Ball'n'Chain

雑記

渚のジョイス~第4回ユリシーズ読書会メモ・パート1

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(この記事は2019年10月に開催されたユリシーズ読書会参加にあたって調べた内容を、2019年12月~2020年7月の間にまとめたものです。現在、読書会はオンラインで継続して開催されています)。

「京都から深夜バスで東京までやってきて、未曽有の重量のカバンを持ち、ネットカフェを転々としながら読書会に参加した」者の、ユリシーズ読書会第4回(第三挿話・2019年10月20日開催)の予習&再調査のメモ・パート1です。この挿話ではスティーヴンの浜辺散策中の思索の変遷が描かれているため、一度にすべてを調べると半年以上かかると判断し、数パートに分けて掲載することにしました。昨年12月からの個人的なトラブルの連続、コロナによるストレス、図書館の閉館による資料閲覧の困難、そして異常な長さのため、かなり更新が遅れてしました。興味を持ってブログに何度もアクセスしてくれた方にお礼とお詫びを申し上げます。

・この読書会に参加するにあたり、私のような予習や調査は必要ありません。柳瀬氏の訳による『ユリシーズ』を読み、何となく気になったところや分からなかったところなどを頭の隅に留めておくだけでOKです。どういう点に着目すればいいか、などのアドバイスは、事前に主催者の方がメールで送ってくれたりもします。とにかく気軽に読んで、気軽に参加し、気軽に発言してみてください。読書会の趣旨や雰囲気については、上記サイトまたは同サイト内で紹介されている他の参加者の方々のブログなどを是非ご覧ください。

 スティーヴンの思索の絶え間ない変遷に伴い、わたしの調査や考察も四方八方に広がってしまいました。ほぼすべての文章で「引っかかって」しまっているので、興味がおありのところを中心にご覧いただくことをおすすめします。

(読書会で作成される言葉の地図の略称に合わせ、柳瀬訳をU-Y、丸谷才一らによる鼎訳(集英社文庫版)をU-Δと表記し、その後にページ数を書いています(挿話番号はepの後に表記されています)。ガブラー版はまだ持っていないため、引用部分を表記できません(申し訳ございません)。グーテンベルクのものを参照しているため、ガブラー版との差異が生じている可能性があることをご了承ください。)

 

 では早速。

 

 

<U-Y 73 ~可視態の不可避の様式、ヤコブベーメ、バークリー、透明の限界、アリストテレス、Shut your eyes and see~> 

・U-Y 73「可視態の不可避の様式。少なくともそれ、それ以上でないにしても、おれの目を通しての思考」

 U-Δ 99「視覚世界という避けがたい様態。ほかはともかく、それだけはこの目を通過した思考だ」

 “Ineluctable modality of the visible: at least that if no more, thought through my eyes”

 →もう冒頭からよく分からない。「少なくともそれ、それ以上ではないにしても」の部分は“at least that if no more”で、その前にコロンがついているので、大体「目に見えるものという避けることのできない様相は、それ以上のものではないにしても、少なくともおれの目を通した思考だ」という意味か。U-Yではmodalityを「様式」と訳し、U-Δでは「様態」と訳している。このmodalityというのが難しい言葉で、論理学では「様相、様態(mode)」、心理学では「様相(視覚・触覚などそれぞれの感覚器による感覚」の意味を持つ(学術的な専門用語として使われることが多い)。ここでは目に見えるもののことを言っているので、感覚を通して認識される「様相」という語のほうが訳にふさわしいのではないかと思う。それがスティーヴンの「思考」だと述べられている点で、既に「目に見える、身体で感じられる物質世界」と「物質世界を知覚する主体の観念世界」との同一性への問いが、“at least that if no more”という若干の不確実性を感じさせる言葉で繋がれることで提示されているように思われる。U-Yの「可視態」という言葉は辞書では出てこない。後の「並列態」などの言葉に合わせた造語か。U-Δでは“if no more”を「ほかはともかく」と訳しているが、「それ以上ではないにせよ」という意味の表現をそのように意訳できるだろうか。どのような解釈から「ほかはともかく」としたかは分からないが、U-Δでは現実世界と形而上の世界とが同一であると断言している訳になっている。

・U-Y 73「署名」“Signatures”

 →本挿話の最後の部分にある「鼻くそ」につながるのではないか? ここでスティーヴンはヤコブベーメの『デ・シグナトゥーラ・レールム』(“On the Signatures of Things”)を想起しているとの指摘がある*1

 ヤコブベーメ(1575-1624)はドイツの神秘主義*2。『デ・シグナトゥーラ・レールム』では自らの神秘思想を錬金術占星術的側面から著述している。「『デ・シグナトゥーラ・レールム』において、神の真理の直接的な理解は、純然たる信仰に必要な補完であると主張している。冒頭は以下のように始まる。『神により語られ、書かれ、教えられたいかなるものであれ、署名(signature)を知らなければそれは押し黙り、理解のすることはできない。というのもそれは歴史的な推測、または他人の口からのみ発せられ、そこにおいて知識のない霊(ガイスト)は語らないからだ。しかし、もし霊が人にその署名を明かし、見せれば、人は他者の語りを理解し、さらに、いかに霊が自身を現し、正体を明らかにしたかを理解することになる』」*3

 ベーメは神を「無」(Nichts)、「底なし」(Ungrund)、「一者」(das Eine)、「永遠の静寂」(die ewige Stille)、「自然の外の自由」(die Freiheit außer der Natur)とし、一切を神の自己顕現運動の諸相ととらえた。自己顕現(Sich-Offenbarung)とは、自己を限定することによってその姿を露わにしていく運動のこと。無である神は、いくつもの層・系(Gradus)を通して自己の姿を次々とあらわし、外化させていく。ベーメは「万象は無から想像された」としているが、その創造論において世界が無から直接創造されるとは考えていない。無なる神は、創造とは直接つながらず、無は一切から自由であるとする。ベーメ創造論では、無なる神の内に明確に意思を見てとり、意志による創造の詳細を無、永遠の自然、天使、人間、森羅万象にわたって論じている。彼は無の本質が自由であることを見抜き、天地創造の行為、そして新しい創造―人類と森羅万象の救済を、意志の自由を軸として追究した。更に、能動的な意志の活動の場としての身体性に着目した上で、創造の本質を、何者かが何かを対象として造るのではなく、霊が本体を求めて外へと現れていく誕生の運動とした。意志、自由、身体、誕生の四つがベーメ創造論の中心的な思想の要素である。

 ベーメの思想は錬金術に深い源泉を持ち、中でも水銀(Hg、メルクリウス)はその思想に大きな意味を持つ。水銀は常温で液体となり、さまざまな金属と容易に結合する。熱すると気化し、分量の少ない場合には完全な球体を形成する。その球体はわずかな圧力でいくつもの水銀の玉に分裂し、それぞれの球面は鏡のように外界を等しく映し出す。このように多様な特性を持つ上、一般に円・球は完全性の象徴とされており、特に錬金術では上と下、内と外などの対立するものの対応一致を重視するため、水銀は大宇宙と小宇宙の完全な一致を具現するものとして重視された。このような水銀の特性は生命力の発現を想起させたものと考えられている。ヨーロッパの錬金術の伝統において水銀―メルクリウスは単に物質的なものとしてではなく、物質を成り立たせる霊的生命体と見なされ、ある物質を一層高次な物質に変化させると同時に、自らも高次な存在へと変化する「変容物質」(verwandelnde Substanz)とされている*4

 ここでいう「署名」とは霊が本体を求めて外化していく誕生の「しるし」のような意味ではないかと考えられる。無からの創造と創造における変遷、大宇宙と小宇宙の一致の観念などは、この挿話全体と強いつながりがあるのではないだろうか。

・U-Y 73「海落し卵、海捨て草、寄せる潮、あの色褪せたブーツ」

 U-Δ 99「魚の卵や、浜辺の海草や、満ちてくる潮や、あの赤錆いろの深靴などを」

 “seaspawn and seawrack, the nearing tide, that rusty boot”

 →bootが単数形になっているが、片足だけを見ているのだろうか? 「あの」という言葉が入っているので、スティーヴンは今履いているのではない別のブーツのことを思い出しているのか。この挿話では全体的にスティーヴンが「実際に知覚している」ものなのか、「頭の中で回想・想像している」ものなのかの区別がつきにくい。U-Yは大分意訳だが(というか創作に近い)、原文のニュアンスを踏まえた言葉遊びとして面白い。U-Yの「海落し卵」の「海落し」は「産み落し」の意味も含んでいるのだろうか。rustyには「赤錆色」という意味も「色あせた」という意味もあるが、この後でさらにrustという言葉が出てくるので、U-Yでは赤錆色としてもよかったのではないかと思う。それとも同じ言葉を使わないたくなくてわざと変えたのか? ちなみにU-Δのほうではその後のrustも赤錆としている。

・U-Y 73「青っ洟緑」

 →「ep.1『スティーヴンのハンカチの色から、海の色』」(U-Δ注)

・U-Y 73「彩色された署名のかずかず」

 “Signatures of all things”

 →「『万物の署名』の後にこの『彩色された署名のかずかず』が繰り返されているのは、ヤコブベーメに関連する思索が続いていることを示しているのかもしれないが、ギフォードはここでバークリーの観念論的思想がほのめかされていると見ている。バークリーはデカルトの主観-客観の二元論や、ロックのような経験主義への応酬が要求される観念論を支持していた。バークリーにとって、観念的現実は単にそれを創造した神的存在という観点からではなく、物質的な現象を知覚する人間主体という観点から定義されねばならなかった。ロックらに対する彼の答えは、私たちが知覚していると思っているものは完全にはものそのものとして証明することはできず、知覚者の心の中の状態にすぎない、と主張するものだった。人間主体が物質的現象を見ていると思っているとき、実際に見ているのは光と色だけである。バークリーがこの見解において「非物質主義」と呼ぶものは、ベーメの神秘的な超越論と簡単に一致しうるかもしれない」*5

 ジョージ・バークリー(1685-1753)はアイルランドの哲学者、聖職者。読書会中のスライドでも紹介されたように、「事物の存在するとは知覚されることである」という理論を唱えた*6。一見、「見たり、触れたりできるものは存在する(知覚できないものは存在しない)」ということを唱えている感覚論者のような印象をうけるが、バークリーによると世界は観念である。例えば、机を叩けば机の固さは認識できるが、それは机の固さという知覚を得、認識しているだけで、机そのものを認識していることにはならない。世界は自らが知覚する限りにおいて「心の中に存在する」ものであり、実体とは知覚によって同時に得た「観念の束」であるとしている。バークリーは知覚する精神と神のみが実体であるとし、物質を否定している。更に彼は抽象観念の存在をも否定し、その存在を肯定するイデア論を退けた*7

 世界(被創造物)が神的存在が自らを外化させた「署名」であり、それを読み取ることによって世界を知ることができるとしたベーメと、物質は知覚される限りにおいて心の中にのみ存在するもの、と述べるバークリーの間には、確かに緩やかな繋がりが存在するかもしれない。ちなみに、バークリーがこのような論を主張した背景には、当時の光学技術の発達、つまり眼鏡や望遠鏡、顕微鏡などが普及したという時代状況もあるらしい*8。顕微鏡でしか見えない菌類、望遠鏡でしか見えない惑星は果たして本当に存在するのかどうか、という疑問をもったのではないだろうか。『視覚新論』の冒頭が距離を認識することについての思索から始まっていることにその反映がうかがえる。

 ・U-Y 73「透明の限界」

 “Limits of the diaphane”

 →「『霊魂論』第二巻や、『自然学小論集』の『感覚と感覚されるものについて』などで、『透明なものの限界』を論じた。趣旨を要約すると、『透明』は本来あらゆる物体に内在する性質だが、物体に端があるように『透明』にも端がある。色は物体の限界(表面)にあるか、または物体の限界そのものである。『したがって限られている固体のうちに在る透明なものの限界が色であろう』(『感覚と感覚されるものについて』副島民雄訳)。……アリストテレスは、光は透明なものの現実態であり、闇の中には透明なものが可能態として存在している、とも述べている」(U-Δ注)。diaphaneは“Something transparent or diaphanous(←布などが透けて見える様子の意の単語)”、“A women silk stuff with transparent and coloured figures”、“Essence of nature (Aristotelian philosophy)”などの意。古代の哲学者のギリシャ語を音訳・翻字したもの*9。などの意、どころではなくてもうここはどうしてもアリストテレスしかないのだが「この解釈からスティーヴンはアリストテレス唯物論者(物質主義者)と結論付ける」*10

 唯物論者とは、観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方(タレス、イオニオ派、デモクリトスなど)。アリストテレスの『霊魂論』第二巻を読んでみると、視覚とは何か、色とは何か、透明なものとは何か、光とは何かについて論じている。

「色はすべて、活動状態にある透明なもの(明るい空気や水など)を変動させ得るもので、これが色の自然(本性)である。だからこそ色は光がないと見えないし、それぞれのものの色はすべて、光の中でだけ見られ得るのである。透明なものとは、(具体的には)空気と水と多数の固体などのことで、それらは(ある意味で)見られ得るものであるが、無条件にそれ自体において見られ得るのではなく、他者の色を介して見られ得るものである。そして透明なものであるかぎりでの透明なものの活動(現実態)が光である。一方、単に能力的に(可能態として)透明なものが存在する所には、闇も存在する。そして光は透明なもののいわば色である。光は火でも、他のいかなる物体でもない。それはむしろ火の、あるいは火に類する何かの、透明なもののうちでの臨在である。また光は闇と反対のものと思われているが、それは闇が透明なもの(空気や水など)からの、そのような状態(火などの臨在)の欠如、透明なものからの明るさを所有した状態の喪失であり、光がこのような状態の臨在であるということが明らかだからだ。色を受容できるのは無色のものである。無色のものとは、透明なものと、見えないもの、どうにか見えるものであり、暗闇はそのようなものだと思える。そして暗闇のようなものは透明なものであるが、ただしそれは現実的に(現実態において)ではなくて、能力的に(可能態において)透明であるときに、である。というのも、同一の本性(もの)が、あるときには闇で、別のときには光(明かるさ)であるのだから。見られ得るものがすべて光の中で見えるのではなくて、それぞれのものの固有の色だけが光の中で見える。というのも、若干のものは光の中では見えないで、逆に闇の中で感覚(視覚作用)を引き起こすからである。それは、火のように見える、輝くものである。そしてこれらのどれも、その固有の色は光の中では見えない。ここまでで明らかであるのは、光の中で見られるものが色であり、色は光がないと見えないということだ。なぜなら、これこそが、つまり「現実に透明なものを変動させ得るもの」であることが、まさしく色であること(色の本質)だからだ。他方において、透明なものの、透明なものとしての完成(現実態)が光である。色が透明なものを、例えば空気を変動させ、そして連続的に(器官まで)広がっているこの空気によって感覚器官が変動させられる(ことによってはじめて色が見られる)のである。以上で、どのような理由によって色が光の中でだけ見られるのが必然的であるのかが説明された。しかし、火は両者の中で、つまり闇の中でも光の中でも見られる。なぜなら、まさにこのもの-火によって、能力的に透明なもの、つまり闇が現実に透明なもの、つまり光になるからである」*11

 臨在という言葉がよく分からない。「「臨在」(パルーシア)の意味はあいまいである。……例えば太陽が空気に臨在するとは、空気へ作用を及ぼすというほどの意味であろう」という解説*12があり、「判別するものは二つの感覚的性質の中間にあるものとして、中性的であって、両者の間の一種の境界をなしている」という注もある*13。辞書では「(神が)その場に臨むこと、そこにおられること」とあり、臨在を「現にあらわれていること」と解釈し、訳しているものもある*14。「火のように見える輝くもの」とは、近代の注釈者たちによって「リン光を発する(phosphorescent)もの」と総称されることが多い*15。「他者の色を介して見られ得る」という部分については、「透明な物体は無色であり、それ自体の本性上は見えないものであるが、火や太陽などの作用を受けると、内部の透明性が現実化して、光に化する。つまり明るくなり、その意味で見えるものになる。空気や水が「他者の色を介して見られ得る」とはこの意味、つまり「他者の色」とは光(明るさ)であり、他者とは空気や水の内の透明性であろう」との解説がある*16

 そして『自然学小論集』中の「感覚と感覚されるものについて」では以下のように述べられている。

「『霊魂論』では光について、透明なものに場合によって付帯するところの色であると述べている――なぜなら何か火の性質のものが透明なもののうちに在る場合にはいつでも、その火の性質のものの臨在が光であり、それの欠如が闇なのだからである。ところでわれわれが透明と呼ぶところのものは空気にも水にも、またその他の透明と呼ばれているところの物体のうちのどれにも固有なものではなく、何か共通な本性・能力である。この共通な本性・能力は透明と呼ぶところのものから離れて在るのではなく、内在している。のみならずその他の物体にも内属しているものであり、前者〔空気や水〕にはより多く後者〔その他の物体〕にはより少なく内在している。したがってちょうど物体に何らかの端がなければならないごとく、物体〔固体〕のうちに内在しているこの本性〔すなわち透明〕にもまた端がなければならない。したがって光という本性は透明なもののうちでも端を持たない透明なもののうちに在る。がこれに反して、固体〔端を有する物体〕のうちに在る透明なものには端の存在が無視できないものであるのは明らかである。そしてこれが色であることは事実からして明らかである。なぜなら色は限界〔表面〕においてあるか、あるいは限界そのものであるかだからだ。(それゆえピュタゴラスの徒も現れている「面」を色と呼んだのである。)というのは色は実に物体の表面において在るからである。だが物体の表面は何ら独立性のある物ではないので、われわれは外部に色として現れるところの同じ本性が、内部にも在ると信ぜねばならぬ。/空気も水も色を持っていることが明らかである。すなわちその耀きが〔色〕だからである。だがこの場合においては、〔色〕が端のないもののうちに在るために、空気も海も近づいて見られる場合と遠くから見られる場合とでは同じ色を持っていないのである。他方で固体〔端を有する物体〕における表面の色の現われは、四囲の状態がそれを変化させるのでなければ一定している。だからどちらの場合においても、共通して色を受けるという同じ性質があることが明らかである。だから透明なものはそれが物体のうちに在る(そしてそれは多少の差はあるが、あらゆるもののうちに内在している)かぎりにおいて〔物に〕色を具有させるのである。/ところで色は限界(端)において在るのだから〔物のうちに内在する〕透明なものの限界において在るのであろう。したがって固体のうちに在る透明なものの限界が色であろう。そして透明なものそれ自身、たとえば水のようなものがあるとすれば、透明なものにおいても、また固有の色を持っているようにみえるもの〔すなわち透明でないもの〕においても、すべてのものと同じように色があるのはその端においてである。/空気のうちにも、光をなすところのそのものが透明なもののうちに内在していることがあるし、またそれが内在していなくて欠如していることがある。そこでまさにさきの〔空気の〕場合においては、一方が光で他方が闇であるように、固体においては白と黒とが生ずる」*17

 この『霊魂論』と「感覚と感覚されるものについて」の透明なものと色についての論をまとめると、「透明」はあらゆるものに様々な程度で内在している。物体には端があり、その端(限界)に色がある。したがって、ものに内在する透明なものの限界にあるものが色である。内在する透明性が色の働きかけで外化され、透明なものとして現実化する。色は物体の端にあり、透明性はあらゆるものに内在している。色はその内在する透明なものの限界にあると考えられる。色の働きかけで透明は現実化し、その透明なものの限界に色がある、ということだろうか。光の本質に火の要素を認めている点や、闇の中の透明性の考えについても面白いし、挿話と関連付けることもできるかもしれないが、これ以上調べるとアリストテレスのことしか考えられなくなるので、今は保留にしておく。この二つの論について「光は物体を様々な程度で通過し、透明性の限界としての色彩に衝突する」という挿話中の語句に関連付けた解説もある*18。衝突という言葉はアリストテレスの論そのものの中には出てきてはいないが、「色が透明なものに働きかけること」を一種の「衝突」として解釈した上で、この後に出てくる「頭をぶつける」という記述に繋げているのかもしれない。ところで、ここでスティーヴンが「透明の限界」を考えたとき、彼は海か空を見ていたのだろうか?

・U-Y 73「しかしあの人物はこう付け足している」

 U-Δ 99「でも彼はつけ足しているぞ」

 “But he adds”

 →「彼とはアリストテレス」(U-Δ注)。この後に“in bodies”という言葉が入り、ここをU-Y、U-Δ共に「物体における、と」(U-Y 73、U-Δ 99)と訳しているのだが、このbodyは多義性を持ち、後の死体の出現をも予見しているのではないか、という指摘が読書会中にあった。死体の描写はこの挿話だけでなくこれまでの挿話に何度も現れるのだが、確かにbodyという言葉はここでの「物体」を指すだけでなく、後々現れる数えきれないほどの“body”をも暗示しうるのだろう、と思った。

・U-Y 73「禿頭だったし大金持だった」

 U-Δ 「禿頭でおまけに億万長者」

 “Bald he was and a millionaire”

 →「中世の俗説を言う。彼の「遺言」を見てもともかく貧困ではなかった。髪は短く刈り込んでいたと言うが、禿頭であったかどうかは分からない」(U-Δ注)禿頭(bald)はbold(大胆な、図々しい、でしゃばり等の意)にかけているのだろうか?(発音は若干違うけれども)

・U-Y 73「色いろな物知りお師匠さん」

 U-Δ 99「この物知る人々の師」

 “maestro di color che sanno”

 →「イタリア語。ダンテ『神曲』「地獄篇」第四歌131より。アリストテレスを指して。ここはイタリア語のcoloro(人々)とcolore(色)、英語のcolor(色)の語呂合せで「色彩の師」の意を含むか」(U-Δ注)。U-Δ注の「地獄篇」の該当箇所を読むと、「智恵者たちの師」(アリストテレス)というふうに書かれてある。また、この地獄篇の第一歌では、豹、獅子、牝狼がダンテの行く手を阻む*19。豹はep.1のヘインズ、獅子はマリガンを想起させるが、もしこの三つの動物と作品との関係があるなら、牝狼は何を(誰を)意味するものだろうか? ちなみに第一歌の注に、エリオットの「豹、獅子、牝狼について、『そうしたものの意味を気にかける必要はないと思う。初めは、そんなことは考えない方がいいのである』」言及があるが*20、どういう意図でそのような発言をしたのか私には分からない。U-Yでは「色いろな」で原文の「語呂合せ」を訳出しようとしている。

・U-Y 73「おける透明の限界」

 U-Δ99「物体における透明なものの限界」

 “Limit of the diaphane in”

 →U-Yは原文通り。U-Δは補足して分かりやすくしている。

・U-Y 73「五本指が通るならば門である、扉ではなく」

 “If you can put your five fingers through it it is  a gate, if not a door”

 →なぜ「五本指」なのだろうか? 「手」などでもいいように思えるが… ここは「サミュエル・ジョンソン博士の『英語辞典』の定義法のパロディ。ジョンソンの辞典のドアの項は以下の通り。『扉は家屋、都市の門や公共の建物に使用される。詩的許容の中で使用される場合を除いて』」との指摘がある*21。詩的許容とは詩などで効果を上げるのに用いる韻律、文法、論理上などでの逸脱のこと。これがどうパロディ化されているのもあまり分からないのだが、ジョンソンのドアの定義の最後の“except in the license of poetry”の部分が、if not a gate(扉ではなく)にあたるのだろうか?

