さびしさを受け入れる――『ちくま日本文学021 志賀直哉』
『ちくま日本文学021 志賀直哉』を読んだ。読み終わったのは二か月も前なのだが、色々書いたりしているうちにブログにするのがだいぶ遅くなってしまった。この本を読んだのは、単に読書会の課題本だったからだ。でも、当日体調が悪くて、残念ながら読書会には行けなかった。せっかく読んだのに何も残さないのももったいないし、最近インプットとアウトプットの量のバランスの悪さを実感しているので、感想やら考えたことを書いているうちに、また大変な量になってしまった。短編集とはいえ、二十六作品も収録されていることを忘れていたのだ。
一応、収録作品順にあらすじと私の感想を書いてある。私としては、あらすじを読んでもこの本を味わうのにほとんど支障はないと思う。名作に対するあらすじは、名画に対する画集のようなものだ。どういう感じの作品かの一応の理解を得ても、本物の迫力に触れることにはならない。そして志賀直哉の作品は、筋も面白いけど、独特な文体や文章が魅力であると思う。どんな短編集でもいいから、未読の方がもしいたらぜひ手に取っていただきたい。
ちなみに、私はあらすじを書くのがすごく下手だ。これでもできるだけ省いたりまとめたりしたのだが、主にあらすじの分量のせいで、ブログ全体の長さがまた大変なことになっている。ほぼ六万字だ。中身は読まず、どれだけスクロールできるかを楽しむだけでもいいかもしれない。でも自分にとってあらすじを書くことは大事なので、こいつはあらすじを書く練習をしてるんだな、くらいの認識で読んで頂ければ嬉しい。
本当は発表年順に作品を並べなおそうかと思ったのだが、発表年と執筆年、完成年が違う場合があるので、本書に収録されているままの順にした。あらすじの前には*マーク、感想の前には☆マークをつけておくので、どうしてもあらすじは知りたくない、という方は何とか工夫して☆の所だけ読んで頂ければと思う。
また前置きも長くなりだしたので、本編へ。何度も言いますが、長いです。
- 「或る朝」
- 「真鶴」
- 「速夫の妹」
- 「清兵衛と瓢箪」
- 「小僧の神様」
- 「赤西蠣太」
- 「転生」
- 「荒絹」
- 「クローディアスの日記」
- 「范の犯罪」
- 「剃刀」
- 「好人物の夫婦」
- 「雨蛙」
- 「冬の往来」
- 「老人」
- 「矢島柳堂」
- 「城の崎にて」
- 「焚火」
- 「網走まで」
- 「灰色の月」
- 「奇人脱哉」
- 「自転車」
- 「白い線」
- 「盲亀浮木」
- 「沓掛にて――芥川君のこと――」
- 「リズム」
- ――志賀直哉の「寂しさ/淋しさ」を考える――
「或る朝」
*法事の朝、信太郎は祖母と起きる起きないでちょっとした諍いを起こす。祖母に何度も起こされるが、逆に祖母がうるさいから起きられないのだと怒る。布団をあげる祖母は信太郎が自分を手伝うものと何となく予想しているが、信太郎はそれを分かっていてわざと手伝わない。怒る祖母に負けじと言い返し、祖母を泣かせてしまう。旅行にでも行けば祖母は自分のことを心配でもするかもしれないなどと考える。そのうち祖母が部屋にやってきて、押し入れからお塔婆を書いてもらうための小さい筆を出す。信太郎はそんなのじゃ書けない、別の筆がある、と言うと、祖母は再び戻っていく。信太郎は急に可笑しくなり、旅行もやめにしようと思う。笑いながら起床し、片づけをしているうちに信太郎の目から涙がこぼれ始める。彼は胸のすがすがしさを感じた。部屋の外では弟妹たちが遊んでいて、弟はおどけた顔をしてみせる。
☆気の張り合いから生じるつまらない諍いのせいで信太郎の心は頑なになり、祖母に対する反発と苛立ちが募っていくが、お塔婆を書けない筆を祖母が出してきたことをきっかけに、たちまちいつもの関係に戻り、今までのことが可笑しくて、自分の引き起こしてしまった諍いが解消されたことと、いつも変わらぬ祖母への自然な愛情から涙がこぼれ、「胸のすがすがしさ」を感じる。市井の人々の日常の暮らしの中で、誰もがどこかで繰り広げたことのあるような短いドラマを描いた作品。
「真鶴」
*ある日、真鶴に住む漁師の子の前を、男女の教員二人が歩いていた。男の教員が振り返って、彼に「我恋は千尋の海の捨小舟、寄る辺なしとて波の間に間に。お前にこの意味が分かるか」と訊き、女教員の顔を覗き込む。女教員は俯いて赤くなる。少年はまだ恋を知らず、恋という字も知らなかったのだが、それを見て彼は自分がそれを言ったような、また言われたような気がして何となく恥ずかしくなる。歌の意味は分からない。
彼は水兵に憧れている。後日、父から金をもらい弟と二人分の下駄を買いに町に出かけたのだが、ある店先で水兵帽を見つけ、衝動的に買ってしまい、もらった金を使ってしまう。怒られるだろうことと弟に悪い気持ちで町を歩いていると、法界節の一行に出会う。目の悪い男が琴を弾き、その女房らしき女が顔を真っ白に塗り立て月琴を弾き、彼と同い年くらいの少女が甲高い声で歌っている。少年は月琴を弾く女に恋をする。彼女のような真っ白な顔は見たことがなく、魅力的だったのだ。少年は弟を連れて一行の後をついていくが、一行は飯屋に入ってしまい、少年は立ち尽くすだけでどうすることもできない。
真鶴への帰り道、聞こえてくる静かな波音は月琴のように聞こえ、その中に女の肉声を聞く心地がしている。少年は彼女がパフォーマンスをしている姿を思い浮かべ、悩ましい気持ちになる。振り返ると小田原の岸は夕靄の中にあり、彼は自分と女との隔たりを感じる。夜が迫ってきたが真鶴まではまだ一里ある。疲れた弟を背負い、女のことを考える。通り過ぎた汽車に法界節の人たち乗っていたと弟が言う。少年は今の汽車が次の四つ角で脱線し、崖から落ちて女が道に倒れている様、不意に道端から女がどこかで自分を待っている様を想像する。そして何となくそれが本当になるような気がしている。彼は四つ角へ来たが、何事も起こっていない。そこを曲がると提灯をつけた女の姿が見え、少年ははっとするが、それは彼らを迎えに来た母だった。弟は今まで我慢していたわがままを爆発させ暴れる。少年は水兵帽をやり、おとなしくしろと言う。彼にとってもう水兵帽はそれほど惜しくなかった。
☆真鶴の漁師の子の初恋の話。恋という言葉すら知らなかった少年が、町で見かけた法界節の女の真っ白な顔に惚れてしまう。思いを伝えることも遂げることももちろんできないが、帰り道に聞こえる波音は月琴のように、女の肉声のように聞こえる。女の姿を思い悩ましい思いを抱く。しかし振り返って見た夕靄に、二人の距離を感じている。恋をした人間によくありがちな、偶然的な出会いすら期待し、予想するが、それは叶わない。初めて恋を知った少年の、苦しく、ほろ苦く、甘い慕情が、暮れてゆく小田原の海の情景の中に、月のようにぽかりと漂い、ほのかに光りを放っている。
「速夫の妹」
*浅香一家の娘お鶴さんを中心として、一家と自分との長い友人関係を描いた作品。お鶴さんは自分と学校の友人である速夫の妹で、小さな頃から目にしていた。気さくで、のんきな少女だ。速夫との友人付き合いが続き、彼の家に遊びに行く中で、お鶴さんは小さいながらも自分たちの遊びの仲間に入ってくる。時に怪我をして泣き、薬を顔に塗ったところや、袴を着て小学校から帰ってくる姿を見られて照れ、少しずつ成長していくお鶴さんの姿を見ながら、自分は何となく将来お鶴さんと結婚するようなことを空想するが、それはまだ完全な恋心とは言えず、ただ親しみやすい気持ちだけが表されている。家の改築に伴って、一家は引っ越すが、そのおかげで自分とお鶴さんとは一層親しくなる。自分とお鶴さんは家族がいなくなるとよく二人きりでとりとめもない話をするようになる。
そんな時、悲劇が訪れる。速夫の兄である時夫が米相場に手を出して身代を潰してしまった。一家はすべてを失い、速夫の母とお鶴さんは辛いながらもすでに結婚した速夫の姉、お徳さんのもとに身を寄せる。その後速夫はアメリカへ行って働き、自分に浅香家を訪れる機会はなくなってしまうが、ある日、ひどく粗末な家で、ぼろぼろの恰好で両目のつぶれたお鶴さんがいるのを見て、耐えられなくなって泣く夢を見る。自分がお鶴さんに対して済まないことをしているような気分になり、夢のことも気になって再び浅香家を訪れると、皆嬉しそうにしてくれたが、お鶴さんはどこかよそよそしげで、取り繕った様子の、一人前の女性になっていた。自分は物足りないような、騙されたような感じさえする。成長してしまったお鶴さんにはかなさと、自分との距離を感じ、破産さえなければ元々のお鶴さんのままでいられたのではないかと思う。
その後お鶴さんは海軍将校と結婚したという話を聞く。そして友人はお鶴さんと、怖い顔をした男と、赤ん坊をおぶった女中が一緒に歩いているのを見たという。自分はその男が浅香家に赤ん坊のころから住んでいた二郎兵衛に違いないと確信する。二郎兵衛は今、東鉄の技術者をしていて、お婆さんと一緒に赤坂に住んでいるらしい。
☆ほのかな親しみを感じていた少女が、一家の破産という不幸を経て、一人の成熟した女性に変わっていく姿を主人公は目にする。何気ない生活の情景の中に、少女の性格の良さが描かれている。最後、お鶴さんが海軍将校と結婚したという話と、鉄道の技術士をしている二郎兵衛と思われる男が一緒に歩いていたという話を主人公は聞くのだが、これは海軍将校と結婚しながらも昔からのなじみで二郎兵衛と一緒に街を歩いていたということなのか。それとも旦那と離婚したか、旦那に先立たれたかして、お鶴さんは二郎兵衛と再婚したのだろうか。ラストに少し謎が残る作品。
「清兵衛と瓢箪」
*清兵衛は十二歳の小学生のくせに、瓢箪を集めるのが趣味だった。いい色をした爺さんの禿げ頭を瓢箪と見間違うほど、彼の心は瓢箪のことでいっぱいだった。彼は自分の小遣いで瓢箪を買い、口を切って中の処理をし、毎朝瓢箪を軒先に吊るしてから学校に出かけた。
彼は古い瓢箪、珍しい形の瓢箪には興味がない。皮付きで、自分が一から作業できる、普通のかたちをしたものが好きだった。父はその趣味をこころよく思っていない。ある日清兵衛は自分にとって見事な形の瓢箪を見つける。もう町中の瓢箪は見尽くしてしまったと思っていた彼だったが、その瓢箪にはすっかり惚れ込んでしまい、それを吊っていた家の婆さんに売ってもらう。その日から清兵衛はその瓢箪のとりこになり、いつでも手放せなくなる。授業中でもこっそり磨いてしまう。だがそれを教師に見つかってしまった。その教師はよそ者で、武士道の精神を奉じており、この地域の住民が瓢箪などを愛でていること自体が気に食わなかった。教師は「到底将来見込みのある人間ではない」と言って、清兵衛から瓢箪を取り上げると、清兵衛の家に行き、親に注意する。父は激怒し、清兵衛の瓢箪を残らず割ってしまう。教師は清兵衛から取り上げた瓢箪を学校の小間使いにやってしまう。小間使いはその瓢箪を金に困って骨董屋へ持っていくと、骨董屋は五十円でそれを買う。五十円は小間使いの四か月分の給料にあたる額だった。骨董屋はその瓢箪を地方の豪家に六百円で売った。清兵衛は今、絵を描くことに熱中している。
☆冒頭の「これは清兵衛という子供と瓢箪との話である」という一文ですべてが説明される。そのままの話だが、ユーモラスでそれこそ古瓢のような味がある。家に来て怒る教師の後ろにずらりと瓢箪が並べられているという状況には笑ってしまう。清兵衛が瓢箪の世話をし、それを磨いて眺める姿がとても丁寧に、詳細に書かれており、清兵衛の瓢箪への強い愛情を感じさせられる。
「小僧の神様」
*秋の神田の秤屋。柔らかな日差しがのれんの下から店先に差し込んでいる。番頭たちが旨い寿司屋の話をしている。小僧の仙吉は早くそんなふうに通らしい話のできる身分になりたいと思い、その寿司の旨さを考えてつばを飲み込む。
後日、仙吉は往復の電車賃をもらって京橋まで遣いに出され、番頭たちが前に話していた寿司屋の前を通りかかる。どうしても寿司が食べたい。電車賃は往復分をもらったが、帰りを歩けば四銭浮かせることができる。一方、若い貴族院議員のAは、通なら屋台の寿司屋で寿司を食べなければ味が分からないものだ、と言われ、立ち食いの屋台寿司屋へ行ってみたいと思う。ある日Aが仲間から聞いた立ち食い寿司屋にいると、横から十三、四の小僧が入ってきて、思い切って鮪の寿司をつかむ。主人が一つ六銭だと言うと、小僧は手に取った寿司を戻し、店を出る。議員は一部始終を見ていて、小僧に寿司を食わせてやりたいと思うが、勇気が出ない。
ある日議員は子供のための体重計を買うため秤屋へ行き、寿司を食えなかった小僧を見つける。議員は買った体重計をその小僧に運ばせ、小僧がそれを届け終えると、議員はお礼にごちそうしてやると言って寿司屋へ行き、自分は勘定だけ払って小僧に寿司を食わせる。仙吉はそこで三人前も、たらふく寿司を食った。それでもまだおかみさんのもらった代金は余っていた。
