語))という慣用句が生まれたとされている。一部の注釈家たちは、子供たちはエリシアによって自分たちの町の収入源を「禿げさせた、不毛にされた」から野次を飛ばしたと考えている。これはエリシアがエリコの水を清めるまで(エリシアはエリコの町の水源を塩で清めたという奇跡を行っている)、エリコの住民は彼らの町から水を買っていたという解釈に基づいている。また、エリシアについての記述が忠実に聖書内の記述に反映されているなら、その野次を飛ばされた時期はエリシアの青年期の頃だったと推定され、子供たちの野次は彼の容姿に関係なかったのではないか、という可能性もあるようだ*85

 スティーヴンによる偽ヨアキム文書の文言の改変については以下のような指摘がある。「「降り来れ…」の一文は、旧約聖書にある男性の頭頂部の禿げと神の怒りを描いた恐ろしい記述をほのめかすものである。ほのめかしの背後にある明確な意図は非常に曖昧だが、スティーヴンは聖職者による支配からの逃亡について考えているように思われる。なぜ「禿頭よ登れ」という文言が、ヨアキムを騙って書かれた中世後期の教皇たちに関する予言書の冒頭部分に置かれなければならなかったのかは不明だが、ニコラス三世(この予言書の中で最初に取り扱われている教皇)がオルシーニ家(イタリア語でオルシーニは熊の意味)の一員であることと何かしらの関係があるように思われる。『全ての教皇に関する預言』の古写本の最初の予言には、ニコラスが人懐こい様子の二頭の子熊の間に座っている様子が描かれていて、彼をエリシアと関連付けている(エリシアが熊に子供たちを殺させたエピソードと繋がる)。この絵に添えられたテキストは大変難解であり、以下のように始まる「上がれ、禿げた者よ、もっと禿げないように、妻を禿げさせることを恐れない者よ、雌熊の毛に栄養を与えるように」。「降り来れ…」の一文におけるスティーヴンによる改変、つまり「上がれ」を「下がれ」とし、「もっと」を「過度に」に変えたことも理解しがたい。スティーヴンはこの書物の文章をちゃんと覚えていなかったのか? それとも、理由はともかく故意に意味を変えたのか? ギフォードによると、ヨアキムの教えが生前に異端であると宣言されたことはなかったが、1215年のラテラン公会議で一部の教えが非難され、または1255年には教皇委員会がヨアキムの熱烈な支持者の一人を非難し、一方でヨアキムを免じている。スティーヴンは、アイルランドに生まれた不幸な天才として自分をスウィフトと比較しているのと同様に、教会と関わりをもったもう一人の天才として、自分とヨアキムと比べているように思える。カトリックアイルランドという宗教・国の両方との関与が、残酷な狂気へと導く。ヨアキムの天才は、単なる教会儀式を行うためだけのものにまで貶められてしまったのか? エリシヤのくだりについての思索は、『ユリシーズ』中に現れる他の描写と同様に不明瞭だが、スティーヴンがヨアキムを、つまらない組織と関わった結果怒りを覚えずにはいられなかった、教会関係者とみなしているのは明らかであるように思われる」*86

 上記の指摘でも、スティーヴン(あるいはヨアキム)が「教会から逃亡すること」が強調されている。この文章より前の記述から(森へ逃げるスウィフトなど)からも確かにスティーヴンの意識の中にはそのような思いが強くあるのだろうとは思えるのだが、この挿話だけでなく、これまでの文章中にも教会や神、宗教に関するスティーヴンの思索は頻出している。離れたいと同時に離れられない、といったアンビヴァレントな感情だとすれば、それはスティーヴンの意識を非常に強く支配しているものと考えられる。それはスティーヴンの母に対する感情と近いものがあるかもしれない。

 それとは別に、この文章の背後に、預言者の呪いによって熊に食われる子供、という内容のテキストがあること、偽ヨアキム文書の冒頭で予言として語られている教皇の属するオルシーニ家の紋章に熊が描かれている、という繋がりがあるという点は面白いのだが、この文脈の中でその教皇や熊がいかなる意味を持つのかについては全く分からない。そういえば、「百頭」(U-Y 77)を調べていた時に、ラードーンはヒューギノス(BC64頃-17)の“Astronomy”の中でりゅう座にあたる、との説があり*87、このヒュギーノスのラテン語で書かれた“POETICA ASTRONOMICA”(『天文詩』*88)の英訳、“MYTHS OF HYGINUS”を翻訳したサイトを見てみると、りゅう座の章に載せられているイラストは、その蛇のようにくねらせたZ型の体のあいだに、二匹の熊を挟んでいる*89

*90。">

f:id:cafedenowhere:20200930063628j:plain

竜に挟まれた二匹の子熊*91

 イラストは“Mythographi Latini” (1681)に載せられていたもの、とサイトにはあるが、この“Mythographi Latini”はどうやらヒュギーノスの『天文詩』にFabius Planciades Fulgentius(5世紀後半-6世紀前半)やLactantius Placidus(350-400)らが手を加え、Thomas Muncker(Thomas Munckerus)が編集したもののようである*92。無料の電子書籍版を確認してみると、確かにりゅう座(Draco)の章には、竜のあいだに二匹の子熊が挟まれた、同じイラストが掲載されている*93。実際の星座の位置と比較してみると、りゅう座の中にこぐま座は挟まれているが、こぐま座は一つだけなので、一ヶ所にしか「小熊は挟まれていない」ことになる。おおぐま座りゅう座の描く折れ線の中に挟まれてるとは言えない。りゅう座の頭または尾の隣にある、と言ったほうが正確だ。つまり、二匹の子熊が竜によって挟まれているというのはヒュギーノスの考え、あるいはこのイラストの作者の考えに依拠しているということになる。オルシーニ家の紋章、このヒュギーノスの『天文詩』のイラストから、「二匹の子熊」が何らかの形でこの挿話に繋がっているのではないか、と考えさせられざるを得ない。 

*94。">

f:id:cafedenowhere:20200929222322p:plain

オルシーニ家の血統を継ぐ、唯一今も残る家系であるグラヴィーナ家系の紋章。確かに熊が描かれている。よく見ると二匹の熊に挟まれた紋章の中にも熊が描かれている*95
*96。">

f:id:cafedenowhere:20200929223101j:plain

『全ての教皇に関する預言』の古写本に描かれた、オルシーニ家の一員であるニコラス三世。二頭の子熊は彼を慕っている感じがする、と言えなくもない。絵の下の文章には“calve” "ampli”の文字が辛うじて読み取れる*97
*98。">

f:id:cafedenowhere:20200930071342p:plain

りゅう座こぐま座おおぐま座の位置関係*99

・U-Y 78「神罰を言い渡されたその頭にのっかる白髪の花冠がおれに蹴躓かんばかりに祭壇を転がり降りる己の身を見る(降り来れ!)」

 U-Δ106-107「灰いろの髪が花冠状に取り巻く呪われた頭よ、彼が、ぼくが、祭壇の段上に這い降りて来るのを見てくれ(降リテ来イ!)」

 “A garland of grey hair on his comminated head see him me clambering down to the footpace (descende!)”

 →「花冠状に取り巻く(花冠)…カトリック司祭の剃髪した頭頂(第一挿話参照)。ここではヨアキムを指す。「呪われた(神罰を言い渡された)」(comminated)は教会に呪われて破門された、の意。ヨアキムは破門されはしなかったが、没後その預言者歴史観が第四ラテラノ公会議(1215年)で異端とされたことがある。「彼」はスウィフト。この二人とスティーヴン(またはジョイス)は、大衆から孤立して生きた点で共通している」(U-Δ注)。

 この文章ははっきり言って原文そのものもどちらの訳も非常に分かりにくい。注にもあるが、comminateは「(神罰があるぞと)威嚇する、呪う、脅す」の意。clambering downは「伝い降りる」、と辞書にあり、clamberだけでは「上る(climb)」の意味のほうが強く、「to move or climb hurriedly, especially on all fours((特に四肢を使って)急いで動く、上る」という意味もある。footpaceは「床の一段高くなったところ、壇、(階段の)踊り場、the highest step of the altar(祭壇の階段で最も高い場所)」などの意味。文頭の“A garland of grey hair”は、全く同じ表現が第一挿話に出ており、U-Yではここで全く同じ訳を用いているのに対し(「白髪の花冠」(U-Y 1. 42))U-Δでは「そのまわりを花冠状に取り巻く灰いろの髪」(U-Δ 1. 59)としている。ここのfootpaceは「祭壇の階段で最も高い場所」、“clambering down to the footpace”は「祭壇の最上段へclambering downする」という意味になるかと思われる。clambering downの意味上の主語がhimかmeで、U-Yではhimのみを、U-Δではhimとmeの両方を意味上の主語として解釈し、訳している。him、またhimとmeが「降りてくる」のは、前出のヨアキムの言葉のもじりとされる「降り来れ」「降リテ来イ」“Descende”の一文に応じたものと考えられるのだが、あくまでこれが「もじり」で、ヨアキムの言葉を元にしてスティーヴン自身が改変し、ある意味彼の想像-創造した言葉として捉えられるとすると、「降り来る」のはスウィフトに限定されず、ヨアキムである可能性もあるのではないだろうか? また、ここで、U-Yではmeを「おれに蹴躓かんばかりに」と訳しているのだが、これはスウィフトやヨアキムの浴びた非難や、彼らの生涯の困難、異端視された事実、himとclamberingの間にmeが入っていることから、himがclamberするのをmeが邪魔していて、そのために蹴躓くという状況をイメージしたのだろうか? 訳としては自由過ぎるのだが、全体のニュアンスがつかめない以上間違いとも意訳の範疇とも判断しがたい。しかしそうなるとなぜ「おれに」蹴躓く必要があるのか? スティーヴンに誰かが「蹴躓く」理由が考えられない。サンディマウントの浜辺を歩いているスティーヴンの「歩行」の動作から「蹴躓く」に繋げたのだろうか? footpaceには並足(速くも遅くもない、普通の足並み)、常歩(一番歩度の遅い馬の進ませ方)の意味もあり、スティーヴンは詩作しながら「マーチじゃなくてギャロップ」などと言っているので、そういった言葉の連想がこの文章に影響している可能性はある。「転がり降りる」というよりも「転がり落ちる」のほうが日本語としては自然だと思うのだが、あえて「降りる」にしたのは、先に述べたヨアキムの言葉のもじりへの応答と同様、この節で何度も出てくる「降り来れ」に合わせたものと考えるのが妥当であろうか。 

 

                                         f:id:cafedenowhere:20200930080120j:plain

ミュンヘンの聖ミヒャエル教会の祭壇。分かりにくいが祭壇の最奥部に至る階段がある*100

*101。">

f:id:cafedenowhere:20200930080758j:plain

画像中央部に立っている人々のいる階段の最上段がfootpaceではないかと思われる*102

 そしてU-Yは平叙文なのだが、「降り来れ」と呼びかける声に応じてhimが降りていく際、その「転がり降りる己の身を」見ている。転がり降りる自分のさまを見る、とは一体何を言わんとしているのか? これはスティーヴンが頭の中でそういう姿を想像して笑っているのだろうか。原文の言葉通りに考えると、己の姿を「見る」のは「白髪の花冠」だ。ここでは「白髪の花冠」と「転がり降りる」人物との間にある程度の区別を設け(「白髪の花冠」が「己の身を」見ているので、完全に別個のものとはしていない)、転がり降りる自分を客観視している様を表現しているのだろうか。
 U-Δを見ると、こちらは命令文になっている。そもそも動詞のseeがseesにはなっていないのだから命令文と判断するのはおかしくはないのだが、主語がある(“A garland of grey hair on his comminated head”は主語だと思うのだが…)。主語のある命令文の例を探したのだが見当たらない(どこかにあるのだろうとは推測するのだが…)。ただ、こういう場合mustなどの助動詞が省略されている可能性がある、との指摘がネット上にはあった。もしかしたらheadとseeの間のコンマを省略しているのかもしれない。平叙文を用い、文章全体のニュアンスによって命令文の意味を持たせることはあると思うのだが、そうだとするとどういった意図で「灰いろの髪が花冠状に取り巻く呪われた頭」に「彼が、ぼくが、祭壇の段上に這い降りて来る」のを命じたのか。何かある、無意味にこういう文章にしたのではない、という感じはするのだが、それが何かは分からない。また、U-Δではhimとmeを同じclamberingの意味上の主語として分けて訳し、「彼が、ぼくが」這い降りて来る、と訳している。となると、ここでは「呪われた頭」の持ち主と「彼」を別人物としてとらえていることになるのだろうか。この「灰いろの髪が花冠状に取り巻く呪われた頭」を持つhimと、這い降りてくるhimはそれぞれ誰を指しているのだろうか。それともU-Yと同様に「呪われた頭」は「這い降りて来る」者の頭だが、それを別個の独立した存在として記述することで「呪われた頭」の持ち主が自己とスティーヴンを客観視しているように表現しているのだろうか。

