Ball'n'Chain

雑記

追跡・逃亡とディフォーメーション――第15挿話冒頭部分を考える

www.stephens-workshop.com

 

「人生の道の半ばで/正道を踏みはずした私が/目をさました時は暗い森の中にいた。/その苛烈で荒涼とした峻厳な森が/いかなるものであったか、口にするのも辛い。/思い返しただけでもぞっとする。/その苦しさにもう死なんばかりであった。/しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、/そこで目撃した二、三の事をまず話そうと思う。」

 上の引用はダンテの『神曲 地獄篇』の冒頭であるが、ユリシーズ第15挿話はこの文章をもとに書かれたのではないかと思われるほど、この二つの間には類似した印象を受ける。この挿話が「地獄」なのであれば、挿話冒頭は地獄の入り口だ。そこに描かれているのは、娼家や不法に営業している酒場のひしめく界隈に集う、最下層の貧しい人々、職業も身元もわからない人々、娼婦たち、子供たち(身寄りのない浮浪児だろうか?)であり、そういった人々のなかをスティーヴンとリンチは歩き、娼家へ向かい、それをブルームが追いかける。
 恐らく、ただでさえ貧しい国であったアイルランドのなかでも、特に貧しい人たちが集う界隈に、ここで描かれているような人々は実際にいたのだろうと推測される。しかし、ジョイスはここでも他挿話と同様、ただ当時の現実を書いているのではないのではないだろうか、と思われる。それは一つには、この挿話を読んでいく中で、実験的記述が散見され、アレンジャーの存在を感じずにはいられなかったというのと、また、鼎訳のあらすじにもあるように、この挿話はスティーヴンやブルームが実際に体験しているであろう現実と、どう考えても現実ではない何かしらの幻覚が錯綜する形で構成されているからだ。なぜジョイスはこの場面をこのような形で描いたのか、私にはわからないのだが、この挿話は単に現実と幻覚を織り交ぜて描いているだけとも言えないのではないか、と思った。
 今回は挿話冒頭の50ページほどしか精読できていないので、私の考えが挿話全体に適用できるとは言えないだろうが、この「地獄の入り口」を読んで気づいた点・考えたことを、ページ順にコメントしたのちに、冒頭部分の考察をまとめてみたい。

※この挿話冒頭部分には(他の挿話でもそうですが)身体的・精神的障害・疾病や欠損のある人々が多数描かれており、原文・訳文の中でも現代では差別表現となる言葉が含まれています。この記事では約100年前に書かれた作品の、アイルランドの人々、作者であるジョイスの表現、鼎訳の訳者の訳業を尊重した上で、そのような表現や言葉がこの挿話においていかなる意味を持つかについて考えたいという私の意思から、あえてそういった言葉や表現を避けたり改変したりする事は致しませんでした。私自身にそういった方々への差別意識があるわけではないことを何卒ご理解頂きたく存じます。

※柳瀬訳ユリシーズは「U-Ý ページ数」、ガブラー版ユリシーズは「U(挿話番号)(行番号)」、鼎訳についてはページ数のみでの記載です。注の必要な部分については後日追記いたします。

 

105「停止したラバイオッティのアイスクリーム売りゴンドラ屋台を囲んで、小さな男や女たちが騒がしく言い合う」(Round Rabaiotti’s halted ice gondola stunted men and  women squabble)
Stuntedは「発育を阻害された」の意。105~106だけでcobble, goggle, dribble, gobble, gurgle squabbleという単語群に視覚的・音声的類似が見られる。

105‐106「ぎょろ目で聾唖の阿呆がゆがんだ口からよだれを垂らし、舞踏病の体をぶるぶる震わせ、引きつった足で通り過ぎる。子供たちが手をつないで取り囲む」(A deafmute idiot with goggle eyes, his shapeless mouth dribbling, jerks past, shaken in Saint Vitus’ dance. A chain of children’s hands imprisons him)
→Deafmuteは第11挿話の調律師の盲人、難聴のパットを思い起こさせる。