議員は小僧と別れると、変に淋しい気がした。自分は先日小僧に同情し、寿司を食わせてやりたいと思っていたのが実現できたのだから満足なはずだ。もしかしたら、自分のしたことがいいことだという変な意識があって、それを「本当の心」から批判され、嘲られているのが、こんなに淋しい気持ちにするのだろうか。もっとこのことを何でもないことのように考えていればいいのかもしれない。それにしても何も不快な感じまでしなくてもいいのに、と彼は思う。そのことを妻に話すと、同情され、慰められる。
仙吉は帰り道、きっと自分が前に寿司を食えなかったのをあの人に見られていたのだと気づく。でもどうして自分の居場所が分かったのか。それに今日連れていかれた店は、前に番頭たちが噂していた店だ。どうしてそんなことまで彼は分かっていたのだろう。仙吉には番頭たちのようにあの客が仲間と寿司屋の話をすることなど想像できなかった。自分が聞いていた番頭たちの噂話を、あの客も聞いていて、連れて行ったに違いない。あの客はただ者ではない。あの客は寿司を食いたかった自分の心の中まで知っている。あれは神様かもしれない。あるいは仙人か、とにかく超自然的なものだという感じが強くなっていく。
議員の淋しい変な感じは次第に消えたが、彼はあの寿司屋の前を通ることが何となくできなくなった。仙吉はあの客が忘れられなくなり、無暗に有り難がった。寿司屋に再び行くことはなかったが、彼は辛い時に必ずあの客のことを思い、それを大きな慰みとした。仙吉はまたいつか、あの客が思わぬ恵みを持って現れることを信じていた。
☆「小僧寿司」の命名の由来ともなった名作。小僧の「神様」は、たまたま小僧の情けない姿を目にし、たまたま秤屋でその小僧を見つけ、たまたま番頭たちの話題にしていた寿司屋で小僧に好きなだけ寿司を食わせた議員だった。その偶然の重なりが小僧には想像できず、神のような、超自然的な存在だと思い込み、自分の心の支えにする。いいことをしたはずなのに淋しいような、変な気持ちがするのは、自分が善行をしたという意識を無意識の自分が批判し、嘲っているからだという議員の自己分析は、確かに身に覚えがある。「そのくらいの「善行」で思い上がるな」「寿司を人に食わせてやったくらいでいい気になるな」という、無意識の心の声が、議員を不快にする。善良な人々の微笑ましい話。
「赤西蠣太」
*赤西蠣太は醜く、訛りのある野暮な田舎侍。仙台坂の伊達兵部の屋敷に勤める新米の家来だ。まじめに働くので周りの受けはいいが、特にとりえはない。菓子が好きで、酒も女もやらず、胃腸が弱い。将棋は強いが、対戦するよりも定跡の本を片手に一人駒を並べている方が好きだ。
一方、愛宕下の仙台屋敷には銀鮫鱒次郎という、原田甲斐に仕える若侍がいて、赤西とは正反対に、活発で、利口そうな美男で、酒も女も好きだった。ただ、将棋好きだけがこの二人の共通点である。ある時赤西が愛宕下の屋敷へ遣いに出されたとき、二人は知り合いになり、将棋友達として親密になる。が、実は二人は白石から甲斐と兵部の動向を探るため遣わされた密使同士だった。偶然の出会いを装って赤西と銀鮫は親密に交流するようになる。
ある日赤西は腸捻転を起こし、自分の死を覚悟して、その場にいた按摩の安甲に天井裏にある報告書を銀鮫に届けるよう託し、切腹未遂を図った。切腹事件の真相を老女中にこっそり教えてしまった安甲は、銀鮫に斬り殺される。二人は報告書がほぼ出来上がったから、そろそろ白石に戻る算段を考えなくてはならない。銀鮫は赤西に、自分の醜さを利用して高根の花の腰元の女、小江に恋文を送り、武士の面目を汚されたとして夜逃げするのがいいと提案する。小江は美しい女だが、赤西はそれを清い美しさだと思っていた。そんな彼女を自分の任務のために利用するのは心苦しい。しぶしぶその提案を受け入れた赤西は、恋文を書いて渡すが、小江は前から赤西に好意を感じていて、その手紙に尊敬の念を強くし、赤西を受け入れてしまう。困ってしまった赤西は再び恋文を書き、わざと御殿の廊下に落とす。果たして老女中にそれを見つけられた赤西は、自分の恋文を見られたことを恥として、もうここにいることはできないと書置きし、白石に戻る。
老女中からその一件を聞かされた甲斐と兵部は大いに笑うが、徐々に何かおかしいと気づき始める。その後まもなく伊達騒動がおこり、甲斐一味は滅ぼされた。赤西は白石に戻ったが、銀鮫の行方、そしてその後の小江と赤西の恋がどうなったかは未だ知れない。
☆伊達騒動を題材にした、正反対な二人の密使の物語。密使同士という間柄を超えた赤西と銀鮫との友情、赤西の誠実さ、甲斐と兵部の焦りの募る様が、出来事の順序を変えず、起こった通りの真実を綴る志賀特有のシンプルな文章で、読む者によく伝わってくる。人間臭く、どこにでもいるようでありながらちょっと変わったところのあるキャラクターを描くのが志賀直哉は本当に上手い。
「転生」
*夫は女というものを全て馬鹿なものだと考えていて、気の利かない妻に始終癇癪を起こし続けている。妻も自分の気の利かないことを反省しているが、どうにもならない。
ある日、夫婦は死んで生まれ変わったらどうなるかということを話題にする。人間に生まれたらやはり女は馬鹿だから、妻が利口に生まれようとしても無駄だと夫は言う。狐は夫婦仲が良いが、夫は、狐は嫌だ、夫婦仲がいいのは鴛だ、と言うので、二人は鴛になろうと約束する。夫は妻がその約束を忘れるのではないかと心配する。
やがて夫は死に、鴛に生まれ変わって妻を待つ。何年かして妻も死んだが、やはり何に生まれ変わればいいのか忘れてしまう。狐だったか、鴛だったか。その時「迷ったときにお前は必ず間違った方を選ぶ」という夫の言葉を思い出し、鴛だったような気がしていたのに狐を選んでしまう。狐になった妻は夫を探し歩くが、一向に見つからない。餌にもありつけず、倒れる寸前だ。その時、水辺にいた夫が狐になった妻を見つけ、驚いて飛んでいき、近づく。妻も驚く。夫は狐になった妻を見て、また癇癪を起す。妻は詫びるが、飢えのせいで意識が薄らいで、それどころではない。その上夫の叱言があまりにもしつこい。妻は耐えられず、一息に夫を食べてしまう。これは「叱言の報い」というおとぎ話である。
そして名も知らぬ二人の会話で作品は締めくくられる。これは口やかましい夫に対する教訓でもあり、気の利かない妻に対する教訓でもあるが、あなたの家族がモデルなのかと一方が訊き、他方はうちの妻はよく気が利くし、私は叱言を言わない、雑誌に家内安全の秘法を授く、という広告が私の名で出ているくらいだ、と答える。
☆一種の転生譚であり、ファンタジーめいた話。どれだけ妻に文句を言い続けていても、結局は来世の契りを立てるほど妻を愛している夫が何だか微笑ましい。怒る夫と謝る妻の会話も、不思議とのんきな雰囲気がある。最後の謎の二人の会話は何を言わんとしているのだろう。志賀直哉の弁明か、それとも本文に「文芸春秋に広告が出ている」と書いてあるので、一種の宣伝だろうか。
「荒絹」
*山に女神が住んでいる。美しく、美の神、恋の神、そして妬みの神である。女神は山の麓に住む阿陀仁という青年に恋をする。しかし阿陀仁は荒絹という大変美しい機の名人に恋をしていた。
ある日、女神はならず者の岩頭から、荒絹と阿陀仁の恋の話を聞く。彼によると、荒絹は伯父である隠者の入れ知恵で、この恋のことは女神には秘めるよう言い聞かせられていた。荒絹は自分で織った帳の中に阿陀仁と二人で入ろうとしていて、その帳に包まれることで他の美しいものに惑わされることのないようにしているのだ、と言う。阿陀仁は隠者からの言いつけで帳が完成するまで荒絹とは一言も口を聞いてはいけないし、帳を見てもいけない。女神はその帳を一目見たいと思い、ある夜、女神は岩頭の案内で荒絹の様子を覗きに行く。荒絹は女神の美も及ばぬほどの美しさで、恋の切ない歌を歌いながら機を織っている。部屋の中は彼女の恋心の織り込まれた、花々と小鳥たちで溢れんばかりの帳でいっぱいだ。
女神は嫉妬に燃える。もしこの帳が完成したら、何をしても二人の仲を裂くことはできない。絶対にこの帳を完成させてはならない。ある夜、荒絹は嫌な寂しさに襲わる。何を言っているのか分からないが、不快な唄い声を聞く。その声は毎夜続くようになる。それは呪いの文句で、その機織りをやめなければ、必ず不吉なことが起こる、それを織り続ければ、お前は蜘蛛になるという意味だった。荒絹はそれが女神の仕業だと悟ったが、伯父に言えば機織りをやめさせられる。阿陀仁に言えば機織りをやめてすぐに結婚しようというに違いないが、帳を完成させなくては阿陀仁を女神に奪われるかもしれない。荒絹は耳に栓をするが、唄はそれでも聞こえてくる。荒絹の心と体は衰えていき、苦しい心を紫色の花で織り込むようになる。唄はどんどん激しくなっていき、紫色の花は黒みがかっていく。華やかな帳は無残な姿に変わる。
二か月ほど経ち、帳の出来上がりの遅さを不審に思った隠者は荒絹の様子を見に行く。しかしそこに荒絹の姿はなく、部屋の中は蜘蛛の巣でいっぱいで、帳は途中から泥に浸かったような色に変わっている。蜘蛛の巣は窓の外へのびていた。隠者がそれを辿ると、そこは山の裏側の洞窟の中につながっていた。洞窟の入口は蜘蛛の巣でふさがれ、その奥にはまだ何かを織ろうとするように糸のない筬を両手に広げて、やせ衰え、蜘蛛のようになってしまった荒絹の姿があった。
☆美しく怖いおとぎ話。「密室の中で機を織り続ける女」というのは創作者にとって魅力的なテーマなのだろうか。『鶴の恩返し』とシャーロット姫の話を連想した。『鶴の恩返し』は説明するまでもないが、シャーロット姫の伝説はこうだ。外の世界を見ると死ぬという呪いをかけられたシャーロット姫は、ランスロット卿に恋をしている。シャーロット姫は鏡に映る窓からの外界の反映を通してしか、外の世界を見ることはできない。シャーロット姫は毎日タペストリーを織り続ける。鏡の中の世界を見続けているうちに、シャーロット姫は飽きてくる。ある日、ランスロット卿の歌声が外から聞こえてくる。その歌声にシャーロット姫は思わず外の世界を直に見てしまう。途端に織物は飛び散り、その糸が姫に巻き付き、鏡は割れ、シャーロット姫は何とか部屋を逃げ出し、ランスロット卿を追って舟に乗るが、ランスロット卿の住むキャメロット城のある岸に舟が着いた時には、シャーロット姫は息絶えていた。
この話はアーサー王伝説を元にしており、十九世紀にテニスンがシャーロット姫の詩を書いたものが、ラファエル前派の画家たちを魅了した。中でもジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの作品が有名だ。フェミニズム批評では、部屋に閉じ込められ機を織り続ける女は、家庭を守る女性像であり、鏡に映る世界に飽きたという思いは女性の破滅に繋がり、死を招くものである。十九世紀の男性社会がいかに女性を家の中に閉じ込めておきたかったかの願望を表しているという批判がある。作者がシャーロット姫についての知識があったかどうかは分からないが、二人の運命を決するのが女神であること、二人を助けようとするのが伯父であることから、この作品についてこのような批評は当てはまらないのではないかと思う。
「クローディアスの日記」
*クローディアスはハムレットの父母が結婚する前からハムレットの母に恋をしていて、自分を厭うハムレットに同情している。いつか互いに本心を打ち明け、理解し合わねばならないと思っている。だがクローディアスの思いとは裏腹に、ハムレットの態度や言動はますます底意のあるものになっていく。クローディアスはこの結婚を恥じてはおらず、道徳的に問題もないことを改めて確認し、自分に言い聞かせる。そしてそこに自分で自分の力を正確に測り損ねていたという弱点があったとも考え、その点をハムレットに突かれているのだ、と思う。自分の再婚を姦通事件のように責められ、クローディアスは自分の心に潜む、安直で、慣習的な良心の裏切りもまた自分の弱さだと感じ、それはハムレットよりも自分にとって大きな敵だ、とみなす。
芝居が催され、クローディアスは激怒する。いつ自分がハムレットの父、自分の兄を毒殺した? 証拠はあるのか? ハムレットが自分の様子を窺っていたのには気づいていたが、彼の安っぽい筋書きでできた思い込みにつられて動揺してしまい、そのせいでハムレットが望むような表情が自分の顔に表れてしまった。芝居の中の王が本当の兄のように見え、実際に自分が悪人であるような気さえした。これまでは何とかハムレットを愛そうとしてきたし、理解しようともした。しかしこの時、クローディアスは腹の底からハムレットを憎む、と宣言する。翌日、少し心の和らいだクローディアスは、ハムレットが回りくどい攻撃はやめ、自分に正面からぶつかってきてほしい、きちんと話し合い、分かり合う機会が欲しいと願う。そこへポローニヤス殺害の知らせを聞かされ、クローディアスはハムレットが完全に狂気に陥ったのだと確信する。妻はハムレットもひどく後悔しているというが、クローディアスはそれを信じることがもうできない。あまりに危険で、彼を自分の側に置くことはできないが、ハムレットはこの国で一部の人間に尊敬されているから、彼をここで処罰することはできない。クローディアスはハムレットをイギリスへやることに決める。