 “clambering down to the footpace”のU-Yには疑問がある。先に述べたように、footpaceは祭壇の階段で最も高い場所の意味と考えられる。転がり降りてくるのがヨアキムにせよスウィフトにせよ、故人なので例えば天上のようなところから現実の祭壇の階段の最も高いところへ「降り来る」ことを想像していると思われるのだが、U-Yの「祭壇を転がり降りる」だと祭壇から会衆席へと続く階段を転がり降りるようなイメージを与える。ここは"down the footpace"ではなく"down to the footpace”だ。footpaceを転がり降りるのではなく、footpaceへと転がり降りるのだ。その意味ではU-Δの「祭壇の段上に這い降りて来る」のほうがまだ原文のイメージに近いのではないか、とも思うのだが、「壇上」ではなく「段上」にしている意味が、祭壇(altar)の形状を理解していないと読み手にはなかなか伝わりにくい。
 以上の両訳の解釈を考慮したうえで、他の訳文の可能性を考えてみると、“A garland of grey hair on his comminated head”はヨアキムともスウィフトとも限定されない「教会権威(に怯える?)聖職者(「白髪の花冠」は頭頂部の禿げた頭で、その禿げた部分の周りに白髪が生えている様を表しているのだろう。カトリック教会の修道士は頭頂部を剃るので、禿げている*103)の頭」と解釈し、“see him me”の前にはコンマが省略されている命令形として、himが誰であるかを断定しないという意味で「彼」を用い、meをスティーヴンとし、その両方をclamberの意味上の主語と考えることもできる(しかしなぜスティーヴンまで祭壇の最上段へ這い降りてこなければならないのかが分からない)。footpaceへclamber downするというのがどうしても訳しにくく、その意味もきちんと把握できていないのだが、やはり「降りる」という意味でのdownは反映させたい。というように考えた結果、かなり説明的になってしまうが、「呪われた頭を取り巻く白髪の花冠よ、彼が、おれが、祭壇に続く(きざはし)の最上へと這い降りるのを見よ」といった訳でもいいのではないか、と思う。

・U-Y 78「聖体顕示台をしっかと掴んで、バジリスク眼」

 U-Δ107「聖体顕示台にしがみつき、バジリスクの目をして這い降りてくるのを」

 “clutching a monstrance, basiliskeyed”

 →「バジリスク眼…ひとにらみで動物を殺すという想像上の爬虫類。ノートルダム寺院などのゴシック建築には怪物の顔をかたどった樋先(ガーゴイル)がある。「這い降りる(転がり降りる)」はその連想か」(U-Δ注)。これは前の文章に繋がっている部分。U-Yでは一度文章を区切っている。monstranceは「神聖化された聖体を礼拝用に公開するための(通常金、銀の)器」の意。basiliskは注にもあるが、「見ることで人を殺すことができる伝説の蛇または竜」の意味がある。同様に注内のガーゴイルについては「雨樋の機能をもち、怪物などをかたどった彫刻。単なる雨樋単体や彫刻単体ではガーゴイルとは呼ばない。主として西洋建築の屋根に設置され、雨樋から流れてくる水の排出口としての機能を持つ」*104との説明がある。この説明から、「降り来る」人物は雨樋を伝ってどこかから祭壇内へ入ってくるのをスティーヴンは想像しているのかもしれないと連想できる。文章の前半部分の考察をもとにするならば、clutchの意味上の主語はhimとmeで、basiliskeyedもこの両方の代名詞にかかっているものと思われる。となると、「降り来る」ものがバジリスクのように「見ることで人を殺す」恐ろしい存在として形容されているとなると、やはり祭壇の段上へ「降り来る」のはヨアキムやスウィフトのことと自然に連想されるのだが、同様に「おれ」(“see him me”のme)が「降り来る」にしていいものなのかどうか、そうだとするとこのようにして「降り来る」のがスティーヴンについての何を表現しようとしているのかがますます分からなくなる。スティーヴンに「見ることで人を殺す」という特徴や、何らかの繋がりはあるだろうか? 「降り来る」者をスウィフトと断定してしまうならば、教会権威との反目があり、理解されず、怒りを抱えて「逃げた」彼であるが、やはり宗教そのものや自らの宗教についての見解に対する執着は捨てられず、だからこそ聖体顕示台に「しがみつき」、バジリスクのように人を殺しかねない、狂気を孕んだ眼をしていて、そういった聖職者に対しやはりスティーヴンは多少怯えているのかもしれない。ちなみにこの文章全体については以下のような言及がある。「少なくとも(この文章について)次の三点は明白なものと考えられる。(1)スティーヴンはヨアキムが禿げていると思っていて、そこから第一挿話の後半部分で泳いでいた禿げ頭の司祭を連想していること(「白髪の花冠」U-Y 1. 42)、(2)スティーヴンはヨアキムが教会による問責で脅された、怯えていたと思っていること(「神罰を言い渡されたその頭」(U-Y 78))、(3)スティーヴンはヨアキムを自分自身もそうなりえた存在、聖職についていたかもしれない自分自身として見ていることだ(「おれに蹴躓かんばかりに祭壇を転がり降りる己の身を見る(降り来れ!)。聖体顕示台をしっかと掴んで、バジリスク眼」(U-Y 78))」。

 この言及ではU-Δと異なり、祭壇へと転がり降りてくる人物をヨアキムとして解釈し、恐らくhimとmeの二つの意味上の主語をU-Δのように捉え、スティーヴンが自身をヨアキムに重ねていると解釈しているようだ。この節では一見スティーヴンの奇想というか、滑稽な思いつきが描かれているように見えるが、その中で彼の覚えていると思われる感情は単なる嘲りだけではない、複雑なものであるようだ。

 <U-Y 78 ~聖歌隊、チリンチリン、オッカム~>

・U-Y 78「つんつるおつむ」

 U-Δ107「禿頭」

 “baldpoll”

 →baldは禿げの意味だが(単調なという意味もある。また既に述べたが発音的にはbold(大胆な、でしゃばりの、図太い、鉄面皮な、などの意味)と似ている)、pollは「The head, particularly the scalp or pate(古語・戯言で頭の意) upon which hair (normally) grows (now rare outside veterinary contexts)(頭部や髪の毛の生えてくる部分としての頭を意味するが、獣医学的文脈以外で使われるのは現代ではまれ)」という意味。全然関係ありませんがnormallyをカッコつきで入れていることに笑ってしまいました(ごめんなさい、悩んでる人も多いのに。ちなみに私は髪が多すぎることで悩んでいます。余談終了)。ここまでの部分で「降り来れ(降りて来い)」という言葉が三度繰り返されていることには、やはり何か意味があるだろうと思う。先を読めば何か分かるかもしれない。

・U-Y 78「聖歌隊が威嚇と応誦を返す。祭壇の両角に控えて鼻息まじりのラテン語を唱えつつぶよぶよ動き回る祭衣の坊さん連中、剃髪して聖油を塗った去勢男たち、小麦の最もよきものを食らって脂ぎっている」

 U-Δ107「祭壇の四隅近くに控える聖歌隊が、えせ坊主どもの鼻息荒いラテン語に合わせて威嚇の音調をこだまさせる。剃髪し、聖油を塗り、去勢され、小麦のもっとも良きものを食らって肥え、長白衣を着てのし歩く坊主ども」

 “A choir gives back menace and echo, assisting about the altar's horns, the snorted Latin of jackpriests moving burly in their albs, tonsured and oiled and gelded, fat with the fat of kidneys of wheat”

 →「小麦のもっとも良きもの…「申命記」(32.14)モーセの歌より。神の恵みにより肥え太った民が神を捨て救いの岩をあなどる」(U-Δ注)。最初はU-Yの「聖歌隊が威嚇と応誦を返す」で一旦区切ろうと思ったのだが、U-Δのほうで対応する部分が分かれているので長くなってしまった。choirは聖歌隊の意(単数形で集合体扱いになる)。menaceは「威嚇」、echoは「こだま、反響、共鳴、模倣、繰り返し、エコー(楽節の静かな反復)、the repetition of certain sounds or syllables in a verse line (詩における音節・音の繰り返し)」等の意味がある。U-Yで用いられている「応誦」は初期キリスト教音楽の用語でレスポンソリウム(responsorium、ラテン語)の訳語としてあてられている*105。レスポンソリウムはキリスト教聖歌の曲種の一つで、独唱者と合唱の交互で歌う歌い方の聖歌のこと。カトリック教会における歴史的言い回しであり、和訳では一般的に「応唱」とされている。ちなみに「誦」という漢字には「声を出して読む、お経をとなえる、暗記して読む、詩歌などを諳んじて声を出し、節をつけてよむ」という意味がある一方で、「唱」は「声高く呼ばわる、節をつけてうなる、「誦」の代用字」という意味をもつ。「誦」のほうが多少宗教色が強く、「唱」のほうは「うたう」イメージが多少強いと言えるかもしれない。レスポンソリウムの説明とこれまでの物語の流れを考慮すると、どちらの漢字を使っても問題はないと思われる。echoに直接的にはレスポンソリウム(応誦)の意味はないので、聖歌隊がechoを返す、という部分から、歌われているのはレスポンソリウムと解釈して「応誦」という訳を使ったのだろう。対してU-Δでは「威嚇の音調をこだまさせる」と訳している。これはmenaceとechoを1フレーズとして解釈したものか。実際文中の教会内でどんな聖歌が歌われているのかは分からないので、「応誦」はそれが何を意味するのかを知らなければここのechoの持つ意味や含みを伝えるのが難しいのではないだろうか。U-Δでは「音調をこだまさせる」としており、「こだま」という言葉がこの後でまた新たなスティーヴンの連想へと繋がっていくので、ここはU-Δのほうがどちらかというと適切なのではと思う。このechoはこれまでに出てきたリッチー叔父の歌やサンディマウントの風の音、スティーヴンが踏みしだく貝殻の音から現実世界を認識するといった事柄と同じく、聴覚に再び焦点があてられるきっかけの言葉として重要性をもつと考えられる。