107「阿呆はぎくしゃくと歩きつづける。小人の女が柵のあいだに張った綱の上で体をゆすり、数をかぞえる。ごみ箱に覆いかぶさった人影が、腕と帽子で顔を隠し、いびきをかき、うめき声をあげ、唸りながら歯ぎしりをして、またいびきをかく。階段の上ではしなびた爺いが屑の山からましなものを選り分け、身をかがめてぼろ布と骨の袋を担ごうとする。老婆が煤っぽい石油ランプを手にしてそばに立ち、最後の瓶を袋に押し込む。爺いは獲物を担ぎ上げ、庇つきの帽子をはすに引きおろし、何も言わずに足を引きずって去る」(He jerks on. A pigmy woman swings on a rope slung between two railings, counting. A form sprawled against a dustbin and muffled by its arm and hat snores, grinding growling teeth, and snores again. On a step a gnome totting among a rubbishtip crouches to shoulder a sack of rags and bones. A crone standing by with a smoky oillamp rams her last bottle in the maw of his sack. He heaves his booty, tugs askew his peaked cap and hobbles off mutely)
→Pigmyは「小人、無能な人」の意。Asquatはこれまでの挿話に頻出した「やぶにらみの」(asquint)という言葉を想起させ、Mutelyは先に出てきたdeafmuteへと戻る。

107「紙の羽根を持って戸口にしゃがんでいた鰐足の子供が、横ざまにぎくしゃくとにじり歩いて老婆を追い、スカートにしがみつき、よじ登る。酔っ払いの土方がぐらりとよろけ、両手で半地下エリアの柵をつかむ」(A bandy child, asquat on the doorstep with a paper shuttlecock, crawls sidling after her in spurts, clutches her skirt, scrambles up. A drunken navvy grips with both hands the railings of an area lurching heavily)
→Bandyは「脚が湾曲した」の意でU-Y p.225でブルームが「偏平足のがに股歩き」を子供たちに真似されていることを笑われていることを思い起こさせる。Paperは後に出てくるpaper lanternへ、railingsは後に出てくるrail(レール、軌道、鉄道)へつながり、sidlingは頻出するsideという単語に類似している。Area(地下勝手口、地下の台所前の舗装した空き地、商人などの出入り口)は第4挿話に出てくるブルームの家の台所、第10挿話で白い腕が硬貨を投げる場所を想起させる。

107-108「人影がさまよい歩き、身をひそめ、立て込んだ小路からあたりをうかがう。部屋のなかでは、瓶の口に押し込んだ蠟燭の光のそばで、娼婦が瘰癧病みの子供のもつれた髪をとかしている。まだ若いシシー・キャフリーの甲高い歌声が路地裏から聞える」(Figures wander, lurk, peer from warrens. In a room lit by a candle stuck in a bottleneck a slut combs out the tatts from the hair of a scrofulous child. Cissy Caffrey’s voice, still young, sings shrill from a lane)
→Wanderは第10挿話のテーマ、シシー・キャフリーは第13挿話でガーティとともに海辺での憩いを楽しんでいた人物だが、ここでは恐らく一人の娼婦に変わっている。シシーの歌の中の「鴨の足」(The leg of the duck)は後にブルームの買う豚足と羊の脚肉へとつながる。

111「客引き女/(二人の後ろ姿に毒を込めた唾を吐きかける。)トリニティの医学生めらが。ラッパ管だとて」(The Bawd / (spits in their trail her jet of venom) Trinity medicals. Fallopian tube)
→唾を吐く行為は第10挿話のコーニー・ケラハーを想起させ、ここでもJetという言葉が使われている(U-Y p.381, U.10 221)。「ラッパ管」という言葉は卵巣から出た卵を子宮まで運ぶ輸卵管、または中耳から咽頭につながる耳管を指すこともある。この言葉は後の蓄音機のラッパ部分へとつながる。第11挿話には、「金管は上向き鼻管でいななくロバ」(U-Y p.412)という記述もある。

