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雑記

パロディと匿名性――『ユリシーズ』第12挿話の「丁寧な埋葬」に手向ける、柳瀬氏の解釈に対する一考察

パロディと匿名性――『ユリシーズ』第12挿話の「丁寧な埋葬」*1に手向ける、柳瀬氏の解釈に対する一考察

 

 私にとってキュクロプスと言えばルドンの描いた絵画、あの優しく悲しげな眼をした巨人を最初に思い浮かべるのだが、ユリシーズ第12挿話のキュクロプスからは、ルドンの描いたそれとは全く異なる印象を受ける。借金の取立屋ではあるらしいが、一体何者なのかよく分からない語り手である「俺」は、バーニー・キアナンの酒場で「市民」を中心に酒を飲みに来たダブリンの人々がナショナリズム的な会話を繰り広げるのを主に聞いている。マーティン・カニンガムとの待ち合わせのためやってきたブルームは、どうしても彼らの会話に半ば違う見方から口を挟まずにはいられない。その摩擦が高じた末、ブルームは店を出ると、迫害され続けてきたユダヤ人を擁護する叫びをあげ、市民は激昂し、馬車で去って行くブルームに向かって飼い犬ガリーオウエンの食べていたビスケット缶を投げつけるという見世物に近い騒ぎを起こす。
 柳瀬氏の興味深い解釈のため、語り手である「俺」は誰か? という問題に焦点を当てられがちであるが、私がこの挿話で非常に大きな意味を持つと思うのは、やはりアレンジャー的記述であるパロディの挿入と、匿名性の問題だ。そしてこの二つの問題について考察することで、翻って「俺」は誰なのか、という問いに戻ることができるのではないかと考える。
 この挿話のテキストを、①「俺」の聞いている会話と周辺の描写、②「俺」の内的独白、③パロディの三層に分けると、挿入される③の文体はその前後の①の記述を反復し、また①で書かれていないことを書くことで物語そのものを進行させる役割を担っている。このパロディの大きな特徴として「列挙、過剰性、誇張、名前・肩書の省略・改変」が挙げられ、その文体はアイルランド文芸復興運動の文章、神智学、使徒行伝、スポーツ記事など様々だ。つまり、これらは特定のコミュニティに向けられて書かれた文体である。いわゆる「業界」的な文書は、それを見慣れている人間、「業界」内の人間にとってはすぐ意味の取れるものだが、その「業界」の外の人間には個々の単語の意味を調べなければさっぱり意味が分からない。そういった意味でこのパロディは排他性というテーマを示唆していると考えられる。
 さらに、③では文体だけがパロディ化されるのではなく、作中に登場する人物・動物もパロディ化されている。ブルームや「市民」、ガリーオウエンのみならず、この挿話に登場しない人物までもが聖人や騎士など様々な別人として描かれ、名前の改変を受けている。また、③のなかでは本来そのパロディ内に入れるべきではない人物や、恐らく意図的な誤りが多数書き込まれている。パロディ内で描かれ、それぞれのパロディ文体に即した実在の人物とこのような物語中人物とが混交し、地名・人名などの過剰に詳しい記述、いかにも事実を描いたかのように見える記述の中に虚構や誤りを忍ばせることで、③は①を嘲笑し、皮肉り、茶化している印象を読者に与えると同時に、パロディそのもの、そしてそれを挟む①の記述の正確性を疑わしいものにしてしまう。 
 また、一見それぞれのパロディはばらばらであり、独立しているかのように見えるのだが、原文の単語を調べると①や②との連続性が多数存在する(e.g. “cause”、“race(/lace)”といった言葉が頻出している。それらの文脈上での意味は必ずしも①や②と同一のものではない)。前後の記述をただ嘲笑し、皮肉るだけであれば、挿話全体に共通する意味の「隠れた挿入」は不必要で、その前後の記述の言葉のみに言及すればいいのではないだろうか。この隠された意味の連続性を考慮すると、③は①や②から完全に独立した、外部からの「挿入」である、とは私には考え難い。この問題は③の語り手は誰か、という問いにも繋がるのではないかと思われる。
 この挿話には、名前の分からない人物が多数登場している。まず、「市民」「俺」の本当の名前は分からない。第8挿話で出てきた、ブリーン氏への中傷の手紙も差出人は分からない。これまでの挿話で、あれほど頻出していた固有名詞を考えると、やはりこの匿名性には何かしらの意味を持たせていると考えざるを得ない。匿名の存在は山のロリ―、月光隊長、署名のない新聞記事、略称、略号、という形でも登場している。これらは通り名であったり、調べれば誰であるかが分かる存在でもあるのだが、いずれもいわゆるペンネーム的な匿名性を有している(もちろん現代の日本の匿名性と当時のアイルランドでの匿名性には大きな違いがあると思われるので、現代的な文脈でこの挿話の匿名性を解釈することには危険がある)。そして①のなかでは、これら匿名の人々の話や新聞記事などをもとに会話をする様が描かれている。「市民」は署名のない新聞記事を見て憤りを示し、「俺」の嘲笑の根拠となる話の出所はほとんど不確かだ。