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雑記

検分と放出するテキストーー第17挿話についての一考察

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――・この考察は絶対的に正しいものであるか、相対的に間違っているものであるか?

  ・絶対的に正しいと言えるのは、作品に書かれている文章そのものである。それをどう解釈するかは読み手によって異なるので、相対的に間違っている、との指摘を受けるのはやむを得ないことである。――

 

 ブルームとスティーヴンがココアを飲みながら対話を交わす、物語の最終部分であるこの挿話が、教理問答文体(カテキズム文体)で書かれていることを知って、「なぜ…」と思われた方も少なくないのではないだろうか。というのも私がそうで、せっかくやっとブルームとスティーヴンとが最終的にどのような関係性にいたるのかの局面にたどり着いたのだから、そこは普通に小説らしく書いてほしかった。その一方でこれまで散々苦労/楽しんできた文体パロディの連続が、ここで途切れるわけはないともうすうす感じていた。ここにきてジョイスがいわゆる「普通の小説の文体」を選ぶわけがないのだ。ではこの教理問答文体で描かれた第17挿話から、何を「発見」し、何を語れるだろうか? 

(※ページ数表記は集英社文庫版『ユリシーズ』第4巻のものです)

 

 前述したように、教理問答パロディ文体で書かれているこの挿話は、問いと答えによって話が進んでいく。ブルームが鍵を持っていないことに気づき、どのようにして家に入ったか、ブルームの話を聞いてスティーヴンがどのようなことを思い出したかなど、登場人物(最初はブルームとスティーヴン、最後のほうで猫やモリーが出てくる)の行動や意識・思索などのすべてが問答体で書かれている。これまでの挿話を追ってきた読者なら、頭のなかで「ブルームは今こんな風に話しかけているんじゃないかな」などとこの問答を脳内翻訳して理解し、楽しむことも可能だ。

 そもそも教理問答とは幼児や非キリスト者などがキリスト者になるため必要な教会儀式を受ける前に、キリスト教の教義を分かりやすく教えるための入門教育の意義を持つものである。つまり教義を説き、伝えるための問答であらかじめ答えは用意されている。答えられないような斜め上からの問いは出てこない。ここでの問いは答えありきの問いである*1

 実際の教理問答集をすべて読んだわけではないので正確な比較にはならないのだが、この挿話での答えは問われている以上のことを答えている印象がある。それは書く必要はないのでは、といった不必要な記述が答えの中に散見される。

 

例:「スティーヴンは彼の合図に応じたか?/応じた。彼は静かになかにはいりドアをしめ鎖をかけるのを手伝い、男の背中とスリッパをはいた足と点火した蠟燭のあとについて静かにホールを歩き、明りの洩れる左手のドアの前を通過し、五段以上の曲り階段を用心深くおりてブルーム家の台所にはいった」(p.138)

「水は出たか?/出た。ウィックロー州にある立方容積二十四億ガロンのラウンドロック貯水池からダーグル川、ラスダウン、ダウンズ峡谷、キャローヒルを経て、スティローガンにある二十六エーカーの貯水池までは、二十二法廷マイルの距離を距離一ヤードにつき五ポンドの契約敷設費で構築された単複線パイプラインの濾過装置本管による地下水道を通過し、そこから調節タンク・システムを経て、二百五十フィートの傾斜路を経由し上リーソン通りユースタス橋にて市の境界線に達するが、長びいた夏の旱魃と一日千二百五十万ガロンの給水のため水位が量水ダムの基底部以下に落ちていた。このため市監察官兼水道技官である土木技師ミスタ・スペンサー・ハーティは水道委員会の指示にもとづき(一八九三年のごとくグランドおよびロイヤル両運河の飲用不適の水に頼る可能性も考慮に入れて)市の水道を飲用以外の目的に使用することを禁止した。特に南ダブリン貧民保護委員会は、六インチの計量器を経て供給される定量が貧困者一日一人あたり十五ガロンとされているにもかかわらず、同市の法律顧問である事務弁護士ミスタ・イグネイシャス・ライス立会いのもとに計量器を調べて発見したところによると、一夜に二万ガロンを浪費し、それによって他の社会層、すなわち支払能力のある自立し健康な納税者層に損害をおよぼしていたのであるから」(p.141‐142)