115「トミー・キャフリーがガス灯ににじり寄り、しがみつき、遮二無二よじ登る。彼はてっぺんの支柱から滑り降りる。ジャッキー・キャフリーがよじ登ろうとしてしがみつく。土方がよろりと街灯にもたれる。双子は闇の中に逃げ去る。土方はふらつき、人差指を小鼻にあてがい、もう一方の鼻の穴から長い水っぱなをほとばしらせる。彼は街灯を肩でぐいと押すと、焔を吹く火壺を手に、人ごみをすり抜けてよろりと去る」(Tommy Caffrey scrambles to a gaslamp and, clasping, climbs in spasms. From the top spur he slides down. Jacky Caffrey clasps to climb. The navvy lurches against the lamp. The twins scuttle off in the dark. The navvy, swaying, presses a forefinger against a wing of his nose and ejects from the farther nostril a long liquid jet of snot. Shouldering the lamp he staggers away through the crowd with his flaring cresset)
→Scrambleには「はい回る、這い進む、這い上る、奪い合う」という意味があり、トミーとジャッキーは第13挿話でボールを奪い合っている。ここでも客引き女と同じように、手鼻で出した鼻水がjetと記述されている。

115「川霧が蛇の群のようにゆっくり忍び寄る。下水溝や、割目や、汚水溝や、塵芥の山からよどんだ臭気が立ち昇り、あたりにひろがる。南側、河口近くの向う岸で真っ赤な明りが躍り跳ねる。土方はよろめきながら人ごみをかき分け、ふらつく足で電車の側線のほうへ歩く」(Snakes of river fog creep slowly. From drains, clefts, cesspools, middens arise on all sides stagnant fumes. A glow leaps in the south beyond the seaward reaches of the river. The navvy, staggering forward, creaves the crowd and lurches towards the tramsiding)
→Cleft(割目)はcleave(かき分ける)の過去形・過去分詞形。使われている意味は違うが、元の単語は同じ。Tramsidingは既出。

117-118「(彼は用心深く呼吸をととのえ、ランプの光に照らし出された側線のほうへゆっくり歩く。真っ赤な明りがまた躍り跳ねる。)/ブルーム/あれはなんだろう? 点滅灯かな? サーチライトか。/(彼はコーマックの酒屋の角に立ち止ってみつめる。)/ブルーム/《北極光》か、ベガーズ・ブッシュあたりか。こっちは大丈夫。(浮れて鼻歌を口ずさむ。)ロンドンが燃える、ロンドンが燃える! 火事だよ、火事だ!(トールボット通りの向う側を、土方が人ごみを縫って、よろりと歩いて行くのを見かける。)見失うぞ。走れ。早く。ここを渡るほうがいい」((He takes breath with care and goes forward slowly towards the lampset siding. The glow leaps again.)/ Bloom/ What is that? A flasher? Search light. / (He stands at Cormack’s corner, watching.) Aurora borealis or a steel foundry? Ah, the brigade, of course. South aside anyhow. Big blaze. Might be his house. Beggar’s bush. We’re safe. (he hums cheerfully) London’s burning! On fire, on fire! (he catches sight of the navvy lurching through the crowd at the farther side of Talbot street) I’ll miss him. Run. Quick. Better cross here)
→Blazeは「炎、火炎、火事、地獄」の意で、Blazes Boylan(ボイラン)を想起させ、
Talbot Streetは第2挿話のトールボット(スティーヴンの教えている子供の一人)を思い出させる。(U-Y p.51)

119「立ちこめていく霧のなかを徐行していた大型砂撒き電車が、ぐいと向きを変えて、のしかかるように迫ってくる。巨大な赤いヘッドライトがぴかぴかまたたき、トロリーと架線がこすれ合ってしゅうしゅう鳴る」(Through rising fog a dragon sandstrewer, travelling at caution, slews heavily down upon him, its huge red headlight winking, its trolley hissing on the wire
→前出の真っ赤な明りと火事(glow, blaze)が巨大な赤いヘッドライトと重なる。Dragonは「徐行していた」と訳されているが(drag onで「のろのろ進む」の意)、そのまま読めば竜。架線とトロリーのこすれ合うhissingは蛇などがシューという音を立てる意味を持つ。