 assistは「to attend(参列する)、(archaic)to stand (at a place)(どこかの場所に立っている)」等の意味。horn(つの、ホルン)には“Something resembling of a horn(つの状の形をしたもの)”の意味がある。この“altar’s horn”について調べたところ、「ユダヤ教の祭壇にはそれぞれの角に一つずつ四つの突起があり、祭壇の角(つの)と呼ばれていた。これらの突起はキリスト教の祭壇には見られないが、cornu(「角(つの)」の意)という言葉は祭壇の側面や角を示す場合に今でも使われている」*106との説明があった。hornそのものを辞書で調べてみても、このような意味は直接には載っていない。ちなみに「詩篇」(118.27)には“God is the LORD, which hath shewed us light: bind the sacrifice with cords, even unto the horns of altar”*107(「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで祭りのいけにえを綱で引いていけ」)という記述がある。祭壇(altar)の構造を調べたが写真を見ると一番奥に聖像があり、その前に石の台が置かれ(聖餐に使われるらしい)、前出したfootpaceから参列者側に延びる階段がある。これら全体を指して「祭壇」とみなしているようだ。この部分のhornsに控えているのが、U-Yでは「坊さん連中」、U-Δでは「聖歌隊」になっている。U-Δのようにassistingという現在分詞を、choirを修飾する形容詞的に用いている(結果、choirがassistしていることになる。文法用語の使い方が間違っていたらすみません…)ととるのが普通の読み方かと思うが、U-Yでは恐らくechoとassistの間で一旦文章を区切り、assistingをjackpriestsにかけている。

 echoで文章が一旦終わっていればU-Yの訳し方のほうが妥当ではあるが、文法的に忠実に考えると、assistingはA choirにかかり、その後のmoving、tonsured、fat等から始まる分詞や修飾語群はthe snorted Latin of jackpriestsにかかっていると考えるのが普通であり、その意味ではU-Δのほうが「正統派」と言えると思う。が、A choirと(Latin of) jackpriestsの二つの名詞を中心とし、分詞と形容詞で始まるほぼすべての語群がコンマで区切られ、個別のかたまりをなしてこの二つの名詞の様子や動きをしつこく説明していくこの文章は、(今に始まったことではないが)普通ではない。恐らくU-Yでは、「返す」「坊さん連中」「剃髪し」等で文章を区切ることによって、文法的な正しさを多少犠牲にしてでも、原文の「修飾語群の個別のかたまり感」のようなものを表現したかったのではないか推測する。そのためU-Yには多少意味上の問題が生じることになる。坊さんたちは祭壇の両角に「控えて」いるのに「動き回る」だろうか? 聖歌を歌っている間に坊さんたちは動き回るだろうか? という動作の矛盾が気になってしまうのだ。

 無理やり都合のつくように解釈するとすれば、U-Yでは聖歌隊の歌っている場面と、坊さんたちの描写されている場面を完全に切り離している、つまり聖歌隊が歌っている描写と、坊さんたちが動き回っている場面は別で、聖歌隊が歌っている間に動き回っている坊さんたちのことを表現しているのではないと考えることもできよう。ここは本挿話の大部分を占めるスティーヴンの思索の一部なので、解釈の幅をかなり広くとれる。スティーヴンが坊さんのことと聖歌隊のことを別々に想起していた、と考えてもいいし、実際坊さんたちと聖歌隊が確実に同じ時間に同じ場所にいた、と示す言葉は原文にはない。

 U-Yの訳の問題は措いておいて、祭壇の構造の話に戻ると、聖歌隊がどのように祭壇の周りに配置されていたのかが分からないので、「両角」と訳すべきか、「四隅」と訳すべきかの問題もある(ここではとりあえずU-Δの解釈で、聖歌隊が祭壇の周りに控えているものとする)。「控えて」いたというのだから、四隅に並ぶとなると、参列者に近いほうにいる聖歌隊は一般参列者と祭壇の間を妨げる形にはならないのだろうか? hornという言葉は「つの」なので、悪魔や動物のつのを連想させ、スティーヴンの感じているであろう恐怖のことも考えると、「両角」のほうが(多少分かりにくい表現ではあるが)いいのではないかと思う。snortは「鼻を鳴らして荒い息をする、鼻を鳴らす、鼻を鳴らして言う」等の意味。U-Yでは「鼻息まじりの」、U-Δでは「鼻息荒い」としている。U-Yのほうは坊さんたちが太っていることから喋るときに苦しげな呼吸をしているようなニュアンスで(ひどく肥満している方は普通の状態でも鼻息が聞えやすい、と自分では経験的に感じるのだが)「鼻息まじりの」と訳したのだろうか。U-Δのほうは「えせ坊主」たちの狂信的とも言える熱心さのようなニュアンスが前後の言葉からも浮かび上がる。jackpriestのjackは「男、やつ、雄、無礼なやつ、使用人、召使い、労働者、複合語で(同種の小型の生物に用いて)コ…、小…(例:jacksnipe=コシギ)、雄のロバ、used to typify an ordinary man」等多くの意味を持つ。この部分をU-Δでは「えせ坊主」としているが、jackという言葉に「偽の」という意味は見当たらなかった。もしかしたらと思って「えせ」という言葉を調べたところ、「似てはいるが本物ではない、にせものであるの意。/つまらない、取るに足りない、質の悪い、の意」と辞書にあった。このU-Δで用いられている「えせ」は偽物というより侮蔑的な意味を込めた表現なのだろう。jackという言葉の持つ「無礼なやつ、使用人、召使い、雄のロバ」といった意味群から「下らん坊主ども」くらいのニュアンスを込めて「えせ坊主」と訳したのではないか、と推測する。また、U-Yでは「坊さん連中」と「去勢男たち」を分け、U-Δでは「坊主ども」を「去勢され」で修飾している。U-Yのように分けた場合、教会の聖歌隊と聖職者についての知識がないとなぜここで去勢男たちが出てくるのかが読者にとって分かりにくくなってしまうという可能性が高くなるのだが、前述の通り、U-Yがテキストの文法に即した意味的な要素よりも、原文そのものの構造の反映に力点を置いていると推測されるため、こういった「分かりにくさ」が生じてしまうのは避けられないものと思われる。U-ΔとU-Yのどちらをとるか、どちらをより適切とするかは読者の判断や好みに委ねられるところではないだろうか。

 また、U-Yの「ぶよぶよ歩き回る」という独特な表現についてだが、「ぶよぶよ」を改めて調べてみると、「水気を含んでしまりがなく膨らんでいるさま。また、そのように太っているさま。やわらかく膨らんでいる様子」等の意味が見つかった。ただ、burlyは「たくましい、頑丈な、大きくて強い、ぶっきらぼう、不愛想な、どっしりした、油断ならない、危ない」と、これも様々な意味を持つ言葉であるが、「肥えた」というよりは筋肉質でどっしりとした、という意味のほうが強いかと思われるので、「ぶよぶよ」はburlyの訳語としてあまりしっくりこない。この後の「小麦の良きものを食べて肥えた」を意識してあてはめたものかとも考えたが、「ぶよぶよ」のもつ中心的なニュアンスは「やわらかさ、しまりのなさ、水分を持ち膨らんでいる様子」であると思われる。U-Yの訳語から何とか想像を膨らませるならば、坊さんたちの体のしまりのなさと、その歩く姿の緩慢とした、液体的な感じを表したかったのだろうか。U-Δの「のし歩く」はU-Yとは対照的に、原文のもつ言葉の意味そのもののほうを重視した訳かと思われる。

 albは「アルバ、白衣(ミサなどで司祭が着用する白麻の長い服)」の意。ここをU-Yでは祭衣、U-Δでは長白衣としている。聖職者の着る服なのだから祭衣のほうが適切なのではないかと思ったが、祈祷書で「祭衣」と表記されているのはステハリという、正教会の奉神礼で教皇が着用する祭服の一つで、「祭衣」という漢字表記は教会内でもあまり使われていないらしい*108。また、「祭衣」という言葉を調べてみると、「まつりごろも―祭りの装束」という意味しか出てこなかった。原文の言葉の意味を厳密に反映させるより、ニュアンスや読み手にとっての言葉の親しみやすさを重視するのなら、「祭衣」という言葉は宗教的な含みを持つし、医者の着るものとしてのイメージのある「白衣」よりも読者にとっては違和感を覚えにくいかもしれない。確かに「長白衣」は正確な訳なのだが。tonsureは既に出てきているかもしれないが「剃髪(頭頂部を剃った聖職者の髪型)」の意。

 geldedは「去勢された」の意味を持つ。しかし「聖職者が去勢されていた」というのは、実際の去勢のことを言うのだろうか? それとも比喩的な意味での「去勢」なのだろうか? また、聖歌隊員であれば声変りを防ぐために去勢される男性がいたと思うのだが、こういった人物は聖職者の中に含めていいのだろうか? 聖歌隊は聖職者なのか、俗人なのか? このような疑問に関連して調べてみるとカトリックカストラート(近代以前のヨーロッパに普及した去勢された男性歌手*109)の歴史についての記事があった。その記事によると、古代キリスト教最大の神学者ギリシア教父の一人であるオリゲネス(185年頃生)は「マタイ伝」19:12の「天の国のために結婚しない者もいる」(“and there be eunuchs, which have made themselves eunuchs for the kingdom of heaven’s sake”*110、eunuchは「去勢された人」の意)を文字通り解釈し、自らを去勢した。325年のニケア公会議では、自らを去勢した男性は司祭職につけないことを明示しているが、J. W. C.ウォンドは「オリゲネスに従い、自ら去勢したいと願う者がいたのかもしれない」と述べている。しかしこの風習はローマ・カトリック教会の中で、教会の歌唱のため促進されることになる。というのも、歌唱はローマ・カトリック教会典礼の中で重要な役割を果たすもので、聖歌隊の主力はボーイソプラノだったからだ。古来教皇は女性が教会で歌うことを禁じていたので、女性ソプラノは歌えなかった。バチカンの記録によると、1562年に教皇庁聖歌隊の歌手だったパドレ・ソトはファルセット(裏声)歌手とされているが、彼はカストラートだった。つまり、少なくとも1562年からバチカンは既にニケア公会議の権威をひそかに退けていたのだ。1588年、教皇シクストゥス5世は女性が公共の劇場やオペラハウスの舞台で歌うことを全面的に禁止した。アンガス・ヘリオトによると、「女性の演劇俳優を非とし、その名前を売春や放埓と結びつけて考えるのがアウグスティヌスの時代、またそれ以前の時代にまで遡る伝統的な考え方だった」。1589年には、教皇シクストゥス5世の大勅書により、サン・ピエトロ大聖堂聖歌隊員が再編成され、4人のカストラートが加えられている。バチカンカストラートがいることは1599年以来認められており、教会の最高権力者がこの風習を公認したことで、カストラートは受け入れられるものとなってしまった。カストラートはたちまち人気の的になったが、去勢手術でたくさんの子供たちが亡くなったことは想像に難くない。カストラートは大変貧しい生れである場合が多く、親は息子に音楽の才能があると分かると、子供を音楽院に売ることもあった。聖歌隊や教会の学校から引き抜かれた子供たちもいた。教皇ベネディクトゥス14世は昔のニケア公会議の決定に言及、去勢は不法行為であると認めたにもかかわらず、カストラートは禁止すべきという1748年の司教たちからの提案を退けた。禁止すれば教会が空になる、歌がなくなることを恐れたためだ。それほどまでに教会音楽の魅力と重要性は大きかった。1898年になると去勢反対の世論が盛り上がり、1903年教皇ピウス10世は礼拝堂でカストラートを用いることを正式に禁止する。最後のプロのカストラートだったアレッサンドロ・モーレスキーは1922年に亡くなった*111

 この記事にあるように、20世紀初めごろにカストラートが正式に禁止されたことを考えると、ここでスティーヴンが「去勢男たち」と想像していたのは過去に実際に去勢した聖職者・聖歌隊員たちか、あるいは「男性性の欠けた」存在としての聖職者たちか、どちらの可能性もあるかと思う。それ以外にも解釈があるかもしれない。

 “the fat”は「最も良い、滋養に富んだ部分」の意味がある。またkidneyは「気質、種類、型」などの意味を持つが、「腎臓」の意味のほうがよく知られているだろう。腎臓といえば第四挿話でのブルームの朝食で、好物なので、何か繋がりがあるかもしれない。この「小麦の最もよきものを食らって脂ぎっている」という部分は、「普段会衆者たちに清貧を奨励しながら聖職者が肥え太っているという皮肉」である*112という指摘がある。U-Δ注にあるようにここは「申命記」からの引用だが、「小麦の中の最も良いもの」を与えられたエシュルンという人物はそれによって肥え、頑なな性根になり、自らに食べ物を与えた主を捨てる、という続きがある。この部分だけでスウィフト、ヨアキム、あるいはスティーヴン自身を(スウィフトとヨアキムについての実際の体形については分からない。少なくともスティーヴンは太ってはいないが、「小麦の中の最も良きもの」を教会からの教えや聖職者になるための指導として考えることもできる)象徴し、皮肉っているという意味が隠されていると見ると面白い。全文を通して見ると、「威嚇」という言葉は入っているものの、何度か指摘されているようなスティーヴンの「教会への恐怖・逃亡の欲求」のようなものはあまり感じられない。どちらかというと嘲っているような印象のほうが強い。また、原文のhorn、snort、jack、geldといった言葉は動物と関連する意味合いが強いという点からも、嘲笑的なイメージをより容易に想起させるのではないかと思われる。

・U-Y 78「そして同じ瞬間にどこかそのあたりの司祭がそれを捧げ持っているだろう。ちりんちりん!」

 U-Δ107「同じこの瞬間に、多分角の向うでも、一人の司祭がそいつを奉挙している。チリンチリン!」

 “And at the same instant perhaps a priest round the corner is elevating it. Dringdring!”