クローディアスは心の底から彼を呪うとともに、改めて兄に思いを馳せる。クローディアスは兄の死に際して、本当に悲しみを覚えたと同時に、喜びもあったことを告白する。それは自然なことだとクローディアスは思う。感じることはどうにもできない。クローディアスを殺そうとしているハムレットより、自身の心の自由が彼を苦しめる。クローディアスはかつて一度も兄を殺そうなどと思ったことはない。しかし、自然と浮かぶ考えをなかったことにすることもできない。彼の兄は数年前から自分の妻とクローディアスとの間を疑っていた。兄は決してクローディアスに留守をさせず、どこへ行くにも彼を誘うようになった。それがクローディアスにとっては不快だったし、腹立たしかった。
ある晩、狩場で兄と眠っていると、兄は首でも絞められているかのように呻きだした。クローディアスは起こそうと思ったが、不意に、夢の中で首を絞めているのは自分だという想像が浮かんで動きが止まってしまった。彼には恐ろしい形相で、気違いのように首を絞める自分の様子がはっきりと想像できた。クローディアスはどうすることもできず、枕に顔を埋めこの場をやり過ごそうとしていると、兄は元の眠りに戻った。そういったことが思い出されてクローディアスは苦痛を感じる。
クローディアスはイギリスについているだろうハムレットのことを思う。時々弱い心が首をもたげるが、自分を殺そうとする者を憐れむのは危険だ。ハムレットの死を思い、さらにそれを妻が知ることになると思うと、不気味な不安を感じ、耐えられなくなる。だが、時間がいずれ解決してくれるだろう、と何とか僅かな希望を取り戻す。日記はここで切れ、クローディアスの運命は必ずしもシェイクスピアの『ハムレット』と同じになるとは限らない、として締めくくられる。
☆『ハムレット』の王クローディアスが兄である先王を殺しておらず、誠実で、内省的で、愛情深い人間だったものとして、ハムレットの邪推や遠回しの非難に苦しめられる彼の内心の苦悩や葛藤を、日記体形式で綴った作品。信念を邪心によって揺さぶられる自らの心の弱さ、意図せず沸き起こる自らの邪な想念、これまでの自分の行動、これまで信じていた周りの者たちへの疑念にクローディアスは苦しみ、それと必死に戦う。ハムレットはクローディアスの「心の自由」を奪い、同時にクローディアスは自らの「自由な心」の動きによって生じる感情や想念をどうすることもできないという「心の不自由さ」を感じる。こういった一連の心境の変化が全く率直かつ微細にわたって描かれている。志賀によって創り出されたクローディアスの内心の葛藤や、何とかして呼び起こそうとする愛情、理解しようとする心、徹底した誠実さは、志賀の理想的王の姿であり、人間像であるのかもしれない。これを読むとハムレットが手の施しようのない狡猾な人間のように見えてくる。ちなみに、ここで問題にされる「内心でのみの殺意・憎悪」は実際の行動や行為に影響を与えるものなのか、またはそれ自身が責められ、罰せられるべきものなのか、という問いは、次の「范の犯罪」のテーマでもある。
「范の犯罪」
*舞台は裁判所である。范という中国人の奇術師がナイフ投げの催し物の最中に妻を殺してしまう。多くの観客、スタッフがその瞬間を目の当たりにしていた。その事件について、范と関係者が裁判官の質問に一人ずつ答えていく。
座長によると、ナイフ投げは難しい芸ではないが、過失は絶対に生じないとは言えない以上、范が故意にやったとは断言できない。助手の中国人の話では、范夫妻は素行が正しく、夫はキリスト教徒だった。夫妻とも他人には優しく穏やかだったが、二年ほど前妻が早産で子供を亡くしてから夫婦関係は悪化した。つまらないことで激しい口論をすると、范はいつも抑えきれない怒りを露わにして黙っていた。范に離婚を勧めたところ、妻には離婚を請求する理由はあるが自分にはその理由がない、自分はどうしても妻を愛することができないし、愛されない妻が自分を愛さなくなるのは当然だと言う。彼がキリスト教を信じ始めたのもそれが一因で、憎むべき理由のない妻を憎んでしまう自分の心を何とかしたいと思っていたようだ。助手は事件の瞬間「殺したな」と思ったが、口上云いの男は「しまった」と思ったらしい。范は事件の瞬間、あっ、と声を出し、真っ青になって目を閉じていた。幕を閉めると范は興奮し「どうしてこんな過ちをしたのだろう」と言うと、妻の元に跪き、長い間黙祷していた。
そして范の証言が始まる。范は引き締まった青い顔をした、賢そうな男で、激しい神経衰弱にかかっていることが一目でわかった。范は結婚してから妻が子供を産むまで妻を愛していたが、その子供は、妻が前に付き合っていた従兄との子供であることを知り、不和になった。赤子が死んだのは早産のためではなく、妻の乳房で窒息したためで、妻はそれが過失だと言っていた。その赤子の死がすべての償いのように思われ、范は寛大になろうと思っていたが、妻の顔を見ると抑えきれない不快を感じてしまう。離婚したいと思いながら、どこにも頼るあてのない妻を追い払うことのできない范に、妻が同情することはなく、むしろ苦痛を感じていたと思う。そして我慢強い妻は范の生活がだんだん崩壊し、范が自分を救おう、本当の生活をしようともがき苦しむのを、冷然と傍から眺めていた。范は妻を殺そうと考えたことはないが、死ねばいいとはよく思った。殺せなかったのは范の心の弱さのためだった。
事件の前日の夜、范は妻を殺すことを考えた。寝る前にまた喧嘩をし、いつもより興奮と苛立ちが長引いていた。「本当の生活」がないということに范は近頃堪らなく苦しんでいた。欲するものを欲せず、はねのけたいものもはねのけられない、宙ぶらりんな生活が妻のせいだという気がしていた。未来に何の光も見えないのに、それを求める欲望は燃えたとうとしている。それを燃えさせないのは妻のいるせいで、その火は消えもせず、燻っている。その不快と苦しみで自分は中毒しようとしていて、やがて自分は死ぬ、生きながら死ぬことになる。しかもその上、そんな状態に忍従しようとしている。一方で、妻には死んでほしいという考えを繰り返している。なぜ殺さないのか?と范は自分に問う。牢屋の生活の方が今よりましかもしれない。牢屋に入った時はその時で、その時の自分を拘束し、苦しめるものはどうにでも破ってしまえばいい。破っても破り切れないものかもしれない。でも死ぬまで破ろうとするのが、それが自分の本当の生活になるのではないかということを、范は眠れない間に考えた。考え疲れてぼんやりしてくると、悪夢を見た後のような淋しい気持ちになった。
起きてからは二人とも全く口をきかなかった。その朝范は興奮と、弾力のない神経の鋭さを感じていた。范はどうにかしなければいけないと繰り返し考えたが、晩のように妻を殺すというようなことは思い浮かべなかった。演目についても全く心配していなかった。そのことを多少でも心配していたら他の芸を選んでいただろう。舞台に上がり、妻が厚板の前に立って初めて、范と妻は目を合わせた。その時范はこの芸を選んだことの危険を感じた。できるだけ興奮と神経の昂りを鎮めなければ、と思うが、疲労が邪魔をする。少しふらふらする。ナイフが指から離れる時、べたつくようなものが邪魔をする。落ち着こうという意識が腕の動きを不自由にする。妻の首の左側へナイフを打ち込むと、妻は恐怖の表情を浮かべた。その表情が自分の心に同じ強さで反射した。めまいがしたような気がしたが、そのまま力任せにナイフを打ち込んだ。とうとう殺した、と思った。故意でしたような気が不意にした。その後妻の元に跪いて黙祷したのは、祈るふりをしながら自分の処すべき態度を決めようとする狡い手段だった。范の度を失った心が、それを故殺と思わせたが、過失と見せかけることができるとも思った。范はどうしても無罪にならねばならぬと決心した。この事件には客観的証拠がないのだ。そこで范はそれが自然と過失と思えるように申し立ての準備をした。
しかしふと、なぜ自分はあれを故殺と思うのだろうという疑問が范に生じた。前の晩に殺すことを考えたというだけで、それを故殺と決める理由になるだろうか。しかし過失だと思っているわけでもない。だんだん范自身にも分からなくなってきて、范は興奮し、愉快になった。ただ、自分を欺き、過失だと我を張るよりは、全てを正直に話し、自分に正直でいられることのほうが態度として強いと范は考えた。だから過失とも故意だとも言わない。妻の死を悲しむ気持ちはない。非常に快活な気持ちだ。――裁判官は范の供述を概ね正しいものであると考え、よく分からない興奮が自分の胸に湧き上がるのを感じ、無罪判決を出した。
☆十代の頃読んで、当時はうまく説明できなかったがとても面白いと感じた作品。曲芸師である范は、後にも先にも進めなくなった結婚生活の中で、一貫して「本当の生活」(原文では「本統の生活」)を求めている。彼の言う「本当の生活」とは、人間らしい生活だろうか。理想的な結婚生活だろうか。そのような意味もあるのかもしれないが、范の言う「本当の生活」とは自分の人間としての根源的な欲求を追求し、個人の意志を全うすることのできる生活、ひいては人生なのではないかと私は思う。心の弱さのため、愛したいのに愛せず、キリスト教にすがってまで赦したいのに赦せず、逃げたいのに逃げられず、別れたいのに別れられない。彼は「壁」を破って自分の意志を実行に移すことができない。意志に基づいて行動することができるなら、牢屋に入るような境遇さえ厭わない。その時、その時で立ちはだかる「壁」を破り続け、たとえ破れなくても破り続けようとするところに自分の「本当の生活」があると考えている。内心で犯した罪は、現実で犯してしまった事件の有罪の証拠となりうるだろうか。殺したいと思ったことは確かだが、実際に起こってしまった事件はその意志とは無関係で、「自分の度を失った心」がそのような結果を招いたと范は認識している。「度を失った心」はもしかしたら前夜妻を殺したいと思ったことが招いたものかもしれないし、ただ単に彼の肉体的疲労によって生じた、曲芸には向かない極度の緊張・神経の昂りが招いたものかもしれない。そこのところが范には分からない。ただ、どうしても「本当の生活」を送りたいという気持ちだけはある。だから裁判官にありのままの経緯を、ありのままの心境の変化の様子と感情の混乱を語る。これは、彼の「本当の生活」の第一歩であるともいえる。裁判官が最後に感じた「何かしれぬ興奮」は、そんな范の膠着状態からの解放に感応したものではないだろうか。そして、たとえ罪人であろうとも、過失によって妻を失っただけの男であろうとも、自分の心の弱さに苦しみ悩みながら「本当の生活」を送ろうとする人間の力強さを志賀は肯定しているのではないだろうか。
「剃刀」
*辰床という床屋の芳三郎は剃刀の名人だった。癇が強く、少しの剃り残しも許さず、一度も客の顔に傷をつけたことのないことが自慢だった。芳三郎は風邪をひいてしまい、床に就いていた。こんな時に限って忙しい。兵隊たちが小僧に髭をあたってもらっている。剃刀を夕方までに砥いでほしいという客が来る。芳三郎は具合の悪い体をおして、何とか仕事をしようと、持ち込まれた剃刀を研ごうとするが、熱と震えでうまく砥げなくて苛々する。具合が悪いのに仕事をしようとする芳三郎を気遣う女房も不愉快だ。小僧の一人は外をほっつき歩いて女のところで遊んでいる。芳三郎の苛立ちは少しずつ募っていく。
そこへ客がまた一人、ざっと済ませてほしいと店に入ってくる。田舎者の労働者だ。調子が悪く、うまくいかないという腹立たしさが、逆に無理にでも仕事をしなければ気が済まないという芳三郎の意地を張らせる。やはりうまく剃れないのに、気づかずに平然としている客の無神経さ、こいつはこれから小汚い小女郎屋へ遊びに行くのだろうという想像が彼をむかむかとさせる。きめの粗い男の肌の毛穴に詰まった脂が不快だ。横で心配そうに見ていた女房は奥で赤ん坊が泣くので下がってしまった。小僧の錦公は居眠りをしている。客はあれこれ話しかけてきたが、芳三郎が不機嫌なのを見て黙ってしまい、そのうち頭を後ろにがくりと落とし、口を開けて眠りこけてしまった。静かな店の中に、剃刀の音だけが響く。
芳三郎は、いつもの習慣で、調子が悪いながらも極めて丁寧に顔をあたる。一通り剃り終えたが、咽の部分だけがどうしても引っかかる。そこにこだわるのをもうやめようと思ってもやめられない。体力も気力も限界に達しはじめ、咽の柔らかな部分に剃刀が引っ掛かる。芳三郎は頭の天辺から足の爪先まで、何か早いものが通り抜けたように感じ、その早いものは彼から倦怠も疲労も奪ってしまった。一ミリほど削がれた乳白色の肌は、紅を帯び、次第に血が滲んで球になると、球は崩れて一筋の血が垂れた。芳三郎は不意に荒々しい感情に襲われ、呼吸が激しくなる。彼全体がその傷の中に吸い込まれてしまうかのようで、芳三郎はその圧倒的な力に打ち勝つことができない。彼は剃刀で一息に喉を裂く。血が迸り、芳三郎は倒れ込むようにして椅子に座り、目を閉じる。その姿は死人のようだった。すべてが静まりかえり、すべての運動は停止して、すべてのものは深い眠りに陥った。ただ独り、鏡だけが冷ややかにこの光景を眺めていた。