119「運転手は誘導輪の上につんのめり、ひしゃげた鼻を突き出し」(The motorman, thrown forward, pugnosed, on the guidewheel)
→ひしゃげた鼻(pugnosed)は第5挿話でブルームが女性を眺めているのを遮った電車の運転手(U-Y p.132  U.5 132)の「獅子っ鼻」と同じpugnose。

120-121「きっと密殺した牛なんだ。獣のしるし」(Probably lost cattle. Mark of the beast
→ギフォード注によると、密殺された牛(lost cattle)は不法に畜殺された牛、または牛肉の代替とされた馬の肉を意味するらしい。第14挿話での牛の様々な表象を想起させる。鼎訳注によれば、Mark of the beastは反キリストの獣の徽章。「ヨハネ黙示録」13.16‐17を踏まえている。この烙印を押されたものは天国へ行けない。

127「提灯袖のブラウス」(muttonleg sleeves)
 →ブルームは豚足と羊の脚肉を買っている

133「中年過ぎの客引き女が袖をつかむ。女の顎のほくろの剛毛がきらきら光る。/客引き女/初物が十シリングだよ。ぴちぴちの生娘がさ、まだ手つかずなんだよ。年は十五、へべれけ親父のほかには身寄りもないのがさ。(彼女は指さす。暗いねぐらの隙間に、雨に濡れたブライディ・ケリーがひっそりと立っている。)/ブライディ/ハッチ通りよ。お目あてがあるの?(一声きいっと叫ぶと、蝙蝠ショールをはばたかせて駈け去る。頑丈な体つきのならず者がブーツの足で大股に追いかける。彼は階段にけつまずき、体を立て直し、闇のなかに飛び込む。弱い甲高い笑いが聞えて、さらに弱まる。)」(The elderly bawd seizes his sleeve, the bristles of her chinmole glittering. / The Bawd / Ten shillings a maidenhead. Fresh thing was never touched. Fifteen. There’s no-one in it only her old father that’s dead drunk. / (She points. In the gap of her dark den furtive, rainbedraggled Bridie Kelly stands.) / Bridie / Hatch street. Any good in your mind? (With a squeak she flaps her bat shawl and runs. A burly rough pursues with booted strides. He stumbles on the steps, recovers, plunges into gloom. Weak squeaks of laughter are heard, weaker)
→Gapは前出の「割目」でもある。蝙蝠は第13挿話で教会から飛び立った蝙蝠、また第3挿話のスティーヴンの思索のなかに現れる、吸血蝙蝠をも想起させる。(U-Y p.90)

138-139「二人はさっと仮面を取って童顔の素面を見せる。それから、くすくす、けらけら笑い、弦をぼろんぼろんとはじき、腰をゆすってケークウォーク・ダンスを踊りながら、ひょいひょいと消える」(They whisk black masks from raw babby faces. Then, chuckling, chortling, trumming, twanging, they diddle diddle cakewalk dance away)
→Chuckleとchortle、trumとtwangに若干の視覚的・音声的類似があり、diddleは繰り返されると同時にそのあとにdanceという単語が現れる。Trumは前出のtramとも重なる。

141「アイルランドの国のため、家庭と美女を守るため」(I give you Ireland, home and beauty)
→鼎訳注にあるように第10挿話で一本足の水兵が通りで歌う歌をもじっている。第10挿話では、アイルランドのためではなく「イングランドのためなれば」と歌われている(U-Y p.382)