・U-Y 73「目を閉じて見るのだ」

 “Shut your eyes and see”

 →スティーヴンは目を閉じて歩き、自分の踏み拉く足元の貝の音などを聞く。視覚ではなく、触覚と聴覚によって世界を認識しようとしている。アリストテレスの説くのとは違ったやり方でものを認識し、彼の説を検証しようとしているのか。「透明の限界」を知ろうとしているのか。ここで「スティーヴンは経験を理解するのに神秘的な方法へと後退する。だが、彼が見たいと思うのは、創造された宇宙の黙示論的消滅だ」という指摘がある*22。「創造された宇宙の黙示論的消滅」はこの後に続くものと思われる。

・U-Y 73「とにかく通り抜けて歩いてるじゃないか」

 U-Δ99「どうやら通り抜けているらしい」

 “You are walking through it howsomever”

 →howsomeverは古語で、howeverのこと。「どんな方法であれ、どんな…でも、しかしながら」のような意味になるのだが、U-Δには推量のニュアンスがある。スティーヴンが恐る恐る歩いているときの確信のない気持ちを推し量ったものか。ここの原文のthrough itは前に出てきた“put your fingers through it”と呼応しているように思われる。

・U-Y 73「踏み拉く」

 U-Δ99「ぐしゃりと踏みつぶす」

 “crush crackling”

 →「拉く(しだく)」は押しつぶされて形を崩す、荒れる、乱れ散る、等の意。原文ではこの後に“wrack and shells”が来て、cracklingがwrackにかかるのかと思ったが、cracklingはパチパチとはじけるような音、粉砕音などを指し、wrackは漂着した海草や漂着物の意である。砂浜で海草を踏みつぶしても硬質な音は出ないと思う(もしかしたら漂着してから干からびてしまった硬い海草なのかもしれないが)。前の部分で砂浜に漂着した海草をわざわざseawrackと言っているので、ここのwrackは漂着物のほうではないかとも思うが、確信はない。とりあえずここでは踏みつぶされて鋭い音をたてる貝殻やwrackのことを書いているので、「ぐしゃりと」という副詞では少し音の鋭さの表現に欠けるのではないだろうか。適切な副詞が思いつかないが、U-Yの「踏み拉く(ふみしだく)」という言葉の音のほうが、「踏みつぶす」よりも硬質感があるのではないかと思う。

・U-Y 73「きわめて短い間隔の時間にきわめて短い間隔の空間を」

 U-Δ99-100「ほんのわずかな時間をかけて、ほんのわずかな空間を通り抜けている」

 “A very short space of time through very short times of space”

  →目を閉じて歩くスティーヴンが「時間」と「空間」を意識したこの後、順次、並列態という言葉が出てくる。よく原文を見ると、訳語の「間隔」に当たる直接的な言葉はない。space of timeとtimes of spaceが逆転しているだけで、直訳すると「時の空間」「空間の時」になってしまう。それぞれの前にshortがついているので、前者は「短い間(の時)(=(時の)短い間(ま))」「わずかな回数の(空間)(=(空間の)わずかな回数)」(ちなみにshort space of timeは一般的な用法では「短期間、ごく短い時間」と訳される)後者のtimesは複数形なので一般的な「時間」というより「回数、度」の意味の方が強いのでは荷かと思う。なので、これらを合わせると、「きわめてわずかな回数の空間を通り抜けるきわめて短い間の時」になってしまうのだが、この文章に「間隔」という言葉を当てはめられるかどうかと考えてみると、「短い間(space)の時」の「間」は「間隔」に置き換えられると思う。辞書で「間隔」を調べると、「物と物とのあいだの距離、物事と物事の間の時間」となっており、この「間隔」という言葉についても空間的・時間的な意味を両方有していることが分かる。「わずかな時間の回数(times)」については、流れ、生起し続けると同時に分断されているそれぞれの「時間」を空間としてとらえ、それぞれの時間-空間の「敷居」を歩くごとに跨ぎ越しているような印象をうける。そういった意味では短い「間隔」の時間、と訳してしまってもいいのかもしれない。原文でもU-Yでも同じなのだが、ここでは連続し、どこまでも広がっているはずの時間・空間が分断されつつ繋がっているような印象をうける。U-Δのほうが意味としては分かりやすい。U-Yは原文のリズムと自身の解釈を優先した感じが強い。

<U-Y 73-74 ~順次・並列態、レッシング、造物主ロス、グノーシス、マデリン牝馬ちゃん、英詩構造~>

・U-Y 73「順次」「並列態」

 U-Δ100「順次に連続するもの」「同時に並列するもの」

 “nacheinander”“nebeneinander”

 →「ともにドイツ語の副詞を名詞に用いて。18世紀ドイツの文学者レッシングは批評『ラオコーン』(1766)で、空間的・並列的な芸術としての絵画と時間的・継起的な芸術としての詩について論じた」(U-Δ注)順次は英語にすると“one after another”、並列態は英語で“side by side”になる。それぞれ、「順々に、次々に、前後して、連続して」「並んで、隣り合って、並存して」の意味になる。『肖像』においても、スティーヴンはこの話題に触れている。「審美的映像は、空間あるいは時間において、われわれに提出される。聴覚でとらえられるものは時間において、視覚でとらえられるものは空間において、提出されるんだ」*23(『肖像』ではスティーヴンの審美的関心に基づき、彼がアクィナス、アリストテレスと「美」についての考えをのべている場面がこの他にも複数ある)。

 レッシング(ゴットホルト・エフライム・レッシング、1729-1781)はドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ギリシア美術を論じた『ラオコーン』は後の美術思想に大きな影響を及ぼし、「ラオコーン論争」を起こした。ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンは『ギリシャ芸術模倣論』(1755)の中で、1506年に発掘された彫刻・ラオコーン像について、怪物に食われようとするラオコーン親子の像が強い印象を与えるのは、その断末魔や苦痛の表情ではなく、抑制された表現にあるとして、古代芸術の「気品ある単純と静穏なる偉大」を賛美した。一方レッシングは、ラオコーン像の彫刻家は美を達成するために見苦しい断末魔のシーンを避けて、その寸前から描いたから抑制された印象が現れたのだと主張した。ここから、レッシングは空間を使って絵の具やノミで表現する絵画や彫刻は、人物や風景などの物体を対象とし、唯一の決定的瞬間・最も含蓄のある瞬間を描くものであり、対象の行為を描き、時間の中の継続的な行為を描く文学や舞台などとは別のものとして分けた。この論によって、それまで「詩は絵のように」と言われ、詩と絵画を姉妹として見てきた西洋において、視覚芸術(空間芸術)と言語芸術(時間芸術)は分けられた*24

 さらに、ラオコーン論争についての論文の内容を引用しつつ分かりやすくまとめたものを以下に紹介してみる。「ヴィンケルマンは、当時の美学の潮流の中で、自然の模倣を最上として推奨する人たちに対し、古典、特にギリシャ美術の模倣こそ真の美に達する早道であることを主張した。一方で、レッシングは文学を絵画のように描写し、絵画を文学の様に物語ることを強く要求した当時の人々に対し、絵画と文学の本質的区別を明らかにすることで、それぞれの芸術にその領域を明確に配当することを目指した。

 ヴィンケルマンは「ラオコーン群像」の中で、自然の形成物よりもすぐれた芸術作品の価値を認めることによって、当時盛んであった自然模倣の推奨論に反撃を加えていることと、芸術は知性と手を結ぶことによって理想美を描くことができ、ギリシャの芸術はまさにその典型であり、「不当な激情」の排除はこのような知性との結合の結果であるという考えを述べている。また、彫刻の技法上の問題として、あるいはある一瞬を固定する芸術としての性質からの必然的制約としてよりは、ギリシャ人が理想美の観点から「不当な激情」の表現を排除したものである事を明らかにしている。

 対するレッシングは、芸術家の目的はまず感情的効果、即ち感動を生み出すことにあり、その目的に沿うために素材や形式や表現法も規定されるとする。従って芸術作品の各要素は、その追求する目的に対して一つの機能を果たしている、と考える。その立場からラオコーン群像の抑制された激情は、ヴィンケルマンの解釈したように、ラオコーンの高貴な魂を、一つの理想美を示すためのものではなく、芸術作品の究極の目的である感情的効果を追及するための手段であり、美全体は芸術の最終目的ではなく、追及される感情的効果を生むために不可欠な条件にすぎないとする。芸術作品においては、このラオコーン群像に見られるように、内容、形式、目的が互いに機能的に規制し合い、この点においては文学も例外ではないと述べる。ただ、造形美術と文学とはその本質的相違によって、目的追及の手法を異にする。造形美術と文学や音楽の様な芸術との相違の最も重要な点は何か、というと、前者は並存の芸術であり、後者は継起の芸術であることであると結論づける。造形美術は一瞬の永遠化であり、文学は変化(Handlung)を描く。

 造形美術は不動不変であり、それを構成する各部分が究極の目的に向って一致した時に美を具現され、感動を生み出す。これは一つの瞬間・視点を永遠化するものであるから、最も豊かな効果の生じる瞬間と視点、すなわち最も自由に想像力の働くような時点をとらえねばならないと主張する。さらに絵画と文学について、当時の描写文学の流行は、文学の絵画模倣であって、本来の文学のあり方に反する。また反対に文学の中の描写を絵画において模倣することが奨められているが、絵画には絵画としての描写の技法があり、それは文学の描写とは根本的に違ったものであらねばならないと主張する。ラオコーン群像の場合、ヴィルギリウスの「アエネアス」に描かれた場景をもとに製作されたにもかかわらず、造形美術の本質に合うように題材を加工したこと、すなわち主人公に絶叫させることなく、苦痛の表現を抑制したことは、ジャンルを異にする芸術間の模倣の模範とするべきである、とレッシングは論じている」*25

 これまで私は、順次に属する芸術作品は音楽で、並列に属するものが絵画や彫刻、文学だと思っていたが、以上の説明や論を見ると、並列に属するものは造形美術(彫刻や絵画)で、順次に属するものが音楽、文学、演劇としていることが分かる。レッシングは各芸術作品(特に造形美術)がいかにして見る者の感動を生み出すべきか(造形美術は一瞬の永遠化であり、文学は変化を描く)を説き、各芸術作品の創作における素材や方法、内容、形式の違いを明確にする手段として芸術作品にこのような区別を設けた、つまり創作者側からの視点での区別を設けたのではないかと思う。

 しかし、鑑賞者側からの視点で考えると、時間的な要素が芸術表現にとって必須である音楽や演劇が順列に属するのは分かるが、文学はどうか。確かに、朗読すればそれは音となるので、順列の芸術と言えるし、本などのテキストを見ている際にも、その意味を読み取り、鑑賞するのに視線の移動が必要なことから、それは順列の芸術であると言えるかもしれない。しかし、並列の芸術とされている造形芸術が、果たして純粋に「並列」であろうか? 不動不変の、静止する絵画作品を鑑賞するとき、私たちは実物や図像を前に、その全体的な印象を得ることができる。しかし、あくまでも全体的な印象しか分からない。絵画をじっくりと鑑賞する際には、遠くに離れて全体的な各部分の調和の美を味わい、近くに寄って、その「各部分」がいかに描かれているかに目を凝らす。並列する各絵画作品の、全体的な調和的美と、それを生み出すための各部分を、同時に鑑賞することは出来ないのではないだろうか。そこには必ず「視点の移動」が生じる。視点の移動には時間を伴う。彫刻作品であればなおさらそうだ。三次元で創作された彫刻作品を見るとき、ただその正面に立つだけならば、私たちはその前面のみを、ほとんど二次元的にしか捉えることができない。しかし彫刻作品は、見る者の位置によってその姿を変える。彫刻作品を鑑賞する際には、その作品の周りを回って、細部がいかに彫られているかを確かめる必要がある。そういった意味で、彫刻作品の鑑賞にもやはり大きな視点の移動が必要だ。そう考えると、鑑賞者側からのこのレッシングの芸術作品の区別における境界線は、かなり曖昧なものになってしまうのではないかと思う。

 作品中でこの言葉がどのように用いられているかを考える際には、以下の指摘が分かりやすい。「ギフォードによるE. A. マコーミックからの引用では『一方ではその働きが視覚的かつ進行的なものであり、それぞれの部分が時間の連続性の中で次々と生起する(nacheinander)。他方ではその働きは視覚的かつ静的なものであり、それぞれの部分は空間の中に並存する形で展開する(nebeneinander)』詩は時間のなかを移行する芸術で、絵画は空間の中に事物を位置づける芸術である」*26。順次は「その働きが視覚的かつ進行的なものであり、それぞれの部分が時間の連続性のなかで次々と生起する」もの、並列は「その働きが視覚的かつ静的なものであり、それぞれの部分は空間の中に並存する形で展開する」ものという意味をあてはめるのが一番適切であろう。

・U-Y 73「五歩、六歩。順次。まさしくそうだ。これが可聴態の不可避の様式」

 U-Δ100「五歩、六歩。《順次に連続するもの》か。まさにその通り。これが聴覚世界という避けがたい様態だ」

 “Five, six: the Nacheinander. Exactly: and that is the ineluctable modality of the audible”

 →目を閉じて歩くスティーヴンが、一足ごとに歩を進めるその様子と、砂の上を踏む足音で世界を認識しようとしている。「可聴態の不可避の様式」は冒頭の「可視態の不可避の様式」と対で、視覚で世界をとらえ、それが心的な観念なのか否かや、目に見えるものとは何か、いかにして「もの」を認識するのかを論じた過去の哲学者たちの説を自分のやり方で検証している。

・U-Y 73「ひぇっ!」

 U-Δ100「まっぴらだ!」

 “Jesus!”

 →スティーヴンが自分に、目を開けろ、と命じ、嫌だ、と拒否した後の一言。U-Yのには恐怖のニュアンスがあり、U-Δには絶対に目を開けない、というスティーヴンの強い意思が表されているように思う。その前の「順次」の部分で自分がうまくやっていると感じているし、その後の崖から落っこちる云々の部分では恐怖を感じているので、これはどちらの訳でもいいのではないかと思う。両訳の解釈の問題。

・U-Y 73「つんのめるがごとくげじげじ突き出す絶壁」

 U-Δ「岩盤に覆いかぶさり海に突き出る崖」

 “a cliff that beetles o'er his base”

 →「『ハムレット』一幕四場(第一挿話参照)」(U-Δ注)。ハムレットの該当部分(原文・訳書)を参照してみたが、ハムレットのほうは“What if it tempt you toward the flood, my lord, / Or to the dreadful summit of the cliff / That beetles o’er his base into the sea, / And there assume some other horrible form, / Which might deprive your sovereignty of reason”*27となっている。この部分の訳は以下となる。「激流のほとり、海中に突き出た断崖のうえ、そういう危険な場所におびきよせ、急に恐ろしい魔性の姿に変じて、人の気を狂わせる。そのときは、そうなったら、どうなさいます?」*28

 ここは亡霊を見たハムレットが亡霊についていこうとするのをホレイショーが止める場面。この“beetles o’er his base”の部分が「海中に突き出た断崖」になるのかよく分からなかった。his baseの意味がよくとれておらず、his baseを越えて断崖が突きだしているのか? his baseの上に断崖が突き出ているのか? と考えた。beetleは「(崖などが)突き出る」の意で、普通はbeetle over~だけで「~へ突き出る」になる。baseは基礎、土台等の意味で、シェイクスピア辞典のほうでもこの文脈に当てはまるような他の意味は載っていない。しかし、ハムレットのほうの文章で見ると、“the cliff that beetles o’er his base into the sea”になっていることから、his baseは断崖の上の岩盤(土台部分)のことで、hisはcliffと考えれば、このハムレットの部分の文章は“cliff that his base beetles over into the sea”(こうするとintoはいらないけれども)とすると崖の上の足元、土台部分が海の上に突き出ている状態が分かりやすいのではないかと思う(これは韻文なので語順が自由に移動することが多い)。第一挿話の該当部分を見てみると、「つんのめるがごとく海へげじげじ突き出すだっけ?」(U-Y 1. 36)“That beetles o'er his base into the sea”とあり、太字で表記されていることからも分かるように、ハムレットの台詞をそのまま引用したものになっている(この場面はヘインズが塔の周りの光景を見て、エルシノア城を思い出させる、とスティーヴンたちに話しかけるシーン)。実際に歩いているのはサンディマウントの浜辺で、崖などないこともそこから落ちる危険のないこともをスティーヴンはよく知っているはずなのだが、スティーヴンは若干の恐れを抱く。もちろんハムレットのいる崖を歩いているような気になっているのだろうとも思うが、その後の記述からそれだけではないのではないか、という感じもする。

・U-Y 73「不可避的に並列態を抜けて落っこちたら!」

 U-Δ100「《同時に並列するもの》を通り抜けて避けようもなく落っこちたらどうする!」

 “fell through the Nebeneinander ineluctably!”

 →ここでいう並列態とは、具体的にはスティーヴンが目を開けば辺りに見えるはずの、貝や海草、石、砂、海、浜辺に打ち寄せられたもの、遠くの太陽や空など、一見静止して見える、空間上のものたちのことと思われる。それらを「通り抜けて」落っこちる危険を考えているということは、聴覚や触覚による「順次」を確認しながらも、視覚認識のない状態で世界の存在を確信することがまだできていない状態なのではないか。前述の崖から落ちる恐怖と同時に、まだ世界の把握に自信の持てないスティーヴンの不確かさからくる動揺が感じられる。

・U-Y 73「あいつのブーツをはいたおれの両足があいつの脛の先っぽにある、並列態で」

 U-Δ100「やつの深靴をはいたぼくの二本の足がやつの脛の先にくっついている、《同時に並列して》な」

 “My two feet in his boots are at the ends of his legs, nebeneinander”

 →「スティーヴンはマリガンからもらった靴とズボンをはいている。ただしズボンは自分で古着屋から求めたもののようにも思われる(第一挿話参照)。最初に『リトル・レビュー』に掲載したときには、「やつの脛(his legs)」ではなく、「ぼくの二本の脛(my two legs)」であった。深靴(boots)はくるぶしの上までくる靴。おもに革製」(U-Δ注)。スティーヴンの履いているズボンに関しての描写はU-Y 1. 16。確かに、マリガンがスティーヴンにあげた、貸したものなのか、スティーヴンが自分で買ったものなのか、はっきりとは書いていない。U-Δ注にあるように、リトル・レビュー誌掲載のままであれば、問題なく読み飛ばせただろう。なぜ自分の両足が誰か他人の脛の先にくっついているのか? その前にスティーヴンは自分の腰にぶら下がっているトネリコの杖を意識し、それで(何か)叩いてみろ、と自分に言っている。スティーヴンはまだ目を開けていないので、自分の靴は見ていない。ならば、彼はマリガンの靴を履いている自分の足と、マリガンの脛の先が「並列」している状態を頭のなかで想像してたのだろうか? この辺りでは、「順列」するものと「並列」するものの描写が交互に現れているように感じられる。

・U-Y 73「造物主ロスの木槌の音」

 “made by the mallet of Los demiurgos”

 →「ブレイク(第二挿話参照)の神話体系『予言の書』に登場する創造力の象徴。鍛冶屋の姿をとる。名前のロス(Los)は太陽(Sol)のアナグラム。「木槌」とあるのは、トネリコのステッキを鍛冶屋のロスの槌に見たてたからか。Demiurgosは本来グノーシス派の創造神。ギリシャ語」(U-Δ注)。「ブレイクの着想した「造物主ロス」は四つのゾアたちの一つの、地上での形体だが、プラトンの着想した「デミウルゴス」または「造物主」は視覚世界を作りだした。プラトンの後期対話篇の一つ、『ティマイオス』では、デミウルゴスが私たち人類を取り囲む世界を形成したとする。『ティマイオス』のなかで神は善意から世界形成を行い、「出来る限り良いもの」として宇宙を創ったとする*29。対照的に、後のグノーシス主義的著作内では、悪しき創造行為を行い、物質世界の領域において人間を罠にかける悪魔としてデミウルゴスが描かれている。プラトン的立場では、神が自らのはたらきが良きものであることを知り、慈善心に富む創造主として世界を創造したというキリスト教的観点に非常に近い。『ユリゼンの書』等に登場するブレイクのロスもまた創造主であるが、デミウルゴスのように視覚可能な世界と永遠の世界とのあいだの、中間世界に住む。ブレイクはロスをハンマーで鉄床を打つ鍛冶屋として描き(人間の心臓の鼓動と結びつけられている)、大きなふいごを吹いて火を起こす(肺とのつながりがある)。ロスは命、性的な再生産、意識を創造し、アダムの男親としては聖書の族長たち、預言者たちの系譜の起源でもある、とされている」*30