☆この不穏な空気の高まりから剃刀の音だけの響く静寂、体力と気力の限界に訪れた鋭い緊張、全ての世界の眠りと停止、という物語の流れの描写が見事としか言えない。志賀が用いることを選んだ数少ない言葉でなければ、この短い物語の中で徐々に訪れる緊張の高まりと、床屋という小さな世界の中での凪の状態は書けないと思われるほどだ。芳三郎や周りの者たちの感情や状態が悪化していく段階や、髭剃りの失敗の瞬間を含め、全体的に激しい言葉や煽動的な言葉は一切使われていない。書かれていない言葉たちが、読者に凄惨で同時にこの上ない静寂の情景を想起させる。普通の作家がこのような筋の話を書くならば、咽を切られるクライマックスで、天井まで飛び散る血潮と血にまみれた芳三郎の呆然とした様子を必ず描写するだろうと思う。それが、一切ない。咽を切られ、土色の顔をした客の腰かける様子と、精も根も尽き果ててぐったりと椅子に座り目をつぶる「死人のような」芳三郎の姿はほぼ同質で、もはや二人の死人が腰かけていると言ってもいい。その後の床屋のすべての運動の停止と静寂。これだけ動きがあり、内容の濃い場面を、ここまで静かに、外側から囲い、見守っているだけであるかのような描写の迫力を知ってもらうには、実際に読んでもらった方が早い。ちょっと長い文章になるが、物凄いラストなので一読してもらって損はないと思う。芳三郎が咽に傷をつけてしまったところから最後まで引用してみる。言葉の力とか、作者の文章の技術、ってこういうことだ。
傷は五厘ほどもない。かれはただそれを見詰めて立った。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一ㇳ筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起った。
かつて客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなった。……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと咽をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。
ちょっと間を置いて血が逬しる。若者の顔は見る見る土色に変った。
芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍の椅子に腰を落した。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還って来た。眼をねむってぐったりとしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。すべての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷やかにこの光景を眺めていた。
「好人物の夫婦」
*仲の良い穏やかな夫婦がいる。二人に子供はおらず、妻は少しだけ感情的で、繊細で、女らしく、涙もろい。夫は他の女に目を奪われやすく、そういう関係を持ってしまうかもしれないという可能性を、時折冗談めかして妻にほのめかすことがある。妻はそれが冗談だと分かりつつ、ある程度黙認するような態度をとっていたが、あまりそういう話が続くと、そういうことは本当にやめてほしい、と言うようになった。
ある日、妻の祖母の病気が重くなったので来てほしいと実家から連絡があり、妻は祖母の看病のため実家に数週間滞在した後、祖母が何とか快復したので帰って来た。その後日、夫は家の外で、女中の滝が吐こうとしているような声を聞き、それがつわりの声だと勘づく。滝が妊娠したとすると、自分が疑われる。日頃の発言もあるし、実際独身時代にはそういう関係を持ったこともあった。診察の結果妻の留守中に妊娠したとなると厄介だ。実際そんなことはしていない。でも、滝に軽い好意を持っていたのは確かだった。滝とすれ違う時には不意に訪れてすぐに去っていく種の快感があった。滝に用事がある時、滝を追いかけてみたいような、いたずらな衝動を感じていた。自分の下心を滝は見抜いていて、向こうも同じ気持ちなのではと思うと、冒険をおかしているような快感を覚えることもあった。しかし滝は変わらず真面目に夫に仕えた。
夫は、家庭を壊したくなかったし、滝にはそれを壊すだけの誘惑を感じなかった。今後滝が不自然な処置などすると大変なことになるし、夫は妻に滝のことを打ち明けなければと決心した。妻はここ数日元気がなかった。夫は妻に滝が変な声を出していると伝えた。妻は、それを知っているけど、何の病気だかは分からないと言う。夫は妻の物憂げな目がちらりと光り、下を向くのを見た。夫は、滝の声の原因が何か、本当は妻が知っているのは分かっている、自分はそういうことをしかねない男だが、今回は自分のしたことではない、と告げる。妻は驚き、ありがとう、と言って涙をこぼす。彼は自分の下心を恥じるが、そのことまでは今は言えない。妻は、それを聞けばもう何も言うことはない、夫がいつそのことを言ってくれるか待っていた、と言う。夫を信じていたが、訊くのが怖かった、と。そして、滝をどうするか、つわりにいつ気づいたかなどを話しているうちに、妻の体が震えだした。滝にはできるだけのことをしてやろう、と二人は決める。どういうことだか妻の震えはいつまでたっても止まらない。
☆一読して結局は仲が良く、人のいい夫婦の他愛ないすれ違いと理解の話か、と思ったのだが、そして実際そういう作品、ということでいいのかもしれないが、あらすじを書いているうちに夫が女中の滝に感じる好意が二種類あること、夫が結局妻には滝に対する下心のことまでは話せなかったこと、最後の妻の震えは単に深刻に悩んでいたことが解消されたときの身体的な反応なのだろうか、という点が気になり、作品全体に少しだけ違和感のようなものを感じた。夫の滝に対する軽い情欲の一つは、彼が廊下などで滝とすれ違いざまに身をかわすときに起こるもので、それは「不思議な悩しい快感」「興奮に似た何ものか」ではあるが、「とっさに」くるもの、「不意に来て不意に通り抜けていく」もので、ほとんど反射的な感情、意識して抑えようにもどうにもならない感情であるが、それ以上引きずることはない。私たちがもしかしたら日常で感じうる範囲の、胸のときめき程度の軽いものだ。しかし、用を言いつけた後、戻っていく滝を追いかけたくなるような衝動、そして自分の下心を滝も見抜いていて、そう思われることが滝には気持ち悪く感じられる一方で、滝もまたそんな「冒険」にある種の快感を覚えているのではないか、という夫の妄想、下心を知られたかもしれないと感じた後、滝が自分により忠実になったように思われる夫の期待を含んだ推量、これらは前者に比べてかなり意識的なもので、根が深い。この二つの「快感」について、夫は「根本で二つは変わりなかった――しかしそれを同じに云う事は出来ないと思った」と述べている。
確かにそのとおりで、どちらも情欲であり、夫が他の女に目を奪われがちであることから由来するものに違いなく、同時にその二つは性格的に別のものだ。しかしここまで自分のことが分かっておいて、それを妻に率直に打ち明ける事は出来ない――これにはいろいろな理由が考えられる。一つには、短編小説の字数的な制限がある。そしてせっかく妻と分かり合えたところでこれを言うのはタイミングが悪い、というのもある。それに、心境小説であるから、夫の自分の下心に関する自己分析は、必ずしも夫が深い思索を持つ人間だということを表しているのではなく、彼のキャラクターとはあまり関係がないのかもしれない。だが、ここで、「自分は滝にも目を奪われたことは確かだ」ということを言わないのが、何となく志賀直哉の作品で描かれる人物像に、あまりそぐわないのではないかという気もするのだ。
夫は自分の下心を恥じたと言いつつ、この情欲、とりわけ深いほうの情欲を、もちろん行動には移さないように律しはするけれど、抱えるつもりでいるのではないか。もちろんそれが人間らしい、それはどうにもならない人間の性だ、という見方もある。そして作者はそれを描いたという可能性もある。抱え続けることを認め、このままでいいのだ、どうすることもできないのだ、とすると、問題は最後の妻の震えだ。これはあまりに深く思い悩んでいたことが解消され、夫と分かり合えたという安堵の震え、という単純なものではなく、夫の隠しているどうにもならない下心、いくら自分にはそういう傾向がある、とは告白していても、口には出さなかった滝という身近な女への情欲に妻は気づいていて、それを彼女もまたどうすることもできず、耐えるしかないと同時に、これからもこのように悩まされ続けなければならないことへの予感、そしていつかさらに悪いことになるかもしれないという予期への恐怖から来ている。そのようなことを表しているのではないだろうか? 私がそんな風に感じたのは妻の止まらぬ震えで作品が終わることに一抹の不穏さのようなものを感じたからだ。もしかしたら、タイトルとは裏腹に、この作品はこの夫婦の未来の危険な予兆を表す表現で締めくくられているのかもしれない。
「雨蛙」
*賛次郎は田舎の造り酒屋の若い主であり、親友の竹野の影響で、最近文学に興味を持つようになった。文学仲間の女との結婚を反対された竹野が家と絶縁し、別の町で夫婦で水菓子屋を営むようになった頃、賛次郎も祖母の紹介で結婚する。相手はせきという女で、賛次郎も彼女のことが前から好きだった。せきは無口で、学がなく、美しい娘だった。背は低いが健康的で豊かな肉体を持ち、スタイルがよく、整った顔立ちをしていた。茶色の目に光のないのが唯一の欠点だった。
ある日、竹野から市の公会堂で行われる劇作家のSと小説家のGの講演会に行かないかと誘われ、賛次郎はせきを連れていくことにするが、当日になって祖母が倒れてしまう。病人を置き去りにするわけにもいかず、自分が祖母の代わりに酒屋の仕事もしなければならないので、せきだけを自分の代わりに講演会に行かせた。翌日、祖母も回復して、竹野の所に泊っているせきを迎えに行くと、竹野は、せきがここではなく、市で一番の旅館である迎雲館に泊まっていて、まだ帰ってきていないと言う。竹野は訳ありげな表情で詳しい話を聞かせた。
講演会の後には歓迎会が料理茶屋で開かれ、竹野はそちらへ出たが、竹野の妻とせきなど女性たちは、山崎芳江という音楽教師から講演者たちに紹介をしてもらい、その時二人は芳江と迎雲館でSやGが歓迎会から帰ってくるのを待つ約束をしたのだという。迎雲館で皆が合流すると、酒を飲みながら皆で談話をした。Sは丁寧で、どこか女性らしさを感じさせる男性だった。対照的にGは輪郭が太く、がっしりとした力強い感じのする男だった。話は大いに盛り上がったのだが、せきは場に飲まれて作り笑いを浮かべ、淋しい目つきで皆の顔を見ていた。竹野の妻はそれが気の毒だった上、雨も降り続いていたのでせきと共に帰ろうとした。すると芳江がしきりに止めた。初めは社交辞令だと思っていたのだが、帰る帰らないを繰り返しているうちに芳江は本気で怒りだし、竹野の妻は帰ってもいい、でもせきさんには残ってもらうと言った。せきは芳江に命じられるがまま、残ることになったという。
賛次郎はこの話を聞いて、どう判断したものか分からなかった。間もなくせきが迎雲館から戻ってきた。竹野の家から俥に乗り、山崎女史の歌は良かったかと訊くとうなずく。昨夜は山崎女史と一緒だったのかと訊くと首を振る。せき一人だったのかと訊くと、せきは横を向いたまま、意味の分からない微笑を浮かべた。賛次郎はどきりとした。せきは力なく、遠くをぼんやり見つめている。せきの無言は、打ち砕かれた淋しい心からくる不機嫌なのだろうと賛次郎は思った。俥を降り、しばらく歩いているとせきはやはり遠い一点を見つめて黙っているのだが、賛次郎はふと、それが淋しさゆえの不機嫌の表情ではなく、甘い夢に陶酔した喪心状態の顔なのではないかという気がした。賛次郎はせきに、昨夜は誰と一緒にいたのかと訊くと、最初は芳江がいたのだが、途中で出ていってGが入ってきた、と言い、その後は、と訊くと黙って俯いてしまった。賛次郎は突然せきが堪らなく愛おしくなり、その場で抱きすくめたい衝動に駆られた。
しばらくして、賛次郎は小便をしに道の傍へ行った。見上げると、電柱の中ほどに雨蛙がいる。雨蛙は電柱にできた小さな凹みの中で二匹重なり合うようにしてうずくまっていた。電柱の上にある蜘蛛の巣にかかった虫を食べてつつましい所帯を守っているのだ。その様子が彼には懐かしく、親しみのあるものに思われた。家に帰ると、賛次郎は部屋にあった数冊の本を、裏山の窪地で人知れず焼き捨てて、ほっとした気持ちを覚えた。