141「じつをいうとね、ぼくは、いま、誰かさんのどこかが少しはティーポットなんじゃないかと、知りたくって、知りたくって、ティーポットなんですよ」(I confess I’m teapot with curiosity to find out whether some person’s something is a little teapot at present)
→鼎訳注にあるように、「ティーポット」の箇所に何かの言葉を補うゲームだが、補うというより言葉を隠していると言えると思う。正解はburningだが、第4挿話のモリーの台詞「ティーポットは熱くしてね」から推測できる(U-Y p.112)。burningという言葉により、前出の火事へと意識が戻る。

143「デニス・ブリーンが白いシルクハットをかぶり、ウィズダム・ヒーリーのサンドウィッチマン用広告板をぶら下げ、さえない口ひげを突き出し、右や左にぶつぶつつぶやきながら、室内履きを引きずって二人の前を通り過ぎる。ちびのアルフ・バーガンがスペードのエースの柩覆いにくるまり、体を二つに折って笑いころげながら左や右にあとをつける」(Denis Breen, whitetallhatted, with Wisdom Hely’s sandwich-boards, shuffles past themin carpet slippers, his dull beard thrust out, muttering to right and left. Little Alf Bergan, cloaked in the pall of the ace of spades, dogs him to left and right, doubled in laughter)
サンドウィッチマンについては第8挿話に記載されている(U-Y p.267)。アルフ・バーガンは第12挿話に登場する人物。デニスが右や左に向かってつぶやくのに対し、アルフは「左や右に」彼のあとをつけている。

144-145「三つの婦人帽をピンで頭に留めたリチー・グールディングがコリス・アンド・ウォード弁護士事務所の黒い訴訟用鞄をぶら下げ、重みのため体を片側にかしげて現れる。鞄には消石灰水で書いた髑髏印。彼が鞄をあけると、なかは燻製ポークソーセージや、燻製鰊や、燻製鱈や、びっしり詰め込んだ錠剤などがいっぱい」(Richie Goulding, three ladies’ hats pinned on his head, appears weighted to one side by the black legal bag of Collis and Ward on which a skull and crossbones are painted in white lime wash. He opens it and shows it full of polonies, kippered herrings, Findon haddies and tightpacked pills)
→リッチーの鞄に詰め込まれている食べ物はすべて燻製(smoked)されている。鞄に髑髏印が書かれているということは、これらが危険物か、死をもたらすものであるということか。びっしり詰め込まれた錠剤は第3挿話のスティーヴンの思索のなかに出てくる腰痛の丸薬(U-Y p.77)を思い起こさせる。

146「リチー/ちくしょうめ。おれま、だ食った、ことない。/(彼は頭を垂れてかたくなに歩きつづける。ふらりと通りかかった土方が焔を吹く枝角の先で彼をつつく。)/リチー
/(苦痛の叫びをあげて、尻に手を当てる。)あちち! ブライト病だ! 明りだ!」(Richie / Goodgod. Inev erate inall… (With hanging head he marches doggedly forward. The navvy, lurching by, gores him with his flaming pronghorn.) / Richie / (with a cry of pain, his hand to his back) Ah! Brights! Lights!)
→Goodgod. Inev erate inallは第11挿話の冒頭部分の記述に対応するが、第11挿話ではGoodgod henev erheard inallとなっており、微妙に異なっている。土方の持つpronghorn(枝角)は鹿の枝のように分れた枝先の先端のすべてに炎が燃えている印象を与え、大変危険なもののように思える。リッチーの最後の台詞「ブライト病だ! 明りだ!」は「まぶしい! 明りだ」とも解釈でき、リッチーが光を恐れているようにもとれる。リッチーの持っている鞄も含めて、ここでのリッチーには悪魔的に思える。また、尻を枝角で突かれたリッチーの姿は、第12挿話で煙突掃除夫の箒の柄で目を刺されそうになった「俺」を想起させる。