 

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ブレイクにより描かれた木槌を持つロス*32

 

 ゾアとかロスとか言われてもブレイクを読んでいないと何のことだか分からないと思うので、一応簡単に説明を加えておく。ゾアたち(Zoas)はブレイクの作品のなかで、この宇宙を構成している基本存在。Zoaは本来ギリシャ語でbeast(獣たち)を意味する。このZoaを英語の複数形にし、Zoas(ゾアたち)という造語を作り、ブレイク独自の神話体系の主要人物を「四人のゾアたち(The Four Zoas)」と名づけた。四人のゾアたちとは、ユリゼン(Urizen)、アーソナ(Urthona)、サーマス(Tharmas)、ルヴァ(Luvah)を指す。ロスはアーソナが永遠界から切り離されて、現世に閉じこめられた後にその名を与えられた。ロスもまた永遠界から遠ざかることになるが、アーソナとしての特性と、聴覚と地(Earth)の要素に強い結びつきを持つ。ロスとエニサーモン(精神的な美しさ(Spiritual Beauty)とインスピレーション(Inspiration)の象徴)は配偶者関係にあり、同時に片割れ同士で、双子でもある。ロスは時間(Time)、エニサーモンは空間(Space)である*33。この「ロスは「時間」、エニサーモンは「空間」」という記述についてはよく分からないが、松島正一氏の論文「ミルトン、ブレイク、そしてロス==ブレイク『ミルトン』第一巻」による『ミルトン』についての言及の中で、氏は「ロスとは『詩人』であり、『時間』であり、予言の霊である」(p.138)、「時間はロスの贈物であり、『永遠の慈悲』(二四・七二)なのである。詩人は『動脈の一動悸よりも短い時間』、つまり瞬間のうちに六千年の歴史、事件を把え、それを作品という形で永遠化するのである。/時間に対して、空間もロスの息子たちによって創造される」(p.144)と指摘している*34。ロス(Los)を反対から読むとSol(太陽)になること(GodとDogに似てますね)、Losにsを足すとLoss(喪失)になるように、無関係に思われる意味、対立しているとも思われるような意味がひそかな連関を持つことや、ロスが「時間」と密接な関係を持ち、その片割れ(あるいは息子)が「空間」に繋がりを持つ、というところにブレイクの思想とこの挿話との(あるいは作品全体との)世界認識における根底での共通点を感じる。ブレイクの思想中に現れる固有名詞と個々の登場人物の関わり合いや特性について解説しているときりがないので、この辺で一旦区切ることにします。

 グノーシス主義の思想における世界の誕生と成り立ちの部分を簡単に説明すると、低次アイオーン(アイオーン(aion, aeon)はギリシア語の原義では 期間、時代、永遠などの意味。神的な原理、世界、圏域の意味と、超越的な神格、霊格の意味があり、グノーシス主義では両義的な意味を持つ。高次のアイオーンは「真の神、真実の圏域」)の一つであるソフィア(Sophia、知恵の意。グノーシス主義のアイオーンとしてはデミウルゴスの母あるいはデミウルゴスが創造される原因となった、至高アイオーン中の最低次アイオーン)は原父(propateer、プロパテール。原父、先在の父。世界の始まる原初にいたとされ、真の存在の栄光に満ちたプレーローマの創造流出の源泉となった超神的存在。「知られざる父」、「知られざる至高者、神」「ビュトス(深淵)」とも呼ばれる。様々な高次アイオーンの存在の「流出」をもたらした。グノーシス主義において旧約聖書の神ヤファウェは「偽の神」とされる)に対し、「情欲的憧れ」と共に「知識欲」をもって、その本質を知ろうとした。それによってプレーローマ(Pleerooma、至高のアイオーン界(充満界)。プロパテールを囲んで真の宇宙を構成する高次アイオーンによって構成された圏域。地上世界での宇宙は「悪の宇宙」とされている)プレーローマ世界に「混沌」の萌芽を生みだし、地上世界=この世が創造される原因となり、プレーローマ世界から堕落する。デミウルゴスはこのプレーローマを模倣して人間の住む現実世界を作ったが、これは不完全で悪しき世界とされている*35

 作品に戻ると、ここでスティーヴンは自分のトネリコのステッキ(剣)で周りにある何かを叩いたらしく、それを「造物主ロスの木槌の音」と表現している。それは彼が聴覚によって現実世界を認識したことの証拠でもあるし、創造主であるロスを持ち出していることによって、彼自身が現実世界を創り出している表現とも読めるのではないか、とも思う。

・U-Y 73「こうしてサンディマウントの磯を果てしなく歩いて行く?」

 U-Δ100「ぼくはいま、サンディマウントの海岸を歩いて永遠のなかへはいって行くのかしら?」

 “Am I walking into eternity along Sandymount strand?”

 →into eternityで「永久に、永遠に」などの訳出例があるので、「果てしなく」という訳でも問題はないし、むしろ自然だと思うのだが、その前にブレイクの言葉((永遠界から追放された)造物主ロス)があることを考えると、U-Δのように「永遠のなかへ」としたほうが、すこしぎこちなくはあるが適切なのではないかと思う。ちなみに、「そもそもなぜスティーヴンはサンディマウントの浜辺へ行ったのか? この後セアラ叔母さんの家へ行くことを考えていたのか?」という疑問が読書会中で出された。言われてみれば第二挿話でスティーヴンはディージー校長に新聞社へ投稿用原稿をもっていってくれと頼まれているのだから、まっすぐ行けばいいものを、とまじめな私たちは(笑)思ってしまうのだが、この挿話を物語るためにジョイスの考えた舞台設定だったのか、授業と校長との話し合いの疲れを癒すための一休みだったのか、この浜辺がスティーヴンのお気に入りの散歩場所だったのか、質問された方の言うようにセアラ叔母さんの家へ行くことを考えていたのか、「サンディマウントの浜辺を散歩した理由」の答えは色々あると思われる。

・U-Y 74「荒磯のぎざたち」

 U-Δ100「荒海の宝」

 “Wildsea money”

 →“Wild sea”は「荒海、荒れ狂った海」の意。荒磯は「波の打ち寄せが激しい磯」。「磯」は「海、湖などの波打ち際。水際。特に石の多い海岸/波をかぶったり流れに洗われたりする岩石」の意。「荒海」は「波が立って荒れている海、波の荒い海」の意。以上を考えると、原文ではwild seaで浜辺のことを指してはいないのではと思うが、その前にスティーヴンが貝らしきものなどを踏みつけている描写があるので、それを考慮に入れると浜辺と解釈してもいいのかもしれない。ただ、上に挙げたように「磯」で「石の多い海岸」という意味も出てくるのだが、そこをあえて「荒磯」としたのは単に「波が激しく打ち寄せる浜辺」というふうにwild seaを説明的に訳出したくなかっただけだろうか。U-Δのほうでは原文通りの訳になっている。浜辺の貝を見て、荒海にいた頃の貝を想起しているという解釈でも、そのまま目の前にある砂の上の貝のことを言っているという解釈でもいいのでは、と思う。ここから、スティーヴンの目の前にある海は、そこまでの高波ではなく(あんまり荒れていたら散歩などしないのではないか)、少なくとも凪いだ静かな海ではないのではないかと想像される。

「ぎざ」は昔の五十銭銀貨という意味と、ぎざぎざ、いくつもの刻み目という意味がある。貝にはぎざぎざとした触感のものも多いし、そのまま硬貨をも指すという意味ですごい訳だと思うが、これは調べなければなかなか分からない訳語。この硬貨(money)から次のディージー校長へと連想はつながるのか。ちなみに金銭としての貝の役割については以前の読書会で既に指摘されている。

・U-Y 74「ディージー先生ならなんでも知ってるべさ」

 U-Δ100「ディージー師匠なら貝のことはなんでも知っておじゃろうよ」

 “Dominie Deasy kens them a’”

 →「Dominieはスコットランド方言で学校教師、聖職者、先生、牧師などの意。kenもスコットランド方言・イギリス北部方言でknowの意。a’もスコットランド方言でallの意。なので、方言を取ると“Domine Deasy knows them all”のような感じになるだろうか。方言なので、両訳ともそれを反映しているのだが、U-Yのほうは私にとってなじみの深い、北海道・東北地方の方言だとすぐに分かる。U-Δの「おじゃろうよ」というのは、いったいどこの方言なのか、それとも方言っぽくしただけなのかが分からない。U-Δではthemを貝のこととしているが、ここのmoneyは不可算名詞で使われていると思う。この辺の細かい文法にあまり詳しくないのだが、不可算名詞を代名詞で受けるときにはitをつかうのではないだろうか(違ってたらすみません)。口語体だからその辺は適当なのか、それとも浜辺にあるたくさんの貝をイメージしてthemで受けているのか。

・U-Y 74「サンディマウントへ行こうじゃないか/ひんひんマデリン牝馬ちゃん?」

 U-Δ100「サンディマウントへ行かないか/マデリン牝馬ちゃん?」

 “Won’t you come to Sandymount, / Madeline the mare?”

 →この詩(韻文・歌)について、ソーントンは「アイルランドの歌か詩のようだが、出典は不明」とし、D. Daichesは「有名な韻文だがどの韻文かは不明」と述べている。*36この詩のアクセントの強弱については後述。この詩が何か別の有名な歌を思い出したものなのか、スティーヴンの創作なのかはともかく、「マデリン」という名前を詩の中に取り入れたとき、『失われた時を求めて』の登場人物のモデルにもなっているマドレーヌ・ルメール夫人(Madeleine Lemaire、1845-1928)の存在が明らかにスティーヴンの意識の中で働いていた、との指摘がある*37

「夫人は19世紀末から20世紀初頭にかけて、肖像画・挿絵・花を主とした構成作品の水彩画家として有名で、時に「薔薇の女帝」と呼ばれ、パリの芸術家たちのサロンの主でもあり、プルーストの上流階級仲間内での親友でもあった。もし“Madeline the mare”で“Madeleine Lemaire”を想起しているなら(スティーヴンはパリ時代に彼女の作品を見たり彼女の評判を聞いていたりしていたかもしれない)、彼はこの上品なフランスの女性アーティストがダブリンに来て、ダブリンの文学界に教えを与えてくれればいいのに、と考えていたかもしれない」*38。あるいは、mareがフィリップ・ジョセフ・アンリ・ルメール(Philippe Joseph Henri Lemaire、1798-1880)を指しているのかもしれないとも指摘されている*39

ルメール1830年代にパリのマドレーヌ寺院(l’Eglise de la Madelaine、英語ではchurch of the Mary Magdalenとなり、マドレーヌはマグダラのマリアを指す)のペディメント(古代建築の三角形の切妻壁)あるいはティンパヌム(両脇のペディメントに囲まれた三角形のスペース)に、最後の審判レリーフを彫った彫刻家である。もし“Madeline the mare”がMadeleineに彫刻を施したルメール(Lemaire)なのであれば、スティーヴンはこの素晴らしい彫刻家がサンディマウントにやってきて、浜辺を歩いている途中で通り過ぎたはずのリーヒー台地にあるスター・オブ・ザ・シー教会のファサードを美しく飾ってくれないだろうかと考えているのかもしれない、とギフォードは述べている」*40

・U-Y 74「リズムが始まる」

 “Rhythm begins, you see”

 →「スティーヴンは詩のリズムを感じ取り、試作を試みる。その詩は本挿話後段で形をとり始める」(U-Δ注)。リズムといえばU-Yでは普通の文章でも言葉のリズムを重視した訳なのだが、ここで言うリズムとは恐らく歩くたびにスティーヴンが踏みつける貝らしきものの音辺りから始まっているのだろう。

・U-Y 74「音綴完備の弱強四歩格の行進」

 U-Δ100「不完全詩行で弱強四歩格の行進調」

 “A catalectic tetrameter of iambs marching”

 →「原詩の一行目に強勢を付して示すと、Won’t you come to Sandymount.(傍線部が強勢) 最初の詩脚に弱強の弱にあたるべきシラブルがない。単調におちいるのを避けるための操作である。別の版にAcatalectic(完全詩行)とあるのは草稿によったものだが、プレイアド版の注釈者はジョイスが韻律法に不案内だったせいの誤りかと記している」(U-Δ注)。ここで言っているのはもちろんスティーヴンのマデリン牝馬ちゃんについての韻文のこと。ちなみに私の持っているダウンロードしたガブラー版ではAcatalecticとなっていた(紙版ではどうなんでしょうか?)それぞれ、Acatalecticは旋律的に完全な音節の定数を持つ一連の韻文(完全詩行)、tetrameterは四歩格、iambは弱強格の意。

 英詩に疎いので(諸方面に疎いが)あまり自信がないのだが、英詩の用語と構造について説明してみる。例として“Because I could not stop for death”という詩行を挙げよう。

 音綴(=音節、Syllable)は連続する言語音を区切る分節単位の一種。母音のみまたは母音+子音で構成される。音声の聞こえの一つのまとまり*41

 韻脚(詩脚、音歩、foot)は詩のリズムの基本単位として多くの韻律(meter)に用いられる。例でいうと、“Because” “I could” “not stop” “for death”がそれぞれの韻脚。韻脚は単語を跨いでもいい*42

 弱強格はそれぞれの音節のアクセントの強さのこと。“Because / I could /not stop /for death”という詩行だと、(青字部分が弱いアクセント、赤字部分が強いアクセント)“Because / I could / not stop / for death”となり、弱強の韻脚(foot)が四つで、完全な弱強四歩格になる。

「音綴完備」とは完全詩行のこと。旋律的に完全な音節の定数を持つ一連の韻文を指す。

 韻律は韻文のリズムあるいは規則。言語の音韻的性質に基づいている。例えば日本では、五拍・七拍を基本とした五七調・七五調が伝統的韻律。これに基づいて日本の韻文は作られる*43

 押韻構成(rhyme scheme)は詩または歌で、行の押韻のパターンのこと。押韻は行の最後の部分になされる*44

 例えば、”Bid me to weep, and I will weep,

     While I have eyes to see;

     And having none, and yet I will keep

     A heart to weep for thee. “ 

はバラッド韻律の弱強格。押韻構成はABAB(weep-keep, see-theeで韻を踏んでいる)。

「ソーントンとD. Daichesはスティーヴンの詩行がイギリスやアイルランドでよく知られた歌や詩で一般的に使われるバラッド韻律(弱強四歩格と弱強三歩格が交互に用いられる)のようだという事実に影響を受けているようだ」*45

 バラッド韻律は通常四行連。押韻構成は通常ABAB、弱強四歩格と弱強三歩格が交互に現れ、四行で一連をなす。四行連は英詩で最も多く用いられるスタイルで、バラッド韻律は讃美歌などにもよく使われる。バラッド連(バラッド韻律を用いた一連の詩)の押韻構造は、ABCBとなることが多い。バラッド(音楽に合わせた踊りを伴う抒情詩的物語。15世紀頃スコットランドイングランドの境界地方で盛んに作られ、口伝された)に多く用いられたのでこのように呼ばれるが、普通律(common meter)とも呼ばれる。バラッド詩は口承物語歌のバラッドが蒐集・印刷されるようになった18世紀頃から注目され始めた。口承バラッドは自己劇化、遊戯性、無常感(風化意識)、アイロニー・ユーモア、パロディ、感傷性、教訓性、時事性など様々な要素を取りこんでいる*46

 以上を踏まえると、スティーヴンの詩は“Won’t you /come to /Sandymount, / Made/line the /mare?”となり、強弱格のバラッド韻律になる。そもそも最初のWon’tにアクセントが来ている時点で、弱強格にはならない(弱強格ならWon’tが弱くてyouにアクセントが来るはずだが、その調子で続く単語にアクセントをつけていくと不自然な英文になってしまう)。そして二行で終わっているので、未完成であるようなイメージを与える。U-Δ注にあるように、最初の詩脚にひとつ弱のシラブルを入れれば、韻脚の区切りがひとつずつずれて、一行目は弱強格になるが、そうすると二行目の最初にも弱のシラブルを入れなくてはならない。これは単調になるのを防ぐための意図的な操作かもしれないが、二行で終わっているものを完全詩行と言っていいのだろうか? それとも二行連の詩なのか? ちなみにこの詩のU-Yの訳語のほうにアクセントを当てている方がいた(U-ΔよりもU-Yのほうが強勢をつけやすい)。うまく強弱四歩格+強弱三歩格になっている。この後スティーヴンは詩をちょっと変えるので、まだ続きます…

・U-Y 74「おっと違う、ギャロップだ。デリン牝馬ちゃん」

 “No, agallop: deline the mare”

 →agallopは“at a gallop”の意。delineの固有名詞としての発音は分からないが(デリーンとデラインの二つの発音がのっていた)、強勢は恐らくiの上につくだろう。スティーヴンが先程の詩の二行目を“deline the mare”に変えると、ここだけ弱強二歩格になる。「マーチじゃなくてギャロップだ」ということは、Maを取ってもっと速く走るということだろうか? 四歩格+二歩格は詩的効果を高めるための逸脱として見ていいのだろうか? ギャロップを調べてみると、馬の襲歩という意味と、その様子を模したダンス、ドイツ起源の舞曲の意味がある。襲歩のほうは、全速力で走る馬の歩き方。「三種の歩度」(常歩、速歩、駈歩)には含まれない。襲歩では三本以上の足が接地している状態がなく、四本すべてが接地していない場合もある*47。ダンスのほうのギャロップは、1820年代のウィーンで大流行した。手をつないだ二人組が大きな輪を作り、猛烈な勢いで回る*48。ドイツ起源の舞曲のほうは二拍子*49。この説明を見て思いついたのだが、ギャロップにする、ということは、二拍子(二歩格)にするということではないだろうか?(なぜそうしたかはよく分からないが、歩くテンポは二拍子のイメージの方が近い)。そして、delineを動詞として考えると、「線で描く、線を引く」という意味になるので、ここは「馬/海を描く」という意味も隠されているのではないだろうか?

<U-Y 74 ~世々にいたるまで、スウィンバーン、自由区、無からの創造、オムファロス~>

・U-Y 74「あれから何もかも消え失せてしまったかな? もし目を開けて永久に暗黒の不透明の中にいることになったら」

 “Has all vanished since? If I open and am for ever in the black adiaphane”

 →adiaphaneはdiaphane(透明)に否定の接頭辞aがついたもので、不透明のこと。あれから何もかも消え失せてしまったかな、と考えるスティーヴンは、目をつぶって歩いている間にブレイク的な永遠の世界に入ることを思っていたのか? だとすると、永遠界には何もないのだろうか? 目を開けて暗黒の不透明にいる、とは、目を開けても目を閉じたときにできる暗闇の中にいるということだろうか? しかしここで使われているadiaphaneという言葉は、やはりアリストテレスの闇の中の不透明性を喚起させる。スティーヴンは光と色彩のある、透明性を内包した世界に出たいのかもしれない。

・U-Y 74「もういい!」

 “Basta!”

 →イタリア語。英語で“That’s enough!”の意。

                   ↓

       ☆そしてスティーヴンは目を開ける。世界は変わっていない。

 

・U-Y 74「永久に、世々にいたるまで」

 “and ever shall be, world without end”

 →「『公教会祈祷文』の「栄唱」より」(U-Δ注)。

 この“world without end”というのは、前述の目を開けても存在するかもしれない暗黒の不透明の世界を指すものだろうか? それとも文脈からして、目を閉じても開けても、永久にこの世界は存在する、ということを言いたいのか? この栄唱については、第二挿話でも出てくる。ディージー校長の書斎の描写だ。「サイドボードには皿に集めたステュアート硬貨、沼地の鐚銭宝物。かつまた将来も。そして紫色のフラシ天の匙箱におさまり、艶褪せて、十二使徒が全異教徒に教えを説いてきたところ。世々にいたるまで」(U-Y 2 58)

“On the sideboard the tray of Stuart coins, base treasure of the bog: and ever shall be. And snug in their spooncase of purple plush, faded, the twelve apostles having preached to all the gentiles: world without end

 この部分ではディージー校長の書斎の描写が栄唱の二つの部分によって分断されている。ただ、U-Y 74については、栄唱の最初の部分、“As it was in the beginning”「始めにありしごとく、今もあり」がない。「始め」はどこへ行ったのか?

・U-Y 74「リーヒーの高台」

 U-Δ101「リーヒー台地」

 “Leahy’s terrace”

 →「サンディマウント道路から海岸に通じる小さな通り」(U-Δ注)。前に、リーヒー台地のスター・オブ・ザ・シー教会をスティーヴンが通り過ぎた、という指摘があったが、スティーヴンは本当にここを通り過ぎて海岸へやってきたのだろうか? それとも「高台」というくらいだから、海岸から教会が臨めるのだろうか?