☆自分の妻である女が、文筆家であるとはいえ他の男と関係を持ったことに怒らないのが不思議だと思った。女の姦淫は即離縁、というような時代ではもはやなかったのか。それともGと過ごした一晩に夢見るような表情を浮かべる、無学で無口なせきの可愛らしさゆえか。豪放磊落でがっしりとした男らしいGと、肉感的な体つきを持つせきとの結びつきがあまりにも似合っていたからか。文筆家である、いわば著名人であるGと、田舎の一商人にすぎない自分とを男として同等に考えられなかったせいか。Gとのことを訊いて俯いてしまうせきをこの上なく愛おしく思い、その場で抱きしめたいという衝動に駆られる賛次郎の心情は、どこか滑稽でもあると同時に、ひどく切なくも感じられる。また、無口で学はなく、美しく豊満な体を持ち、目に光がない、と形容されるせきは、現代の印象ではちょっと不気味な感じもする。一体何を考えているのか分からない、とさえ思えるが、当時としては田舎の女性が無学であることは珍しくないだろうし、せきは他人に何を言われても気にする様子はなかった、という記述もあるので、外見は素晴らしいが鈍い女として、それほど妙な印象を与えなかったのではないかとも思う。そう考えると、学がなく鈍いと思われていたからこそ、答えに窮して俯いてしまったり、陶酔するような表情を浮かべていたのが賛次郎には新鮮だったのかもしれず、それゆえ「堪らなく愛おしいと感じた」のかもしれない。賛次郎は今まで知らなかったせきの一面を見たような気がしたのかもしれない。愛おしさがつまらない怒りを超える。そして、古くからある電線のくぼみでひっそりと所帯を構える雨蛙は、賛次郎の希望する結婚生活のあり方を表しているように思う。古くからの馴染みの町で、夫婦二人でつつましく、静かな生活を送りたい。町へ戻った二人を待ち受けているのはこの雨蛙のような生活だ。最後に賛次郎が焼き払った書物は恐らくGの物であろう。妻を寝取られた賛次郎のささやかな対抗心である。
「冬の往来」
*私の知り合いである中津という小説家が自身の初恋を語る。中津(僕)が薫さんを初めて見たのは姉の結婚披露宴のときで、僕は二十歳だった。薫さんは相手方の親類で、小さな息子と娘を連れていた。薫さんが僕の祖母と話すのを見て、僕は彼女を前から知っているような親しさと、母性とを感じた。その後も、姉の家で時々薫さんとは同席する機会があった。ある日、薫さんが神経衰弱で転地をしているという噂を聞きびっくりした僕に、姉は薫さんが昔ある恋愛事件のため家を飛び出したことがあるという話をした。
薫さんが若い頃、家には薫さんの父の教えを請うてよく大学の青年たちが出入りしていた。そのうちの一人である岸本という男に薫さんは好意を感じていた。相手のほうでも同じ気持ちだった。薫さんが結婚して一年ほど後、父親が亡くなり、通夜で二人が共に夜を明かしたとき、思いがけず互いの心が通じてしまった。岸本は、自分は結婚を望んでいるが、薫さんが夫と別れる手助けは出来ない、それは薫さん自身が解決すべき問題で、それさえ何とかなればあとはすべて自分に任せてほしい、と話した。薫さんは承諾したが、女の身でそれは無理な相談だった。どうしても岸本の手を借りなければこの難関は越えられない。岸本のほうでも苦しい思いをしていて、息抜きに数年アメリカに行くことにし、その旨を薫さんに手紙で伝えた。岸本の出発の前日の夜、薫さんはとうとう家を飛び出し岸本の元へ駆けつけ、自分も連れて行ってくれと言って泣いた。薫さんがまだ人妻である以上、岸本はそれを承諾するわけにいかず、すぐに薫さんの家族に連絡した。薫さんの母親と夫が駆け付けて、母親は岸本に薫さんが妊娠四か月であることを話した。四か月と言えば、薫さんと心が通じ合って二か月後のことである。岸本は崖から突き落とされたような気分になると同時に、気持ちが白けた。次の日、岸本は淋しい姿で友に送られてアメリカへ発った。そして薫さんはそれをうやむやにしたまま夫と暮らした。
その話を聞いてあの人はどこにそんな情熱を隠しているのかと僕は意外に感じたが、逆に、それでこそ薫さんは薫さんらしくなったと思った。薫さんが平面ではなく、浮き彫りになったような感じがした。それからしばらく経ち、薫さんへの好意は変わらなかったが、それを恋だとは全く思わなかった。しかしそれは紛れもない恋だった。それを意識できなかったのは臆病だともいえるが、人間はそれでいいと思う。人妻を好きになることだってある。でも、その好意以上に自分を嵩じさせないのが運命に対する人間の知恵だ。
そして五年前、薫さんの夫が亡くなった。僕は今まで薫さんの年齢についてよく考えたことはなかったが、自分と六、七歳しか違わないことに気づき、今まで望み得なかったことは満更そうでもないのではないかという気がしてきた。ある日、薫さんが僕の祖母を訪ねに来た。祖母は留守だったので僕と薫さんは色々なことを話した。その時感じられた向こうの好意が、僕には普通の社交辞令的な好意とは思えなかった。僕は自分の臆病さが歯がゆかった。薫さんより年下ではあるが、自分は男だ。一度こちらから訪問してみよう。
そう思った矢先、姉から話があると言われて呼ばれた。薫さんのことに違いないとどきどきしながら聞くと、その話というのが、薫さんの娘の雪子さんをもらう気はないか、という内容だった。薫さんが姉にそう頼みに来たのだという。僕は岸本のように崖から突き落とされたような気になった。昔薫さんのお腹の中にいた娘が、岸本と自分とを崖から突き落としたのだ。自分はもちろんその話を断り、薫さんに対する気持ちを永遠に葬った。この話をそのまま書くと薫さんへのラブレターになってしまうので、それは避けたいが、何らかの形で小説化するつもりだ、と中津は語った。
☆ほのかな好意は徐々に募り、やがて恋になるのだが、相手が人妻である以上、それを恋だと自覚する勇気はない。それでもチャンスが巡ってきて、うまくいきそうだ、いけるはず、ぶつかってみるしかない、と思ったところで思い切り足をすくわれる。同じ相手に恋をした男二人が二人とも、女の子供の存在によって奈落へと突き落とされるというところに、運命が結婚をどうしても許さないような因縁を感じる。他人事だから面白いけど、このオチは非常に辛い。
「老人」
*精力的な事業家の男は五十四歳で妻を失った。仕事にも衰えを感じ、急に老けたような気持になった。四ヶ月後ほど後、十年余り御殿女中をしていた女を後妻にもらう。若い女を嫁にして、彼は若返った気になり、仕事にも再び力が出た。会社を退職した後、ある石油会社の顧問になるが、若い技師が彼の意見を尊重しないので六十五歳の時に引退した。その後妻と新しく住むための家を新築するが、完成を前に妻は亡くなってしまう。その時彼は六十九歳だった。
その後彼は待合に出入りするようになったが、若い女が自分のような老人と歩く苦痛が辛い。間もなく彼は再び家を建て、自分に一番優しかった若い芸者をひかせて妾にし、三年経ったら彼女とは手を切り、家をやるという約束をした。彼が二十代の頃遊んでいた遊女は、金持ちの客の中でも一番年寄りを選んで身請けしてもらった。その話を聞いた時当時の彼は寂しい気分になったが、あれから四十年経った今、その老人のいたところに自分は立っている。当時の彼は彼女があさましいと責めたが、今の彼には老人の死を待つ若い女の心を責める事は出来なかった。でも自分の死を待たれているというのは嫌だったので、三年を別れの区切りとしたのだ。
やがて三年が経ち、彼は七十二歳になり、女と別れるのは耐えられなく寂しい気がした。女には情夫がいたが、老人と別れるのは残酷なように感じたので、もう一年このままでいたいと女は老人に申し出た。老人は喜んで承諾した。老人は女のふっくらした手の前に、自分のしなびた皮膚の手をかざすこともできず、彼女を強く抱きしめてやる力もない。なぜ自分は他の老人のように年相応の心にならないのかと彼は悲しんだ。
一年が経ち、女は子供を産んだ。もちろん情夫の子だが、老人には怒ることも恨むこともできず、ただ涙を浮かべた。翌年老人は死を願いだした。女は二人目の子を宿した。その子の生れる前に死にたいと祈ったが、一年経っても老人は死ねなかった。今度は彼のほうがもう一年一緒にいてほしいと女に頼み、女は快諾した。その一年が終わるころ、老人はインフルエンザをこじらせて重体になった。女は本家で彼の子供や孫たちと懸命な看護をし、しばらくして老人は七十五歳で永眠した。遺言で、女は家の他に相当な財産を譲り受けた。四ヶ月後、かつて老人の座っていた座布団には彼女の子供たちの父である若者が座るようになり、その後ろの床の間には老人の写真が額に入れて飾られてあった。
☆二人の妻を亡くした後、妾と生涯を共にしたある事業家の話。再婚したころにはまだ若い気持ちのよみがえる余裕もあったが、六十代の終わりを迎えるころには自分を明らかに老人として意識するようになる。体や外見は衰えるものの、女性を求める気持ちだけは衰えてくれない。欲望を持つことは生の活力であるともいえるが、心と体のアンバランスは苦しい。自分の老いた体を若い妾と比較して恥じ、女の情夫である若い青年に嫉妬や怒りを覚えることすらできない。生を求める心と、生に溢れた世界を見る苦しみに老人は死を願う。自分の老いに苦悩しながらもそれを受け入れ、妾を愛し続けた老人に周囲の人々が優しい気持ちと感謝の念、懐かしさを覚えていることが、床の間に飾られた彼の写真から分かる。
「矢島柳堂」
*この作品は「白藤」「赤い帯」「鷭」「百舌」の章(小作品)に分れている。
「白藤」:画家の矢島柳堂は坐骨神経痛に苦しんでいたが、春になると病気は少しずつ良くなってきた。陽気が続くとじっとしていられずに、庭先の藤棚の下に座椅子を出して、沼の景色を眺めて半日過ごした。柳堂は藤の花を見ているうちに、ふと藤蔓がすべて左から右へ巻いていることを発見する。弟子の今西に近所の藤を見て確認させるが、今西はどの藤蔓も巻き方は右から左だったという。柳堂は不動の滝の前にある藤を確認させに行かせる。今西は確かに左から右だったと報告し、柳堂は満足する。七月になると柳堂は一人温泉旅行に出かけた。宿でくつろいでいると、番頭が宿帳を記入しにやってきて、柳堂のことを農夫と思い込んだ。柳堂はそれを否定せず、そのまま宿帳の職業欄に農家と書かせる。彼はそれまでも東京の画家仲間から「村長さん」というあだ名で呼ばれていた。
「赤い帯」:宿で退屈すると、柳堂は外の景色を眺める。眺めていると眼馴染ができてくる。中でも「赤い帯」に彼は関心を持った。この少女は柳堂の宿の向かいにある松琴亭という遊び茶屋にいる娘で、何を着ていてもいつも赤い支那繻子を締めているので、柳堂はその十四、五歳の少女を心の中で「赤い帯」と呼んでいた。赤い帯は白地の中形を着ているときには特に美しく、じぐざぐの坂道を下りていくさまは玉転がしの玩具のようだった。鳥で言えば百日雛の美しさだ。
ある日、柳堂が部屋から外を眺めていると、一人の男が黒い牛を引いて坂道を上っていた。ちょうどその時、反対側から赤い帯が坂道を下りていた。両者が近づき、角から不意に牛が首を出すと、赤い帯はひどくびっくりして元来た方へ逃げ出した。男が声をかけても止まらず、別の小道に入って牛を見下ろしていた。牛が通り過ぎると赤い帯は何度も振り返りながらまた坂道を下りて行った。その様子が柳堂には可笑しかった。
柳堂の赤い帯への興味は強くなっていき、いつの間にか彼女の姿が見えるのを待つようになっていた。あの娘を引き取って育てたいとすら思った。ある晩柳堂が散歩に出ると、日本ユニテリアン教会と掲げた集団がいて、若い伝道師が説教をしているのを周りの人たちが輪になって聞いていた。柳堂は昔キリスト教徒だった。今の柳堂に、説教師の言葉は空虚で、安っぽく、汚らしい印象を与えた。キリスト教にそういう感じを抱くのではなく、伝道師たちにつきまとう雰囲気がひどく汚らわしく思えた。「手袋なしには触れられない本だ」と聖書についてニーチェが言ったことを柳堂は今まで奇抜な言だと考えていたが、今ではそれがニーチェの偽りない実感だったのだろうと思った。
その後彼は思い切って松琴亭へ行ってみた。案内された女に、赤い帯をいつも締めている娘だけを呼んでくれと頼むと、しばらくして赤い帯は恐る恐る部屋へ入ってきた。赤い帯は締めておらず、こわい目つきで柳堂を睨んでいた。柳堂は自分が今まで頭の中で描いていたのとは違う、変に下品な娘をそこに見た。強い、生き生きとした感じは遠目で見るからこそ良く、近くで見ると妙に野性的な感じがした。柳堂にとって赤い帯の価値は半減してしまった。そして自分が赤い帯を頭の中で都合よく作り上げていたことに滑稽さを感じた。もっとこっちへおいで、と言うと、赤い帯はまともにこちらの顔を見ながら、開けひろげた下品な声で笑いだした。そして私の姉さんをあげてくれない、とせがみ、柳堂が黙っていると勝手に姉を呼びに行ってしまった。二人が戻ってきても、話をすることもなく、柳堂は女たちに唄を唄ってもらった。赤い帯は有明節を唄いながら、目と眉毛の間をできるだけ伸ばして、ちょっと泣きそうな顔をする時があり、それを可愛らしく思った。柳堂が何か冗談を言うと、赤い帯はすぐ「いけ好かない」と言った。それが得意の文句であるらしく、柳堂は苦笑した。
柳堂は赤い帯に送られて店を出、伝道師が説教をしている傍を歩きながら、綺麗な絵をやるから部屋まで来ないか、と誘うと、赤い帯は不意に顎を突き出して、「ああ父なる神様、厭でございますよう!」と言い、背を向けて小鹿のように逃げた。