 →「それ(そいつ)…聖体(ホスチア)を指して。/チリンチリン!…ミサでパンと葡萄酒を聖別する際に祭壇の侍者が鳴らす鈴の音(第9挿話参照)」(U-Δ注)。最初の“And at the same instant”をU-Yでは「そして同じ瞬間に」U-Δでは「同じこの瞬間に」としている。U-Δは「この」という言葉から、スティーヴンが浜辺を歩いている「今このとき」と同じ瞬間を表している感じが強く、U-Yは「そして」でつないでいることにより、スティーヴンがどこかにある教会を思い、そこで聖歌隊が歌を歌ったり坊さんが祈りを唱えたりしているのと「同じ瞬間」に、別の教会で司祭が聖体拝領を行っている、「想像上の瞬間」を意識させる効果が強いのではないかと思う。cornerは「角、街かど」等の意味だが、“round the corner”は「角を曲がったところに、すぐ近くに、間近に、close, local, very near」といった意味になるので、必ずしも「道の角を曲がったところ」と訳す必要はない。なので、両訳どちらの解釈でも問題はない。elevateは「持ち上げる、(カトリック)(ミサで)聖体を奉挙する」の意。「奉挙」は「(ミサで)聖別されているパンを高く挙げて示すこと」という意味。

 dringdringについて調べてみると、ネット上では「dringはフランス語」「フランスではチリンチリンという意味を表す」との記載のある記事が多数出てくる*113。それらを見るとdringdringはやはり“dring dring”のように二語に分けて使われているようだ。“dring dring”を仏英辞書サイトで調べてみると、“ding-a-ring”と訳されており*114、これは“ringing sound, representing the sound of a bell ringing(鳴る音、ベルの鳴る音の表現)”と辞書にあるので、ちりんちりん、というような訳になる。しかしなぜスティーヴンはホスチアのことを「それ」と呼んだのか? U-Δ注で「それ(そいつ)」とはホスチア(カトリックではイースト菌を使わない一種のウエハースのようなもののことで、一般的なパンのイメージとは全く違う*115)のこととあるが、直近の文章にホスチアは出てこない。priestがelevateするならば、辞書にあるように聖体を奉挙しているのだろう。前に出てきていない言葉ならばhost(ホスチア)と書くはずだと思うのだが、それをitとしていることで、スティーヴンは何かから既にホスチアのことを連想していたのではないかと考えられる(「小麦の最もよきもの」からの連想か?)。その前の段落の描写からミサのことを既に考えていたのはわかるので、ミサのことをitと記していたとしてもおかしくはないと思うのだが、なぜ「ホスチア」がitなのか。それともelevateという動詞を使えばこの文脈では当然ホスチアのこと、(elevateするのはここではホスチアに決まっている)という意図でhostをitにしたのだろうか? ミサがどのように行われるのかもよく分からなかったので調べてみると、以下のような順序であるようだ「1.【開祭】2.【ことばの典礼】聖書の朗読を中心に、歌、説教、祈りなどが行われる。3.【感謝の典礼】パンとぶどう酒の食卓を囲んで、「主の晩餐」が行われる。パンとぶどう酒をささげる祈り(奉献文)が唱えられ、最後に信者はキリストの体と信じて聖体のパンを頂く(→聖体拝領)。4.【閉祭】」*116

 この説明によると、3番目の「感謝の典礼」がミサの聖体拝領にあたる。となると、前段落は「ことばの典礼」にあたるものか。訳の問題に戻ると、「奉挙している」の直後に「ちりんちりん」とあるので、ミサのことを詳しく知らなければ、捧げ持った何かが「ちりんちりん」という音を鳴らしているかのような印象を与える。U-Δ注からこの「ちりんちりん」が「ミサでパンと葡萄酒を聖別する際に祭壇の侍者が鳴らす鈴の音」というのは分かるのだが、ミサでなぜ鈴を鳴らすのか、と思い、これもまた調べてみると、「聖別の少し前に、適当であれば奉仕者は小鐘を鳴らして信者の注意を喚起する。同じく地域の習慣に従って、それぞれ、パンとカリス(聖餐に用いられる聖杯)が会衆に示されたとき小鐘を鳴らす」*117とのことらしい。これから聖別が行われる、ということを信者に知らせる注意喚起のために鈴は鳴らされるようだ。

・U-Y 78「そして二丁目先では別の司祭がそれを聖体匣にしまい込んで鍵を掛けている。ちりんちりん!」

 U-Δ107「通り二つへだてた先では別なのがそいつを聖体匣にしまう。チリンチリン!」

 “And two streets off another locking it into a pyx. Dringadring!”

 →「聖体匣…聖体を入れる容器」(U-Δ注)。pyxはU-Δ注で言っている聖体匣のこと。辞書には「聖体容器、聖体匣、聖餐式のための聖餅が入れられる容器。a small, usually round container used to hold the consecrated bread of the Eucharist, especially used to bring communion to the sick or others who are unable to attend Mass(小さく、多くは円形の箱で、聖体拝領のために聖別されたパンを入れておく。特にミサに参加できない人々や病人に聖体を授けるために使われる)」とのこと。

*118。">

f:id:cafedenowhere:20201001075200j:plain

聖体匣の一例。20世紀に作られたものであるらしい*119
*120。">

f:id:cafedenowhere:20201001075510j:plain

現代売られている聖体匣。体の不自由な人や、様々な事情で教会のミサに参加できない人のためにも聖体拝領ができるよう、コンパクトで持ち運びに便利な造りになっている。上掲の聖体匣も、この写真の聖体匣も、鍵はついていない(この写真の聖体匣には掛け金だけがある)*121

 U-Yでは“locking it into a pyx”を「しまい込んで鍵を掛けている」と訳し、U-Δでは「しまう」とだけ訳している。lockは「鍵を掛ける、鍵を掛けてしまう」だけでなく、単に「しまう」の意味もあるのだが、聖体匣に鍵はついていたのだろうか? 鍵を掛ける必要があるのだろうか? インターネット上の写真を見た感じでは鍵のついている聖体匣は見当たらなかった。ここの原文は鍵を掛けるほど大事に聖体匣を扱っている、大事に聖体をしまっている、という意味を出したかったのだろうか? この「聖体匣に鍵はついているのかどうか」の問題についてはよく分からない。また、この段落で「ちりんちりん」は三度出てきているが、ここだけ“Dringadring”というように、二つの“Dring”の間に“a”が挟まれている。両訳ともこの三度の鈴の音を全く同文で訳しているが、この“a”による言葉へのアクセント付けを考えると「ちりん、ちりん」などにしたほうがいいのではないだろうか? この「ちりんちりん」については次の文章の後でもう一度考えてみる。

・U-Y 78「そして聖母礼拝堂でまた別の司祭が聖体を独り占めにしている。ちりんちりん!」

 U-Δ107「どこかの聖母礼拝堂ではまた別なのが聖体を一人占めにする。チリンチリン!」

 “And in a ladychapel another taking housel all to his own heek. Dringdring!”

 →「聖母礼拝堂」(lady chapel)は聖母マリアに捧げられた礼拝堂を指す、イギリスで古くから使われている用語。特に大聖堂などの大きな教会の中にある。メアリー・チャペル、マリアン・チャペルとも呼ばれ、伝統的には大聖堂の最大の付属礼拝堂で、ウィンチェスター大聖堂のように主祭壇の東側に配置され、本館から突出している。ほとんどのローマ・カトリック教会英国国教会の大聖堂には、今でもこのような礼拝堂があり、中規模の教会には聖母に捧げられた小さなサイド・オルター(側祭壇? side-altar)がある*122。houselは「聖体(の授与、拝受)」の意。cheekは「ほお、口腔(口の中)」。take to one’s cheekでも、take toにも、cheekにも、「独り占めする」というような意味は見つからなかった。ということは、文字通りに解釈すると、司祭が「聖体を独り占めにしている」というのは聖別されたパンを自分で全部食べてしまっている、ということか? 聖体を大事にしまっている司祭もいれば、礼拝堂でこっそり全部食べてしまっている司祭もいる、といったスティーヴンの想像したユーモアなのだろうか? 

 ここでこの節に三度出てくる「ちりんちりん」の話に戻るが、厳密には三つ全てが同じ「ちりんちりん」(“dringdring”)ではない。最初は“dringdring”、次に“dringadring”、最後が“dringdring”となっていて、“dringadring”が二つの“dringdring”に挟まれている構造になっている。さらに、“dringadring”は“a”が二つの“dring”に挟まれている。つまり、“dringadring”という語自体が、三度の“dringdring”という鈴の音の重なりの象徴で、“dring”が最初の“dringdring”、“a”が二度目の“dringadring”、また“dring”が最後の“dringdring”を表しているのではないか、と思った。だから何の意味があるのか、と言われても分からない。ただそのように考えて書いたのではないか、と思っただけだ。

・U-Y 78「下へ、上へ、前へ、後ろへ」

・U-Δ107「ひざまずき、立ちあがり、進み、しりぞく」

 “Down, up, forward, back”

 →既に指摘したかもしれないが、この挿話には上下、前後などの方向性を示す言葉(特に上下に関する語)が頻出している。そのことから、この一文はこの挿話の中でも非常に重要な文章の一つなのではないかと考えられる。U-Yはかなり直訳的だが、U-Δはどちらかというと教会のミサでの動きを思わせる文章になっていると思う。U-Yでもその単純な言葉の並びでミサでの動きを想起させるのには十分なのだが、あえて原文の言葉を「具体的な動き」として訳出しなかったことで、スティーヴン自身の「思索の動き」をも連想させることに成功していると言えるのではないだろうか。言葉の解釈に幅を持たせているという点で、ここはU-Yのほうがよりよいのではないかと私は思う。

・U-Y 78「学兄オッカムが思いついたことだ、無敵の博士」

 U-Δ107「あの無敵博士オッカム師はそれを考えていたのさ」

 “Dan Occam thought of that, invincible doctor”