・U-Y 74「女人連」

 U-Δ101「女ども」

 “Frauenzimmer”

 →「普通は軽蔑的に用いる。二人の女の職業や名前はスティーヴンの想像」(U-Δ注)。「女人連」は中国語で「女連れ(女の集団・仲間)」の意。やはり、軽蔑的あるいはユーモアを含んだ意味で用いられる。Frauenzimmerという言葉は、17世紀まで身分の低い女または女の蔑称としては使われていない*50。U-Yでこれをあえて中国語にしたのは、この挿話の多言語性を意識したものか。ちなみに女人連は中国語読みで“nǚ rén lián”(ヌーレンリェン、だと思う)。

・U-Y 74「だらだら坂の浜辺をぶたぶたとやって来て、外鰐足が泥砂に沈む」

 U-Δ101「なだらかに下る浜辺をだらだらと歩いてくる。外股の扁平足がどろりとした砂に埋まる」

 “and down the shelving shore flabbily, their splayed feet sinking in the silted sand”

 →shelvingは(土地が)だらだら坂になる、ゆるい勾配になる、の意。flabbilyは「たるんで、気がなく、だらしなく、ぐにゃりと、はりのない、ぶよぶよした、だぶだぶした」などの意。U-Δは「気がなく」のニュアンス、U-Yでは「だぶだぶした」のニュアンスが強いか。sprayed feetは「扁平足・外股の足」のこと。U-Yの「鰐足」は、「歩くときにつま先またはかかとが普通以上に外側に向くこと。爪先が外に向くのが「外鰐」」という説明がある。つまり外鰐=外股ということになる。扁平足の人は外股になりやすい、という記事を見つけたが、U-Yの訳だと扁平足の意味が入っていないことになるのではないだろうか(女が外股かつ扁平足であるのかどうかは不明だし、姿を見ただけでは外股であることは分かっても扁平足かどうかまでは分からない)。siltは「シルト、沈泥(砂よりは細かいが粘土よりは粗い沈積土)」。女たちはスティーヴンよりだいぶ海に近いほうの砂浜を歩いているのではないだろうか。U-Yの「ぶたぶたと」という表現が柳瀬さんらしいのだが、「ぶたぶたと」は「まるまると肥満しているさまを表す語」「じっとり濡れる様を表す語」という意味を持つ (e.g.ぶたぶたとした肉合い)。多分「だらだら」に合わせて「ぶたぶた」を使ったのではないかと思うが、こう書いてしまうと何となく女たちが太っているような印象をうける(実際はどうかまだ分からない)。U-Δのように「なだらか」「だらだら」で十分なのでは、と思う。また、この部分の原文ではジョイスが再び言葉のパズルをやっているように感じる。Sが多いのだ。図にすると、

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 こんな感じになるのではないだろうか(ing、edの対応、砂と砂浜の対応関係)。例によって、だからどういう意味があるのかと訊かれても何もない。

・U-Y 74「おれと同じく、アルジーと同じく、我らが強大なる母のもとへ」

 U-Δ101「われらが大いなる母のもとに来るのさ、ぼくみたいに、アルジーみたいに」

 “Like me, like Algy, coming down to our mighty mother”

 →「(Our mighty motherは)海。アルジャーノン(愛称アルジー)・チャールズ・スウィンバーンの詩から。第一挿話参照」(U-Δ注)。第一挿話を見てみると、「海ってのはアルジーの称した通りだ。大いなる慈母か」(U-Y 1. 14)“Isn’t it the sea what Algy calls it: a great sweet mother?”という記載が出てくる。この「大いなる慈母」という言葉は、実際にはジョージ・ラッセル(1867-1935、筆名Æ)の言葉である*51。スウィンバーン(1837-1909)はヴィクトリア朝イギリスの詩人。デカダン派としてみなされている*52。単に世紀末が好きというのもあるが、スウィンバーンに関して、ファム・ファタルとの関係を指摘した論文を見つけたので、なるべくわかりやすいように引用しつつ、まとめつつ紹介したい。

「スウィンバーンの詩には多くのファム・ファタルが登場する。彼はファム・ファタルのイメージをヴィクトリア朝イギリスに紹介し、それを定着させた第一人者で、彼のファム・ファタル像が特に世紀末の詩人や文学者たちに与えた影響は大きい。ファム・ファタルとは大まかに言えば、美しさで男を誘惑し、破滅に至らしめる魔性の女。日本語では「運命の女」「宿命の女」「死を招く女」「妖婦」等の訳がある。19世紀にはファム・ファタルのイメージは文学だけでなく多くの絵画でも扱われ、その象徴は特に世紀末全体を包み込む、あの特有の雰囲気を代弁するイコノグラフィーだった(イコノグラフィー…図像学。絵画、美術等の美術表現の表す意味やその由来について研究する学問。思想とイメージの関連の分析を行うことで、美術作品形成の様々な要素を理解する助けとなるもの)。

 スウィンバーンの「時の勝利」等の作品は、失意の体験が制作動機となっていて、この体験は彼の精神生活および詩の世界に大きな影響を与えたとされ、多くの批評家に取り扱われた。ラング(Cecil Y. Lang)は彼の失意の相手がメアリ・ゴードンという彼のいとこであることを指摘している。スウィンバーン家とゴードン家は互いに頻繁な行き来があり、彼ら二人は幼い時から親しい遊び友達だった。メアリは詩や小説等を発表する文学的才能に恵まれた女性で、同じく文学的想像力豊かなスウィンバーンとの間には、二人だけの想像的な、豊かな世界が存在していたと考えても不思議ではない。メアリはまたスウィンバーンのように乗馬と水泳が得意で、彼のすることはなんでもするという、彼の妹のような存在だった。しかしメアリは1863-1864年頃、彼に自分がディズニイ・レイス陸軍大佐と結婚することになるだろうと打ち明ける。この宣言はスウィンバーンにとって大きなショックであったと考えられる。幼い時から二人で共有していた世界の崩壊を意味するからだ。「時の勝利」が書き上げられた過程には、このような背景があると思われる。

 こういった意味でメアリはスウィンバーンにとってのファム・ファタルになるのだが、その出現は彼の単なる個人的事件に端を発するものではなく、詩人としての芸術観に深く関わる、より大きな要素に関系があると思われる。『詩と批評についての覚え書き』のなかでスウィンバーンは、言葉が「作者の個人的な感情や信念の主張ではなくて、劇的で、多面的で、多様な要素を含んでいるものである」という姿勢を明らかにしている。ボードレール悪の華』やロセッティの『生の家』など、19世紀後半から世紀末にかけて、「魂の状態(マタ・ダーム)」を巡る詩集は少なくない。

 ファム・ファタルについてのスウィンバーンの興味はそれ以前からあったと考えられ、それは彼の学生時代に培われてきた。彼はファム・ファタルを含めて、成就しない不運な愛というものに特に関心を抱いていた。ファムファタルに特徴的な「残忍さを伴う美」のアナロジー(類似・類推・比喩等の意)を、彼は普段は静かで美しいが、時として猛々しく荒れ狂う海の中に認めた。彼の詩のなかで海は重要な役割を持ち、それは常に変化し続けるが、それでいて絶えることなく存続していく、この世界を突き動かす不変の法則のアナロジーでもある。スウィンバーンはファム・ファタルという恐ろしき女たちだけを描いているのではなくて、ユング的な意味における、「偉大なる優しい母」としての海、そしてその海が象徴している、人間の力ではどうしようもない運命の法則にも呼び掛けている」*53

 グレートマザーとは、ユングが提唱した元型(アーキタイプ)の一つ。集合的無意識の中に存在する母なるもの(実際の母親のことではない)、慈しみ、包み込むと同時に独占・束縛するという破壊的なイメージを持つ。各地の民話、童謡、おとぎ話などに表現されている。自我の発達過程でグレートマザーとの対決は大きな課題の一つである*54

「時の勝利」は以下の様な詩だ。

I will go back to the great sweet mother,

 Mother and lover of men, the sea.

I will go down to her, I and none other,

 Close with her, kiss her and mix her with me;

Cling to her, strive with her, hold her fast:

O fair white mother, in days long past

Born without sister, born without brother,

  Set free my soul as thy soul is free.*55

 海—母への強いアンビヴァレントな感情が露呈されている。

 

 ふと思ったのだが、motherにsをつけるとsmother(抑えている、包む、束縛する、窒息死させる、覆い隠す、隠蔽する、隠す、発達を抑える、息もつけないようにする、などの意)になる。母の死にとらわれ続け、なおも母を愛し、慕いつづけるスティーヴンとファム・ファタルは密接な関係にあるのではないだろうか。

・U-Y 74「産婆鞄」

 “midwife’s bag”

 →助産婦のかばん。図参照。当時の女性が、いくら仕事とはいえ、画像のようなかばんを持つことは珍しいことではなかったのだろうか?

 

*56。">

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産婆鞄の一例*57

・U-Y 74「でか傘」

 U-Δ101「大きな雨傘」

 “gamp”

 →gampはイギリスのスラングで「大きな傘」の意。ディケンズ作の“Martin Chuzzlewit”(マーティン・チャズルウィット)に出てくる看護師(セアラ・ギャンプ Sarah Gamp)の名にちなんで。彼女はいつも大きな傘を持っているのだが、アルコール中毒だ。当時の助産婦は出産から母体が正常に戻るまで星の面倒を見、死者の葬儀等の準備などもする*58。まさに揺り籠から墓場まで。

・U-Y 74「自由区」

 U-Δ「特別区

 “the liberties”

 →「おもに聖パトリック大聖堂周辺。もと市の行政権外にあったゆえこの名がある。当時の貧民街」(U-Δ注)。

 自由区…元々はノルマン・コンクエスト時代(12世紀)に、ノルマン人国家がアイルランドにでき、イギリス王権下を離れることを危惧してヘンリ2世がレンスター地方で自らの地位を確立するためダブリンをブリストル市民に授与し、レンスター、ミーズ、トリムなどに国王の持つ司法権を領主が代行し、国王・役人からの干渉を受けない特権領(=自由区)が設けられたことに端を発する。17世紀後半になると、特権区に移ってきた織工たちに家を供給するため開発が始まる。イギリスからの植民者たちが毛織物製造業を始める一方で、多くのユグノー(16-17世紀のフランスのカルヴァン派プロテスタント)たちは絹織物製造に従事するようになる。ユグノーたちは故郷でその技術を身につけていた。彼らはダッチ・ビリーと呼ばれる、破風が道路に面した伝統的な形式の家を建てた。

*59">

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スウィーニーズ・レーンのダッチビリー*60

 イギリスの毛織物製造業者はアイルランドの製造業に脅威を感じ、航海条例(Navigation Act、1652年から複数回)が制定され、アイルランドの毛織物の輸出には重い関税が課されるようになる。この条例はイギリスが自国の産業保護、国の財政危機への対策として制定された。対象国はアイルランドのようなイギリス植民国だけではなく、オランダやスペインなども含む。

 アイルランドに不利な影響を与えた最初の航海法は、イングランドの植民地にアイルランドから直接輸出することを禁じた王政復古期の1663年のものだった。1665年—1667年、第二次英蘭戦争下の影響での経済悪化による輸入禁止(アイルランドからイギリスへの肉の輸入禁止)の打撃は、牧畜関連の輸出の多様化、特にフランスやイングランドへの羊毛輸出によって十分補われた。

 南マンスター地方では、イングランドから導入した技術と移民労働者によって毛織物生産が行われていて、それが主力輸出品目となっていたが、この毛織物輸出は1690年代半ばに復調した。しかしその頃、イングランドにおける毛織物業者は対仏戦争とそれによる経済危機のため競争力を低下させていて、彼らはアイルランドからの毛織物輸出を禁止するようイングランド議会に訴えた。1693年には毛織物輸出禁止の法案が提出され、1699年に可決された。その代わりイングランドと競合しないリネン産業の発達をアイルランドで促進させ、アイルランド議会と激しく対立する。

 毛織物輸出禁止のリネン産業促進による代替は何の補償にもならなかった。リネン産業はアルスター地方を中心に行われており、利益を得るのは当時のアイルランドの政治的支配層・国教会派のアングリカン支配層ではなく、非国教徒で新参のプレスビテリアン(長老派)だった。1693年の毛織物輸出禁止法案では、イングランド以外の国へのすべての毛織物輸出を禁止した。イングランドに輸入された粗目平織毛織物(フリーズ)を除いて、アイルランド産毛織物に違約関税がかけられた。

 しかしこの法案がその後のアイルランドの経済的苦境の決定打ではなかった。法案可決直後にはかなりの毛織物業者がアイルランドを離れざるを得なかったが、長期的に見ればマンスター地方も西レンスター地方もイングランド向けの紡毛・梳毛の大規模生産に移行可能で、国内市場での毛織物需要の高まりもあったので、ダブリンでは毛織物生産が続けられた。イギリスはアメリカ独立戦争によってもたらされた深刻な財政危機と不況に陥り、アイルランドで貿易規制の撤廃を求める動議が提出・可決され、1780年イギリスはアイルランドに課したすべての貿易規制を撤廃する(航海法の緩和)。

 その後、絹織物・ポプリン(木綿、絹、羊毛などでうね織にした丈夫な織物)製造業は順調な発展を遂げたが、1786年、ダブリン協会*61(Royal Dublin Society、数少ない改革主義者の不在地主たちによって設立された。貧困にあえぐアイルランド農民のための農業技術支援を主な活動とする。1731年設立)によるアイルランドの絹製品販売店の支援を妨げる法令が制定され、これらの産業の成長が止まる。更にその頃はナポレオン指揮下のフランスとの戦争が始まり、原材料の輸入が困難になって絹織物業者は苦境に陥った。

 織物業はダブリン協会の支援によりスペインから羊毛を輸入することができ、一時再興の兆しを見せたが、1798年の蜂起(イギリスからの独立を求める国内各地での一連の蜂起)、1803年のロバート・エメットの蜂起(ユナイテッド・アイリッシュメンのメンバー、ロバート・エメットによるダブリン蜂起)に多くの織工たちが加わったこと、連合法成立に始まった経済的衰退が特権区における再興を妨げた。かつて栄えた家々は貧しい借家になり、失業者や貧困者が住むようになる*62

 ダッチ・ビリーとは、18世紀初頭のダブリンに多く見られた建築様式。これらの建物は、18世紀半ばから後半にかけて、ジョージアン様式の建築*63へと建て替えられてしまう。名前の由来は、オレンジ公ウィリアムにちなんでいると言われている。1685年フォンテーヌブローの勅令によるフランスのユグノー流入や、1690年以降迫害から逃れてきたオランダ人、フランドル人のプロテスタント流入と関係があるのだろうか。ダブリンのダッチ・ビリーは17世紀後半、都市の急速な再開発、再生が行われていた頃に遡る。少なくとも1680年代にはこういった建物がダブリンの至るところにあったと言われている。建物の特徴として、屋根の棟が通り・建物正面と直角をなし、レンガ造りで、石を基礎としている。室内角には暖炉が設けられ、隣接する二軒がそれを共有することができ、大きな組み合わせ式煙突を持つ。その反対側には通常各階に小さなクローゼットがあり、屋根勾配は年代を経るにつれ急になるものが多くなった*64

・U-Y 74「フロレンス・マッケイブ夫人」

 “Mrs Florence MacCabe”

 →パトリック・マッケイブの未亡人。彼は1902年に実在するダブリンの州長官だったらしい(しかしその記録は見つからない)*65。彼女はブライト通りに住んでいる、と書かれているが、ブライト通りも自由区周辺の通りで、貧民街に近く、あまりいい場所とは言えなかっただろう。州長官の未亡人がそんな場所に住むのだろうか? それともフロレンス・マッケイブ夫人がブライト通りに住んでいる、ということ自体がスティーヴンの想像なのだろうか?

                   ↓

                ☆産婆鞄

                  ↓

           ☆自分(スティーヴン)の誕生

                  ↓ 

       ☆時(世界)そのものの誕生へと思索は移行する

                  ↓

・U-Y 74「無からの創造」

 “Creation from nothing”

 →「はじめに神天地を造りたまえり」(創世記1:1)より」(U-Δ注)。この部分については以下のような関連する思想とのつながりが指摘されている。「「創世記」の冒頭には、「始めに神は天地を創造された」とある。神がこれらを既に存在しているものから造ったのかどうかについては何も書かれていないが、2世紀頃までのキリスト教神学者たちは神が無から世界を存在へともたらしたのだと主張していた。これはデミウルゴスが原初物質から世界を創り出したのだというグノーシス思想とは反する。マカバイ記*66(カトリック教会では正典(第二正典)とされている2世紀の書物)には、「息子よ、天と地を見なさい。そしてそこにあるすべてを見なさい。神がこれらを「ないもの」から創ったこと、人間も同様に創られたのだということについて考えなさい」(マカバイ記2 7:28)*67という記述がある」*68。(ここではデミウルゴスが原初物質(第一物質)から世界を造った、とされているが、グノーシスの思想について調べても原初物質についての記述は見つからなかった。デミウルゴスはプレーローマ(真の宇宙)の原父(神に近い存在だとは思うが、神とは定義されていない)であるプロパトールの真似をして、悪しき偽の世界(人間の住む現実世界)を造ったとされている)。しかし、「一方で創世記には神が塵から人間を創ったという記述もあり、後の哲学者は、その後の創世記の記述「そして主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という部分から、人間の肉体的性質と、神が特別に、無からの創造の中での付加的な行動としてつくった、理性を持つ魂と呼ばれる不滅の部分との区別に骨を折った。スティーヴンはアクィナスの主説「理性を持つ魂は創造によってのみつくられる」という言葉を好んだ。つまり、「(理性を持つ魂は)生み出されうることはないが、神により直接創造される」という意味だ」*69。魂と理性との関係はアリストテレスの霊魂論を想起させる。創世記、マカバイ記2、グノーシス思想の中での「無からの創造」は人間の肉体と魂の「創造」の差異のテーマへと繋がり、さらにダンテの『神曲』で扱われている「魂」そのものの区分への言及へと発展する。「『神曲』の煉獄篇第25歌において、スタティウスは懐胎してから数か月間の人間の胎児における、植物的・動物的魂の成長についての物質論的な説明をした後、胎児に理性的魂を吹き込む過程に、神がいかに介在しているかについて説く。「胎児における脳の組織くみたて全く成り終わるや否や、第一の発動者、自然のかく大きなる技をめでてこれに向かい、力満ちたる新しき霊をふきいれたまい、霊はかしこにはたらきいたるものを己が実体の中に引き入れ、ただ一つの魂となって、且つ生き、且つ感じ、且つ自ら己をめぐる」*70。理性を持つ魂は、不滅かつ永遠で、そうしなければ滅びうる動植物の低次の魂を自身の中に取りこんでしまう」」*71。世界・人間の創造と魂をめぐるスティーヴンの思索は、浜辺の女連れに目を向けることで現実世界へと引き戻される。

・U-Y 74「鞄に何を入れてる? 臍の緒をひきずる死産の赤子、赤字の羅紗にくるんで黙らせて。すべてのものの緒は遡って繋がる。撚り絡み合う万人のケーブル。だから秘教の修道士たちは。神々のようになる気か? 臍を見つめるんだな。もしもし! こちらキンチ。エデン市へ繋いでよ。アレフ、アルファ、〇〇一」

 U-Δ101「あのバッグには何がはいっているのか? へその緒をぶら下げた堕胎児が血染めのウールにくるみこまれ。すべての緒がつながって過去にさかのぼる、すべての肉体の太綱が撚り合されて。だから秘儀を知る僧たちが。神々のようになりたいか? そなたの《オムファロス》をじっくり見るがよい。もしもし。こちらキンチ。エデンの園市につないでくれ。アレフ、アルファ、〇〇一番だ」

 “What has she in the bag? A misbirth with a trailing navelcord, hushed in ruddy wool. The cords of all link back, strandentwining cable of all flesh. That is why mystic monks. Will you be as gods? Gaze in your omphalos. Hello! Kinch here. Put me on to Edenville. Aleph, alpha; nought, nought, one”

 →「オムファロス(臍)“omphalos”ここでは「へそ」の意。「丸楯」はイブの腹の視覚的な連想だが、「オムファロス」はもう一つの意味「楯の中央の突起」も頭にある(第一挿話参照)」(U-Δ注)。misbirthは堕胎・流産のこと。trailはひきずる、たれ下がる、の意。U-Yでは死産、U-Δでは堕胎児としているが、いずれにせよ死んだ赤子のことを言っているので、どちらの解釈でもいいのではないだろうか。スティーヴンはここで産婆鞄に死んだ赤子がはいっていると想像している。cordは「太いひも、細い縄、綱(stringより太く、ropeより細い)」。hushは黙らせる、の意。hush upで「もみ消す、隠しておく、人に知られないようにする」といった意味がある。「黙らせて」だと原語通りになるが、そもそも死んだ赤子は泣かない。「くるみこまれ」という訳は、「人に知られないようにする」というニュアンスも含んでいるのではないだろうか? 海へこっそりと死んだ赤子を捨てに来た女たちをスティーヴンは想像しているのだろうか。ruddyは「健康で赤い、血色のよい、赤い、赤らんだ、嫌な、いまいましい」の意でrosyとほぼ同義語。どちらかというと健康的な赤色を指すと思うのだが、U-Δの「血染めの」は死んだ子供がくるまれていることを反映したものだろうか? そしてここでruddyの中にブルームの死んだ息子Rudyの名が隠されている、と参加者の方からの指摘があり、びっくりしたのだが、実はその指摘に関してはすでに先行研究でなされているとのこと(残念…)。woolは「毛織物、ウール、羅紗」の意。strandentwiningのstrandは「糸、綱、縄(何本かをよりあわせて縄やワイヤーにするもの)」の意で、entwineは「からみつく、からませる、絡み合わせる」の意。羅紗(ラシャ)は毛織物の一種。織り上げた後、収縮させて地を厚く層にし、表をけば立てたもの。cableは「針金または麻をより合わせたケーブル、太綱(ふとづな)。より合わせた麻または鋼線で作られた強く太いロープ」の意。なのでstrandentwining cableは「細い糸をより合わせた紐」ということになるのだが、これはへその緒をより合わせたイメージになるのだろうか? 「万人の」糸だからたくさんの糸が撚り合せられているのだろうか? fleshは肉体。all fleshだと「人類、生きとし生けるもの(聖書・創世記より)」となる。mysticは「秘法の、秘伝の、神秘的な、不可解な、畏怖を感じさせる、神秘主義的な、秘儀の、超自然的な」等の形容詞としての意味を持ち、名詞としては「神秘主義者(超自然的な特性を持つ者)」といった意味を持つ。「秘儀」は秘密に行う儀式のこと。「人類の幾世代ものへその緒はエデンへ遡り、スティーヴンは「だから秘儀を知る僧たちは」自分のへそを見つめるのだと考える。彼は「へそ瞑想」と聖書の一節、蛇がイブをそそのかして、イブに禁じられた木の実を食べれば神のようになれる、という説を合成する。『神々のようになる気か?』は秘儀を知る僧たちに向けられている」*72