「鷭」:柳堂が自宅の縁前で沼を見ていると、鷭が飼いたくなった。鷭の前髪に赤い手絡を結び、草の茎のような足で葭の間を駆け歩く姿を見ると、羞むような様子が彼には十四、五歳の美しい娘を見るように思われた。十数年前、京都に住んでいたとき、柳堂は町家のそういう娘としくじりをした。このことを最初は良心に病み、弱っていたが、最近ではそれほど思うこともなくなり、その娘を美しい気持ちで思い浮かべるようになっていた。いつの間にか彼の頭の中で、その娘と鷭とが結びついていた。一週間ほど後、隣人がくれたという鷭を妹のお種が持ってきた。しかし鷭は少しも慣れず、餌も食べなかったので柳堂は気をもんだ。柳堂がいないと逃げようとして騒ぎ、柳堂を見ると箱の隅でじっと動かなかった。柳堂は鷭の驚く姿や、隅に行って拗ねたようにじっとしている姿がやはり十四、五の娘のように思われてしかたなかった。そして思い出したくないことを思い出し、不愉快になった。翌朝、鷭を見に行くと鷭はすでに死んでしまっていた。柳堂はもう鷭を飼おうと思わなくなった。
「百舌」:柳堂が庭の草取りをしていると、今西が物置の裏で百舌と蛇の喧嘩を見つけたと柳堂を呼びに来た。百舌は暴れ、その首に細い銀色の蛇が巻き付いていた。蛇は頭を砕かれだいぶ弱っていたが、まだ百舌を攻撃している。柳堂は今西に百舌から蛇を取らせると、百舌はすぐに逃げて行った。柳堂が画室に戻り、今日中に仕上げなければならない描きかけの絵に取り組んでいると、裏の方から小鳥の強い鳴き声が聞こえてきた。裏窓を見ると、小松の中に雀ほどの大きさの百舌の小鳥がいた。さっきの百舌の子供に違いないと柳堂は思った。鷭で懲りてはいたが可哀想なので、柳堂は梯子に上って小鳥を捕まえた。小鳥は少しも恐れず、簡単に捕まった。
鳥籠の中に入れた小鳥を見ていると、興味を持ったものを飽きるまで観察し続ける柳堂の癖を知っていたお種が、仕事の妨げになると思い鳥かごを隠してしまった。百舌の子が見たいから、というわけではないが、柳堂の仕事ははかどり、夕方までに絵は仕上がった。庭の榎の枝に描けた鳥かごの中で、百舌の子は柳堂によく慣れた。餌を持っていくと、全身の毛を膨らませ、羽根を震わせて喜んだ。
ある日柳堂は用事で一日家を空けなければならなかった。翌日帰って寝ていると、百舌の強い鳴き声がした。鳥籠に近づくと、百舌の子はひどく驚いて騒ぎ、柳堂からの餌も食べなくなった。何があったのかとお種に訊くと、昨日から親鳥が来て百舌の子に餌付けをしだしたという。お種は百舌の子を放してやったほうがいいと言ったが、柳堂は聞かなかった。柳堂は百舌の子を何とかまた自分に慣れさせようとしたが全く駄目だった。柳堂は諦めて百舌の子を放した。飛び慣れていない百舌の子は何度も木の枝に落ちながら、少しずつ親鳥の方へ近づいていき、やがて二匹はどこかへ飛び去っていった。
☆矢島柳堂は、作者自身をモデルにした架空の画家であるらしい。とりたてて物語らしい筋を持つ者ではないが、志賀自身の生活のスケッチを豊かにしたものという印象がある。いずれの作品も、小さなものたち――藤、少女、鳥などへの愛情の深さが、鋭い観察力による細かい描写から伝わってくる。特に、「赤い帯」の少女は可愛らしいと同時に憎たらしげなところが魅力だ。柳堂がかってに頭の中でこしらえていた美しい少女と、実際に近くで相対したときの、子供ではありながら遊び茶屋の世界の住人として身に着けたのであろう下卑た言葉遣いや振る舞い、そんなふうに影響を受けてはいてもやはり時折見せる子供らしい仕草や可愛らしさとのギャップが面白く、またこのように描かれた「赤い帯」自体がとても興味深いキャラクターでもある。途中、キリスト教の伝道師に汚らわしさを感じ、ニーチェの言葉を思い出しているところは、あらすじ内で省いても良かったのだが、個人的に志賀自身がどういう経緯でそういう思いを抱くに至ったのかに興味があったので敢えて省略しなかった。
「城の崎にて」
*山手線に轢かれて怪我をし、養生のため一人但馬の城崎温泉へ行った。数週間滞在する予定だ。一人きりですることがなく、よく散歩をした。冷え冷えとした夕方、淋しい秋の山峡を清流に沿って歩くと、考えることは沈んだことが多かった。淋しい考えだったが、静かないい気持がした。
自分はよく怪我のことを考えた。一つ間違えば死んでいた。もしそうなったら、今頃は冷たい土の下で仰向けになって、青く、冷たく、堅い顔をしていただろう。その傍には祖父と母の死骸があるが、互いに何の交渉もない。こういった考えは淋しいが、恐怖は感じなかった。いつかはそうなる。今まではそれが遠い先のように感じていたが、今では本当に分からないような気がしていた。自分にはしなければならない仕事があるから生き残ったのだ、そういうふうに考えたかったのだが、妙に自分の心は静まっていて、何か死に対する親しみがあった。
部屋で読み書きに疲れると、縁の椅子に出た。家屋に繋がる羽目に蜂の巣があるらしい。蜂は毎日忙しそうに出入りしていた。ある朝、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。もちろん他の蜂はそんな事一向にお構いなしだ。忙しく働いている蜂は生きているものという感じがした。その傍に一匹、一日中動かずに転がっている蜂を見ると、それはまたいかにも死んだものという感じがした。それは三日ほどそのままになっていて、見ていて静かな感じを与えた。他の蜂が巣に帰った後の日暮れに、冷たい瓦の上で一つ残った死骸を見ることは淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。夜に雨が降って、翌朝蜂の死骸はもうそこにはなかった。巣の蜂は元気に働いているが、死んだ蜂は今頃どこかへ押し流され、じっとしているだろう。外界にそれを動かす変化の生じない限り、死骸は動かないままだ。それにしろ、それはいかにも静かであった。自分はその静かさに親しみを感じた。
ある日、東山公園へ行こうとして円山川の傍を通った。ある所で人混みができ、川の中を覗いて騒いでいる。首に魚串を刺された大きな鼠を、川に投げ込んだのを見ているのだ。石垣に這い上がろうとする鼠に、子供と車夫が石を投げるが、なかなか当たらない。見物人は大声で笑う。鼠は石垣の間にやっと足をかけたが、隙間に入ろうとしても串がつかえて入れずに、また川へ落ちる。鼠は何とか助かろうとしている。顔の表情は分からないが、動作の表情でそれが一生懸命なのがよく分かる。鼠はどこかへ逃げられれば助かると思っているように、川の真ん中へ泳ぎ出た。子供たちがまた面白がって石を投げる。自分は鼠の最期を見る気がしなかった。死ぬに決まった運命を担いながら、全力で逃げまわっている様子が妙に頭について、自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本当なのだ。自分の願う静かさの前に、ああいう苦しみがあるのだ。死に到達するまでのああいう動騒は恐ろしい。今自分にあの鼠のようなことが起こったら、自分はやはり鼠と同じ努力をするのではないか。自分は怪我をした時、それに近い状態になったことを思わずにはいられなかった。半分意識を失った状態だというのに、自分で病院を決め、医者が留守だと困るので、先に電話をかけてもらうよう頼んだのだ。怪我が致命的なものであるかどうかを恐れながら、ほとんど死の恐怖に襲われなかったのは不思議だった。友人に、医者はこの傷がフェータルなものだと言っていたかどうか訊くと、フェータルなものではないと言っていた、と教えてくれた。それを聞いて自分は快活になった。フェータルなものだと聞いたら、自分は弱っただろうが、それほど死の恐怖には襲われなかったのではないかという気がする。そしてそれでもやはり自分は助かろうと努力しただろうという気がする。それは鼠のあがきとさして変わりはない。今後また死の危険に際してもあまり変わらない自分であろうとは思うが、それに影響されたとしてもそれでいい。それは仕方のないことだと思った。
夕方、小川に沿って散歩をしていると、大きな桑の木が路傍にあり、ある一つの葉がヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく、流れの他はすべて静寂の中に、その葉だけがいつまでもヒラヒラと忙しく動く。自分は不思議に思った。多少怖くもあったが、好奇心も感じた。しばらく見ていると、風が吹いてきて、その葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていると思った。薄暗くなってきて、何気なく傍の流れを見ると、向こう側にある石にイモリがいた。自分はイモリを驚かして、水の中へ入らせようと思い、小石ほどの石を拾いそれを投げた。別にイモリを狙ったわけではない。狙っても当たらないほど投げるのが下手な自分は、それが当たるなどとは全く考えていなかった。石がこつっと音を立てて流れに落ちる。石の音と同時にイモリは四寸ほど横へ飛んだように思えた。イモリは尻尾を反らし、高く上げた。そしてその反らした尾が自然と静かに下りてきて、肘を張ったようにして傾斜に耐え、前についていた足の指が内へまくれこむと、イモリは力なく前へのめってしまった。尾は完全に石についた。もう動かない。イモリは死んだ。自分はとんだことをしたと思った。虫を殺すことはするが、その気がないのに殺してしまったのは嫌な気分になった。自分のしたことではあったが、それは偶然だった。イモリにとっては不意の死だ。自分はしばらくそこにしゃがみ、イモリと自分だけになったような気で、イモリの身になったつもりでその心持を感じていた。可哀想にと思うと同時に、生き物の淋しさを感じた。自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持ちになって、宿へ帰った。
死んだ蜂は雨で土の下に入ってしまったろう。鼠は海へ流されて、水ぶくれのした体をごみと一緒に海岸にでも打ち上げられているだろう。死ななかった自分は今こうして歩いている。自分はそれを感謝しなければ済まないような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がってこなかった。生きていることと死んでしまっていることは、両極ではなく、それほど差はないような気がした。もうかなり暗く、視覚は遠い灯を感じるだけで、足の踏む感覚も視覚を離れ、いかにも不確かだった。三週間いて宿を去った。もう三年以上になるが、脊椎カリエスだけは免れた。
☆最初にもはやあらすじではなく書き写しに近いことを申し訳なく思うが、非常に思い入れのある、大好きな作品なのだ。大好きと言っては語弊があるかもしれない。確か中学生の時に初めて読んで、未だに作者の言わんとしていることを完全に理解しているとはとても言えないのだが、この作品は自分の心に深く響いた。志賀直哉は実際に山手線に轢かれたことがあるので、この「自分」は作者本人と言ってもいい(以下作中の主人公である「自分」はカッコを省略して表記します)。致命傷になるかもしれない傷を負った自分が、死んだ蜂、どう考えても死ぬに決まっているのに助かろうともがく鼠、自分が意図せず殺してしまったイモリを目にして、自分の死、死んだ後の自分、死ぬまでに体験するかもしれない壮絶な苦しみ、生と死の境を分ける運命の偶然に思いを馳せる。
あらすじを読めばわかると思うが、作品中には「淋しい」と「静か」の二つの言葉が頻出している。しつこいほど何度も繰り返し用いられている。自分は死の恐怖を考えるよりも、死のもつ「淋しさ」と「静かさ」に親しみを覚えている。ただ、鼠を見て感じたように、死の前には耐えがたい苦しみが待ち受けている可能性が高い。自分はそれを恐ろしくは思うが、死に際に特に恐怖を覚えなくても、あるいは鼠のように大変な苦しみのため狂乱状態になっても、それはそれでいい、あるがままの自分でいいと、どちらの状態をも受け止めている。最後にイモリを偶然殺してしまった自分は、現実に生と死の境を分けるその瞬間を体験することになる。実際には自分は電車に轢かれて致命傷になりうる傷を負っているわけだから、今現在生と死の境目にいる状態ではあるのだが、その境目は傷が致命傷になるかならないかの、ある程度の時間の長さのあるものであり、瞬間的なものではない。それに対して、イモリの死は一瞬だった。自分はまさにその運命的な境目の瞬間を体験し、それに関わってしまったことによって、自分が助かり、イモリが死んだという運命の不可解さ、不思議さと、人間を含むあらゆる生き物の「淋しさ」を感じている。自分が「生きていることと死んでしまっていることは両極ではない」というとき、「生きること」と「死ぬこと」、生と死ではなく、生きている状態、死んでしまった状態を対比させている。必ず死ぬ運命にある生き物の「淋しさ」と、死んでしまったものたちの「静かさ」を同種のものとして感じ、そこに作者自身が親しみを抱いているのだと思う。
