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雑記

祖母から聞いた戦争の話

 昨日祖母から聞いた話を、忘れないうちに書き留めておく。自分の身近な人から戦争の話を聞くのは初めてだったからだ。

 私の祖母は1929年生まれで、今年92歳になる。母方の祖母だ。父方のほうはどちらもすでに他界している。祖父は私が中学三年生の時、60代で亡くなった。祖母は私が確か27、8歳の時亡くなった。祖父は鉄工所で働き、戦時中は海軍に所属していた、とだけ聞いたことがある。祖母については分からない。二人ともそういう話を全くしない人だった。母方のほうの祖父、私の母の父親にあたる人は、母が10歳の時に白血病で亡くなっているので、そういった話を聞きようがないのだが、営林署のようなところに勤めていたらしい。

 祖母は徐々に痴呆が進行しつつあり、幻聴を口にしたり、最近のことをすぐ忘れてしまったりするのだが、痴呆症の症状としてよく聞くように、大昔の記憶ははっきりしている。なぜ昨日突然祖母が戦時中の話をし始めたのかは分からない。ほんの少しだけのエピソードだが、聞いたままを残しておきたい。

 祖母は16歳の時に終戦を経験した。その終戦直前、神奈川で祖母の兄が働いており、学校に行きたいのならこちらへ来い、と言われた。行きたい気持ちはあったが、兄にいつ徴兵がかかるか分からない。それでも行こうと思った祖母は、青函連絡船と汽車を乗り継いで、何日もかけて神奈川までやってきたのだが、運の悪いことに予想があたり、辿り着いた時にはすでに兄は徴兵されてしまっていた。

 そこで空襲を経験する。爆撃機はサングラスをかけたパイロットが見えるほど低空飛行をしている。走って逃げる途中、祖母は驚きのあまりその爆撃機を、サングラスをかけたパイロットを立ち止って見てしまう。周りの人に危ないから早く逃げろと怒られ、神奈川の200人ほどが入れる防空壕に命からがら逃げ込んだ。

 戦争が終わり、他に身寄りもなく北海道へ帰ろうとした祖母は、いくつもの死体を踏んで東京の上野駅へ向かった。上野から北へ向かう汽車が動いていたことにまずびっくりした。汽車はとても入り口から入れないほどすし詰めだった。当時の車体は窓が大きかったので、周りの人に手伝ってもらって窓から汽車に乗り込んだ。負けた日本人は誰も暗い様子で立っているのだが、座っているのはみな中国人で、とても自信ありげにしていたと祖母は話す。そんな中でも親切な人がいて、唐辛子をくれるのだが、いくらお腹が空いていても、唐辛子などとてもそのままでは食べられない。でも中国人はみなおやつのように唐辛子を食べる。祖母はそれを見てとても驚いたと言う。

 何とか青森に着き、青函連絡船に乗るのだが、当時の青函連絡船は屋根などない、小型の舟のようなものだった。戦争が終わったのは事実だが、いつまた爆撃されるか分からない、その時のために手足に浮き袋のようなものをつけさせられたのが本当に怖かったと言う。浮き袋をつけていれば万一爆撃されて海に放り出されても、すぐに溺れることはないが、太平洋のほうに流されてしまったら終わりだ、と祖母は死を覚悟した。

 その後何日もかけて列車に乗り、祖母は何とか北海道の元の家に戻ることができた。そんな、間一髪で何とか生き残ることができたという経験を何度かしたと言う。

 これが昨日祖母から聞いた話だ。他にも、日本人が韓国人をいじめる、それを見て警察がやってくる。いじめていた日本人が逃げ、どこかの家の人に、追われているから匿ってくれ、と頼む。頼まれた人が追われている人を隠してやるのを見た、と話していた。これは戦時中のことなのか、戦後のことなのか分からない。ああいうふうに人をいじめるのはいけない、と祖母は言った。

 祖母は左手が少し上に曲がっている。勤労要員として縫製工場で働いていた時、裁断機で手首を深く切断してしまい、応急処置的にその場で縫われたのがそのままになっている。これは私が子供の頃、何も知らずに「なんでばあちゃんは手が曲がってるの?」と訊いた時に答えてくれたことだ。しかしこの事故もよく考えたら、もう少しでも深く切っていれば、すぐに縫って止血することができなければ、祖母は死んでいたかもしれない。幸い特に神経など後遺症は残らなかったのだろう。曲がってはいるが、指は正常に動くし、裁縫の得意な祖母はその後も趣味と実用を兼ねて服や巾着などの小物を作り続けた。今でも作りたい気持ちはあるけれど、目が悪くなったのでちょっと無理だな、戦争は絶対に、もう二度とやっちゃいけない、と祖母は言った。