「なぜ彼はそのような立ち番にそこまで辛抱づよく耐えることができたか?/なぜなら彼は青年時代中期にしばしば室内で腰かけたまま多彩色球面ガラスの丸窓ごしに絶え間なく変化する戸外の人通りを、歩行者たち、四足獣たち、自転車たち、乗物たちがゆっくり、急速に、等速度で、丸い垂直な球面の縁に沿ってぐるりぐるりと旋回するのを観察したから」(p.161)

「歌われたその物語詩」(p.181)の歌の楽譜

 

 答えの中に書く必要のないことまで書かれている、というのは、一つには前述したように話を先に進めるためというのが主要因だと思うのだが、例えば上の例にあげたブルームがなぜ立ち番に辛抱強く耐えることができたか、という問いに対し、「歩行者たち……旋回するのを」までは、問いの答えとしては不必要である(不必要なのだが、どこかで意味を持っているのだろうと思わせるような記述である)。逆に、問いに対する答えが本当に答えになっているのか、問いそのものが不明瞭かつ答えの意味が分からない部分も多くある。

 

例:「これらの相互に両立不可能な諸提案をブルームが実現困難と感じた理由は何か?/過去の恢復不可能性。かつてダブリン市ラットランド広場のロータンダにおけるアルバート/ヘングラーのサーカス興行に際して、一人の直観的な多彩色衣装の道化が父親を求めてリングから観客席へ侵入し、一人で坐っていたブルームのところへ来て、彼(ブルーム)が彼(その道化)のパパであると公言して公衆を哄笑させた」(p.194)

「スティーヴンはこの断念に同意したか?/彼は既知の世界から未知の世界へ三段論法的に前進する意識的理性的動物としての彼の意義、不確定性という空無の上に不可抗力的に構築された小宇宙と大宇宙のあいだにおける意識的理性的被験者としての彼の意義を強調した」(p.196)

「事実を考量し錯誤の可能性を考慮した上での彼の(ブルームの)論理的結論は?/それが天の樹でも天の穴でも天の獣でも天の人でもないこと。それは一つのユートピアであり、既知から未知にいたる既知の道はどこにも存在しない。それは一つの無限であり、そこには諸天体の蓋然的併置を仮定することによって有限と見なし得るが、天体の数は一個でも一個以上でも差し支えなく、大きさは同一でも不同でも差し支えない。それは可動性の錯覚的形態の一団であり、空間において不動性を得たものが空気中において再び可動性を帯びる。それは一つの過去であり、未来の観察者たちが現存在として実在しはじめる前にすでに一つの過去として存在しなくなるかもしれない」(p.203‐204)

「ただ独りで、ブルームは何を聞いたか?/天に生れた地球の上を遠く去り行く足音の二重の響きを、鳴りわたる小路にユダヤ人の琴の二重の震えを」(p.210)

「なぜ(他人との関係においては)変りやすいか?/幼児期から成熟期まで彼は母系の肉親に似ていた。成熟期から老衰期まで彼は次第に父系の肉親に似るであろう」(p.217)

「この失踪者はどんな時でもどんな場所にもどんな形でも再出現しないか?/彼は自分自身に強いられて彼の彗星的軌道の極限へと永遠に流浪するであろう。恒星たちを、変光する太陽たちを、望遠鏡的遊星たちを、天文学的浮浪者たち迷子たちを越えて、空間の極限の境界線へと、国から国へと、多くの民族や多くの出来事のなかを。どこかで彼はかすかに彼を呼び戻す声を聞き、太陽星に強いられて、心ならずもその声に従うであろう。そこで北の冠座から姿を消してカシオペイア座のデルタ星の上空に生れかわった形で再出現し、無限の世紀にわたる遍歴の果に異邦帰りの復讐者として、不正のやからの膺懲者として、黒髪の十字軍騎士として、目覚めた睡眠者として、ロスチャイルドや銀の王者のそれを(仮定において)凌駕する財力を持って帰還するであろう」(p.256‐257)