 どうやら「オムファロスケプシス(へそみつめ)」という、瞑想の助けとしてへそを見つめる方法が古代からあるらしい。宇宙、人間本性の基本原理についての瞑想を助けるためのこの方法の実践は、ヒンドゥー教のヨガや、東方正教会に見られる。アトス山の僧侶J. G. Minningenによる1830年代の説明によると、「へそを見つめることで神と対話し、神聖な喜びを得られると彼らは思っていた」とある*73。自らの誕生に思いを馳せることで、スティーヴンの思索は始原の時へ遡っているのだろうか。「へそ」は第一、第二挿話でも生命の根源、世界の中心の象徴として重要な意味を有し、この後の挿話にも頻出する。ここでは「へそ」-「緒(ケーブル、太綱)-「繋がる」-「電話(線)」という連鎖がある。へそが中心・生命の根源の象徴とすると、「緒」と「繋がる」はすべての人類を意識し、「電話」は死者の住まうこの世ならぬ世界へのコンタクトを暗示しているのだろうか。エデンの園への「電話」は死者(スティーヴンの母親も含む)のよみがえり・顕現を希求しているのだろうか? ちなみにこの「臍の緒をひきずる死産の赤子……すべてのものの緒は遡って繋がる」については、人間だけでなく動物においても「すべてのものの緒は遡って繋がる」という意味で第四挿話中のメテンプサイコーシス(「会者定離輪廻」(U-Y 4 115)「輪廻転生」(U-Δ 4 161))につながるのではないかという指摘が読書会中にあった。U-Δ注にある「楯の中央の突起」については後述。

アレフ、アルファ、〇〇一“Aleph, alpha: nought, nought,one”スティーヴンはへその緒を原初に繋がる電話線に見立てて、地上の楽園に電話をかける真似をする。アレフヘブライ語のA。アルファはギリシア語のA。〇〇一とともに電話番号のつもり。ものの始まりを示す記号でもある。Gは〇〇一を無からの創造にとる」(U-Δ注)。

 アルファという言葉から連想されるのは、「わたしはアルファにしてオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終りである」という聖書の黙示録(22:13)だ。noughtはゼロ・無のこと。〇〇一(001)は、「無・無・有」とも考えられる(one=生命の誕生?)。とすると、この〇〇一は「神→無→誕生・創造」または「始まり→終わり→始まり」を意味しているのだろうか? しかしアリストテレス的に考えると、「始まり」はなかったのではないだろうか(ごめんなさいここはうろ覚えです)? となると、U-Δ注と同じ考え方かもしれないが、「神=無→始まり(誕生・創造)と解釈できないこともない。ここの「始まり」は「復活・よみがえり」とも言えるかもしれない。また、カバラ思想において、セフィロトの樹(生命の樹旧約聖書の創世記でエデンの園に植えられた木のこと)のアイン・ソフ(「無限」と訳される)は「00」で表され、第一のセフィラであるケテル(王冠と訳される)は思考や創造をつかさどり、数字では1とされるようだ。*74。このカバラの思想で言えば、〇〇一は「無限→創造」を意味するのかもしれない。

<U-Y 74-75 ~カバラ、臍のない女、トラハーン、罪の子宮、結びの神~>

・U-Y 74「アダム・カドモン」

 “Adam Kadmon”

 →「ユダヤ神秘思想カバラの原初的人間。ヘヴァ(Heva)はイヴの中性ラテン語綴り。その原義は生命」(U-Δ注)

 カバラとは、U-Δ注にあるように、ユダヤ教の経典に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想。独特の宇宙観を持つ。その名はヘブライ語の動詞キッベール(「受け入れる」「伝承する」)の名詞形。当初は単に口伝律法を指す言葉として用いられており、ユダヤ教神秘主義を指すようになってからも、個人が独自に体得した神秘思想というより、神から伝授された知恵、師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられるようになる。ユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとした点で、カバラは他の宗教の神秘思想とは異なる。本来はユダヤ教の律法を遵守すること、神から律法の真意を学ぶことを目的としていたが、キリスト教神秘主義に取り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統から乖離した個人的な神秘体験の追求の手段として用いられるようになる。

 ユダヤ・カバラが本来のカバラクリスチャン・カバラユダヤ・カバラキリスト教に応用したもので、二つは厳密には異なる。後者は後に近代西洋魔術の理論的根拠とされ、生命の樹の活用を中心に成り立つ。カバラ思想は世界の創造を神エイン・ソフからの聖性の10段階にわたる流出の過程と考える。その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈する。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、その部分部分に神の属性が反映されている。一神教でありながら多神教や汎神論に近い世界観を持っている。創世記冒頭の天地創造には、人間創造の場面が2回出てくる。文献学ではいくつかの神話を結合した際の矛盾と考えられているが、カバラでは実際に人間創造が2回(以上)行われたと解釈する。世界創造は、「神」が自分自身を見たいと思ったからだ、と言われている。ユダヤ教では「死後の世界」というものは存在しない。カバラでは、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、同時に永遠の樹(命の樹)である。個体が善悪を分かち、めいめいの記憶は神へ帰る。神はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神においては善の記憶が再創造の素材となり、悪の記憶はなくなる。人間の祖霊としてアダム以前にアダム・カドモンという原人が設定されている。原人の肉体の各部分は世界創造の様々な原理(セフィロトと呼ばれる「神的力・セフィラの集合体」、セフィラは多神教の神々に相当)からなるセフィロティックツリー(生命の樹)に対応する。原人の霊魂は生命の樹の生長とともに生命の樹の先端(下位)へと変化して現れ、最終的にアダムとイブになる、と解釈する(「原人」は厳密には「人間」ではないのだろうか…?)生命の樹の生長は創造神エイン・ソフ(無限なるもの)からの段階的なセフィロトの流出である。 

 カバラのもう一つの創造原理が、「始めに言葉ありき」(ヨハネ)である。「神はトーラーを覗いて世界を創造した」。カバラで言うトーラーはモーゼのそれではなく、その本質、通常の意味を超越した言霊のようなものなのではないかと考えられている。カバラの思想はデカルトスピノザの思想にも大きな影響を与えた。「ヘバ」(Heva)はイヴの名の初期ヘブライ語版。「息をする」「生える」の意*75

「神が自分自身を見たくて世界を創造した」―「トーラーを覗いて世界を創造した(言霊を覗いた)」ということは、トーラー(言霊)の中に神自身があり、神はそこに自分を見た、ということだろうか? グノーシスカバラもブレイクの思想も、「個物(particular)の中に神が宿る」という共通点がある。更に、グノーシスカバラについては、「溢れる生命(一者)からの命の流出」という共通点があり、この「流出」という考え方はどのようにして生じたのだろう、と考えると非常に面白い。

・U-Y 74「臍のない女」

 U-Δ102「彼女にはへそがなかった」

 “She had no navel

 →人間から生れた存在ではないから(これはカバラ他多くの神学者たちによって指摘されている)。

・U-Y 74-75「瑕瑾なき下腹、大きくふくらんで、ぴんと張った子牛皮の円楯、いや、白積みの麦、白玉のごとくきららかに不滅、永劫の過去から永劫の未来へと在りつづける」

 U-Δ102「まあるく膨れた傷のない腹。子牛皮を張った丸楯。いや、積み重ねたる白い麦かな。つややかに輝き、不滅にして、永遠から永遠にいたる」

 “Belly without blemish, bulging big, a buckler of taut vellum, no, whiteheaped corn, orient and immortal, standing from everlasting to everlasting”

 →「つややかに輝き、不滅にして、永遠から永遠にいたる(白玉のごとくきららかに不滅、永劫の過去から永劫の未来へと在りつづける)“orient and immortal, standing from everlasting to everlasting”…17世紀イギリスの宗教詩人トマス・トラハーンの散文集、『黙想の世紀』から」(U-Δ注)。blemishは傷・欠点の意。bulgingは膨らみ。「瑕瑾なき下腹、大きくふくらんで」とあるが、これは妊娠を意味しているのだろうか。しかし少なくとも楽園を追われる前に、イヴは子を産んでいないのでは…(ちょっとこの辺は不確かです…)ギフォードによると、「伝統的に堕落前(楽園を追われる前)のセックスは性欲なしに行われた」*76とある。子供はできなかったのだろうか…? それとも「大きく膨らんだ腹」は当時の美しさの象徴(現代人の目で見て太っているのではと思われるような豊満な体は昔から美しさの象徴としてよく絵画でも描かれている)。「子牛皮を張った円楯」は比喩だと思う。というのも、実際に子牛の皮を張った円楯が見つからなかった。bucklerは左手に持つ小型の円楯。これは前述のオムファロスの所にも出てきたが、直径45㎝程度以下の大きさの小さな楯。ヨーロッパで古代から使われてきたが、中世からルネサンス期の使用がより一般的。矢のような飛翔体の攻撃から防御するには不向き。相手による近距離からの攻撃を防ぎ、相手の動きを封じ込めることができる。それ自体で殴りかかって武器とするなどの使い方もある。外形は円型だけでなく、長方形や台形、楕円、雫形などがあり、また平らなものや凹型、凸型、波のような模様のついたものなどの種類がある*77。図を見ると分かるように、中心部には確かにへそのような円い突起(?)がついている。U-Yでは円楯としているが、U-Δでは丸楯となっている。「丸」だと楯全体が立体的に感じられるので、ここは「円楯」のほうがいいのではないだろうか。

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円楯。右側は握る部分(裏面)か。表面中央は確かにへそのように見えなくもない*79

 tautは「ぴんと張った」の意。vellumは「(子羊、子ヤギ、子牛の革で作り、本の表紙などに用いられる)上質皮紙」の意味で、主に紙を指すが、語源はラテン語で子牛である。「白積みの麦(積み重ねたる白い麦) “whiteheaped corn”…「雅歌」(7:2)「なんじの腹に積みかさねたる麦のまわりを百合もてかこめるがごとく」より」(U-Δ注)。この注を見て分かると思うが、スティーヴンはこの「雅歌」をそのまま使ってはいない。雅歌の男女は、ユダヤ教では神とイスラエルとの関係の寓意という解釈があり、キリスト教ではキリストと教会との関係の寓意という解釈がある。この部分にあたる聖書原文(New International Version)を引用してみると、“Your navel is a rounded goblet that never lacks blended wine. Your waist is a mound of wheat encircled by lilies”となっている。新共同訳では「秘められたところは丸い杯、かぐわしい酒に満ちている。腹はゆりに囲まれた小麦の山」となっているが、navelを「秘められたところ」と訳すのがよく分からず、そのような解釈も見当たらなかったので、他を探してみると、口語旧約聖書等で「あなたのほぞは」となっていた。こちらの方が適切かと思う。この文章の中のblendは“to create a harmonious effect or result”という意味があり、単に混ぜたワインの意味ではないらしい。ちなみにblendには「盲目にする」という語源がある。waistは「肋骨とヒップの間の、胴のくびれた部分」。King James Versionの原文はこちら。“Thy navel is like a rounded goblet, which wanteth not liquor: thy belly is like an heap of wheat set about with lilies”*80。この一節に関しては様々な聖書解釈がある。

・小麦色の肌はシリアでは最も美しい人間の肌と見なされていた。・雅歌の中で女性は服を着ているので、navelは「帯の留め金」としての意味のほうが適切ではないか。

・熟した小麦は収穫の喜びのしるしとして、ゆりの花で飾られることが多かった。・へそは女の子宮の中にいる子供に栄養を与えるものなので、この表現(Your navel is a rounded goblet)は女性の、そして女性の中にある神の恩寵と御業を讃え、高める意味において、教会における人間の成長をもたらし、人を助ける性質を示していると思われる。

・妊娠している女の腹は、子を産み育てる小麦の山のようである。

navelをgobletに喩えるのは不適切ではないか。なぜならgobletは厳密にはへその形と異なる(gobletは内側の滑らかな円錐形のものだが、へそはU字型のくぼみで、内部にはひだがあり、ひねられたようなすじが残っている)。

・教会は人間にとっての「へそ」(中心)である。

navelはbodyと訳すほうがいい。

・小麦の山の「なだらかな曲線」も言及されうる点である。

navelをたらい(聖水盤?)の渦巻く水の中心のくぼみとして解釈するという考えもある。

・小麦の色はアダムの色だ*81。…などなど。

 スティーヴンは“whiteheaped corn”としているが、聖書原文は“mound(heap) of wheat”だ。これが単なる聖書の参照をもとにした詩的表現なのか、それとも聖書に深く関係した意味を持つのか、もしかすると、イヴ=母との繋がりも考えられるが、「腹に傷がない」ということは子供を産んではいないので、単なる美しさの表現なのか。

 スティーヴンの文章に該当するトラハーンの詩は以下のようなもの。“The corn was orient and immortal wheat、which never should be reaped, nor was ever sown. I thought it had stood from everlasting to everlasting”*82(ほぼ筆者による直訳ですが、「麦はきららかにして不滅の穀物、それは刈られることも、蒔かれることもない。永劫から永劫へと在りつづけるものだ」といった感じか)。スティーヴンの文章では、「刈られることも、種を蒔かれることもない」という部分は入っていない。

 形而上詩人(metaphysical poets)とは、17世紀のイギリスの抒情詩人のなかで、形而上学的な仕掛けとその研究に関心のあった詩人たちのこと。「形而上詩人」という言葉を最初に使ったのは後のサミュエル・ジョンソン(『詩人記』(“Lives of the Most Eminent English Poets”、1779-1781)。形而上詩人は20世紀初頭、T. S.エリオットによって再評価される。「形而上詩人」の「形而上」という言葉は本来の意味では使っておらず、難解、空論、抽象論、といった意味。

 トマス・トラハーン(Thomas Traherne、1636(?)-1674)はイギリスの詩人、聖職者、神学者、宗教作家。今日最も知られている作品が『黙想の世紀』(前掲の該当部分も『黙想の世紀』からの引用。キリスト教徒の人生、聖職、哲学、幸福、欲望、子供時代に思いを馳せた散文集。トラハーンの作品は創造の栄光、彼が神との心奧からの関係としてとらえていたものについて探求している記述が多い。彼は熱心な、ほとんど子供のような感性で神の愛を伝え、後代の詩人たち(ブレイク、ホイットマン、ジェラルド・マンリー・ホプキンズ等)の詩作品のテーマに類似する内容を著した。彼の自然世界への愛はその自然の描き方によく表現されており、ロマン主義運動が始まる2世紀前に既にロマン主義的な印象を与えるものである。

 トラハーンはネオプラトニズムの哲学者たちの作品に強い影響を受けており、英国国教会に対し深い信仰を持っていた(王政復古の影響もある)。作品のテーマとしては、罪そのものと、教会教義に対する罪の位置づけの探究、神の創造、人間の魂の中における神の本性を理解し、包みこもうとする点で、一貫して神秘主義的なものと言える。自然、そして自然界への愛がロマン主義的自然の表現のうちに描かれており、その特徴は多神論者、万有内在論者(神が超越と内在を兼ね備え、世界のすべてが神の内にあると考える人)的と見なされてきた。一方でトラハーンは創造における神的な源を認めており、彼の自然への讃美はソローの作品中に見出されうるものに他ならない。

 福音の精神を基盤としつつ、トラハーンの「大きなテーマは子供に見られる幻視的な無垢」であり、その作品は「大人が子供の喜びを忘れてしまい、それと共に創造の神的性質の理解をも失った」ことを示している。彼は天国というものは、この子供のような無垢――「善悪の判断に先行する状態を再獲得することによってのみ再発見され、再び得ることができる、という考えを伝えていると考えられる。この点で、トラハーンの作品の溢れんばかりの喜びと神秘主義的特性は、上記詩人たちと比較される」。幸福を達成することもトラハーンの作品のもう一つの焦点だ。彼は「私は最初幸福を探し求めるのに多くの時間を費やし、それからそれを喜ぶことにさらに多くの時間を費やした」と書いている。彼は多くの人々が幸福を軽く見ていると思い、「天国は我々の幸福が見出されるであろう場所だ。我々は虚勢をはるという危険なしに、幸福の中において自らが「見られうる」という幸福を楽しめよう」と書いている。彼は日常で慣れ親しんだ哲学を通じて得られた、物事の本質の直接的理解に深く考えの根を下ろしていた。☆日本では作曲家の池田悟(いけださとる、1961~)による二つの作品でトラハーンの『挨拶』(The Salutation)の冒頭を用いている。(“The Salutation”for chamber choir, accordion, tuba, and harp(2003)”“The Salutation for Alto flute solo(2013)”前者では英語のテキストを母音的に移し変えた室内合唱団による合唱曲と、アコーディオン、チューバ、ハープが用いられ、それぞれの楽器が「天国、現実世界(Earth)、そして人間のシンボル」を表している。合唱部分は最大で12声に分かれる。後者ではアルトフルートが三つのムーブメント(深淵、目覚め、出現(まぼろし))に分けられる。この三つは同時に三つのスタンザからインスパイアされた*83

 前掲のトラハーンの詩は以下のように続く。“The dust and stones of the street were as precious as gold: the gates were at first the end of the world”「通りの塵や石ころは金のように貴重」という語句は、ブレイクの「娼婦の叫びは街から街へ」(U-Y 2. 65)を想起させる。このgateが複数形になっているのは、女性の子宮(女性器)のニュアンスも含んでいるのだろうか? つまり、誕生・出産が世界のゴール・目的であり、終りでもある、という意味があるのだろうか? この部分のなかでのendと前掲部分のeverlastingとの対応関係はあるのだろうか? orientは「東、東天、太陽の昇るところ、(東洋の)真珠、真珠の光沢」“of a pearl or other gem: of great brilliance and value, bright lustrous”という意味があり、U-Yでは「白玉」という言葉で「白積み」と言葉を重ね合わせていると同時に、「きららかに」という表現をあてている。standingは「~の状態にある」の意。ちなみにこの部分の始まりは、“Belly”“blemish”“bulging”“big”“buckler”と、Bがたくさん重なっている。

・U-Y 74「罪の子宮」

 “Womb of sin”

 →今までこれほどまでに生命・誕生・女性とその美・神を讃えておいて、「女」「産むこと」を「罪」として貶め、一気にがくんと落とすような描写、その落差が私は大好きなのだが、一体なぜここで「罪の子宮」なのか。その直後に、「罪の闇の中でおれも孕まれた」とあるので、「罪の子宮」と「罪の闇」は同じことを言っているのだろう。この「罪の子宮」についてはソーントンが第一挿話での「女の不浄の腰を除く全身に、男の肉体から神に似せずに造られた肉体に、蛇の餌食に」(U-Y 1. 29)という記述にも関連づけて、女性の生理と出産の間の女性器が「不浄」であるとする聖書のレビ記との繋がりを示唆している。

レビ記では、性への著しい嫌悪が表されており、人体から「放出されるもの」全てを伝染症に匹敵するとして忌み嫌い、滲出するという性質を持つ女性の排出器官に対する特別な恐怖を有している。カトリック教義の形成されつつあった中世のキリスト教におけるミソジニー的な考え方の伝統は、このような数ある古くからのタブーを保ち、それをイブへの非難の根拠と結びつけた。スティーヴンはアイルランドカトリック教会に強く影響を受けており、アイルランドカトリック教会は全ヨーロッパの教会の中でも一際激しく「肉体」を嫌悪する傾向がある」*84。というわけでレビ記旧約聖書の神がモーゼを通して、神を敬い、祈りを捧げる方法について詳細に記した律法の細則であるが、ただの掟の強要とも読めるし、イスラエルの人々の社会秩序と身体の健康を守ることを目的としているとしても読めると私は思う)を参照してみると、女性の出産・生理は「汚れ」であり、触れてはならないもので、触れると汚れが「うつる」とされている。男性の精子の放出についても「(放出後に)体を洗わなければその者は汚れている」という記載があり、男女が性行為を行った日にはその者たちは汚れている、とされている。皮膚病も汚れであるので触れてはならない。とにかく、人間から「出てくるもの」は汚れであり、触れるとうつる、清めなければならない、隔離しなければならない、というのが基本的な考え方であると思われる。やはり健康な男性だけが優遇され、神に近づける存在として優位に立っており、女性は下位に置かれ、男性より下の存在として扱われている記述が多い上、病気を汚れとするのは現代の感覚では明らかに差別なのだが、一方で逆にこれは日本の法律でも取り入れたほうがいいのでは、という決まりも見られ、非常に興味深い。

「罪の闇」は第二挿話での記述を連想させる。「パリの罪から隔離されて……そしておれの心の闇の中で冥界の樹懶の牝が一匹、嫌がりながら、明光を恐れながら、竜鱗のような襞をひくひく動かす……静寂の明光……突然の、広大な、白熱まばゆき静寂」(U-Y 2. 52)ここはパリに留学中の図書館の回想シーンで、スティーヴンの心の闇の中で、ナマケモノ(?)のモンスター的生物がうごめいている。夜の図書館に灯る「明光」と、自分の中の暗闇、その中のモンスターとが対比されている。「アヴェロエスとモーゼズ・マイモニデス、風采も動きも定かならぬこの男たちが、この世の曚昧な魂を嘲笑の鏡にぱっと閃かす。明光の理解しえなかった闇が明光の中で光る」(U-Y 2. 56)U-Δ注によると、最後の一文は「光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき」(ヨハネ伝1:5)を逆にしている。もう少し長くこのヨハネ伝の部分を引用すると、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」となり、聖書の中では暗黒=無知であるのだが、スティーヴンに言わせれば光もまたinnocentの意味での無知・無垢なのではないだろうか? 