さらに、挿話後半では一体ブルームは何者なのか、と「市民」を囲む仲間たちが彼のアイデンティティを問う。彼らにとって一番重要なのは、ブルームが何を信じ、どこで生まれ、親・先祖が何者か、つまり宗教と出自という大きな枠組みである(宗教的な点で言うと、これまでの挿話を読んだ限り、ブルームは確かプロテスタントカトリックの洗礼を受けており、彼の内的独白にはユダヤ教的な内容が多いので、ブルームが実際どの宗教を主として信仰しているのか判断するのは読者にとって難しいのだが)。その観点のため、彼らにとってブルームはユダヤ人である、という認識が強くなるのだが、この問いと③における様々なブルームのフィクショナルな描写によって、この挿話内ではブルームのアイデンティティに対し、これまでの挿話に見られる以上の揺らぎを生じさせているのでは、との印象を受ける。ブルームもまた、何者でもない、何者なのか判然としない存在であることを強調する形で描かれているのではないだろうか。
 この匿名性・アイデンティティの欠如によって、この挿話のあらゆる語りが胡乱なものとなる。誰の言葉にも、疑念を抱かずにはいられなくなってしまうのだ。イギリスに支配され、苛烈な暴力を受け、搾取され続けてきたアイルランド人である「市民」の怒りは当然だ。憎悪では何も解決しない、愛することが大切で、それはキリスト教の教えでもある、自らのルーツでもあるユダヤ人もまた迫害され続けてきた、というブルームの主張も正しい。その両者が「何者でもない」存在として描かれていること、さらにそれを挟む③の描写によって誇張され、また戯画化されることで、「本当にその言い分は正しいのか?」という問いをジョイスから突きつけられているのではないかという印象を否めない。少なくともジョイスは他者を大きな枠組みの代表者として認識することに対して反対の意を示しているのではないだろうか。また、文体パロディを「見知らぬ他者の声を借り、それを真似ること」としてとらえるならば、そこには文体パロディそのものと匿名性との繋がりも見出し得る。
 この挿話におけるパロディと匿名性の上記の性質を踏まえた上で、語り手である「俺」についてその特徴をあげるならば、まず「俺」は会話をしている周囲の人々、会話に出てくる人々をことごとく嘲笑し、過去を暴き、非難する。彼の言が真実なのかどうかは分からないのだが、それにしても「俺」はあまりに知りすぎている。人の気づかない間に、人の気づかないところを、人の気づかない視点から見ている存在として、「俺」は「野良犬的」ではある。しかし、「俺」が本物の犬であるとは私には思えない。「俺」を犬である、と解釈する柳瀬氏は『ユリシーズ航海記』の中で、その主な根拠を「俺」が犬であるガリーオウエンに対して人間を相手にしているような言葉を使っている点、「俺」が周りの人間から無視されている点においている。つまり、駄犬であるガリーオウエンと「俺」との強い同質性を見てとったがゆえに、柳瀬氏は語り手である「俺」を犬である、としている*2。確かに疥癬もちのガリーオウエンと淋病にかかっていると思われる「俺」は、どちらも病んだ存在であるという共通点がある。しかし、これまでの挿話で、第一義的に動物に用いるべき言葉を人間の動作に対し当てはめるということが何度も行われていることを考えると(e.g. “paw”、“trot”他)動物の動作を描く際に人間に当てはめるべき言葉を使うことが特別おかしいこととは思えない。第7挿話では、機械もものでさえも人間のように描かれ、人間は機械のように描かれている。何より、これまで一番「犬」と関連付けられ、犬のように表象されてきたのはスティーヴンだ。ここで敢えて、ガリーオウエンと「俺」との同質性にだけ特別な注意を払う必要はあるのだろうか。加えて、前半部分のパロディの中で描かれる巨人は恐らく「市民」の戯画化であると考えられるが、毛むくじゃらで革の衣服をまとい、腰に鎖をつけた巨人はガリーオウエンを巨大化した存在であるような印象を受ける。「犬」と同質性を有するのは、「俺」に限ったことではないのはないだろうか。「俺」が犬的である、という点には同意するが、やはりこの「俺」は「何者でもない」存在としての語り手であるのではないか、と私は思う。
 そして、この挿話の中で唯一嘲笑と批判を免れているのが「俺」である。その意味で「俺」と③の間には嘲笑・皮肉・「茶化し」の共通点があり、『オデュッセイア』のキュクロプスに即して言えば「俺」だけが目を刺されていない。誰もが時に巨人として、時にオデュッセウスとして描かれているように思われる。誰もが何者でもなく、目を刺される巨人に変わるのに、「俺」だけが終始「俺」のままなのだ。挿話全体を通してオデュッセウスに喩えられているのはブルームであるように見えるが、パロディのもつ意味と匿名性という観点から言えば、もしかしたら本当のオデュッセウスは「俺」であり、彼こそがパロディの語り手であるのかもしれない。

*1:この「丁寧な埋葬」という言葉はユリシーズ第12挿話の読書会の案内メールにて、主催者のお一人南谷奉良さんが用いられた表現を拝借しています。

*2:柳瀬尚紀ユリシーズ航海記』河出書房新社、 2017年、pp. 100-101