「いつまでも決着のつかないことを恐れて決着をつけるべく立ちあがろうとしたとき、ブルームはみずからに課したいかなる謎を無意識に感知したか?/歪み木目のテーブルの無感覚な木材が発した短い鋭い意外な高い寂しい音の原因」(p.259)

「旺盛な精力、肉体的均斉、商業的手腕のほかになぜ特に印象の強烈性が考察されたか?/なぜなら彼が近年ますます頻繁に観察しつつあるところによると、前述の連続項の先行者たちはみんな同一の色欲の炎を漸次旺盛に伝達し、相手の反応は最初に不安、次いで理解、やがて欲望、最後には疲労であるが、その過程で交互にあらわれる徴候は男女とも理解と懸念とであるから」(p.265)

 

 このような、問いと答えとのすべてが完全とは言えない対応関係や難解さがあると同時に、このテキストの大きな特徴として、科学(特に物理)的・数学的な記述が大量に現れる。登場人物の行動やその結果生じた事象は物理法則に基づいて説明され、ブルームとスティーヴンの年齢差は比率の観点からも語られる。

 

例:「水を入れた容器のなかでは火の作用によっていかなる付随現象が発生したか?/沸騰現象。台所から煙道へと絶えず上昇しつつある通風に煽られて、燃焼は、予燃燃料である薪束から、熱(輻射性)の根源である太陽に発し遍在的発光性透熱性エーテルを通して伝達されたエネルギーにより植物的生命を得た太古の原始林の葉状化石状脱落膜を凝縮した鉱物質形体のうちに含有している多面体瀝青炭の塊へと移って行った。その燃焼から発生する運動の一形態である熱(伝導性)は、不断にそして加速度的に熱源体から容器中の液体へと伝達され、凸凹のある不研磨黒色の鉄金属面が一部は反射、一部は吸収、一部は伝導して水温を常温から徐々に沸騰点まで高めたが、この温度上昇は水一ポンドを華氏五十度から二百十二度に加熱するに要する七十二熱量単位の消費の結果として表示される」(p.146)

「彼らの年齢のあいだにいかなる関係があるか?/十六年前の一八八八年にブルームが現在のスティーヴンの年齢であったときスティーヴンは六歳であった。十六年後の一九二〇年にスティーヴンが現在のブルームの年齢になるときブルームは五十四歳になる。一九三六年にブルームが七十歳スティーヴンが五十四歳になると最初は十六対〇であった彼らの年齢比率は一七か二分の一対十三か二分の一となり、将来任意の年数が加わるにつれてますます比率は大きく格差は小さくなるであろう。なぜなら一八八三年に存在した比率が不変のまま存続するという事態がもしあり得るとすれば、一九〇四年当時スティーヴンは二十二歳だからブルームは三百七十四歳、一九二〇年にスティーヴンが三十八歳つまり当時のブルームの年齢に達するときブルームは六百四十六歳、一九五二年にスティーヴンがノアの洪水以後の最高年齢七十歳に達するときブルームはすでに千百九十歳であるからその生年は紀元七一四年、ノアの洪水以前の最高年齢すなわちメトセラの九百六十九歳を二百二十一歳も凌駕することになるし、スティーヴンがもし長生きして紀元後三〇七二年にその年齢に達したときブルームはすでに八万三千三百の齢を重ね、したがって彼の生年は紀元前八一三九六年のはずであるから」(p.158)

 

 それと類似し、関連した特徴が、あまりに長すぎる答えの中の「列挙」とテキスト上に現れる数字の多さだ。

 