 →「オッカム師(学兄オッカム)…中世イギリスのスコラ哲学者、フランシスコ会修道士(1285頃-1350頃)。「無敵博士」は綽名。教皇ヨハネス22世を攻撃して破門される。その命題の一つ「必要なしに多くのものを定立してはならない」は「オッカムの剃刀」と呼ばれる。各教会で同時に聖体の秘蹟が行われることからこの命題を立てたというのは、スティーヴンの勝手な想像。/それ(思いついたこと)…聖体が同時に様々な場所に存在するという問題」(U-Δ注)。invincibleは「無敵の」の意。オッカムはそれまでの正統な神学に対する哲学的批判をした神学者・哲学者の一人。トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとるジョン・ラットルと対立した。オッカムは神について、「信仰によってのみ人は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない」とし、その神論は個人的啓示と信仰にのみ基づいていた。つまり彼は信仰と理性は矛盾しない、と考えていた。オッカムは後期スコラ派に属するが、それまでのスコラ派に対し方法と内容の両面で改革を主張している。その狙いは「簡素化」にあった。また彼は個物を超越した普遍、本質、形相といったものではなく、個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したもので、心に外在する存在ではないと主張した(「外在」とは外界に存在すること、ある事象の原因・理由などがその事象の外にあること、の意味)。ここで彼は形而上的な普遍の「存在」の否定、存在論の縮小を唱えている。オッカムは唯名論者とも概念論者とも言え、またどちらでもないとも言える。唯名論者は、普遍は名前にすぎない、存在する実在物ではなく、言葉にすぎない、と考える。対して概念論者は、普遍は心的な概念であり、名前は概念の名前と考え、概念は心の中にのみ存在する、とみなす。つまり、普遍概念は人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することで生まれ、心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての「対象」を持つ。それは自身が表すものの場所を持ち、同時に心を反映する行為を表す述語である、とする。オッカムは唯名論の開拓者であったが、唯名論者というより概念論者とみなされることもある上、そのどちらからも区別されて「記号論者」とも呼ばれる*123

 この説明を見ると、概念論は唯名論とそれほど対立するものでも、矛盾するものでもなく、概念論は唯名論から発展した考えのように思われる。つまり、オッカムは個物のみが「存在」し、普遍概念は人の心が生み出したもので、それは個物を超えた何らかの「実体」として人の心の外に、外界に「存在」するものではない、という解釈でいいのだろうか? (「存在する」とはどういうことか? 記号論とは? という話になってくるが、これ以上調べるとまた終わりのない状態になってくるので、この辺でとめておく。このオッカム理解について何か間違いや付け足すべきことがあったら是非教えてください…)オッカムの剃刀はU-Δ注でも触れられているが、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定すべきではない」とする指針。元々はスコラ哲学の考えで、オッカムが多用したことで有名になった。剃刀は説明に不要な存在を切り落とすことの比喩である。原文は「必要がないなら、多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は、多数の論理を定立してはならない」(“Entities should not be multiplied without necessity”)。しかしオッカムがこの言葉を述べた、著したとされる正確な記述は厳密にはなく、この内容の文章にはいくつかバリエーションがある。しかし、神の数々の奇跡に関する事柄に対して、オッカムはこの主張をあてはめることを制限している。故に、聖餐における複数の奇跡は可能で、なぜなら「それが神を喜ばせるから」としている*124。 

 U-Δ注では「各教会で同時に聖体の秘蹟が行われることからこの命題(オッカムの剃刀)を立てたというのは、スティーヴンの勝手な想像」としている。オッカムの剃刀のことを考えているならば、「不必要に多くのものを定立すべきではない」という彼の主張は、聖体変化という現象を示すのに三つ(複数)の場所で同じことをする必要はない、という考えから生まれたのだろうとスティーヴンは想像していることになるだろうか。一方で同注では、オッカムの思いついたことを「聖体が同時にさまざまな場所に存在する、という問題」」としている。同時に様々な場所に存在するという考えは、普遍概念を扱う唯名論のほうにも繋がるのではないだろうか? 「存在」の定義にもよるが、オッカムは実際に存在するのは個物であり、普遍概念は心が個物を抽象化して「生まれたもの」としている。ならば、心の中に普遍概念は「存在」するとも考えられ、三つの場所で同時に生じる聖体変化を一つの普遍概念とするならば、それは各人の心の中で生じるもので、現実にそれぞれの教会でホスチアがキリストの肉体に変化しているわけではない、とオッカムが考えたことをスティーヴンは想像しているという可能性もあるのではないだろうか? つまり、「各教会で同時に聖体の秘蹟が行われる」というスティーヴンの想像は、個物を超えた普遍概念の存在の問題(唯名論)を示唆すると同時に、その「普遍概念」を定立するにあたって無駄な「複数性」の問題(オッカムの剃刀)をも含んでいるのではないだろうか。U-Δ注がこの文章におけるオッカムとの繋がりについて、唯名論オッカムの剃刀の命題のどちらもが含まれうるということを、あえて意図的に明示せずほのめかしているのか、それともU-Δ注では唯名論のほうは全く念頭にないのか、よく分からない。逆に混乱させるので、この文章についてのU-Δ注はあまり適切ではないのではないかと思う。以下の解説ではスティーヴンが想像した「オッカムの考え」を、オッカムの唯名論のほうとより強く関連付けている印象をうける。「異なる神聖な鐘が同時に鳴ることを、異なる場所での聖餐のホスチアに同時に存在するキリストの超越的な肉体として想像したスティーヴンは、自分がふと思いついた比喩的な考えと同じ洞察を論理的に主張した中世の哲学者を思う。ギフォードは“Tractatus de Sacramento Altaris”でオッカムが「ホスチアが聖別されたあとでも、ホスチアの量も質も変わらない。それゆえ、キリストの肉体は量や質という点でホスチアの中にはない(つまり、ホスチアは理性ではなく信仰に基づくキリストの肉体である)、ゆえにキリストには一つの肉体しかなく、その肉体が複数あることはない」と主張していると述べている」*125。と、書いていて思ったのだが、オッカムの唯名論と剃刀の命題を今まで全く関連のない主張として考えていたが、「個別」と「複数性」という部分で、この二つの主張は全く関連のないものとは言えないのではないだろうか?(もしかしたら「当たり前だろう」と言われるかもしれませんが… 今まで詳しく調べたことがなかったので、私が無知なだけです)ちなみに “Dan Occam”のDanは単に「氏」や「様」(Mr. Sir)を示す古い称号であるらしい*126

・U-Y 78「霞けむるイギリスの朝、ちゃめっ子位格に脳みそをくすぐられたってわけか」

 U-Δ107「ある霧の朝イギリスで、位格の小鬼が現れて、彼の脳髄くすぐった」

 “A misty English morning the imp hypostasis tickled his brain”

 →「ある霧の朝…伝承童謡「ある霧の湿った朝のこと…」のもじり」(U-Δ注)。impは「鬼の子、小鬼、小悪魔、いたずら小僧、ちゃめ」等の意。hypostasis(ハイポスタシス)は「本質、実体、(三位一体の)位格」等の意。tickleは「くすぐる、喜ばせる、楽しませる、ちくちくさせる、むずむずさせる、touch a body part lightly so as to excite the surface nerves and cause uneasiness, laughter, or spasmodic movements(体表の神経を刺激して落ち着かなさや笑い、発作的な動きを引きおこすために体の部分を軽く触る)」等の意味を持つ。いたずらな位格の小鬼に脳みそをtickleされる、というのはスティーヴン流のユーモアなのだろう。ここで今までこの位格のことを三位一体のほうの「位格」として認識していたが、オッカムの唯名論と剃刀の命題を考えた後で、ふと気になって「位格」という言葉を調べたところ、「位格=ペルソナ」とあり、ペルソナを調べてみると「①キリスト教の三位一体論で、父と子と聖霊という三つの位格。本質(ウーシア)が唯一神の自己同一性をあらわすのに対して、個別性を強調する。ギリシャ語では、ヒュポスタシス。②人。人格。人物」等の意味を示すものとしている。「ウーシア」のせいでまたアリストテレスを思い出すことになってしまった。改めてhypostasisの意味を確認すると、哲学用語として“The underlying reality or substance of something (from 17th c)”という意味がでてくる(先にあげたhypostasisの意味の中の、「本質、実体」に当たるものかと思う)。しかし、「本質」も「実体」も「位格」も、アリストテレスに言わせれば厳密には違う。そしてこの「ウーシア」が問題となっていた部分で、スティーヴンは自らの「存在」の根源に思いを馳せていたのだ(cf. U-Y 75)。再度「ウーシア」についての説明を繰り返すことはしないが、アリストテレスの中で「実体」と「普遍概念」があまり区別されていないのに対し、オッカムの論では「実体」である「個物」と「普遍概念」は峻別されている。そもそも、スティーヴンの思索は挿話冒頭から、世界を認識することとそれが存在することについて連綿と続いてきていた。ならば、ここのimp hypostasisのhypostasisは三位一体の「位格」でありながら、同時に先に出てきた「実体」のこと、スティーヴンが父と母によって肉体を得、しかしその存在は神の中に今も昔もこれからも永遠に在りつづけ、そのため同一なのではと思いついた父と自らの「本質」のことも表そうとしているのではないだろうか? この多義性のためにU-Yではわざわざこの「位格」にルビをふっているのではないだろうか(訳者は「ヒポスタシス」を読んでほしかったのではないだろうか)? 直線的な読みでの文脈だけをもとに判断するならば、これは位格でしかないのだが、ジョイスの言葉の訳出、それが何を言わんとしているのかを理解するには、もはや単純な読み方の中での文脈からだけでは判断できないのではないかという気がしてきた。ちなみに、両訳とも「くすぐられた」としているが、上記のようにtickleは訳の幅が広い。悪戯好きな小鬼のすることだから、「くすぐられた」以外にも「つつかれた」「つねられた」などと訳すこともできるかもしれない。U-Δでは注にあるように伝承童謡をもとにした文章であるという点から、リズムのいい、歌のような訳にしている。

・U-Y 78「ホスチアを下ろしながらひざまずいたとき手にする鈴の二度目の音と絡み合って翼廊の最初の鈴の音が聞え(あっちが持ち上げとるな)」

 U-Δ107「ホスチアをおろしてひざまずいたときに、彼は自分の二度目の鈴の音が袖廊の最初の鈴の音とからまるのを聞き(相手がそっちのを掲げ)」

 “Bringing his host down and kneeling he heard twine with his second bell the first bell in the transept (he is lifting his)”

 →この文章のhis(he)は誰を指しているのか分からない上に、"I”まで出てくる。両訳とも「彼」「相手」「あっち」などとあいまいな表現にしている。文脈から言えば直前に出てくるオッカムのことかとも思えるが、もはや文脈にはあまり頼れない状態だと分かったので、とりあえずミサでホスチアを下ろしたり鈴を鳴らしたりしている「誰か」がいる、と考えておく。そして、kneelingの後の文章がおかしい。“he heard twine with his second bell the first bell”とあるが、普通の語順であれば“he heard the first bell twine with his second bell”になるのではないだろうか? これはtwineまたはsecond bellを強調したいのだろうか? しかしなぜ強調されるのかが分からない。ちなみにtwineは「より合わせる、からまる、からませる、飾る」等の意味。袖廊の意味は翼廊と同じ。翼廊は「教会堂で、内陣の手前に身廊と十字に交差して設けた廊下の左右に突き出た袖の部分」*127

 建築用語も多いのでこのようなものだろうと理解したところを簡単に説明すると、主祭壇につづく長い長方形をした部分が教会の中心(説教やミサが行われ、奥にある主祭壇を眺める形で信者たちの座る席がある)で、その主祭壇と信者たちの席の間を直角に横切るように延びる部分が翼廊。映画などで教会の出てくるシーンを思い出してもらえばわかると思う。結果、そういった教会を上から見ると十字型になっている。十字型の縦長の部分が教会の主要部分で、短い横の部分が翼廊、なのだと思う。あと、U-Yでは「手にする」という言葉が入っているが、原文に対応する言葉はない。これはホスチアを携挙している者(おそらくは司祭)と鈴を手にする者が同じだということだろうか? ただ、U-Δでも「自分の二度目の鈴の音」としているので、こちらも鈴を鳴らしている者とホスチアを携挙する者が同じだと解釈しているようだ。しかし鈴を鳴らすのは侍者の役目とあったような… この部分は教会の宗派や時代、国によって違いがあるかもしれないので、何とも言えない。まだ疑問はあるが文章全体を見る必要があるので、先に進む。