 さらに、第二挿話には以下のようなディージー校長の台詞がある。「なにせ光りに背いた輩だからして……だからあのとおり目が暗闇だ」(U-Y 2. 65)これはユダヤ人のことを称した台詞だが(ディージー校長は反ユダヤ主義)これもまた「光には理解できない暗闇」と繋がるかもしれない。この挿話の冒頭部分では、闇が不透明であり、光によって内在する透明が外化される、というアリストテレスの論がある。あまりにも単純な二項対立ではあるが、スティーヴンは自分のことを「光」には理解できない「闇」のモンスターとしてとらえ、その根源を母の子宮にまで遡っているのかもしれない。「闇」としてのスティーヴンも、未だ「光」を見出し、理解することはできていないと自覚しているのかもしれない。

・U-Y 75「こしらえられたのであって、ひょこっと生れたんじゃない」

 U-Δ102「生れたのではない、つくられたのだ」

 “made not begotten”

 →「自分をキリストと対照して。「ニケア・コンスタンティノープル信経」に「主は…まことの神よりのまことの神、造られずして生れ、父と一体なり」とあり、三位一体の大祝日の祈り」にも「主は造られずして永遠の始めよりましまし、御本性にては一体、ペルソナにては三位にまします」とある」(U-Δ注)。begotten(beget)はこしらえた、造ったの意で、父が子をもうけたという意味で用いる。母が子を「産む」ときはbear(born)。例えば“Abraham begot Isaac”は「アブラハムはイサクという子をもうけた」という意味になる。begetは古英語でbegietan(to get, find, acquire, receive, take, seize, happen)等の意味を持ち、どうしても男性は子を「手に入れる、受け取る、つかまえる」側になってしまう。それに対して女性は子を「もたらす」側である(これに関しては生物学的な問題なのでどうしようもない)。U-Y 74-75には「生まれる」という表現がたくさんある。「この世へ引きずりだした」「(無からの)創造」「ひょこっと生れたんじゃない」「こしらえられた」(lugged, creation, made, begotten)。ここで問題の文章を一文引用してみると、“Wombed in sin darkness I was too, made not begotten”であるのだが、「生まれたのではなくこしらえられたのだ」ととれるように分かりやすく書き直してみると、“I was wombed in sin darkness too、and I was not made but begotten”といった感じになろうか。「生まれたのではなく、こしらえられたのだ」という表現は、母である女性を否定し、父と結びつきたいという気持ちだろうか? 母の子宮にはいたが、母から生まれたのではない、自分の根源は父にある、という矛盾した主張だろうか? そしてmade(make)という言葉について調べてみると、“to bring into being by shaping, changing or combining materials, ideas, etc. ; form or fashion, create to cause to exist (人を)創造する、運命づける”という意味がある。つまり、存在としてもたらされる、生じさせられる、という意味を持つ。ニカイア信条(325年に作られたキリスト教の基本信条。アリウス派を排斥)では“begotten, not made”となっている。これだと「こしらえられたのであり、生れたのではない」というのがよく分かるのだが、作品中のテキストはどうか。“made not begotten”は両訳ともニカイア信条と同じ意味になっていて、U-Δ注ではスティーヴンがキリストに自分をなぞらえているとしているが、本当だろうか? つまり、ここを“made, not begotten”ととる可能性もあるのではないだろうか。というのも、その前にはスティーヴン自身が「罪の闇の中で孕まれた」ことを認めていて、その後にはスティーヴンの父母を思わせる男女が神の意志のもとに結ばれた、という表現があるからだ。これは、「自分もまた罪の闇の中に孕まれ、生れたのであって、(キリストのように)こしらえられたのではない」と解釈するほうが自然なのではないだろうか?

・U-Y 75「二人でこしらえた、おれと同じ声の男と灰のにおう息をする亡霊女が。しっかと抱き合い、離れ、結びの神の意志を果した。太古の昔から神はおれを望み、いまさら消し去るわけにもいかず、これから先もそうだ」

 U-Δ102「造られたのだ。あの二人に。ぼくの声やぼくの目を持つ男と、息に灰の匂いがまじる亡霊の女に。二人はひしと抱き合い、そして引き離された。つがわせる者の意志のままに。神は大昔からぼくを存在させようと思っていたのだ。そしていまはもう、ぼくを消すことはできない。これからさきも」

 “by them, the man with my voice and my eyes and a ghostwoman with ashes on her breath. They clasped and sundered, did the coupler’s will. From before the ages He willed me and now may not will me away or ever”

 →“ashes on”の“on”は累加・添加の意味だろうか。sunderedの語源は中世英語でsundren(to separate, part)。古語・文語で「引き離す、分かれさせる、切り離す、to break or separate or to break apart」等の意。couplerは「連結者、連結器、結合器、someone who couples things together, especially whose job it is to couple ralway carriages」というのが一般的な現代英語での意味だが、語源的にはラテン語のcõpulāre(結びつける、の意)で、coupleには「つなぐ、結びつける、連想する、加える、結婚させる、結合する、交尾する、つがう、性交する」の意味がある。また、他の辞書では、“a person or thing that couples or links together”という記述もあったので、「coupleするものや人」という意味でとっていいだろう。この“They clasped and sundered, did the coupler’s will”をU-Y では「離れ、結びの神の意志を果した」とあり、U-Δでは「そして引き離された。つがわせるものの意志のままに」としているが、あえて「coupleさせるもの」を「神」とすべきかどうか? 神に関する文脈はあるが、原文ではGodという言葉は使っていない。そしてclaspedは「抱き合い」でいいのだが、sunderedはclaspedに合わせて読むとただの過去形なので(しかもそのあとにdidが続く。これもただの過去形だ)、「引き離された」(U-Δ)という受動態ではなく、「離れ」(U-Y)が正しい。ただ、単にbe動詞が省略されているという可能性も高いし、couplerの意志によりsunderしたのであれば、「離れた」というより「引き離された」という表現のほうが適切なのかもしれない。この部分に限らず、使うべきところで使うべき言葉を敢えて使わず、意図的に意味を不明瞭にしている印象は作品全体を通して感じる。

 次の“From before the ages He willed me and now may not will me away or ever”だが、分かりにくい文章なので斜線をつけて分けてみると、“From before the ages / He willed me / and / now may not will me away / or ever”になると思う。willは「意図する、望む、欲する、~することを望む。意志の力でさせようとする」の意。mayは可能の意だと思う。everは“frequently, always, forever”の意味がある。meとawayの間にはto beが省略されていると考えられる。書き直してみると、“(He may)ever will not me away”となり、everは否定語とともに「(…も…も)ない」という意味を持つので、「いまさら存在を消し去ることもできないしこの先も(存在を消し去ることは)できない」という感じになる。この部分なのだが、前に繰り返し出てきている「栄唱(始めにありしごとく、今もいつも、世々にいたるまで)」と関係があるのではないだろうか? どちらも完全な韻文ではないし、アクセントも対応してはいないのだが、強弱格に似ており、原文にアクセントをつけてみると非常にリズムのいい文章だ(傍線部は弱アクセント。アクセントのつけ方がもしかしたら違うかもしれませんが…)。前者は“Fróm befóre the áges Hé willedand nów may nót will mé awáy or éver”となり、後者は“Ás it wás in the begínning, is nów and éver shall bé, wórld withóut énd”となる。そして、スティーヴンの言葉のほうの意味は「(自分の存在を)昔から望んでいた―今存在を消すことを望めない―これからもそうだ」となり、栄唱は「初めのようにあり―今もいつもあり―この先もある」となる(栄唱の“world without end”はほぼforeverの意味の意味としてこれまで訳されている)。「昔から存在を望んでいた」は「初めのようにあり」と意味が近く、「今存在を消すことはできない」と「今もいつもあり」は反対の意味となり、「これからもそうだ」と「この先もある」は同じ意味になる。もし栄唱との関連性があるならば、きっちり3パートに分けているU-Yの訳のほうがその繋がりを強く感じさせるものとなる。そして、スティーヴンの言葉のほうは、神が自分のことについて認識しているであろう解釈を表しており、栄唱のほうは人が神にそうあってほしいと祈る、信仰の表明だ。ここでは人間と神との「存在」への願望の相互関係と差異が表されているのではないだろうか。

<U-Y 75 ~永遠の法、ウーシア、アリウス、同変母救猶騒譁癇説~>

・U-Y 75「永遠の法」

 “lex eterna”

 →「神が定めた計画。全被造物はこれに従って神の目的を達成するよう義務づけられている」(U-Y注)。つまり前の文章のスティーヴンの発言のことを指している。ギフォードはこの「永遠法」について、アクィナス(トマス・アクィナス、1225?-74)の神学大全中の記載を引いている。

「事実上の万物の君主としての神のうちに存在する、それらを支配する観念は、法としての性質を持つ。神の精神が「時」のなかで着想を行うのではなく、永遠の観念を持っていることから、この法は永遠と呼ばれるべきだ。それゆえ以下のように考えられる。それ自体としてはまだ存在していないが、万物はそれらが神によって予見され、運命を定められている限り、神のうちに存在する。それに関して聖パウロは神について、神がまだ存在していないものをまるでそれが既に存在しているかのように呼びだし、命じることについて語っている。神の法の永遠の観念は、神が既に予見している物事を支配するための命(めい)として永遠であるという法としての性質を帯びる。」*85それゆえ、「神は決して彼(スティーヴン)の非存在を欲することはできないし、彼の存在は単に永遠というだけでなく、そのように保証されている」*86

 となると、魂の段階ではスティーヴンを含めあらゆるものが神のうちに初めも終わりもなく永遠に存在していることになり、人間(あるいは動物など)に関して言えば肉体の交わりによってこの地上の世界に「存在」することになる。前に挙げた「こしらえられたのであって、ひょこっと生れたんじゃない」(U-Y)という発言の「こしらえた」は、魂として神にこしらえられたもの、父が子をもうけたように、神がスティーヴンを「こしらえた」と意味にもとれるのだろうか? しかしU-Yでは、その後に「二人でこしらえた」とある。これはスティーヴンの両親の性交を意味するので、この解釈では矛盾が生じてくる。U-Δの訳文(「生れたのではない、造られたのだ。あの二人に。ぼくの声やぼくの目を持つ男と、息に灰の匂いがまじる亡霊の女に」)でもやはりつじつまが合わない。原文は“Wombed in sin darkness I was too, made not begotten. By them, the man with my voice and my eyes and a ghostwoman with ashes on her breath”。“made not begotten”で一度文章が終わり、何の動詞もなく“By them”から始まっているので、一体二人(両親)によって生まれたのかこしらえられたのかが分からない。この点について、ギフォードは「神がcouplerであるのは婚姻の秘蹟によって男女を結びつけるからであり、神は人間に、この世に満ちること、つまり子供をたくさん産むことを望んでいる。この性的な意味において、スティーヴンは生まれたのであってこしらえられたのではない――スティーヴンは、ニカイア信条*87において「こしらえられたのであり生れたのではない、父親と同一実体の一つの本質である」キリストとは異なる」と述べている*88。これはU-YともU-Δとも全く逆の解釈ではないだろうか。前述した通り、原文が非常に曖昧なので、この部分は自分でもどう訳出すべきか、やはり分からない。

 また、U-Yでは「神には永遠の法がある」、U-Δでは「《永遠法》が神とともにあるからな」と訳されているのだが、原文は“A lex eterna stays about Him”だ。“stay about”は「去らずにとどまる」という意味で、「永遠法」が神のものである、神に属するものというより、どちらかというと神と「法」との距離を感じる。「法」が神と共にあるのだ。もし「去らずにとどまる」という意味合いで使われているのならば、永遠法は神のうちにあるものではなく、被造物のうちの一つのようなニュアンスがあるのだろうか。この解釈を適用するならば、U-Δの訳のほうが適切というか、原文に忠実な訳のように思われる。

・U-Y 75「するとそれが父と子の同一実体たる神性というものか?」

 U-Δ102「じゃあ、父と御子が同体となった聖なる実体とはこれのことか?」

 “Is that the divine substance wherein Father and Son are consubstantial?”

 →thatは文脈で考えると先に出た「永遠法」のことになる。“Father” “Son”は慣例的には「父なる神」「子なる神(キリスト)」だ。consubstantialは「物質あるいは本質が(三位一体の三人のように)同じと見なされた」「Regarded as the same in substance or essence」と辞書にある(三位一体の三位は正確には「三人」ではないが)。substanceは「実体、物質、実質」の意で。「実体」という言葉は一般的な日本語の用法では「物事の奥にひそむ真の姿、本体、実質、正体」の意で使われるのだが、哲学用語としての「実体」を調べてみると、「ギリシア原語はウーシア(ousia)、「まさに在るもの(真実在)」を意味する。プラトンでは、転変する可視世界の根拠にある恒常、同一の不可視のイデアがウーシア。しかしアリストテレスでは、「在る」のもつ諸々の意味の種別であるカテゴリーの第一がウーシア。ウーシアは他のものから離れてそれだけでも在りうる自存存在だが、他のカテゴリー(性質、大きさ、状況など)はそれぞれ「何か在るもの」の性質、大きさなどとして、自存存在としてのウーシアに基づいて在る依存存在。ウーシア(実体)は種の属性がそれぞれ帰属する「基体(ヒポケイメノン、hypokeimenon)」でもあり、感覚や現象を構成する基本の自存存在である」*89、「ウーシア…「実体」(substance)や「本質」(essence)を意味するギリシア語。ラテン語に翻訳される際、この語に「substantia(スブスタンティア)」「essentia(エッセンティア)」という異なる二語が当てられたために語彙の使い分けが生じた」*90とある。

 上記の説明と、今までの流れからして、substanceはどうしてもまたアリストテレスに繋がってしまう。アリストテレスの『オルガノン』の第一書『範疇論』よると、実体の概念は個物である第一実体と、種・類の概念である第二実体に分割される。『形而上学』のZ(第7巻)では、個物である第一実体は質料(基体)と形相(本質)の結合体であり、真の実体は「形相」(本質)であるとしている一方で(恐らくこの辺でウーシアはsubstanceともessenceとも訳されるようになったのだろう)、種・類の概念である第二実体は普遍であると述べられている。例によって言葉や概念の定義が各論間で一定していないように感じるのだが、『形而上学』のΔ巻(第5巻)ではさらに、ウーシア(実体)という語は「①―単純物体。土、火、水のような物体や、それによる構成物及びその部分。②―①のような諸実体に内在し、それがそのように存在している原因となるもの。例えば、生物における霊魂。③―①のような諸実体の中に部分として内在し、それぞれの個別性を限定、指示するもの。これがなければ全体もなくなるに至るような部分(例:物体における面、面における線など)。④―そのものの本質が何であるかの定義を言い表す説明方式(ロゴス)それ自体」とされている。以上①~④の定義から、ウーシアは「Ⅰ.他の基体の属性にならない、究極の基体(個物)(∵①)Ⅱ.指示されうる存在であり、離れて存在しうるもの。型式(モルフェー)、形相(エイドス)(∵②、③、④)」の二つの意味を持つ(『形而上学』Δ巻(第5巻より)。ウーシアは「究極基体的な物質」を含む「実質」(substance)という意味から、「それ」を「それ」たらしめると人間が認識・了解できる側面を強調した(観念的・概念的・言語的な面も含む)「本質」(essence)という意味までを孕むことになった*91

 要するに(私にはやはり上に挙げたすべてを矛盾なく統合することができないのだが)、「もの」そのものが実体(substance)で、「もの」そのものに属するその「もの」を外面的・内面的に規定する要素(観念・概念・言語等も含む)が本質(essence)、ということだろうか。この理解からすると、作品中での“divine substance”のsubstanceは「実体」というより「本質」のほうの意味に近いのではないだろうか(なぜなら神・神性は「もの」そのものではない)。そう考えると、consubstantialという言葉は日本語で「同一実体」と訳されているが、それは実体が同じというより「本質を同じくするもの」という意味なのだろうと思う。それで、作品中の文章に戻るのだが、that(永遠法)が「父と子が同一実体である」divine substanceであるのか? という問いは、時を超えて万物が神のうちに存在し、消えることもなく、始めも終わりもないという「法」が、父なる神と子なる神が同一実体であるという「神の本質」であるのだろうか、というスティーヴンの思索になるのではないかと思う。

 あと、これは私のキリスト教理解が足りないため分からないだけかもしれないが、同一実体説において、父なる神、子なる神、聖霊は位格が違うが同じ一つの神である、というのは、永遠法に照らしあわせると、父なる神の中に子なる神と聖霊が包含され、三つの位格が一つの父なる神と同根である、ということだろうか。それとも、父なる神、子なる神、聖霊の三つの位格を全てまとめてしまう、より大きな「神」が概念としてある、ということだろうか。相変わらず分からない。そして、ここのFatherとSonはやはりスティーヴンが自分と父親との本質の同質性をも考えているのだろうか。親子であり、年は違うが、永遠法と同一実体説に従えば、スティーヴンとスティーヴンの父は「位格は違うが本質は同じ」という状態になぞらえられる。しかしそう考えてしまうとまた前に出てきた文章の「生れた」「こしらえた」問題に戻ってしまう。この問題部分では明らかにスティーヴンの両親の現実世界での肉体的な交わりによる自身の誕生のことを考えている。スティーヴンの思索は現実世界(形而下の世界)と観念世界(宗教世界・刑事上の世界)の間を激しく往還する。

・U-Y 75「決戦を挑もうとしたアリウスはどうしていることやら」

 U-Δ102「あわれなアリウスくんはいまどこにいて論戦を挑むつもりなの?」

 “Where is poor dear Arius to try conclusions?”

 →「ニケア公会議(325年)で異端にされ、のちコンスタンティヌス帝に許されたが、ローマ帝国の新都コンスタンティノープルの大聖堂におけるミサ聖祭に出席の当日、急死した。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』第21章で「彼の腹部は便所の中で突然破裂した。当時の記者らは毒薬のためとも云い、また奇跡によりとも云っている」と注釈している」(U-Δ注)。poor dearは「かわいそうに!」という意味の感嘆詞としてよく使われる。try conclusionは「決戦を試みる、優劣を競う、to make a trial or an experiment(試してみる)」の意。このto以下の部分の解釈で訳が分かれている。U-Yではto以下がto不定詞の形容詞的用法として、アリウスを修飾しているように訳しているのだが、そう解釈すると厳密には「決戦を挑もうとしているアリウスはどうしているのか」という意味(時制の問題)になるのではないだろうか。poor dearはU-Yでは訳出されていないが、もしかしたら「どうしていることやら」の中にそのニュアンスを込めているのかもしれない。U-Δではto以下を不定詞の副詞的用法(動詞の修飾)として解釈し、これからアリウスが決戦を挑もうとしているように訳している。全体的にU-Δのほうが原文に忠実ではある。ここでアリウスが出てくるのは(もう何回アリウスが出てきたか知れない…)前文の三位一体説に反対したから*92。U-Δは確かに原文に忠実なのだが、アリウスが古代の異端者であり、もうこの世にいないことを読み手が知っていること、さらにこの後の文章では「生涯かけて戦った…」とあるので、過去形にしているU-Yのほうが自然と思える向きもあるかもしれない。しかし、すでに「永遠法」などについての話が出てきていることも考えると、ここでは既に他界した人物と、今生きている人物、これから生れる人間たちが渾然一体となって語られているようにも感じられる。この部分についても、どちらの訳がより適切か、判断しがたい。

・U-Y 75「生涯かけて戦った同変母救猶騒譁癇説」

 U-Δ102「一生かけて、同一全質変聖マリア賛ユダヤ人やっつけろ実体説と戦ったのに」

 “Warring his life long upon the contransmagnificandjewbangtantiality”

 →「同一実体性(consubstantiality)全質変化(transsubstantiation)聖母マリア賛歌(magnificat)ユダヤ人(jew)やっつけろ(bang)などの合成語。他の解釈もある」(U-Δ注)。説明が分かりにくいと思うのだが、一応この合成語についての様々な解釈をご紹介しておく。

 まず、conとsubstantialityの間に、接頭辞のtransが挿入されている(con-trans-(subs)tantiality)。これはニカイア信条で異端とされたアリウスの説の反映への言及である可能性がある。アリウス派の教義では父なる神は子である神(キリスト)より上位にあり、本質的に異なるものとしているので、アリウス派にとっては“con-substantiality”ではなく“trans(超える、横切る、貫く、完全に、超越した、向こう側の、等「本質の変化を表す」意)-substantiality”である。

 transに関する別の説として、transsubstantation(聖変化、カトリック教義で、パンと葡萄酒が聖餐においてキリストの体に変化すること)を意味するというものもある。この説だと、transとconが互いに意味を打ち消さず(consubstantialityでもあり、transsubstantationでもある)、transが、作品内で比較的強調を置かれている輪廻転生や、個を超えた同一化、対立物の一致などのテーマをも主張する。

 magnificはMagnificat(マニフィカト。キリスト教聖歌の一つで、次に挙げる「聖母マリアの祈り」のテキストをもとにしている)を意味しうる*93。ちなみにmagnificareはラテン語で、“to esteem or prize highly”の意。magnifyにも、“to praise, glorify (especially God)(14世紀からの用法)、to make(something)larger or more important (同じく14世紀からの用法)、to make (someone, something) appear greater or more important than it is, to intensify, exaggerate(17世紀からの用法)”というように、何かを(誰かを)より重要なものにする、実際よりもすばらしく見せる、強調、誇張する、といった意味をもつ。

ルカによる福音書」ではマリア(後に聖母になるほう)がザカリアという祭司の不妊の妻エリザベトを訪ねるのだが、マリアが主をほめたたえる「聖母マリアの祈り」はこの言葉に関連しうる。「(マリアがエリザベトに言う)「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」「ルカによる福音書(1:47‐49)」(“And Mary said, My soul doth magnify the Lord, And my spirit hath rejoiced in God my Saviour. For he hath regarded the low estate of his hand maiden: for, behold, from henceforce all generations shall call me blessed. For he that is mighty hath done to me great things”(Mary’s Song of Praise))*94

 マリアの言葉は「主の偉大さを証明するもの」であるという解釈は理解しやすいのだが、一方で後のカトリック信仰から分かるように、ここで崇高な存在とされているのはマリアである、とも推論しうるという説もある。キャンベルは“My Soul doth magnify the Lord”という文章が、“God is within me”の意であるとし、神が個々の人間のうちにいるということはマリアが神(イエス)の母であるという状態を示すのみならず、今この世界に生きている人類全体に当てはまる状態を指し、Magnificatとは自己と他者を互いに貫くという意味を示す、と述べている*95。しかし、カトリックでのマリア信仰が強いという以外、全体的にこの説の根拠は薄いように感じる。自己と他者とを貫くという意味でのMagnificatという言葉はこれに対応するサンスクリット語の意味に示されている、とも述べられている*96が、サンスクリット語について私は原点をあたる能力がなかった。