例:「水を愛し、水を汲み、水を運ぶ者ブルームは暖炉レンジへ引き返しながら水のいかなる属性を賛美したか?/その普遍性。その民主的な平等性と、みずからの水平を保とうとする本性への忠実さ。メルカトル投影図の海洋におけるその広大さ。太平洋スンダ海溝において八千尋を越えるその測り知れぬ深さ。海岸のあらゆる地点をつぎつぎに訪れる波と表面微粒子との不断の動揺。その単位分子の独立性。海の状態の多彩な変化。凪におけるその流体静力学的静止。小潮および大潮時におけるその流体動力学的膨張。時化のあとのその沈静。南極および北極周辺の冠水地帯におけるその不毛性。気候および貿易におよぼすその影響。地球上の陸地に比して三対一のその優越。亜赤道帯南回帰線以南の全地域に広がるその平方リーグの明白な支配。原始的海盆におけるその積年の不変性。暗赤黄色のその海底。数百万トンの貴金属を含む可溶解物質を溶解し溶解状態に保つその能力。半島や島におよぼすその緩慢な浸蝕作用と、相似的な島と半島や沈下傾向の岬を絶えず形成する作用。その沖積層。その重量と容積と濃度。潟湖や環礁や高原湖におけるその静謐。熱帯、温帯、寒帯におけるその色調移行。大陸内の湖水に注ぐ渓流、諸流をあわせて海洋にそそぐ河川、さらには海洋横断の潮流、湾流、赤道の南北を走る海流などによるその分枝状運搬組織。海震、竜巻、噴き井戸、噴泉、激流、渦巻、増水、出水、大うねり、分水嶺、分水界、間歇泉、瀑布、渦流、海旋、洪水、氾濫、豪雨などにおけるその猛威。陸地をめぐるその長大な水平線上の曲線。棒占いの棒や湿度計によって明示され、アッシュタウン門の壁穴そばにある井戸、空気の飽和度、露の形成などによって例証される泉および潜在的湿気の秘密。水素二、酸素一の成分によるその構造の単純さ、その治療的効能。死海の水におけるその浮力。細流、岩溝、不完全なダム、船体の裂孔などにおけるその執拗な浸透性。洗いきよめ、渇をいやし、火を消し、植物を養うその属性。範例および模範となるその無謬性。霧、靄、雲、雨、霙、雪、霰となるその変容。堅固な給水栓におけるその圧力、湖、浦、湾、入江、海峡、潟、環礁、多島海、瀬戸、フィヨルド、狭水道、河口、内海におけるその形態の多様性。氷河、氷山、浮動氷原におけるその固体性。水車、タービン、ダイナモ発電所、漂白工場、なめし革工場、打麻工場を動かすその従応性。運河、遡行可能な河川、浮ドックおよび乾ドックにおけるその有用性。潮流の制御および水路の落差利用によって引出し得るその潜在エネルギー。実体はともかく数においては地球上の生物の大半を占めるその(無聴覚、嫌光)海底動物群および植物群。人体の九〇パーセントを占めるその遍在性。沼沢地、悪疫性湿地、饐えたフラワーウォーター、月のかける時期の澱んだ水溜り等におけるその瘴気の有毒性」(p.142‐144)

ブルーム宅の台所の調理台下に置かれている食器・食料の一覧(p.148‐150)

ブルームとスティーヴンの年齢の関係(p.158‐159)

「その連想でブルームはいかなる情景を再構成したか?/クレア州エニスのクイーンズ・ホテルにて、ルドルフ・ブルーム(ルドルフ・ヴィラーグ)が一八八六年六月二十七日の夕方未詳の時刻に死亡、原因はトリカブト(アコナイト)の服用過度。アコナイト塗剤二に対してクロロフォルム塗剤一の割合で調合した神経痛用塗剤(一八八六年六月二十七日午前十時二十分エニスのチャーチ通り十七番地フランシス・デネヒー薬局で購入)を彼は自己投与した。その行為の原因ではないが、その行為の前、一八八六年六月二十七日午後三時十五分に、彼はエニスの大通り四番地ジェイムズ・カレン一般衣類販売店で新品の超スマートかんかん帽を購入した(その行為の原因ではないが、その行為の前に、彼は前述の時刻と場所において前述の毒薬を購入していた)」(p.169‐170)

「なぜ彼はそうした計算をもっと正確な数字に到達するまで追求しなかったか?/なぜなら何年かまえ一八八六年に円と等積な正方形を作る問題に没頭していて彼は或る数値の存在を知ったが、或る程度まで正確に計算するとその数値はたとえば九の九乗の九乗などという厖大さと桁数に達し、その得られた数字は各巻千ページ、細字でびっしり印刷して三十三冊、そのためには幾折幾連ともしれぬインディア・ペーパーを購入して、最後まで全部印刷すれば整数値の桁は、一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億、十億と、すべての級数のすべての数字が星雲の中核として、簡潔化した形で包含している累乗の可能性は極度に動的に展開するあらゆる冪のあらゆる累乗におよぶ」(p.200)