これは村上春樹の作品中に印象的な言葉、「生の中に死は含まれている」(正確な引用ではないことをご了承ください)と通ずるものがあるが、村上がそこに志賀ほどの淋しさや静かさへの思いを馳せているかどうかはまだ分からない。彼は日本文学で面白いと思ったのは第三の新人以降の作品だと語っていたので、この作品をもちろん読んだことはあるのだろうが果たして共感を覚えていたのか、影響を受けたのかということも分からない。私の感覚で言えば、村上のこの言葉は村上自身から導き出されたもののように思われる。
話が逸れたが、ひらひら揺れる大きな桑の葉のエピソードが、この作品にどういう関係があるのか、この葉はなぜ風のない時に動き、風がやむと動きを止めたのかが分からない。しかも、自分はその原因が分かっていて、それを作中で明らかにしない。これはどういうことなのだろう。他にも感想はあるが、最後に私が気に入っている本文中の一節を、やっぱりどうしても直に読んで頂きたいので、長くなり過ぎで申し訳ないのだが以下に引用する。
ある朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂はいかにも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。
「焚火」
*恐らく赤城山付近の宿での話(手がかりとなる地名の記述から赤城山と推測しましたが、確証はありません)。宿の主で山育ちのKさん、画家のSさん、そして自分と妻は宿の部屋でトランプをしたり、Kさんと炭焼きの春さんが自分たち夫婦のために作ってくれる小屋の様子を見に行ったり、楢の林で木登りをしたりして遊び、宿での日々を満喫している。ある時自分は夕食後に湖で舟に乗ろうと提案する。舟は湖の砂地に半分引き上げてあって、Kさんは皆を舟に乗せ、湖へ漕ぎだす。
舟で辺りを見ていると、小鳥島の裏の向こう岸に焚火が見える。上陸してみると古い炭焼きの竈の中に人の寝ている気配があった。Kさんはきっと蕨取りが野宿をしているのだろうと言う。四人は再び舟に乗り、Kさんが自分たちも焚火をしようと誘う。Kさんが見当をつけたところへ舟を着け、四人は焚火を起こし、皆で囲む。火をつけるための枝を探していたとき、Kさんが虫をひどく怖がっていたことから、皆はKさんが今までに体験した怖い話を聞こうとする。するとKさんは雪で困ったときの不思議な話を語りだした。
去年雪がだいぶ積もった頃、東京にいる姉の具合が悪いと聞いて、Kさんは山を下った。しかし病気は思ったほどではなかったので、三泊して帰ることにした。水沼付近に着いた頃、山へは翌日登るはずだったが、わずか三里を一泊する気がなかったので、すでに三時ではあったが予定を変えて山を登ることにした。しかし登るに従って雪は深くなっていく。山を下りたときのほとんど倍ほどの深さだ。しかも人通りはないので雪は柔らかく、腰まで埋もれてしまう。一面の雪で道も分からない。子供の頃から山に親しんできたKさんでも参ってきた。鳥居峠はすぐ上に見えるが、それは冬で森の葉がないのと、一面の雪のため距離感がつかみにくくなっていたせいだった。手の届きそうな距離になかなか辿りつけない。引き返すのも危険だ。Kさんは恐怖も不安も感じなかったが、何だか気持ちがぼんやりしてきた。これは危険な兆候だったが、それを知りながらやはりKさんは不思議と不安に襲われることはなかった。Kさんは気を張って歩き続けた。時計を見ると一時を過ぎている。
そのうち、遠くの方に提灯が二つ見えた。Kさんは不思議に思ったが、勇気を出してその人たちに近づいていった。それはKさんの義兄であるUさんと、三人の人夫だった。どこへ行くのかと訊くと、Kさんのお母さんに起こされてKさんを迎えに来たという。Kさんはぞっとした。Kさんはその日帰ることを全く知らせていなかったのだ。お母さんは眠っていると、突然Uさんを起こし、Kが呼んでいるから、Kが帰って来たから迎えに行ってくださいとはっきりした口調で言ったという。Uさんは不思議に思わずに、人夫を起こし支度をさせて出てきた。よく聞いてみると、それはちょうどKさんが一番弱って、気持ちがぼんやりし始めてきたときのことだった。Kさんはもちろんお母さんを呼んではいない。それに、息子が帰って来たと感じたくらいで、夜中に人を起こして山の雪の中を迎えに行かせるようなことは普通はしない。支度がとても厄介だからだ。
Kさんとお母さんとの関係を知っている人にこの話は納得できた。Kさんのお父さんは若い妾と一緒に住んでいて、夏に二人で山にやってきては、山での収入を取り上げていったらしい。Kさんはそれを不快に思いよく衝突したという。そしてそれがKさんをお母さん思いに、お母さんをKさん思いにさせた。十一時を過ぎたので、一同は下火になった焚火の薪を水に放って消した。蕨取りの火はもう消えかかっていた。
☆焚火を囲んで語るKさんという山の住人の不思議な体験話。時代を問わずよくある種類の話だ。山中の宿を囲む自然、焚火の映る夜の湖畔、火のついた薪を水の中に投げ入れたときに、ジュッといって光が消え、辺りが暗くなっていく描写が美しく、夢幻の雰囲気を醸し出している。
「網走まで」
*自分は日光へ行こうとし、宇都宮の友人に連絡を取ると、友人も同行すると言うので、とりあえず宇都宮まで行くため、上野から青森行きの汽車に乗る。大勢の人々がごった返す中、客室に入る。発車のベルが迫る頃、二十六、七の女性が子供をおぶり、もう一人の子供の手を引いて入ってくると、自分の反対側の席に座った。女性は信玄袋と風呂敷しかもっていない。赤ん坊の世話で忙しい母親に、男の子は何かと駄々をこねる。自分が手を貸すと、女性は何度も礼を言う。その子は顔色が悪く、妙な感じの子で、耳と鼻に綿を詰めていた。男の子が気難しいのは耳や鼻が悪いせいもあるだろう、というと、女性はこれは生まれつき悪いもので、医者は男の子の父親が大酒をするのが原因だと言うが、耳や鼻はともかく頭の悪いのは確かにそのせいだろう、という。女性にどこまで行くのかと尋ねると、北海道の網走という大変不便で遠い場所だという。着くまでに一週間もかかるらしい。
赤ん坊が寝入り、女性はじっと何か考えていたが、しばらくすると信玄袋からはがきを二、三枚と鉛筆を出して手紙を書き始めた。自分はふと、絵本を読んでいる男の子の下を向く目と、伏目をしてはがきを書いている女性がそっくりだと気づいた。電車に乗っている家族連れを目にした時、何の類似もない男女の外面に現れた個性が、子供の顔や体つきのうちにしっとりと調和され、一つになっているということに驚かされる。母と子を見比べるとよく似ている。父と子を見てもよく似ている。しかし、母と父との間には何の類似もないのだ。今それを思い出し、自分はこの子からその父を、そしてその人の今の運命についても想像せずにはいられなかった。自分は妙な連想から、その父の顔や様子をすぐ思い浮かべることができた。
学校にいた頃、曲木という公家華族がいた。大酒をして大きなことを言う、鷲鼻の青い顔をした大柄な男で、勉強はしなかった。自分はこの男を思い浮かべ、この子の父があんな男ではないかと思った。しかし曲木は気難しくはなく、どこか快活で、ひょうきんなところもあった。だがそういう男でも度々失敗すれば気難しくもなり、陰気にもなることがある。妻に当たり散らして憂さを晴らす人間にもなりうる。この子の父はそういう人間ではないだろうか。
女性は古い縮緬の単衣に御納戸色をした帯を締めている。それを見て、この女性の結婚前や、その頃の華やかな姿、さらにその後の苦労をさえ考えることができた。女性が二枚の手紙を書き終えると、男の子は小便がしたいと言い出すが、次の宇都宮での八分の停車まで我慢しなければならない。男の子はさんざん女性を困らせる。この女性は夫にいじめられつくして死ぬか、生き残ったにしてもこの子にいつか殺されることになるだろうというような考えが浮かぶ。
やがて汽車が宇都宮につくと、女性は赤ん坊を背負い、男の子を連れて汽車を出る。自分もその後について降り、ここで降りることを女性に告げる。女性は丁寧に礼を言った。そして、さっき書いていたはがきを出してくれないかと自分に頼んだ。私は承諾し、互いに名前も聞かず別れた。停車場の入り口にあるポストまで来ると、そのはがきを読んでみたいような気がした。読んでも差し支えないような気もした。自分は迷ったが結局宛名の方を上にして、内容は読まずにはがきをポストに入れた。ちらりと見えた宛先は共に東京宛で、一つは女あて、もう一枚は男あてだったので、ポストからそのはがきをもう一度出してみたい気がした。
☆たまたま汽車で一緒になった、どう見ても訳ありの子連れの女性との出会いを描いた作品。子供の顔と女性の顔が似ているという発見は、その父親の顔、人となりや境遇、そして女性の結婚前は華やかであっただろう若かりし頃の姿と結婚後の苦労、さらにこの女性が夫のみならずわがままな息子にまで不幸にさせられる未来へと自分の想像を膨らませていく。網走というはるか遠くの土地への親子の旅が、この連綿とつながる「自分」の想像をも遠い彼方へと運んでいく。網走までの移動が最後まで描かれているわけではないのに、「自分」の想像の連鎖によって長い旅が表現されているように思われる。最後に投函した女性のはがきをポストから出して検めたくなる「自分」の気持ちは、「自分」の想像が事実とどれくらい近いものであるかを確かめたい気持ちの表れか。「自分」の想像を超えた女性に関する事実を知りたいという好奇心の表れか。「自分」はそれを確かめることによって、女性の網走への旅を想像の中で共にしようとしているのだろうか。旅の話でありながら、単なる旅の話ではないような、不思議な読後感のある作品。ちなみに、親と子は似ているのに、親である夫婦は全く似ていないという不思議は恐らく誰にも感じたことがあるのではないだろうかと思った。
「灰色の月」
*冷え冷えとした東京駅で、私は品川回りの電車に乗る。薄曇りの空から灰色の月が、日本橋側の焼け跡をぼんやり照らしている。私の座った席の左には、少年工と思われる十七、八歳の子供が、私の方を背にし、入口の方へ真横を向いて腰かけている。彼は目をつぶり、口をだらしなく開けたまま、上体を前後に揺すっているのだが、揺するというより体を前に倒しては起こすのを繰り返しているように見える。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられる。
新橋あたりでだいぶ混んできて、大きなリュックを背負った男二人がリュックを置く場所を譲り合っている。ひと頃とは人の気持ちもだいぶ変わってきたと私は思った。品川あたりで、会社員らしき男が少年工の顔を見て「なんて面してやがんだ」と笑い、その言い方が可笑しかったのか車内に少し快活な空気が流れる。しかし、リュックを背負っていた男の一人が、この少年が吐く一歩手前だともう一人のリュックの男に身振りで示すと、皆も何か気まずさを感じたらしく黙ってしまう。
少年の地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭いで継を当ててある。後ろ前にかぶった戦闘帽の廂の下の、汚れた細い首筋が淋しい。少年工は体を揺すらなくなった。そして、窓と入り口との間にある板張に頻りに頬をこすりつけた。その様子がいかにも子供らしく、ぼんやりした頭で板張を誰かに仮想し、甘えているのだというふうに思われた。彼の前に立っていた男が少年工にどこまで行くんだと訊くが、少年は返事をしない。再び訊くと、上野へ行くと物憂そうに答えた。男は上野とは逆方向だ、これは渋谷へ行く電車だ、と言うと、少年工は窓の外を見ようとして重心を失い、突然私に寄りかかってきた。私はほとんど反射的にその体を肩で押し返してしまった。これは私の気持ちを全く裏切った行為で、自分でも驚いたが、寄りかかられたときの少年の体の抵抗があまりに少なかったので一層気の毒に思った。私の体重は今五十キロほどだが、少年の体重はそれよりはるかに軽かった。私はどこから乗ったのか、と少年に尋ねると、渋谷から乗ったという。誰かが、じゃあ一周しちゃったんだよ、と言うと、少年はガラスに額を着け、窓の外を見ようとしたがすぐやめて、ようやく聞き取れる低い声で「どうでも、かまわねえや」と言った。この独り言は後まで私の心に残り、周りの乗客たちももう彼の事には触れなかった。私は暗澹たる気持ちを覚えて渋谷で電車を降りた。
☆終戦直後の、恐らく山手線内にいた少年工と電車内の様子を描いた作品。リュックを置く場所を譲り合う人たちや、少年工の顔が面白いのを見て笑う乗客たちに、「私」は戦争が終わった後に戻ってきた、人の温かさや明るさを感じるが、少年工の「どうでも、かまわねえや」の一言でその雰囲気は一変してしまう。体を揺する不自然な動き、眠っているのか呆けているのか、酔っているのか分からないような顔つきと、ぼろぼろの工員服、痩せこけた首筋に軽すぎる体重は不気味さと同時に悲愴感を覚えさせる。身を呈して尽くすことを強いられた戦争に負けた後の少年の無力感は、戦争が終わって幾分活気を取り戻しつつある社会と表裏一体である。少年工の不気味な、何を考えているのかよく分からないような様子は空に出ている灰色の月のようであり、少年の「もうどうでも構わない」という投げやりな言葉に、月はまだ煌々と照ることが出来ず、灰色のままである。それは「私」の暗澹たる気持ちと相通ずるものがある。終戦後の日本の社会を描いた一つのスケッチ。