 次に、jewについてはユダヤ人で問題ないと思う。bangは解釈が多様である。スティーヴンの考えているような神学論争から、ギフォードは、この言葉が「キリスト教義に関する議論の元となる問題、アリウス派をめぐる終わらない言い争い」のことを指している*97、とする。また、キャンベルは神を爆発的な力と結びつける内在的神性としての意味であると考えている*98。これは第二挿話で、スティーヴンがディージーの「時」の終わりにおける「神の顕現」という伝統的な目的論的世界観に直面するとき、ホッケーの試合を示し、「あれが神です――街の叫び声が」と自説を唱える場面とも関連し、スティーヴンにとって創造と破壊の力は万物に内在するものである、との指摘もある*99。bangには、「したたか打つ、性交する」という意味もあり、「性交する」という意味で解釈すると、これはマリアの「神による受精」のことを指す可能性も示唆されている(第一挿話でマリガンが「おふくろはユダヤ人」と歌っている部分とも関連づけられている)。「性交する」という意味でbangが用いられるのは主に20世紀だが、それ以前に使われていた例も存在するらしい。

 さらに、2017年には新たな解釈が発表されている。シンプソンによると、ジョイスは19世紀初頭のアイルランドの詩人James Clarence Mangan(1803‐1849)の作品や、当時人気の劇場、歌、芝居などでこのような言葉を知っていた可能性があるという。ジョイスマンガンに大変興味を持ち、その作品を高く評価していた。マンガンは多言語・多文化に通じた詩人で、諸国語の翻訳された言葉を作品内に用いることで東と西、東洋と西洋の結びつけを試み、時に大胆に他の作家の言葉を「盗む」こともあり、遊び心にあふれた詩作品を創る高い技術を持っていた。Vindicatorというアルスターの新聞に“transmagnificandubandanciality”という彼の言葉が記されている。これはEoghan Ruadh Mac an Bháirdの哀歌“A bhean fuair faill ar an bhfeart”という作品を評する際に彼が作った造語で、ジョイスはこの言葉を目にした可能性があると考えられる。こういった言葉が最初に作られるようになったのはおそらくアメリカで、1830年頃までに遡り、その後数十年を経て発展した。ジョイスキリスト教の「同一実体説」という言葉を、既に存在していたこのような言語と融合させたのではないかと考えられている*100

 ここで改めて邦訳に戻る。U-Yは「同変母救猶騒譁癇説」としているが、「同」はcon(substantiality)、「変」はtrans(substantiality)、であろう。「実体」に当たる言葉が出てきていないので、consubstantialityとtranssubstantationのどちらを念頭に置いていたかは分からない。「母」はMagnificat、あるいはMagnifyだが、「救」は「マリアが救う」ことを意味しているのか、それとも「神によってマリアが救われること」を意味しているのか。「猶」はJew(ユダヤ人は漢字にすると猶太)だ。次の「騒譁癇」の部分だが、「譁」はかまびすしい、やかましいという意味。「癇」は「ひきつけ、発作的に筋肉がひきつる病気、感情が激しく、すぐかっとなる性質」を表す。bangについて改めて調べてみると、「(激しく)バンと叩く、大きな破裂音をたてる、バタンと閉まる、跳び上がる、騒々しい音を立ててぶつかる、どたばた走り回る、性交する、元気、精力、to strike heavily, often repeatedly, to crush noisily against or into something, to move noisily or clumsily, sudden movement, sudden very loud noise, quick burst of energy, thrill / If you bang something on something or if you bang it down, you quickly and violently put it on a surface, because you are angry」といった意味があり、「騒々しさ」「怒り」「激しさ」の要素がこれらの意味の中に見られるので、「騒譁癇」でbangを想起させる意味を持たせているのかもしれない。一方U-Δのほうは、「同一全質変聖マリア賛ユダヤ人やっつけろ実体説」としているが、こちらのほうが原文のどの部分がどの言葉に対応しているのかが分かりやすい。「同一」はcon、「全質変」はtranssubstantiationで、全質変化(聖変化)のことだろう。「聖マリア賛」はMagnificat、「ユダヤ人」がJew、「やっつけろ」はbang、実体は単語の最初にある「同一」conの後にくるべきsubstantialityを指すと考えられる。

 U-Δのほうが読んでいて意味は取りやすいのだが、こういったジョイスの造語(完全な造語ではないにしても)を漢字文化の利用によって翻訳・翻案したU-Yの試みは面白いし、意味は取りにくくともジョイスの言葉の遊び心を尊重している印象をうける。結局、この奇妙な造語で表されたような事柄とアリウスとが生涯をかけて戦った、ということになると思うのだが、単語の中に埋め込まれたconsubstantiality、trans、bangはアリウスと繋がるにしても、Magnificatとjewがわからない。Magnificatがマリアのことを指すならば(「賛」の意味は留保しておく)アリウスはヘテロウシオス(子(イエス)は「生れたもの」であり、父なる神と同質ではない)を主張していたから、「生れること」との繋がりで、イエスの母であるマリアを出したのだろうか? そしてjewは「迫害された者」の象徴だろうか? 「形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人」*101というユダヤ人についての説明に従えば、アリウスはユダヤ人だったと言えるのかもしれないのだが、「ユダヤ人」の定義は非常に難しく、3世紀に生きたアリウスが初期のキリスト教徒と言えるのかどうかというのも少なくとも私には判断がつかないので、やはりこのjewの部分については意味がよく分からない。

・U-Y 75「ギリシア式水洗便所で息を引き取った。安楽往生」

 “In a Greek watercloset he breathed his last: euthanasia”

 →「ヘレニズム文化ないし東方諸教会にあてつけたか。「オモフォリオン」を着用させているのを見ても、スティーヴンは異端者アリウスを東方教会に結びつけている(第7挿話では登場人物の一人が水洗便所はローマ人が発明したと言う)」(U-Δ注)。ギリシア式水洗便所の写真を探してみたのだが、ギリシャにあるギリシャ式水洗便所は見つからなかった。ただ、こんな感じのものだったのではないかというものは見つかったので載せておく。

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古代ローマの水洗便所の遺跡*103

 breathe one’s lastは「息を引き取る、死ぬ」の意。euthanasiaは現代の意味では「安楽死安楽死術」だが、古い意味では「安らかな死、大往生」にもなる。訳はどちらも「安楽往生」だが、恐らく古いほうの意味を取っているのだと思う(現代的な「安楽死」はどちらかというと死期の迫った人間が医師によって人為的に苦痛なく他界することを指すと思われる)。U-Δ注は、アリウスがエジプトからオリエントへ従属主義的(子であるキリストは父なる神から創造されたものなので、その神性は父なる神より下であり、父なる神に従属する、という考え方*104)な教えを広め、ニカイア公会議以降もその教えを信奉する者が多かった*105ことに依拠するものか。また、euthanasiaという言葉も語源はギリシアにあるので、ここでもアリウスと東方教会との繋がりが表現されているのかもしれない。

<U-Y 73 ~オモフォリオン、鰥、マナナーン~>

・U-Y 75「宝石きらびやかな司教冠を着け、十字錫杖を手に、王座に鎮座ましまし、司教に先立たれた管区の男鰥。オモフォリオンが吊り上がり、尻には固まっちまったのがこびりついて」

 U-Δ102「主人を失った司教区の男やもめが数珠玉つきの司教冠をかぶり、司教杖を手に、司教高座に着座して、《オモフォリオン》をぴんと跳ねあげ、尻に汚れをこびりつかせて」

 “With beaded mitre and with crozier, stalled upon his throne, widower of a widowed see, with upstiffed omophorion, with clotted hinderparts”

 →「オモフォリオン…東方教会で用いる司教用肩衣の一種。刺繍を施した白絹の帯を首に廻し左肩から膝に垂らす」(U-Δ注)。beadedは「ビーズで飾る、数珠玉、玉で飾る、玉をつける、to apply beads to」の意で、beadは“a small ball with a hole through the middle”、古英語では「祈り、数珠」の意味がある。mitreは司教冠で、頂部に2カ所尖った突起がある*106

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ミトラをかぶる司教*108

 またmitreには“A 13th century coin minted in Europe which circulated in Ireland as a debased counterfeit sterling penny, outlawed under EdwardⅠ”(13世紀にヨーロッパで鋳造され、アイルランドで流通した価値の低い偽の英ペニー貨で、エドワード1世の時代に禁止された)という意味もあった。U-Yでは「宝石きらびやかな司教冠」、U-Δでは「数珠玉つきの司教冠」としているが、ミトラに「数珠玉」はつけるだろうか? 上の写真は質素なものに見えるが、画像でミトラを検索すると宝石などで飾られた、豪華なものが多い。この飾りが「数珠玉」なのかどうかは分からない。それとも古代のミトラは本当に数珠玉で飾られていたのか。mitreはおそらくラテン語読みで「ミトラ」になるのだろうが、現代英語の読み方の発音記号は[máitə](恐らく「マイタ」に近いのでは)となっている。

 crozierの発音は[króuʒəː](クロウジャー)。これはU-Yでは「十字錫杖」と訳されているが、「錫杖」は辞書では主に仏教の僧侶の持つ杖のことで、頭部に金属製の輪がついている。英国王が持つ杖のことを錫杖と呼んでいる記事もあったが、「十字錫杖」をインターネットで調べてみると隠れキリシタンの遺物として、地蔵のもつ錫杖に十字の刻まれたものが見つかる*109。このような背景を鑑みると「十字錫杖」という言葉は、日本に持ち込まれ、日本の文化・宗教と融合した西洋の文化・宗教が、特異な文脈の中で使われている言葉だ。こういったそれ自体で複雑な歴史的背景を持つ言葉を、そのおおよその、外形的な近さから、訳語としてあてはめるのは適切なのかどうか。これは「和臭」どころではない。やはりここはそこまでの工夫をせず、「司教杖」という訳で十分だと私は思う。

 stallは現代英語で「座る」という意味が見当たらなかったのだが(家畜を畜舎の仕切りに入れる、という意味が一番近いものか)、既に廃れた意味として“to place in an office or dignity by seating in a stall or official seat”という記載が辞書にあった。「鎮座」という言葉は「人や物がどっしりと場所を占めている」という意味で、揶揄のニュアンスも含まれうる。throneには「王座、玉座、便座、便所」という意味がある。U-Yでは「玉座」と「鎮座」で韻を踏んでいるのだろうか。widowerは男やもめ(配偶者を亡くした男性)の意。女性の未亡人の場合はwidow。これが動詞になると、「男やもめにする、未亡人にする」という意味になる。また、“to strip of anything valued”(何か価値のあるものをはぎとる)というような意味もある。widowされた管区というのが、一時的に司教のいない教区の表現としてここでは認識されており、313年、アレクサンドリアのボーカリス管区の監督教会の司教として認められていたが、ニカイア公会議の末、321年に職を解かれたアリウスもwidowerである、という説がある(自分の管区から分離された(divorced)者としてwidowerという言葉を当てている、としている)*110。司教のいない管区(widowed see)と、管区を奪われたアリウス(widower)での“widow”は互いに若干違う意味内容を持っているとも言えるが、互いの「大事なものを奪われた」という点では共通している。

 U-Yの「鰥」は「やもめ(寡、寡婦、孀、鰥、鰥夫)。夫のいない女、夫を失った女、未亡人、後家、妻を失った男、妻のいない男、やもお(古くは男女ともに未婚者にも既婚者にも当てはめられたが、現在では主に既婚者で配偶者を失った者をいう)」。「やもお」という言葉があることから察するに、「やも」という部分が配偶者のいない状態を指しているのだろうか。ちなみにそもそも鰥とは巨大な魚のことで、荘子の『逍遥遊篇』に出てくる鯤(こん)と同根。『釈名』(劉熙著)には、「鰥昆也。昆明也。愁悒不寐目恆鰥鰥然也。故其字从魚。魚目恆不閉者也」(「鰥は昆(こん)なり。昆は明なり。愁悒(しゅうおう)して寐(いね)られず、恆(つね)に鰥鰥然(かんかんぜん)たるなり。故にその字は魚に从(したが)う。魚目は恆に閉じざるものなり」)という記述があり、「「鰥」とは、「昆」と同根なのである。そして「昆」は「明るい、よく見える」という意味である。さて、(成年して妻がいない男は、つれあいを求めて)愁い悩ましくて毎晩眠ることができない。いつも「ぎらぎらとして(目を開けたままで)いる」という状態になっているのである(この状態が「鰥鰥然」なのだ)。だから、この字には「魚」がついている。魚というのは、まぶたが無く、目を閉じるということが無い生物だからである」という意味らしい*111。U-Yでこの「鰥」という魚篇の漢字を使ったのは、see(管区)からsea(海)への連想だろうか。

 upstiffという単語を使っている例はネット上で見られたのだが、辞書には載っていなかった。stiffの動詞も訳語にあまり当てはまらないので、stiffedで形容詞化したものと考えると、「張りきった、ぴんと張った、こわばった、ぎこちない、硬直した、曲げられない、なめらかに動かない、自尊心の強い、形式ばった、不屈の、頑なな、軋む、difficult, severe, tightly stretched, taut(きつく張りつめた、ぴんと張った)、(俗語)intoxicated, unlucky」等の意味になり、upが「上へ、勢いよく、きっかり、しっかり、ちゃんと、停止して」などの意味なので、二つを合わせると「ぴんと張ったもの、張りつめたもの」が「上へ」持ち上げられている状態と考えられるだろうか。オモフォリオンはU-Δ注にあるように、一端を前に垂らし、もう一端を折り返すように後ろへ垂らすもので、ピンで留めることもある*112

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緑色のオモフォリオンを肩にかけた司祭*114

 写真や図から判断すると、upstiffされているオモフォリオンは、片側の肩に折り返され、掛けられた部分を指しているのではないかと思われる。少なくともU-Δではそのように解釈して訳したのではないだろうか。U-Yの「吊り上がり」はupstiffedをどのようにとらえていたのだろうか。そもそもなぜここでupstiffedという言葉が使われたのか。この部分に関しては、「彼(アリウス)の身体から生命にかかわる臓器を守るため、無益に(オモフォリオンが)使われているからupstiffedなのではないか」*115というあまり断定的ではない指摘がある。ぎこちなく硬直しているオモフォリオンはアリウスの命を守れなかったのだろうか。clotは「(血や牛乳などを)固まらせる、もつれさせる、動きが取れなくなる」などの意。

 hinderpartsはこのままの単語では辞書にないが、“hinder parts”としての用例はある。hinderは「後方の」という意味。“hinder parts”という言葉の正確な意味は曖昧だが、King James Bibleの中にこの言葉はしばしば出てくる。また、1824年の聖書解釈本の中で、King James Bibleの該当箇所について言及がある。“God smote the Philistines in the hinder parts, and them to a perpetual reproach, when he plagued them with the emerods”*116。新共同訳では以下のように書かれている。「主の御手がその町に甚しい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さな者から大きな者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった」この訳では、“hinder parts”、“secret parts”について訳出していない。聖書原文中に出てくるemerodsはhemorroids(痔)の古語。19世紀までは一般に使われていて、この言葉はKing James Bibleに頻出している。現代の研究では、これは「腫瘍」とも訳しうると指摘されている。また「痔の疫病」(plague of emerods)は実際には“bubonic plague”(腺ペスト*117の疫病)の発生であったのではないかとも推測されており、この腺ペストの疫病は、ネズミによる疫病の蔓延であったのではないかとも考えられている。emerodsは、4世紀に初期キリスト教の学者ジェロームがOphalimを“swelling of the secret parts”(秘部のふくらみ、隆起)として訳している*118

「トイレで腹が破裂して死亡した」という話と、文中のstall(玉座、便座)という言葉から、アリウスが死んだとき尻に破裂して出たばかりの血や内臓、糞便が柔らかく固まって(clot)して付着していた、と考えるのはやはり妥当なのだが、いつものように「何が」ついていたのかは明示されておらず、また“with upstiffed omophorion, with clotted hinderparts”という表現から、厳密にはclotしていたのはhinderpartsであるので、聖書中の語句と同一であるということも考え合わせると、「尻に腫瘍(痔のふくらみ)をつけて」というふうに考えることもできるのではないだろうか。もしかしたらダブルミーニングなのかもしれないとも思う。そういった意味を踏まえているのかどうかは分からないが、U-Yでは糞便がついている様子を想起させるようでありながら、糞便とは限定していない。一方、U-Δでははっきり「汚れ」と訳している。スティーヴンは「父と子は同一実体ではない」と唱えた異端者アリウスの悲惨な最期に思いを馳せている。また、この文章は“w”が多いと感じた。もしかしたらこの”w”、尻の形を表しているのか?

                   ↓

            ☆浜辺を歩くスティーヴン・詩作

                  ↓

        ☆無からの創造―自らの出生・誕生についての思索

                  ↓

       ☆存在と時間の問題―アリウス・父と子は同一ではない

                  ↓

               ☆海へ目を向ける

                   ↓

・U-Y 75「風が周りを躍り跳ねる。身を切る寒風だっけな。来るぞ、波が。白鬣の海馬ら、馬銜を噛みながら、光風に手綱取られて、マナナーンの駿馬ら」

 U-Δ103「風が彼のまわりで飛び跳ねた。身を切るような鋭い風。こっちへ来るぞ、波が。白いたてがみの海馬が歯を噛み鳴らし、光る風の手綱にあやつられて、マナナーンの駿馬どもが」

 “Airs romped round him, nipping and eager airs. They are coming, waves. The whitemaned seahorses, champing, brightwindbridled, the steeds of Mananaan”

 →「身を切るような鋭い風…『ハムレット』の一幕四場のホレイショーの台詞にほぼ同じ句がある。/海馬…比喩としては白い波頭を立てて押し寄せる波の意に用いる。字義通りにはセイウチ類、タツノオトシゴなど。/光風に手綱取られて…これもホメロス的な枕詞」/マナナーン…アイルランド伝説の海神。妖精の島の王。駿馬に戦車を引かせ、手勢を率いて海上を駆ける。または白馬にまたがって海中から現れる」(U-Δ注)。rompは「はね回る、はしゃぎまわる、ふざけ回る、遊び戯れる」等の意。「躍り跳ねる」「飛び跳ねる」風もまた、マナナーンの化身だろうか?(マナナーンについては後述)nipは「(寒風などが)(肌などを)こごえさす」という意味。eagerはここでは“(of air and of speech)keen, biting)”(鋭い、身を切る)という意味で使われているようだ。ここでの“nipping and eager airs”は『ハムレット』では以下のようになっている。“Hamlet: The air bites shrewdly; t’is very cold / Horatio: It is a nipping and eager air*119(『ハムレット:身を切るような風だ、寒いぞ。/ホレイショー:耳がちぎれるようですな』)*120 whitemanedのmaneはたてがみ。

 seahorseは辞書では「セイウチ、タツノオトシゴ、伝説上の海馬、(神話)海馬(Sea-Godの車を引く馬頭魚尾の怪物」とある。この辞書中の「馬頭魚尾の怪物」とはギリシア神話に登場するヒッポカンポス(hippocampus)のことで、ポセイドンの乗る戦車を率いることでも有名であるらしい*121。しかし、私は海馬というと脳の記憶領域のほうをすぐ連想してしまう。タツノオトシゴのような形をしているから「海馬(領域)」と命名されているのだが、海馬は大脳辺縁系の一部を構成し、嗅脳に隣接するからか、20世紀中頃まで嗅覚機能に関与すると考えられていた。Bechterew(ベヒテレフ)(1899)、Gruüthal(1947)、Glees(グリーズ)とGriffith(1952)らが、近時記憶に著しい障害のあった患者の脳を死後解剖し、両側の海馬や海馬傍回に器質的病変のあることを報告。Scoville(スコヴィル)とMilner(1957)が難治性てんかん患者の治療目的で、両側側頭葉内側部(扁桃体、海馬傍回、海馬前方⅔)の切除術を行ったところ、強度の順行性記憶障害を惹起したことを報告。以来、海馬が近時記憶と長期記憶の形成(記銘)の部位として注目されるようになる*122。なかでもベヒテレフ(ウラジーミル・ベヒテレフ、1857-1927)はソビエト精神科医精神病理学者、神経系の解剖学、生理学に関する研究を行っていて、『脳と骨髄の経路系』(“Pathways of brain and bone marrow”)という著作で、海馬の記憶における役割について指摘し、1900年にベール賞(Baire’s Prize)を授与されている*123。また、脳の海馬の説明には以下のようなものもある。「大脳辺縁系の一部。脳の記憶や空間学習能力にかかわる脳の器官」*124。海馬部分をも含めた脳の研究の年代から、ジョイスがベヒテレフらの研究結果について知っていたかどうかまでは私には分からないが、後の挿話でブルームが色々な科学的知識を披露していることから、少なくとも海馬がそれまで嗅覚機能に関すると認識されていたことくらいは知っていたのではないだろうか? 今までスティーヴンは視覚・聴覚・触覚(貝を踏む感触も感じていたはずだ)で現実世界を認識していた。ここで「順次」打ち寄せる波の比喩としての「海馬」が脳の海馬の「嗅覚記憶」にもつながっているのだとしたら面白い(嗅覚刺激も「順次」するものだろう)。20世紀後半の研究結果についてジョイスはもちろん知らなかったと思うが、1900年にベール賞を受賞したベヒテレフの報告は耳にしたのではないだろうか。海馬領域の機能は最終的に空間認識にもつながる。偶然だとは思うが、作者の手を離れたところでテキストが挿話のテーマを強化してしまっている。