ブルーム宅の書棚にある本の一覧(p.218‐220)

「田園住宅のために彼はいかなる金額をいかなる方法で支払うつもりであったか?/勤労外国人同化帰化友好促進国家補助建築協会(一八七四年設立)の説明書に従って、年額は最大限六十ポンド、ただし一流の証券から得られる確実な年収の六分の一を超えないことを条件とするが、これは千二百ポンド(二十年の年賦による家屋の概算価格)の元金に対する五分の単利に相当する金額である。価格の三分の一は取得と同時に支払い、残額すなわち八百ポンドプラスその二分五厘の利子は毎年同額の四季払いで二十か年以内に皆済するように償還するものとし、その年額は元利を合計すれば六十四ポンドの借家料に当る。不動産権利書には上記金額滞納の場合の強制売却、抵当権執行、相互賠償に関する但書をつけて、一人もしくは二人以上の債権者がこれを保持するが、滞納がなければ期間満了とともに家屋は借家人の絶対所有財産となる」(p.235)

「ただちに購入できる財力を獲得するにはいかなる急速ただし不安全な方法があり得たか?/私設無線電信機の利用、すなわち全国ハンディキャップ競馬(平地または障害)一マイルないし数マイル数ヤードのレースの結果、午後三時八分(グリニッジ標準時)にアスコットで不人気馬が勝ち五十倍の割戻しがあることをトン、トン、ツーの信号で打電し、二時五十九分(ダンシング標準時)にダブリンで受信したその情報にもとづく賭博行為。多大の金銭的価値を有する物件、宝石、糊付きまたは既にスタンプが押してある貴重な郵便切手(七シリング切手、藤いろ、孔線なし、ハンブルク、一八六六。四ペンス切手、薔薇、青地、孔線入り、大英帝国、一八五五。一フラン切手、黒褐色、官製、点孔入り、斜めに料金の添刷、ルクセンブルク、一八七八)、古代王朝の指環、かけがえのない遺跡の思いもかけぬ発見、しかも異常な場所、異常なかたちで。たとえば空中から(飛んでいる鷲が落す)、火事の後(焼失した建物の炭化した焼跡のなか)、海で(漂流物、浮荷、浮標つき投荷、遺棄物の中)、地上で(食用禽の砂嚢のなか)など。スペインの囚人からの遺産贈与、すなわち遠方から持って来た財宝や正貨や金銀塊を百年前に有力銀行に年五分の複利で預けたその総額が£5,000,000,stg(英貨五百万ポンド)。軽率な人物との商業契約、すなわち三十二個の委託商品の配達料金に関して最初の一個はわずか四分の一ペニー、二個目から順次二の幾何級数で増加して行く(四分の一ペニー、二分の一ペニー、一ペニー、ニペンス、四ペンス、八ペンス、一シリング四ペンス、二シリング八ペンスと第三十二項まで)。蓋然性法則の研究にもとづく周到な賭博技術、それを駆使してモンテ・カルロの胴元を破産させる。円と等積の正方形の作図という古代以来の難問題の解決、それによって政府からの賞金英貨百万ポンドをせしめる」(p.235‐237)

 

「列挙されるものたち」はすでに第12挿話に出てきており、読者はそのすべてが必ずしも正しくないこと(仲間外れ的な間違いが含まれていること)を確認している。また、第16挿話に頻出するevidently、apparently、seeminglyといった「明らかに~」「見たところ~」「どうやら~」といった副詞の頻出は深夜の馭者溜りという怪しげな舞台を背景とした挿話のなかで語りそのものの信頼性を揺るがす効果を生み出していると考えられる。この「明らかなものと一見不確かなもの」のテーマを第17挿話では引継ぎ、発展させているのではないだろうか。