151「(彼はくんくん鼻を鳴らす犬につきまとわれながら、地獄門のほうへ歩く。アーチの入り口で、女が立ったまま前にかがみ、両足をひろげ、牝牛のように小便をする。鎧戸をおろした酒場の前に浮浪者が集まり、ひしゃげっ鼻の親方が粗野なユーモアをまじえながらだみ声でしゃべる声に聞き入る。そのなかの腕のない二人が、ふざけ半分に、不様でおろかしい喧嘩をはじめ、取っ組み合い、うなり合い、どたばた跳ねる。)/親方/(しゃがんで、鼻からねじれ声を出す。)そんでケアンズがビーヴァー通りの足場から降りて来てやらかしちまったのが、なんとなんと、ダーワンとこの左官職人らが飲むってんでそばの鉋屑の上に置いてたポーターの桶んなかよ。/浮浪者たち/(兎唇の口で馬鹿笑いをする。)いやあ、まったくなあ!/(ペンキのしみに汚れた彼らの帽子が揺れる。小屋の膠糊や石灰の跳ねをくっつけたまま、腕のないみんなが親方のまわりを跳ねまわる。)」(Followed by the whining dog he walks on towards hellsgates. In an archway a standing woman, bent forward, her feet apart, pisses cowily. Outside a shuttered pub a bunch of loiterers listen to a tale which their broken snouted gaffer rasps out with raucous humour. An armless pair of them flop wrestling, growling, in maimed sodden playfight.) / The gaffer / (crouches, his voice twisted in his snout) And when Cairns came down from the scaffolding in Beaver street what was he after doing it into only into the bucket of porter that was there waiting on the shavings for Derwan’s plasterers. / The Loiterers / (guffaw with cleft palates) O jays! / (Their paintspeckled had wag. Spattered with size and lime of their lodges they frisk limblessly about him)
→うなりながら互いを傷つけることのない、ふざけ半分の喧嘩(playfight)をする二人はmaimed(不具)であり、sodden(びしょぬれ、酔っ払い)でもある。そのほか、バケツに小便をするケアンズ、鼻から声をひねり出す、鼻のつぶれた親方、ジョークで笑って帽子を揺らす(wag)ペンキの斑点のついた人々、小屋の膠糊や消石灰をまき散らされたまま、四肢のどこかに欠損のある状態で(limblessly)親方の周りを跳ね回る浮浪者たち(loiterers)はみな、汚れて体に傷を負った犬のような印象を与える。

153「窓のカーテンの膨らみから、蓄音器のでこぼこ傷だらけの真鍮ラッパが突き出ている」(From a bulge of window curtains a gramophone rears a battered brazen trunk)
→蓄音器のラッパは前出の「ラッパ管」を、brazenという単語はblaze(火事・ボイラン)を思い出させる。

156「ブルーム/これじゃ雲をつかむようなもんだ。曖昧宿が並んでいるし。あの二人がどこへはいったかわかりゃしない。酔っ払いの足はしらふの倍は速いからな。結構なごたごたに巻き込まれたよ。ウェストランド通り駅でひと騒動。それから三等切符で一等車に飛び乗る。おつぎは乗り越し。機関車が後ろについている汽車だ。へたするとマラハイドまで連れて行かれたな。さもなけりゃ待避線で夜を明すか、衝突事故にでも。二軒目の酒のせい。一軒でやめときゃ薬になるけど。おれはなぜ彼のあとをつける? でもな、やつらのなかではあれが一番ましなんだ。もしミセス・ボーフォイ・ピュアフォイのことを聞かなかったら、あそこに行きもしなかったし会いもしなかったろう。キスメットだよ。宿命ってやつ」(Bloom / Wildgoose chase this. Disorderly houses. Lord knows where they are gone. Drunks cover distance double quick. Nice mixup. Scene at Westland row. Then jump in first class with third ticket. Then too far. Train with engine behind. Might have taken me to Malahide or a siding for the night or collision. Second drink does it. Once is a dose. What am I following him for? Still, he’s the best of that lot, If I hadn’t heard about Mrs Beaufoy Purefoy I wouldn’t have gone and wouldn’t have met. Kismet)
→「雲をつかむようなもん」と訳されているが、wildgooseは「灰いろ雁」(U-Y p.80)。マラハイド(Malahide)のなかにhideが隠れている。ボーフォイ(Beaufoy)という言葉を頻繁に思い出すのは、Beau(しゃれ男、恋人、愛人)という言葉から無意識にあるボイランのことが口に出てしまうのではないだろうか。その他、disorderly-mixup、First-third-second、does it-doing it(前出のケアンズの小便)-dose、lot(連中、運命)-Kismet-metといった言葉のつながりが見られる。