 訳を見ると、U-Yのほうが「馬感」が強い。seahorse(海馬)も含め、馬を含む語(海馬―馬銜―駿馬)が三度出てくる。鼎訳のほうは特段意識して「馬」という語や「馬」の含まれる漢字を使っている様子ではない。champは「馬がくつわをいらだってかちゃかちゃ噛む、馬が飼葉をむしゃむしゃ食べる、音をたてて噛む、馬のように苛立つ」等の意味を持つ。この部分、U-Yでは「馬銜を噛みながら」としているが、U-Δでは「歯を噛み鳴らし」としている。どちらかというとU-Δのほうは原文に直接は対応していないが、その音声的な重なりを、視覚的に類似した漢字を連ねることで再表現しようとしたのかもしれない(「歯」と「噛」(「歯」を共通して持つ)、「噛」と「鳴」(口偏))。bridleは「馬に勒をつける、感情などを抑制する、(女が頭を上げて)つんとする、(怒って)頭を上げ、つんとする」等の意味。この中の「勒」は「文章を石に刻む、くつわ、馬の口に噛ませて手綱をつけるための道具、おもがい(轡を固定するためのひも)、馬の頭から轡にかける組みひも」の意。steedは「(古語・文語で)(乗馬用の)馬、(詩で)元気な馬、混乱状態のため、または戦争のための勇ましい馬、駿馬、軍馬」などの意。

 マナナーン(Mananaan)について調べてみると、「マナナーン」と「マナナン」と両方の表記がある。マナナーン(ManannánまたはManann、またはManannán mac Lir(海の息子の意))はアイルランドの神話の中では戦士であり、ティル・ナ・ノーグの王であり、海と結びつけられ、海神として解釈されることが多い。また、トゥアハ・デ・ダナンの一人である。常若(とこわか)の国の支配者で、保護者として目されている。彼の領土はメグ・メル(喜びヶ原)、ティル・タルンギレ(約束の地)と呼ばれている。人間の出現の後、彼は複数いる神々の中の「諸王の王」として語られるようになり、他の妖精たちと同様、自らの住処を隠すため「目くらましの霧」(mist of invisibility, féth fíada)を使う。現代の伝説では、マナナーンは自走する船スガバ・トゥネ(Wave sweeper、静波号、鎮海号等と訳されている)、水の上を陸と同じように走ることのできる馬アンヴァル(Aonbaharr)や、フラガラッハ(Fragarach)という名の、致命的に敵の刀を奪う刀などを持っていたとされる。マナナンの名はマン島が由来であるとも、マン島という名がマナナンの名を由来としているとも言われている。

 8世紀のアイルランドの物語「ブランの航海」(Imram Brain, Voyage of Bran)では、マナナンは海上で馬車を走らせ、航海中のブラント船員たちに出会う。16世紀に書かれた“Pursuit of the Gilla Decair”などの中で、マナナンは生者の地を訪れるが、彼の動きは風、鷹、ツバメに喩えられ、時に一帯を駆け抜ける轟く車輪の形態をとることもある*125

 ちなみに、トゥアハ・デ・ダナン(Tuatha Dé Danann、Tribe of Godsの意)はケルト神話で神の一族。アイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌダーナ)を母神としている。フォモール族に追い出されたネミディア族がダナーン族になったとも言われている、やがて、5番目の種族であるミレー族との戦いに敗れ、地下の世界に移る。この世界は地上の世界の鏡像のような世界だったとされている。彼らは後に妖精ディーナ・シーとなる*126。ティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg, otherworld)は、トゥアハ・デ・ダナーンがアイルランドの祖と言われるミレー族との戦いに敗れた後、その生存者が移住したとされる土地の名。いくつかある楽園の一つで、ティル・ナ・ノーグは「常若の国」だが、妖精たちの好みの棲み処でもあり、生き物の住む島、勝利者たちの島、水底の島とも呼ばれている。敗北後のトゥアハ・デ・ダナーンがどの妖精丘(シー)に住むべきかを、族長的な地位についたマナナーン・マクリールが決めた。そのことを記述した文書では、マナナーンの住処は「約束の地」ティル・タルンギレ(Tír Tairngire)またはエウィン・アヴラハ(Emain Ablach)などと呼ばれるだけで、「ティル・ナ・ノーグ」という地名は登場しない。マナナーンは常若の饗応(ゴヴニュの饗応)を一族の生存者にふるまい、永遠の若さを保った。マナナーンの住むこの地は他に「楽しき都(マグ・メル)」、「喜びヶ原(メグ・メル)」「至福の島(イ・ラプセル)」などと呼ばれ、西の方角にあるとされている。この常若の国には不思議の「リンゴ」の木、食べても生き返る「豚」、永遠の若さを授けるゴヴニュの饗応(エール麦酒)の3つがあるとされている*127

 マナナーン(マナナン)はおそらくは“Manannan(Manannのan(息子))”ではないかと思うのだが、作品内ではMananaan(nが一つaに変わっている)と表記されている。この部分は後に出てくるサイモンによるリッチーの真似(and and and and)とも重なる、と読書会で話されていたが、どちらの表記にしてもanの数は同じだ。また、このMananaanという単語内の文字そのものが波のように見える、という指摘もあった。“a”だけが波に見える文字なら、それを意図して表記を変えたのか、と思う。しかし“a”が浜辺に押し寄せる波に波頭がついているような文字に見える一方で、“n”は浜辺に打ち寄せる前に盛り上がる波のうねりのように私には見えたので(そのように「見て」しまうと“n”という字は様々なものに「見えてしまう」のだが)、ここでわざと表記を変えたのか、間違いや誤植の類なのかはよく分からない。ただ、どちらの表記にせよ、どういった意図でこの綴りにしたにせよ、Mananaanに含まれる文字とその並びは確かに波を想起させる。全体的に見て、この節はU-Yのほうが美しい文章のように私には感じる。

<おまけ:ラッセル “In The Womb” 試訳>

 ジョージ・ウィリアム・ラッセル(George William Russell, 1867-1935)は、アイルランド民族主義者、評論家、詩人、画家、ジャーナリスト。ラテン語 aeon に由来する筆名Æを使用した。アイルランド文芸復興運動の中心的役割を果たし、神智学団体のまとめ役や相談役も担った。アルスター地方アーマー州ラーガン生まれ。
 神秘主義者として知られ、幼少時から幻覚を目にすることが多かったという。11歳の時にダブリンに引っ越し、服地商として働き始める。アイルランド農業組織協会に従事し、1880年頃から神智学に興味を持ち始めた。1885年に学友ウィリアム・バトラー・イェイツがダブリンにヘルメス協会を設立した際には加入しなかったが、この組織が神智学協会へと改組されると参加した。だが1898年にはこの組織を抜け、自らヘルメス協会を復興させる。1905年から1923年までは「The Irish Homestead」誌の編集者を、1923年から1930年までは「The Irish Statesman」誌の編集者を務めた。
 ラッセルの初作は1894年に“Homeward: Songs by the Way”(邦訳されていないようなのだが訳すと『家路へ―道々の詩』くらいになるだろうか)という題名の詩集。この作品で彼はいわゆるアイルランド文芸復興運動の中での地位を確立した。そんな中、1902年にジョイスと出会い、彼をイェイツなどアイルランド文学の大家たちに紹介した。ラッセルはジョイスの『ユリシーズ』第九挿話「スキュレーとカリュブディス」に登場している。
 ダブリンのラスガー通りにあるラッセルの家は、当時アイルランドの経済や文学の将来に関心を持つ者たちの会合所になっていた。日曜の夜に開かれるラッセルの家での会合「アット・ホーム」は、ダブリンの文学シーンの中における注目すべき一つの特色であると言えた。新しい政治体制下の有能なリーダーであったマイケル・コリンズは、晩年の最後の数ヶ月の間にラッセルと親交を深めた。多くの点で全く似通ったところがないにもかかわらず、この二人は互いに深い敬意を育んでいると、「アット・ホーム」の常連客だったオリヴァー・セント・ジョン・ゴガティーは考えている。
 ラッセルの寛大さと親切さは伝説的とも言えるほどだった。フランク・オコナーは「温かさと優しさが、年季の入った毛皮のコートのようにあなたを包みこんでいた」と愛情をこめて彼のことを回想している。ラッセルは友人たちに対し大変誠実で、何かと手に負えないことで悪名高いダブリンの文学界においても、彼は同志たちの絶えざる口論の間に入って仲裁を試み、人の神経を逆なでしがちなシェイマス・オサリバンでさえ、単に「飲みすぎただけだから」という理由で、かなり大目に見られることがあったようだ。
 ラッセルの興味は多方面にわたっていた。彼は神智学者になり、また政治や経済について広く著述をなす一方で、絵画制作と詩作も続けていた。彼は自分が自然の知覚の範囲を超えたものを見ることができると主張し、目にしたものを絵画やスケッチのなかに描きだした。
 ラッセルは自分より若い作家たちに対し、桁外れに優しく、寛大であったことで有名だった。フランク・オコナーは彼のことを「アイルランド作家たち三世代分の父と呼べる存在だった」と評している。また、パトリック・キャヴァナーは彼を「偉大であり、かつ高徳の士」と呼んだ。『メアリー・ポピンズ』の作者として有名なパメラ・トラバースもまた、感謝の念をもってラッセルの助けと励ましを思い出している作家の一人である。
 彼の筆名Æは「生涯を通じた人間の探究」を意味するものである*128
 

 ラッセルの詩のなかで面白いものを見つけたので、是非ご紹介したい。というわけで、私見に代えて、ラッセルの詩を一作訳してみる。

“In The Womb”
Still rests the heavy share on the dark soil:
Upon the black mould thick the dew-damp lies:
The horse waits patient: from his lowly toil
The ploughboy to the morning lifts his eyes.

The unbudding hedgerows dark against day’s fires
Glitter with gold-lit crystals: on the rim
Over the unregarding city’s spires
The lovely beauty shines alone for him.

And day by day the dawn or dark enfolds
And feeds with beauty eyes that cannot see
How in her womb the mighty mother moulds
The infant spirit for eternity.*129

<訳>
「胎」
静寂が暗土の重い鋤に憩い
黒い土表に露の湿りが厚く降りる
馬は愚直に控え 馬子は
つましい労役から暁へと目を上げる

未だつぼみのつきかけぬ小暗い低木の並が
日輪の炎を負い 金色を放つ結晶に煌く
その周縁 顧みられぬことのない街の尖塔群から
しめやかな美が ただ彼のもとに輝く

日々を重ね 曙を 闇を抱擁し
見えざる明眸を注いで
強大なる母は その胎内に形づくる
永劫なる幼子の魂を

 この詩で面白いと思うのは、鋤→馬→馬子→低木→街→美・子宮・魂へと視点が広がっていくことだと思う。まさにこのように、子宮内の胎児は成長していくのではないだろうか。暗さ・闇と明るさ・光りという対立物を一つの詩の中に包含していること、子宮—永遠の魂と海との繋がりは、一粒の砂の中に宇宙を見るブレイク的な発想を想起させ、「形成するもの」としての土が冒頭に出てくる辺りはキリスト教的でもある、と思う。

 

 以下、パート2に続きます…(そのうち公開します) 

 

※おすすめの本

  Twitterでも少し紹介しましたが、このオフェイロンの本はアイルランド古代からの歴史を追いながら、その過程での民衆の暮らしや文化の変遷、それを象徴するアイルランドの詩やケルト文化まで紹介されているので、歴史や文化を学ぶのにおすすめで、読み物としても面白いです。写真が多いのもいい。ただ、発行年が少し古いため、IRAにはあまり触れていませんのでご注意。

アイルランド―歴史と風土 (岩波文庫)

アイルランド―歴史と風土 (岩波文庫)

 

*1:http://m.joyceproject.com/notes/030020signatures.html

*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A1

*3:http://m.joyceproject.com/notes/030020signatures.html

*4:ベーメについての以上の説明は『ヤコブベーメと神智学の展開』岡部雄三著、岩波書店、2010年、pp. 55-81を参照

*5:http://m.joyceproject.com/notes/030030colouredsigns.html

*6:https://www.stephens-workshop.com/stephens-s-notes/の第4回スライド参照

*7:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC

*8:『視覚新論 付:視覚論弁明』バークリー著、下條信輔植村恒一郎・一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1990年、p. 199

*9:http://m.joyceproject.com/notes/030025baldhewas.html

*10:http://m.joyceproject.com/notes/030025baldhewas.html

*11:水地宗明著『アリストテレス『デ・アニマ』注解』晃洋書房、2002年、pp.71-73参照

*12:水地宗明著、前掲書、p.259

*13:アリストテレスアリストテレス全集6』山本光雄、副島民雄訳、岩波書店、1968年、p. 138

*14:アリストテレス『心とは何か』桑子敏雄訳、講談社、1999年、p. 106

*15:水地宗明著、前掲書、p.261

*16:水地宗明著、前掲書、p.259

*17:アリストテレスアリストテレス全集6』前掲書、pp. 191-192

*18:http://m.joyceproject.com/notes/030025baldhewas.html

*19:ダンテ『河出世界文学全集(1) 神曲平川祐弘訳、河出書房新社、1989年、pp. 6-7

*20:ダンテ、前掲書、pp. 8-9

*21:Don Gifford, Robert J. Seidman “Ulysses Annotated: Revised and Expanded Edition”, University of California Press, 2008, p. 45

*22:http://m.joyceproject.com/notes/030025baldhewas.html

*23:ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳、新潮社、1994年、p. 326

*24:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%AB%96%E4%BA%89

*25:若林光夫「ラオコーン群像をめぐって : ウィンケルマン - レッシング - ヘルダー」、『ドイツ文學研究』、1968年、第16巻、pp. 1-24

*26:http://m.joyceproject.com/notes/030009laocoon.html

*27:Shakespeare“Hamlet (Amazon Classics Edition)(English Edition)”AmazonClassics, 2017 p. 35

*28:シェイクスピアハムレット福田恆存訳、新潮文庫、1967年、p. 424

*29:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9https://en.wikipedia.org/wiki/Timaeus_(dialogue)

*30:http://m.joyceproject.com/notes/030092losdemiurgos.html

*31:https://en.wikipedia.org/wiki/Los_(Blake)#/media/File:Jerusalem_Plate_100.jpg

*32:https://en.wikipedia.org/wiki/Los_(Blake)#/media/File:Jerusalem_Plate_100.jpg

*33:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8Ahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9_(%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E7%A5%9E%E8%A9%B1)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%82%A2%E3%81%9F%E3%81%A1

*34:松島正一「ミルトン、ブレイク、そしてロス : =ブレイク『ミルトン』第一巻」『研究年報/学習院大学文学部』34号、1988、pp. 125 - 145

*35:http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/term-gn.html

*36:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*37:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*38:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*39:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*40:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*41:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E7%AF%80

*42:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E8%84%9A

*43:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E5%BE%8B_(%E9%9F%BB%E6%96%87)

*44:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E9%9F%BB%E6%A7%8B%E6%88%90

*45:http://m.joyceproject.com/notes/030127madelinethemare.html

*46:https://literaryballadarchive.com/ja/what-is-the-literary-ballad.htmlhttp://abe.ihatov.jp/pdf/englishpoem.pdf

*47:https://tanintl.com/plod.html?cat=6

*48:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97_(%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9)

*49:https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:MDg8lcPn7ScJ:https://enc.piano.or.jp/musics/928+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja%7Clang_en

*50:https://en.wiktionary.org/wiki/Frauenzimmer

*51:http://m.joyceproject.com/notes/010039mightymother.html

*52:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3

*53:上村 盛人「スウィンバーンと<ファム・ファタル>神話―メアリ・ゴードンをめぐって」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』〈26巻1号〉1977年11月、69-80ページ

*54:http://rinnsyou.com/archives/307

*55:https://www.poetryfoundation.org/poems/45307/the-triumph-of-time-56d224c3d1e6c

*56:https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co96632/midwifery-bag-and-contents-midwifery-bag

*57:https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co96632/midwifery-bag-and-contents-midwifery-bag

*58:https://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Chuzzlewit#Characters

*59:http://irisharchaeology.ie/2012/03/dublins-forgotten-buildings-the-dutch-billy/

*60:http://irisharchaeology.ie/2012/03/dublins-forgotten-buildings-the-dutch-billy/

*61:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Royal_Dublin_Society

*62:以上、自由区、毛織物業・リネン産業等の歴史については、『世界歴史体系 アイルランド史』上野格・森ありさ・勝田俊輔編、山川出版社、2018年、p.55、pp140-142、p.155,p.169、pp.176-177、p.194、p.415、『アイルランド史』J. C. ベケット著、八潮出版社、1972年、pp.24-25、pp.141-143、p.161、https://en.m.wikipedia.org/wiki/The_Liberties,_Dublinhttp://m.joyceproject.com/notes/030060theliberties.htmlhttps://en.wikipedia.org/wiki/Navigation_Acts#Effect_on_Irelandhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%9D%A1%E4%BE%8Bを参照

*63:ジョージアン様式の建築についてはhttp://www.news-digest.co.uk/news/archive/architecture/4596-georgian-architecture.htmlを参照

*64:http://irisharchaeology.ie/2012/03/dublins-forgotten-buildings-the-dutch-billy/

*65:https://bloomsandbarnacles.com/2019/02/26/decoding-dedalus-omphalos/

*66:https://en.wikipedia.org/wiki/2_Maccabeeshttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%90%E3%82%A4%E8%A8%98

*67:https://st-takla.org/pub_Deuterocanon/Deuterocanon-Apocrypha_El-Asfar_El-Kanoneya_El-Tanya__9-Second-of-Maccabees.html#Chapter%207

*68:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*69:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*70:https://www.aozora.gr.jp/cards/000961/files/42184_16641.html

*71:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*72:http://m.joyceproject.com/notes/030095beasgods.html

*73:https://en.wikipedia.org/wiki/Omphaloskepsis

*74: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9_(%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8)

*75:以上カバラについての説明はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%A9http://www.hm.aitai.ne.jp/~genkou/reikonn/sinpi.htmlを参照

*76:http://m.joyceproject.com/notes/030083nakedeve.html

*77:https://en.wikipedia.org/wiki/Buckler

*78:https://en.wikipedia.org/wiki/Buckler

*79:https://en.wikipedia.org/wiki/Buckler

*80:https://biblehub.com/kjv/songs/7.htm

*81:https://biblehub.com/commentaries/songs/7-2.htm

*82:https://www.ccel.org/t/traherne/centuries/cache/centuries.pdf内の“The Thord Century"より

*83:以上のトラハーンについての説明についてはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Trahernehttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E8%A9%A9%E4%BA%BAhttps://satoru312.wordpress.com/2010/02/を参照

*84:http://m.joyceproject.com/notes/010148uncleanloins.html

*85:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*86:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*87:ニカイア信条についてはこちらを参照。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E4%BF%A1%E6%9D%A1

*88:http://m.joyceproject.com/notes/030026exnihilo.html

*89:https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E4%BD%93-4258

*90:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2

*91:以上のアリストテレスのウーシアについてはhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BD%93https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E4%BD%93-4258をまとめた

*92:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9を参照

*93:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%88https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%A0

*94:https://biblehub.com/kjv/luke/1.htm

*95:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html

*96:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html

*97:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html

*98:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html

*99:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html

*100:http://m.joyceproject.com/notes/030096contransmag.html、Matthew Campbell, Ciaran Carson, Richard Haslam, Anne Jamison, Joseph Lennon, David Lloyd, John McCourt, Paul Muldoon, Cóilín Parsons, Sean Ryder, Sinéad Sturgeon David Wheatley “ Essays on James Clarence Mangan: The Man in the Cloak (English Edition)" 2014, Kindle版, S. Sturgeon (編集), Palgrave Macmillan, 2014版(ページ数記載なし)

*101:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99

*102:https://en.wikipedia.org/wiki/Public_toilet

*103:https://en.wikipedia.org/wiki/Public_toilet

*104:https://en.wikipedia.org/wiki/Subordinationism、『[新訳]ローマ帝国衰亡史・上<普及版>』エドワード・ギボン著、中倉玄喜編訳、PHP研究所 、2008

*105:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9

*106:https://www.newadvent.org/cathen/10404a.htm

*107:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E6%95%99

*108:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E6%95%99

*109:https://www.cgl.co.jp/knowledge/02.htmlhttps://blog.goo.ne.jp/nostalgia2014kk/e/6136011a39514dca0c48e8cb8ab15f68 二つ目の記事に「十字錫杖」という言葉は出てきていないが、錫杖に十字が刻まれている、とある。前掲したミトラの写真で、司教が握っているのが司教杖

*110:http://m.joyceproject.com/notes/030040arius.html

*111:鰥についての説明はhttp://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.22.03.28.htm参照

*112:斎藤 茂、尾中 明代著「キリスト正教(Catholic)を中心とする宗教服について」『東京家政大学研究紀要』第3巻、1963、pp. 9 - 16

*113:https://en.wikipedia.org/wiki/Omophorion

*114:https://en.wikipedia.org/wiki/Omophorion

*115:http://m.joyceproject.com/notes/030040arius.html

*116:https://english.stackexchange.com/questions/187707/meaning-of-hinder-parts-in-the-17th-century?newreg=63a9497bf39843fbab07c36684a9c16b(このサイト全文を見るには会員登録が必要)))。この記述に該当するKing James Bibleの箇所が以下。“he smote the men of the city, both small and great, and they had emerods in their secret parts”(Saml 5:9)((https://biblehub.com/kjv/1_samuel/5.htm

*117:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%BA%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88

*118:https://en.m.wikipedia.org/wiki/Emerods

*119:“Hamlet(Amazon Classics Edition)(English Edition)”、William Shakespeare、2017, p.31

*120:シェイクスピアハムレット新潮文庫、1967、福田恆存訳、p.392

*121:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%9D%E3%82%B9

*122:以上海馬領域についての説明はhttps://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC#cite_note-21を参照

*123:https://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Bekhterev

*124:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC_(%E8%84%B3)#:~:text=%E6%B5%B7%E9%A6%AC%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%B0%E3%80%81%E8%8B%B1%3A,%E3%81%A0%E8%84%B3%E9%83%A8%E4%BD%8D%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

*125:以上の説明はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Manann%C3%A1n_mac_Lirhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%ABより

*126:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%B3

*127:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B0

*128:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%ABhttps://en.wikipedia.org/wiki/George_William_Russell#cite_note-boylan-1

*129:https://www.gutenberg.org/files/16615/16615-h/16615-h.htm#IN_THE_WOMB