・U-Y 78「立ち上ると(今度はわしが持ち上げるぞよ)」

 U-Δ107「立ちあがりながら(いまはこちらが掲げ)」

 “and, rising, heard (now I am liftng)”

 →この"I”は誰なのか。

・U-Y 78「両方の鈴が(あっちはひざまずくところだ)重音となって響いたのだ」

 U-Δ107「彼らの二つの鈴の音がからまり合い(向うがひざまずき)、二重母音となって鳴り響くのを聞いた、というわけだ」

 “their two bells (he is kneeling) twang in diphthong”

 →twangは「弦をはじいたような鋭い音(を鳴らす)、to produce or cause to produce a short vibrating sound, like a tense string pulled and suddenly let go(張りつめた弦を引っ張って急に離したような、短く響く音を出す)」という意味。この説明の音は「ピン、ビン」という音のようだが、鈴だとしたら「チリン、リン」というような擬音語が使われるだろう。twangという語はあまり鈴の鳴る音には合わないような気がするが、なぜこの語を使ったのだろう? 「弦」というところに何か意味があるのだろうか? diphthongは二重母音の意。二重母音は[ai]、[au]、[oi]のように、単一で母音となるものが二つ重なって構成された一つの母音。dipthongの語源は“two sounds(di(2つの、2倍のの意の接頭辞)+phthóggos(音、声))であり、発音は[difӨɔːŋ]。この言葉の訳の問題については後で考えてみる。ここで、この文章原文を全文で表記してみたい。

 “Bringing his host down and kneeling he heard twine with his second bell the first bell in the transept (he is lifting his) and, rising, heard (now I am lifting) their two bells (he is kneeling) twang in diphthong”.

 一応原文に沿って考えてみると、Bringing・kneelingの前または同時にfirst bellが鳴らされている。second bellがどの時点で鳴らされたのかは分からない。そして、(he is lifting his)のheは最初のheと同一人物なのか否か、liftingは鈴を鳴らす動作なのか、ホスチアを携挙する動作なのか。heが別人物だとして、liftingが鈴を鳴らす動作だとすると、transeptの直後にこのカッコ部分が入っていることから、このheは翼廊で鐘(鈴)を鳴らしている人物ではないかと考えられる。同一人物だとすると、Bringingとkneelingをしながらliftingをしているということになるので、ちょっと動きにつじつまが合わない。liftingがホスチアの携挙の動作だとしても、携挙の前には注意喚起として鈴が鳴らされるので、結局liftingは鈴を鳴らす動作を導いてくることになる。

 risingという動作の主語と二番目のheardの主語は最初のhe。その後(now I am lifting)が出てくるのだが、この"I”は二つのheと同一人物なのか第三の人物なのか。第三の人物なのだとすれば、“I”が再び鈴を鳴らしている、ということになる。この考え方でいくとfirst bellとsecond bell、そして二度のliftingから、鈴が鳴らされているのは全部で四回になってしまう。その上、their two bellsとあるので、"I”は第三の人物ではなく、その前に出てきている二つのheのどちらかと同一と考えるしかない。それでもまだ鈴の鳴る数は三回までにしか減らない。だから、どこかの時点で二つのheが同一人物を差しているということになる。いや、their two bellsというのが鳴らされている鈴の数ではなく、実際にある鈴の数だとすれば、鳴らされている鈴の音の数に関係なく、その二つの鈴の音がからまりあっていればいいのかもしれない。

 しかし二つのheが別人であり更に出てくる"I”もまた別人だと、やはり鈴は三つ必要なので、二つのheと"I”は各々別個の三者ではないのは確かだ。だが鈴が三つあれば鈴は当然三か所で鳴らされることになり、三つの鈴の音がからまり合うことになる。first bell、second bell、their two bellsといった表現から、鈴が実際に三つあるとはやはり考え難い。一番確かに思われるのは、最初のheがからまり合う二つの鈴(の音)を聞いた、ということだけなので、同一なのか別人なのか分からないheと"I”、その各々の動きについては、この一番確かに思われる部分につじつまを合わせる感じで訳出するしかないように思える(この英文解釈でいかに私が混乱しているかを分かって頂きたい)。

 また、別視点で考えると、先に考察した“Bringing his host down and kneeling he heard twine with his second bell the first bell in the transept (he is lifting his)”の部分を「袖廊の最初の鈴の音(the first bell in the transept)」というように、その言葉の意味のまま解釈するならば、袖廊で最初の鈴の音が鳴った(袖廊での最初の鈴の音が聞こえた)、ということになる。なぜ袖廊で「最初の鈴の音」がするのか? 翼廊に礼拝堂がある教会もあるらしいが、ミサが行われているとしたら、鈴は聖体拝領のときに鳴らされる鈴で、それは翼廊では行われないのではないだろうか? 一つの教会の主祭壇と翼廊のどこかで同時にミサを行うということはないのではないだろうか? ミサの例や画像などを色々調べてみたが、ミサは神聖なものなのでそれが行われている写真はまずなく(信者にとっては冒涜にあたりかねない)、ミサの鈴が注意喚起のためのものならば、二つの鈴が別の場所から絡まって聞こえてしまうと、注意喚起として意味をなさない。以上のように色々考えた結果、この文章の中で鈴を鳴らしているのは実は一人で、翼廊に反響する鈴の音から、そこで鈴を鳴らしている人物があたかも複数存在しているかのように想像しているのではないか、と私は思う。オッカムの唯名論的・概念論的考え方によれば、ホスチアは実在するが、聖体変化が生じてもホスチアはホスチアのままで、キリストの肉にはならない。同時に複数のホスチアが色々な場所でキリストの肉となることも不可能である。しかし、聖体変化を普遍概念とするなら、それ自体(聖体変化という普遍概念)が各人の心の中で個々に「存在」することは可能である。ここでは同じ教会の中で鈴を鳴らし、一つの鈴の音の反響の重なり合うこと、それらが同時に「存在」しうることを想像することで、普遍概念が同時に複数の場所に、複数の人々の心の中で存在することは可能であるというオッカムの唯名論・概念論的主張を表しているのではないだろうか。

 更に、この考えを基にするならば(もし鈴を鳴らしているのが一人ならば)、この節ではちりんちりん、と三つの教会で鳴らされる鈴の音→二つの重なり合う鈴の音→一人の鈴の音の反響の重なりという具合に、「聖体変化が概念として存在可能である」という説明をするのに、「オッカムの剃刀」が用いられているともいえる。つまり、オッカムのことを引き合いに出しながら、その記述方法そのものにオッカムの主張した命題をあてはめているのではないかと考えられるのだ。ただ、実際にはオッカムは前述のとおり、信仰や神の奇跡の問題については理性で扱える問題の範疇外としているので、教会の中で重なり合う鈴の音から聖体変化についてオッカムが考えているというのはU-Δ注の言うように「スティーヴンの勝手な想像」なのかもしれない。しかし一方で前に挙げた指摘にあるように、オッカムは聖体変化におけるホスチアの個物としての不変性にも言及しているので、オッカムが「信仰や神の奇跡についての問題については理性の適用外」としたのがどの程度の範囲を指していたのかがよく分からない。

 ちなみに、ここの三つの教会で鳴る鈴の音からオッカムへ、さらにミサの鈴の反響音から聖体変化へという連想のつながりは、スティーヴンがグールディング家についての想像を終えたときの風の重なり(「この風のほうが美声だ」(U-Y 77))にまで遡ることができる、とのコメントも読書会後日に頂いた。吹きすぎていく風も、反響する音もそこにとどまり続けることのできない、「順列」するものであるという点で、確かにそこまで遡ることはできるだろう。

 ここで“their two bells (he is kneeling) twang in diphthong”の部分で指摘したdiphthongの訳について考えてみる。U-Yでは「重音」とし、U-Δでは「二重母音」としている。U-Δは直訳だが、一つの鈴の音の反響による重なり合い(これはあくまで私の仮説だが、今はこの仮説をもとに考察する)が「二重母音となって鳴り響く」と表現するのは適切なのかどうか。二重母音は単一で母音となる二つの異なる母音が連なって一つの母音となるものを示す*128。鳴らされた一つの鈴の音と、その反響を「異なる音」として解釈していいものかどうかというところは判断がつきかねるが、結局それらの音は「からまり合う」のだから、異なるものとしてとらえざるを得ない、という感じもする。さらに、「二重母音」という言葉は「(二つの異なる音が)一つの音になる」ということを示しているので、最初の鈴の音と反響した鈴の音が「絡まり合って一つになる」という意味と、完全にではないが関連性を感じさせる。一方でU-Yではここを「重音」と訳している(「重音となって響いたのだ」)。「重音」という言葉を調べてみたのだが、楽器の演奏技法としての「重音奏法」しか見つからなかった。重音奏法とはヴァイオリンなどの弦楽器で複数の弦を同時におさえて音を出す奏法、管楽器において二つ(以上)の音を発生させる技法、またホーミーなどの歌い方も「重音唱法」と呼ばれている*129

 弦楽器で複数の弦を押さえて同時に異なる音を出したり、管楽器で一度に二つ以上の音を出すのは、奏者が意図的に異なる音を同時に鳴らしているという意味で、反響音の重なりとは言えない。辞書に「重音」という言葉が単体で載っていないようなので、ここは訳者の造語なのかもしれないのだが、その際にこの重音奏法を意識していたか、知っていたかどうかは分からない。ただ、dipthongの語源は“two sounds(di(2つの、2倍のの意の接頭辞)+phthóggos(音、声))であることから、diphthongを「重なり合う二つの音」として解釈し、「重音」と訳出することも不適切とは言えないのではないかと思われる。「二重母音」の方が正確な訳ではあるが、読者にとっては「二重母音」というよりも「重音」と表現したほうが伝わりやすい、イメージしやすいのではないかとも思う。そもそも元の音と反響音をdiphthongと言い表している時点で、作者はこの二つの音を異なるものとして認識しているとも考えられる(しかしこれについてはジョイスの言葉遊び的なものや、他の箇所との繋がりを考慮した語の選定も含まれているかもしれないので、そこまで「異なる二つの音」という意味を重視していたかどうか断定はできない)。「反響音が元の音とは異なる音となり、元の音と一つになる」という意味を表す訳として、U-Y「両方の鈴が重音となって響く」、U-Δ「二つの鈴の音がからまり合い、二重母音となって鳴り響く」という二つの文章を考えると、読者へのイメージのしやすさ、分かりやすさという点ではU-Yのほうが効果的で、訳の正確さ、詳しさという点ではU-Δのほうが優れているのではないかと感じられる。

 しつこくて申し訳ないのだが、どうしてもこの原文の中になにか隠れたメッセージがあるのではないかと思って文章を眺めていたところ、以下のような点が見つかった。再度全文を挙げてみる。

 “Bringing his host down and kneeling he heard twine with his second bell the first bell in the transept (he is lifting his) and, rising, heard (now I am lifting) their two bells (he is kneeling) twang in diphthong”.