 

まとめ:

 赤い炎、火事、竜、蛇、骨、割目、反キリストといった言葉の意味からは地獄の入口どころか、地獄そのものといった印象をうける。しかし、私が何より気になったのは、「健康・正常ではないように見える人々」「意図のわからない行動をとる人々」の描写の多さだ。記事冒頭でも述べたように、全体的な貧困のため、またいわゆる「いかがわしい」地区、不法営業をしている店のひしめく街に、そのような人々が多いだろう、ということは想像に難くない(健康で正常を自任している人々の社会から疎外され、行き場がないのだ)。単純に、ジョイスはこのような表現によって恐ろしい場面、恐ろしく見える場面を演出しようとしたのかもしれない。しかし、ユリシーズにはそもそもどこかしら体調に支障をきたしている人が多く描かれている。ブルームは腸の調子が悪く、スティーヴンは「歯牙無きキンチ」で(U-Y p.94)、ベン・ドラードは痛風もち、リッチーはブライト病だ。現代でも言えることだが、人がどのような身体的・精神的不調を抱えているかということは、本人の表現や発言によってしか知りようがなく、また、何をもって健康とするか、正常であるとするかということをそもそも他者が判断できるのか、判断してよいのか、という問題もある。意図のわからない行動についても同様で、例えばキャッシェル・ボイル・オコナー・フィッツモーリス・ティズダル・ファレル(ex. U-Y p.275)などは「おかしな人」として描かれているが、彼の行動にも彼なりの理由があるとジョイスは考えていたのではないか、と想像する。
 では、この挿話の冒頭部分において、これらのある意味「異常な人々」「異常な行動」が何を示そうとしているのか、と考えると、それは人々そのものではなく、それを描く言葉自体のディフォーメーション(変形・奇形)なのではないだろうか。微妙な差異を伴う反復のテーマ(言葉のre-visit)はすでに第11挿話に出てきているが、第11挿話のそれとは違い、ここではそのディフォーメーションによる差異が巧妙に隠されているように思われる。言葉が「変装」している(disguise)といってもいい。一つの言葉がかなり離れた場所で差異を伴って何度か出現しているが、それらの意味は必ずしも同じではなく、またそれぞれの意味がつながりを持っているのかどうかはよくわからない。水たまりに映った光がステッキに打たれて散らばるように、挿話全体、作品全体に一つの単語の意味、単語そのものの形が拡散しているのだ。
 そしてこの、意味を拡散する「変装した言葉たち」は互いに追い、追われる関係にあるのではないだろうか。一つの単語が姿かたちを変えて後に別の言葉として表現され(変装した「追われる言葉」)、またある言葉は先に現れていた同じ単語を何度も思い起こさせる(言葉による言葉の追跡)。もしかしたら、この変形・変装と追跡のテーマは、この挿話でブルームがスティーヴンたちを「追っている」ことがすでに私の頭に入っていることから導き出されたものかもしれない。しかし、実際に「追う」ブルームが様々に犬種を変える犬にあとをつけられていること、また幻覚的記述の中で、誰かの発言によりブルームや様々な人々が装いを変えていることを考えると、全くの恣意的な解釈ではないのではないだろうか、とも思う。それはまるで自分のしっぽを追ってぐるぐると回る犬の頭が、竜になり、蛇になり、電車になると同時に、しっぽのほうはスティーヴンになり、モリーになり、ブルームになり、ブライディ・ケリーへと変化していくようなものなのではないか、と私は考える。