 文体パロディはおそらく第12挿話から続いており、その特徴はさまざまであるが、今まで読んできた中で一貫しているのは、パロディによって「テキストの意味内容が信用できなくなる」効果ではないかと思われる。それを踏まえると、今回の教理問答文体パロディにおける問いと答えの「ずれ」や不明瞭さといった特徴は、逆に文体パロディを非常に効果的に使って書かれた結果、とも言えるのではないだろうか。初心者の入門のための文章の文体が、人物の一挙手一投足、世界のマクロからミクロまで、そこまで書かなくてもいいと思わせるほど細かく、科学的に、あるいは注釈や説明書のように書かれすぎることで、かえって難解になったり、簡単には信じがたくなったりしてしまうというのはこの教理問答文体パロディの「パロディらしい」面であろう。

 そして、内容面についての大きな特徴としての科学的・数学的な記述、大量に列挙されるもの・数字についても、読者は「そう書かれているからそうなのだ」と鵜呑みにはしないほうがいいのではないかと思われる。私は物理も計算ももともと苦手なので、一つ一つの正誤を検証するのが難しいのだが、この問答にはブルームの意識に置き換えられるような部分もあるので(そしてブルームといえば「間違えることもある人」というのはすでに第5挿話あたりから確認できる)、恐らく間違っている部分もあるだろうことが予測される。

 一方で、それが「正しいか間違いか」より「この《一見》科学的・数学的な記述、文体パロディによって、作者が何を表現しようとしているのか」を考えることのほうが私にとっては興味深く思える。

 ブルームが家のなかにはいり、スティーヴンを中に入れ、火をおこし、お湯を沸かす、といった一連の動作や、スティーヴンがブルーム宅を出るときの二人の外での放尿と握手といった行動が主に物理学的な法則を用いて説明・詳述され、二人の年齢差が未来と過去における差と比の計算を用いて記述されている点などは、二人の特徴や関係性をこれまでとは違う基準でもって検めることである*2。この「別の視点から見直すこと」はブルームとスティーヴンという対照的な人物のやり取りを一つの挿話のなかで描くに際し、必要かつ有効な措置であったのかもしれない。これまでの挿話を読んできた読者には、「ブルームはこんな人、スティーヴンはこんな人」といった先入観がある。そして実際二人は一見真逆の特徴を備えているのが読者の意識のなかで強調されがちかと思うのだが、今までの挿話でそれとなく示唆されてきたように、二人には共通点もあるのだ(そういった意味で二人はやはり「鏡像的」であるともいえる。映し出されるものは一見同じだが、一方が左手をあげているとき他方は右手をあげているのだ)。そういった相違点・共通点をこの科学的記述と教理問答文体パロディでは、どちらの側にも肩入れすることなしに、客観的に「検めなおす」ことができる。

 そしてカタログ的列挙*3、大量の数字の記述は、問いという刺激によって生じた答えの放出という側面を有しているのではないだろうか。たくさんの人や生き物・無生物たちが、挿話の進行につれて色々なものを「放出」していく、というのは読書会主催者の方々の言であるが、実際にこの挿話のなかでも「放出する/されるもの」は多く描かれる。実際に「放出している」とはっきりわかるものもあると同時に、例えばスティーヴンがマーテロ塔を出るのも、ブルームの家を出るのも、一つの旅立ちであり放出だ。誕生は此岸への放出、死は彼岸への放出であるとも考えられる。そう考えてしまうと何もかもが「放出している/されている」側面を持っていると思わずにはいられなくなる。それと同時に、比較的短い文章が多い問いに対する答えの内容の長さや、問いのなかには1、2程度の数字しか出てこないのに、答えの中では何億という巨大な桁の数字や、いくつもの年齢や日付、金額や数学的な計算結果から導かれた数字が並べ立てられることで、問いが答えを「発散」しているような印象を受ける。これは問いと答えによって進んでいく文体、テキストそのものが放出的な運動性を帯びている、と言えるのではないだろうか。そしてこの放出性こそが、物語を先へ進める推進力になっているのではないだろうか。

*1:教理問答については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0https://en.wikipedia.org/wiki/Catechism

*2:違う基準で読み直す、という点については読書会参加者のお一人三月うさぎ(兄)さんからのツイッター上でのコメントを受けたものです。

*3:列挙についてはジョイスの作品でよく言われる「意識の流れ」とはまた別の、人間の意識の描き方の一つなのではないかと考えているのですが、長くなるので割愛します。