 このように、heとhisはそれぞれ三回ずつ、kneeling、lifting、heardはそれぞれ2回ずつ出てきている。あと、twineとtwangの間に何らかの類似性を感じる。しかし今までのこのような考察と同様、ここから何かの意味を見いだすことは私にはできなかった。ただ、ジョイスは2と3が好きだな、という印象は第一挿話からずっと受けている。

 <「リッチー叔父さんの原理」についての一考察>

  今回の読書会に参加した中で大変興味深かったのは、「リッチー叔父さんの原理」の話だった。これは主催者のお一人、南谷さんが試論的に提起し、読書会で発表されたものなのだが、概説すると以下のようになる。

 「スティーヴンは母方の叔父リッチー・グールディング家の訪問を考えるのだが、U-Y 3. 75-77での記述・会話群はスティーヴンによって「想像された発話」であり、実際の出来事ではない。この「想像された発話」内で、リッチー叔父はそこに存在しないものを呼び込もうとする。例えば、「座って散歩でもするか」というリッチーの発言は、家の中に「外」を呼び込もうとするものである。また、「凋落の家」には存在しないウィスキーや高価なチッペンデイル家具を持ってくるように命令する。クリッシーの面倒を見ていて、そこにいない母親(リッチーの妻)を呼ぶ。

 このリッチー叔父による「そこにないものを呼び込もうとする」行為の記述は、一つの時空間における出来事の描写のなかに、「そこにはない」別の時空間が侵入しうることを示唆するものと言える。例えば夢を見ているときには、寝ている身体の周囲にある現実が変性を受けて夢に登場することがある。「ある何かは別の何かでありうる」のだ。それは“We thought you were someone else”(きみが誰か他の人だと思った)という言葉において象徴的である。

 記述内に別の時空間から紛れ込むのは、(1)記述内で認識主体とされている人物(ここではスティーヴン)の思惟や意識、知識(2)その人物を取り囲み、その人物が知覚している自然(e.g. 「この重たい砂土は潮と風がここに蓄積した言語だ」)、そして(3)その記述の周囲に書かれた(ページ上の)言葉(e.g. Bright disease-brightwindbridled-Bride Street、Broad bed-lap board-bald head(このbald headはリッチーの禿げた頭だけでなく、後に記述される「光頭の君」にもつながる))などである。

 このようにして、想像されたグールディング家での会話には、その想像を行っているスティーヴンの現在進行形の思惟や記憶、知識、サンディマウントを歩く彼が知覚した風景や音が紛れ込んでいる」、という内容のものだ。

 

 「呼び込もうとすること」「そこにないものを取りこもうとすること」が記述された別の時空間の事象の侵入という現象を示唆しうるという指摘には、大いに納得できる。リッチーとの会話の中では「前腕だけ出す、上半身だけ洗う」といった記述に見られる「半分であることの露呈」が一つの特徴であると思われる。

 「幅広のベッドでリッチー叔父貴が、枕を支い、毛布にくるまり、小山になった膝の上からごつい二の腕を差し伸べる。こぎれいな胸。上半分は洗ったばかり」(U-Y 76)

(“In his broad bed nuncle Richie, pillowed and blanketed, extends over the hillock of his knees a sturdy forearm. Cleanchested. He has washed the upper moiety”)

 「半分であること」の前景化は、この記述自体が半分「想像上」のものであり、半分「現実世界と結びついている」ことの一つの暗示であるとも考えられる。一方、「半分であること」は「不完全であること」とも言える。それは「侵入」を容易にし、欠如は充足を希求する。また、リッチーとの会話中、またその前後にはairの語が姿を変えて何度も現れる(例:風(U-Y 75、77)、態度(“lawdeedaw airs”U-Y 77)、アリア(U-Y 77)、ぐっとアリアを盛り上げ(“with rushes of the air”U-Y 77)など)。airは「侵入」するものである。

 さらに、リッチーとの会話部分だけでなく、この挿話全体において上下(up/down)に関する言葉が頻出している。

 「リーヒーの高台から段々を下りて来るぞ……だらだら坂の浜辺をぶたぶたとやって来て、外鰐足が泥砂に沈む……われらが強大なる母のもとへ」(U-Y 74)

 “They came down the steps from Leahy's terrace …… and down the shelving shore flabbily, their splayed feet sinking in the silted sand.……coming down to our mighty mother”

 「まさかストラスバーグ高台のサリー叔母のところにいるんじゃあるまい? あいつももうちと高台なる志を抱けぬものかいな……坊主どもは秣棚だ……たいそうご立派なゴンドラ漕ぎどもだよ!」(U-Y 75)

 “Sure he's not down in Strasburg terrace with his aunt Sally? Couldn't he fly a bit higher than that, eh?……De boys up in de hayloft……Highly respectable gondoliers!”

 「降り来れ」(U-Y 78)

 “Descende

 「下へ、上へ、前へ、後ろへ」(U-Y 78)

 “Down, up, forward, back”

 「ホスチアを下ろしながらひざまずいたとき……(あっちが持ち上げとるな)、立ち上ると(今度はわしが持ち上げるぞよ)両方の鈴が(あっちはひざまずくところだ)重音となって響いたのだ」(U-Y 78)

 “Bringing his host down and kneeling……(he is lifting his) and, rising, heard (now I am lifting) their two bells (he is kneeling) twang in diphthong”

 「思い浮かべる」「想起する」といった言葉から連想されるように、私たちが何かを想像するという行為には「上にあがる」「上へあげる」という上方向への運動との関連性が強い。一方で、現実世界を認識するとき、私たちはまず、スティーヴンが足もとの貝殻を「踏み拉く」ように、眼前の世界と対峙し、感覚器官を用いて外から内へ取り込まれた世界を摂取しなければならない。咀嚼し嚥下された感覚が、神経を伝わって脳内のイメージや言葉へ、あるいは言葉にもイメージにもならない何ものかへと変換され、世界は認識される。つまり、そこにはまず外から内への運動があるとともに、取り込まれたものを「飲み込む」という作業が必要であると言える。これは私たちの周りを取り囲む世界から、私たちの体内への下方向への運動として考えられる。現実世界の認識を経て初めて想像行為は可能となる。まず「取り込むこと」「上から下へ」の運動が必要なのだ。

 そういった意味で、上掲した引用の数々は、スティーヴンの観念世界という一つの時空間における思索行為(up)と、現実世界という別の時空間での認識(down)を示しているとも言える。

 しかし、「想像されたもの」は、完全なフィクション、創造されたものである場合(ありえないことを思い浮かべるような場合)と、かつてあったことの回想である場合、またこれら二つの混交である場合の、三つが考えられる。そして想像するということは自分の思惟の中に別の時空間を取り入れることでもあり、全く別の何かを生み出す一つの創造行為でもある。

 そして、リッチーとの会話での記述上で「そこにないもの」とされているものは、「かつて実際にあったかもしれないもの」である可能性もあるのではないだろうか。ただ、ここではあくまで「記述のされ方」について論じられているので、「実際にかつてそこにあったものかどうか」ということは本質的な問題ではないだろう。とは言え、「かつてそこにあったかもしれないもの」は「そこにないもの」と同時に、直接的・間接的に記述されていると思われる。例えばリッチーの家に飾られたワイルドの鎮魂祈祷が象徴的だ。かつて元気で生きていた妹が、今はもういない。それがグールディング家に飾られているという記述は、「かつて存在した記憶―忘却」を暗示している。また、スティーヴンの家も、グールディング家も「凋落の家」と記されている。病のため寝たきりのまま仕事をしているリッチーには、かつて元気に働いていた時代もあり、壊れたブザーにも壊れていなかった時代があったことを、この「凋落の家」という言葉は示している。そしてこの「かつてあったかもしれないもの」は実際に記述の中で呼び込もうとされているのではなく、既にグールディング家のなかに存在してしまっている。これらの記述が、「そこにないもの」―「本当に最初からそこに存在しなかったもの、フィクションとして想像されたもの」と「かつてそこにあったかもしれないもの、回想されたもの」との間の境界の揺らぎを生みだす。しかし、この会話以前におけるグールディング家についての言及がサイモンの愚痴以外にはなく、サイモンの愚痴はグールディング家についての詳細を語っていない以上(これもスティーヴンの「想像」で、おそらくサイモンの主観が多分に入りこんでしまっていると考えられる)、それがどちらであるかについて断定することは難しい。

 また、意図して呼び込もうとする行為は、侵入されることへのある種の欲求とも言えるのではないだろうか。この欲求は前述したグールディング家の「欠如」から生じる。同時に、有利の一角から外を覗き、借金取りを警戒するリッチーは侵入を恐れ、拒んでもいる。「そこにないものを呼び込もうとする」行為の記述は、この「侵入されること」への欲求と拒絶という背反性をいかにして説明できるだろうか。「侵入」という現象そのものは侵入される側の意図するしないにかかわらず生じうる。また、呼び込もうとしているか否かにかかわらず、テキスト上での別時空間の侵入現象は起こりうる。ただ、このテキストで、グールディング家という一つの時空間へ「侵入」していると断言できるのはスティーヴンだけで、彼が想像の世界と現実世界とをつないでいるのは確かだ。

 ここで、「フィクション-創造されたものとして想像」と「回想としての想像」との間の境界線の揺らぎが生じているテキスト中へ、確実に「侵入」しているスティーヴンの存在によって、想像における創造と回想についての新たな仮説が提起できる。

 グールディング家の中に既に存在している「かつてそこにあったかもしれないもの」としての記述は、スティーヴンの想像に紛れ込んだ一つの「回想」であり、スティーヴンの想像世界という時空間に、「回想」という過去にあった現実の記憶を擁する時空間が侵入していると言える。一方で、本当にそこにないもの、ありえないもの、全くのスティーヴンの空想によってもたらされたものとしての記述は、スティーヴンの創造した「フィクションとしての想像」であると言える。「かつてそこにあったかもしれないもの」と「本当にそこにないもの」のどちらについても、テキスト上ではリッチーの「呼び込み」行為によって、別の時空間の侵入を許している。そこにスティーヴンが確かに「侵入」していることで、スティーヴンの想像世界におけるグールディング家という一つの時空間に、スティーヴンの「回想行為」「創造行為」の行われている二つの観念世界という時空間が侵入しているとは言えないだろうか。かつてあったものを回想する「場」と、不在の形而上的存在を新たに創り出す創造の「場」は、人間の一つの観念世界の中に時に別個に、時に入り混じり合いながら存在しているのではないだろうか。

 できるだけ元の説の論旨に沿ってシンプルに考えるならば、リッチーはそこにないものを欲することで、自分の世界に異なる世界の存在を呼び込もうとする、一つの「想像の象徴」であり、一方スティーヴンは現実世界における想像行為によって、観念世界に異なる時空間を呼び込む「想像の主体」である。そして、スティーヴンによって想像されたグールディング家という一つの時空間に、想像主体であるスティーヴンが侵入している。スティーヴンの想像の中で、「そこにないもの」を呼び込もうとするリッチーは、スティーヴンの観念世界にはいるが現実世界にはいない。つまりリッチーは「そこにいない」。この「リッチー=想像の象徴」を、スティーヴンという「想像主体」が想像行為によって呼び込もうとすることで、包含の二重構造が生まれているとも言える。想像主体が想像の表象を想像として呼び込み、生み出し続ける。

 それはまるで、金魚鉢の中で金魚の吐く息が泡となって吐き出され、水中を浮かび上がっていき、水面で弾け続けるかのような印象を与える。金魚は水中から酸素を取り込み、吐き出された泡は弾けると同時に水の外の世界を取り込もうと切望するのだ。

 

 以下、パート3に続きます…

 ※おすすめの本

 シェイクスピアの原文を読みたい、でもOEDは高くて買えない、という方に。C. T. Onions“A Shakespeare Glossary", Oxford University Pressがおすすめ。いわゆるシェイクスピア英語辞典なのですが、ペーパーバックで安いし、take、makeと言った簡単な言葉がいかに現代と違った意味で使われているかが非常に分かりやすい。その言葉の使われている作品の例文の引用もあるのが便利。私もシェイクスピアの原文にあたるときにはしょっちゅう参照しています。 

A Shakespeare Glossary

A Shakespeare Glossary

 

 

*1:https://www.bauddha.net/joyce_dubliners_encounter/index.html

*2:ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳、新潮文庫、2009年、p.38

*3:ジョイス『ダブリン市民』安藤一郎訳、新潮文庫、1953年、p.28

*4:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9

*5:https://strongreasons.wordpress.com/2011/12/31/the-weeping-god/

*6:https://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Moseshttps://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/pgp/moses/7?lang=jpn

*7:"Speaking of Dialect": Translating Charles W. Chesnutt's Conjure Tales Into Postmodern Systems of Signification、Erik Redling Königshausen & Neumann, 2006、pp. 55-56

*8:http://m.joyceproject.com/notes/030065gondoliers.htmlhttps://en.wikisource.org/wiki/Songs_of_a_Savoyard/The_Highly_Respectable_Gondolier

*9:http://m.joyceproject.com/notes/030065gondoliers.htmlhttps://en.wikipedia.org/wiki/The_Gondoliers

*10:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Subversion

*11:http://m.joyceproject.com/notes/030065gondoliers.html

*12:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Jesus_wept

*13:https://biblehub.com/commentaries/john/11-35.htm

*14:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Doorbell

*15:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Doorbell

*16:http://m.joyceproject.com/notes/030016coignofvantage.html

*17:Shakespeare“Macbeth(AmazonClassicsEdition)  (English Version)", AmazonClassics, 2017

*18:シェイクスピアマクベス新潮文庫福田恆存訳、1969年、位置No. 295-305 ※AmazonKindle版を参照していますが、ページ数ではなく位置ナンバーしか表示されていないため、該当位置ナンバーをそのまま記載しています

*19:https://web.archive.org/web/20040928080045/http:/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/macbeth/macbeth-1-6.html

*20:シェイクスピアマクベス新潮文庫福田恆存訳、1969年、位置No. 264-270

*21:https://web.archive.org/web/20040928080045/http:/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/macbeth/macbeth-1-6.html

*22:http://m.joyceproject.com/notes/030016coignofvantage.html

*23:http://m.joyceproject.com/notes/030113richiegoulding.html

*24:http://m.joyceproject.com/notes/030113richiegoulding.html

*25:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B

*26:

シェイクスピアリア王安西徹雄訳、光文社、2006年

*27:https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E7%97%85-125927

*28:http://m.joyceproject.com/notes/030102viditdeus.html

*29:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8B%E3%82%8C%E6%9C%A8

*30:http://m.joyceproject.com/notes/030066requiescat.html

*31:Matthew Arnold - Wikipedia

*32:http://m.joyceproject.com/notes/010022hellenise.html

*33:https://poets.org/poem/requiescat-1

*34:http://www.gutenberg.org/files/27739/27739-h/27739-h.htm#Page_21

*35:https://forum.wordreference.com/threads/love-lump.2732259/

*36:http://www.twmu.ac.jp/IOR/diagnosis/gout/about-gout.htmlhttps://kotobank.jp/word/%E7%97%9B%E9%A2%A8-98992

*37:ジョイス『ダブリン市民』安藤一郎訳、新潮社、昭和28年、p.88

*38:http://m.joyceproject.com/notes/030063lithiawater.html

*39:https://www.lowdoselithium.com/history

*40:https://www.irishtimes.com/news/the-words-we-use-1.42975

*41:https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%A7%98%E5%BC%8F-325572

*42:http://m.joyceproject.com/notes/030094chippendale.html

*43:http://m.joyceproject.com/notes/030094chippendale.html

*44:http://www.theantiquesalmanac.com/chippendalefurniture.htm

*45:http://www.theantiquesalmanac.com/chippendalefurniture.htm

*46:http://www.theantiquesalmanac.com/chippendalefurniture.htm

*47:http://www.theantiquesalmanac.com/chippendalefurniture.htm

*48:https://www.loveantiques.com/items/listings/set-of-8-irish-chippendale-style-dining-chairs-LA60893

*49:https://www.loveantiques.com/items/listings/set-of-8-irish-chippendale-style-dining-chairs-LA60893

*50:https://www.loveantiques.com/items/listings/set-of-8-irish-chippendale-style-dining-chairs-LA60893

*51:https://www.loveantiques.com/items/listings/set-of-8-irish-chippendale-style-dining-chairs-LA60893

*52:https://forum.wordreference.com/threads/law-dee-daw-lawdeedaw.1912126/

*53:http://m.joyceproject.com/notes/030056allerta.html

*54:https://en.wikipedia.org/wiki/Il_trovatore

*55:http://m.joyceproject.com/notes/030056allerta.html

*56:https://en.wikipedia.org/wiki/Il_trovatore

*57:http://m.joyceproject.com/notes/030047marshlibrary.html

*58:http://m.joyceproject.com/notes/030047marshlibrary.html

*59:http://m.joyceproject.com/notes/030048joachim.html

*60:イェイツ『世界幻想文学大系 第二十四巻 神秘の薔薇』井村君江、大久保直幹訳、国書刊行会、1980、p.225

*61:イェイツ、前掲書、p.224

*62:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9

*63:http://m.joyceproject.com/notes/030047marshlibrary.html

*64:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%A0%AD

*65:https://en.wikipedia.org/wiki/Ladon_(mythology)http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0032%3Acard%3D460

*66:https://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Swift#cite_ref-38

*67:以上のまとめはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98より。

*68:https://en.wikipedia.org/wiki/Jonathan_Swift#cite_ref-38

*69:https://ameblo.jp/gchark/entry-10052366133.html

*70:https://www.minnano-jouba.com/blog/knowledge/%E7%99%BD%E3%81%84%E6%B1%97.html

*71:https://www.minnano-jouba.com/blog/knowledge/%E7%99%BD%E3%81%84%E6%B1%97.html

*72:https://www.joeaday.com/action-man-mcdonalds-2001/

*73:https://www.joeaday.com/action-man-mcdonalds-2001/

*74:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%88%B6

*75:http://m.joyceproject.com/notes/030122equinefaces.html

*76:https://en.wikipedia.org/wiki/Joachim_of_Fiore

*77:https://en.wikipedia.org/wiki/Joachim_of_Fiore

*78:ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳、新潮社、平成6年、p. 300

*79:ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳、新潮社、平成6年、p.245

*80:http://m.joyceproject.com/notes/030122equinefaces.html

*81:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%8F%B8%E6%95%99%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80#cite_ref-10

*82:http://m.joyceproject.com/notes/030048joachim.html

*83:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E9%A0%90%E8%A8%80

*84:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E9%A0%90%E8%A8%80

*85:ここまでのエリシアについての記述は、次のサイトを参照。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3#:~:text=%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%EF%BC%88%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E%EF%BC%9A%D7%90%D6%B1%D7%9C%D6%B4%D7%99%D7%A9%D6%B8%D7%81%D7%A2%EF%BC%89,%E3%81%8C%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

*86:http://m.joyceproject.com/notes/030101calve.html

*87:https://en.wikipedia.org/wiki/Ladon_(mythology)

*88:この『天文詩』については、ルネサンス期にはヒュギーノスの著と考えられていたが、黄道の北に位置する星座のリストのほとんどが、プトレマイオスの『天文学』と同じ順番であることから、後世の別のヒュギーノスあるいはヒュギーノスを騙る者の著ではないかという疑義があるらしい。https://en.wikipedia.org/wiki/De_Astronomica参照。

*89:http://www.kotenmon.com/hyginus/hyginus.htmhttp://www.kotenmon.com/hyginus/dragon.htm

*90:http://www.kotenmon.com/hyginus/dragon.htm

*91:http://www.kotenmon.com/hyginus/dragon.htm

*92:https://play.google.com/store/books/details?id=hqxoAAAAcAAJ&rdid=book-hqxoAAAAcAAJ&rdot=1https://en.wikipedia.org/wiki/Fabius_Planciades_Fulgentius#Mythologieshttps://en.wikipedia.org/wiki/Lactantius_Placidushttps://www.amazon.com/Mythographi-Latini-Thomas-Muncker-Leather/dp/B07QYNFS92

*93:“Mythographi Latini: C. Jul. Hyginus ; Fab. Planciades Fulgentius ; Lactantius Placidus ; Albricus Philosophus, Volume 1”、Gaius Iulius Hyginus、Fabius Planciades Fulgentius、1681年、Someren、p.470 (電子書籍版でのページ数)

*94:https://en.wikipedia.org/wiki/Orsini_family

*95:https://en.wikipedia.org/wiki/Orsini_family

*96:https://www.bl.uk/catalogues/illuminatedmanuscripts/ILLUMIN.ASP?Size=mid&IllID=51679

*97:https://www.bl.uk/catalogues/illuminatedmanuscripts/ILLUMIN.ASP?Size=mid&IllID=51679

*98:https://seiza.imagestyle.biz/haru/oogumamain.shtml

*99:https://seiza.imagestyle.biz/haru/oogumamain.shtml

*100:https://tropter.com/en/germany/munich/st-michaels-church?gid=1&pid=143906

*101:https://en.wikipedia.org/wiki/Solemn_Mass

*102:https://en.wikipedia.org/wiki/Solemn_Mass

*103:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A9

*104:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%83%AB#:~:text=%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%83%AB%EF%BC%88%E8%8B%B1%3A%20gargoyle%EF%BC%89%E3%81%AF,%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%BD%AB%E5%88%BB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

*105:https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3-658316

*106:https://www.newadvent.org/cathen/01354a.htm

*107:https://biblehub.com/kjv/psalms/118.htm

*108:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8F%E3%83%AA

*109:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88

*110:https://biblehub.com/kjv/matthew/19.htm

*111:https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/101996088、次の記事も参照。http://www.religioustolerance.org/rcccast.htm

*112:http://m.joyceproject.com/notes/030019kidneysofwheat.html

*113:http://alohaloco.com/category/products/dringdring-products/など。

*114:https://en.bab.la/dictionary/french-english/dring-dring

*115:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BD%93

*116:https://tokyo.catholic.jp/catholic/mass/

*117:http://osaka.liturgy.jp/?proc=japaneseslashqaslashqa1slashqa1_001

*118:https://en.wikipedia.org/wiki/Pyx

*119:https://en.wikipedia.org/wiki/Pyx

*120:https://www.amazon.com/Christian-Brands-Celtic-Cross-PYX/dp/B07NLLCVM2

*121:https://www.amazon.com/Christian-Brands-Celtic-Cross-PYX/dp/B07NLLCVM2

*122:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Lady_chapel

*123:オッカムについての説明はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0

https://en.wikipedia.org/wiki/William_of_Ockhamより。

*124:https://en.wikipedia.org/wiki/Occam%27s_razor#Religion

*125:http://m.joyceproject.com/notes/030044danoccam.html

*126:http://m.joyceproject.com/notes/030044danoccam.html

*127:https://kotobank.jp/word/%E7%BF%BC%E5%BB%8A-145998#:~:text=%E7%BF%BC%E5%BB%8A%EF%BC%88%E8%AA%AD%E3%81%BF%EF%BC%89%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8D%E3%81%86%EF%BC%88%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E8%A8%98%EF%BC%89transept&text=%E8%A2%96%E5%BB%8A%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%80%82

*128:二重母音についてはこちらのサイトが詳しい。https://ipa-mania.com/diphthong/#:~:text=%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%BD%95%3F-,%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%80%8Cai%E3%80%8D%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE,%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%80%8D%E3%81%A8%E9%81%95%E3%81%86%E3%82%88!&text=%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%9F%B3%E3%82%92%E5%8B%89%E5%BC%B7,%E3%82%8B%E6%AF%8D%E9%9F%B3%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

*129:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%9F%B3%E5%A5%8F%E6%B3%95#:~:text=%E9%87%8D%E9%9F%B3%E5%A5%8F%E6%B3%95%EF%BC%88%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E6%BC%94%E5%A5%8F%E6%8A%80%E6%B3%95%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82