「奇人脱哉」
*彫刻師渡辺脱哉は加納鉄哉の弟子である。脱哉は鳶職の息子だったが、牙彫の職人になった。しかしそれでは食っていかれず、嫁に逃げられ、三歳の娘を連れ、乞食同然の姿で鉄哉の所に弟子入りを志願した。
脱哉は顔が幅広く、大男で、動きが鈍く、体つきにも締まりがなかった。号をつける時、鉄哉は冗談で「人間が抜けているから脱哉でどうだ」と言ったのを喜んで、それを自らの号とした。脱哉は私より十歳も年上だったが、妻に逃げられて以来独身を通した。そしてどういうわけか、多妻主義で有名なモルモン教徒でもあった。脱哉は彫刻師といっても、独創的なところがなく、手先だけの職人で、得意なのは蟹の置物と干鮭の差根付の二つしかなかった。干鮭の根付は鉄哉の創意によるものだったが、鉄哉が亡くなってからはそれを脱哉が作るようになり、私は父に贈るつもりでそれを誂えた。一、二か月でできかかった時、見せてもらったが気に入らない部分があったので、それはそのままもらうことにし、もう一つ新しく彫ってもらうことにした。そうして再び仕上げの前に持ってきたとき、私が納得すると、帰る時に脱哉はそれを何にも包まず、無造作にポケットに入れて外へ出た。寒さでピシッという音がして、根付には縦にヒビが入った。翌日またそれを持ってきて、新しく作り直すと言うので、繕うことはできないのかと訊いたが、作るのはわけないから新しく作ると言って帰った。
脱哉は元来怠け者で、食える間は仕事をせず、ぶらぶら遊んでいた。差根付は三十円で、毎月これを一つ作っていれば生活できたらしい。私は二度目の三十円も前金で渡していたので、それを使ってしまうと、新しく作った根付は金になる客の方へ回してしまうらしく、私のほうのはなかなかできてこなかった。その間に一度、鯉の木彫りを見せに来たことがあるのだが、それも寒い日で、前の根付で懲りたのか、木彫りを何重にも布に包んで背負ってきたが、その格好が物乞いのようだったので、外にいた私の娘は驚いて家に駆けこんできた。結局私の頼んだ差根付ができたのは、頼んでから二、三年後のことだった。
脱哉は何にでも我流の意見を持っていた。毎日朝湯には入るが、石けんは使わない。人体の脂は健康に必要だから出るので、それを石けんで落とすのは無謀だ。例えばウナギでも、ヌラを取ると弱ってしまう。人体の脂はウナギのヌラと同じだ、という理屈だ。さらに、髪を刈らず髭も剃らない。前は丸坊主に不精ひげを生やし、大きな体につんつるてんの着流しで歩いている姿が、三宅雪嶺の趣を感じさせたが、髪を肩まで伸ばした脱哉は髭のある出口王仁三郎になってしまった。
脱哉の住居兼仕事場である長屋を訪れたことがある。軒下の蓋をした小瓶に何十年か飼っている亀がいると言うので見せてもらったら、瓶半分ほどの青みどろの水に、あまり大きくない亀が一匹、首をあげる元気もなく浮かんでいた。甲羅の干せない亀の甲には所々緑の藻が生えていた。亀のたくさんいる池の傍に住んでいて、なぜこんな亀を十年以上も飼っているのか不思議に思ったが、脱哉は甲に緑藻の生えた亀を作るつもりだったのだろう。亀はそういう蓑亀になりつつあったが、あいにく藻の生えた場所がまるで違っていた。
脱哉は浅草で芝居を見ると、帰りに竹の皮に包んだ一人前の寿司を土産に持って加納の家に寄ったが、それを懐に入れてくるので寿司は生温くなっており、それを傍で早く食えと言われるのには閉口すると加納はこぼしていた。脱哉のヌラの臭いがしそうで、気持ちの悪いことだろうと私は同情した。
私が胆石で寝込んでいる間に、脱哉は亡くなった。六十五、六だった。病気は肺炎かと思う。脱哉の墓はどこか加納に尋ねると、まだ葬っておらず、今では娘さんの住む脱哉の家の床の間のがらくたと一緒に、脱哉の骨壺が置いてあったという。彼の奇人ぶりは十年経った今も、時々私たちの話に出るので、忘れられない人になっている。
☆彫刻家渡辺脱哉の奇人ぶりと彼の周囲の人々との交流を描いた話。脱哉は実在の彫刻家である。現代のアーティストのことを考えると、彼は奇人というほどの人でもないような印象を受けるが、彼が奇人だと目されるエピソードは、どれもユーモラスなものだ。ただ、彫刻家であるのに、彫刻以外のことは異常に不器用で、しかも得意な作品は二つしかなく、創意に欠け、芸術家というよりは職人であったというのは、後世に名を残す人としては珍しいかもしれない。また、風呂には入るが石けんで体を洗うことはなく、髪も髭も伸ばしっぱなしの大男、というのはちょっと恐ろしいほど異彩を放つ風貌であっただろう。彼の奇人としてのエピソードもさることながら、彼を囲む人々の交流の様子がほのぼのと描かれている。
「自転車」
*私は十三の時から五、六年間、常に自転車を乗り回していた。当時はまだ自動車が発明されておらず、電車も東京にはなかった。主流は馬車だ。すべてが悠長な時代だった。その頃まだ日本で自転車は製造されておらず、アメリカやイギリスから輸入していた。イギリス製は乗りやすく堅実だったが野暮くさい。泥除けや歯止めのないアメリカ製の物は値段も安かったし、好まれた。
私は東京中の急な坂を上り下りすることに熱中したり、横浜往復の遠乗りに数えきれないほど出かけたりして、居留地の商館を訪れた。往来で自転車に乗る人に行きあうと、わざわざ車を返し、横に並んで無言で競争を挑むようなこともした。向こうから挑まれることもあった。前輪を高く上げ、後輪だけで走る曲乗りにも興味を持った。
最初に自転車を買ってもらってから三、四年経って、私の愛車であるデイトンもだいぶ古びてきたので、買い替えたいと思った。森田という友達が、萩原という店に新しいクリーヴランドという車が来たから、それにしたらどうだと勧めてきた。下取り料を確かめたかったので、学校の帰りにその店に行ってみた。萩原は五十円で買い取ると言うが、私はまだ家の承認を得ておらず、下取り料をもらってもまだ金が足りなかったので、一旦帰ろうとすると、萩原が金は今払うからその自転車を置いていくように言うので、その通りにした。家に戻ろうと神田橋の方へ歩いていくと、これまで知らなかった自転車屋を見つけた。そこのショーウィンドウに、ランブラーという車が飾ってあって、それが急に欲しくなった。値段を聞くと、今持っている金に九十円足せばいいので、それを買うことに決め、今持っている金を渡し、新しい自転車に乗って家で足りない分の金を払った。私はこの車に満足したが、萩原の主人が待っていると思うと気が咎めた。しかしいつの間にかそんなことは忘れてしまっていた。
するとある日森田から、萩原の主人が私にペテンにかけられたと言っていたと聞かされた。私はそれまでペテンという言葉を知らなかったが、聞いた瞬間その意味がはっきりと分かり、耐えられない気持ちになった。確かに私は萩原を欺いたが、それは計画的なものではない。本来なら引き返して萩原の了解を得るべきだったのに、私はそれをしなかった。ペテンと言われるのは誤解であり、それは腹の立つことであるはずだが。森田からそう聞いた時、不快ではあっても腹は立てなかった。私は良心に頬被りをしていたのだ。別の自転車を買うときはそれほどに感じなかったとしても、すぐに気づいて、頬被りで忘れてしまおうとしたのだ。どうすればいいのかと思うが、今更どうにもできない。私はペテンという言葉をひどく憎み、その嫌悪感は何年も消えなかった。ペテンの行為よりもその言葉を憎んだ。
十七歳の秋、キリスト教徒が各教会で伝道の説教会を開き、私も時々それを聞きに行った。ある晩、「罪」についての説教を聞いているうち、急に萩原のことが耐えられないほど心を苦しめ始めた。私は堪らなくなって、牧師が悔い改めの祈りをしているとき、一番前のベンチへ立って出ていった。それは悔い改める者のために用意されたベンチだった。私は翌朝起きるとすぐ、祖母の所へ行き、理由を言わずに十円もらいたいと言った。祖母は黙ってそれを出してくれた。私はその金をもって萩原の店に行った。意外なことに、萩原は私に対してほとんど不快を感じてはいなかった。私はここで自転車を買わなかった経緯を説明し、すぐに引き返さなかったことを謝り、私がここで自転車を買うことを前提に古い自転車を高く買ってくれたなら、その損の分を払うと申し出た。萩原は私の話を理解してくれて、自分は商売人なので損をするような買い物はしない、と言って金を受け取るのを断った。その頃の十円と言えば、ほぼ一人一か月分の生活費になる。結局私は五円だけを無理に萩原に受け取らせ、晴れ晴れとした気持ちで店を出た。帰って残りの五円を祖母に返すと、祖母は黙って受け取った。
このことを思い出して一番印象に残っているのは、祖母が金の使い道を一言も訊かずに金を渡してくれて、返したときも黙って受け取ってくれたことだ。祖母は普段はそういう人ではなく、時につまらぬことで喧嘩もしたが、その時、祖母ははっきり自分の態度がいつもと違うことを感じ、一言も言わずに金を渡してくれた。それは今でも気持ちのいいことだと思う。私は前に「内村鑑三先生の憶い出」を書き、その中で自分がほとんど動機もなくキリスト教に近づいたように書いたが、こんなことがきっかけだったのかもしれない。私は自転車に対し今も郷愁のようなものを持っていて、ちょっと乗ってみたりもするが、自転車そのものが昔と変わってしまったため乗りにくく、さすがに今ではそれを面白いとは感じない。
☆老年の作者がふと頭にのぼる五、六十年も前の昔の、若かった頃の自転車にまつわる思い出をつづった作品。前半では、どんなところに行ったか、どんな種類の自転車が好みだったか、どのように自転車乗りを楽しんだかというような、他愛はないけれども当時の自転車の歴史としてはなかなか興味深い話に終始しているが、後半は「ペテン」と言われたことに対して自分の考えの経緯を分析し、キリスト教の説教に影響を受け、罪を悔い改め償うというエピソード、自分の窮状を察して何も言わず金を出してくれた祖母への感謝と愛惜の情が描かれている。六十九歳にしてなお、ここまで細かな思い出を記憶しているということが、作者の自転車への並々ならぬ思い入れを表している。
自転車屋にペテンと言われたエピソードについて、最初「私」は引き返して謝るべきだということに気づいていたのか、いなかったのかはっきりわからない、と述べ、その後に自分は「良心に頬被りをしていた」、つまり引き返して謝るべきだという良心があった、それに気づいていたにもかかわらず、それを隠していた、気づかないふりをして忘れてしまっていた、というように自らの内奥の状態を分析しているが、この強い道徳的な意識の自覚は、彼がキリスト教に出会う前から、彼自身の本質的な性質として備えていたものなのだろうか。もしそうであれば、作者にとってキリスト教は作者の道徳的観念や人間観、世界観にどのように作用したのだろうかと思う。
「白い線」
*母は私が十三の時、三十三歳でつわりで亡くなった。私は二十九の時、そのことを「母の死と新しい母」という短編に書いた、その時は素直にありのままを書けたと思っていたが、今読んでみると手薄で、本当のことがよく分からずに小説にしているとはっきり感じる。数年前、坂本繁二郎が「若くして死んだ絵描きの絵を見ていると、実にうまいとは思うが、描いてあるのはどれもこっち側だけで、見えない裏側が描けていないと思った」と言っていたらしい。私はこれと同じことが小説にも言えると思った。年を取って、自分でもいくらか潤いが出てきたように、坂本君の言うような裏が多少書けてきたように思うが、それらは私が作家として枯渇してしまったように言われ、それが定評になっている。私はそういう連中はそういうことが分からないのだと思う。
私は明治十六年に生まれた。私の生れる前年の十一月に兄の直行が、二歳で疫痢のような病気で死んだ。兄が死んだとき私は既に母の腹の中にいた。その頃の考えとして、家系を絶やすということは大変なことなので、私が三つになると、兄の死を両親の手落ちのように考えていた祖父母は私を取り上げ、自分たちで育てることにした。父は単身赴任をしていたので、その間母は父とも私とも離れて、一人父の部屋に寝ていた。一人息子が向こうの舅姑の部屋で寝ているのに、自分だけ一人で寝るのは、二十五、六の母にとって随分淋しいことだったに違いない。母はよく父に私がわがままで言うことを聞かないと泣いて訴えたそうだが、私はそれほど母を困らせた記憶はない。そう言えば私が参ると思って、意地悪でそう言うのだと思っていた。ところが、最近古い日記を見返してみると、「友人の家一君が父に、祖父母の教育が子を父母から遠ざけたのが悪いと言ったとき、先妻も泣いていたことがありますと父が言った。……自分は胸が一杯になり、涙が浮かんできた。その時父が笑い出した。「弱虫だからすぐ泣く」と思われているのかと思ったがそうではなかった。「情にせまるとどうもこういう事があって……」と父は家一君に言い訳をして、泣きながら笑った。自分も泣いた」というようなことが書いてあるのを見つけた。この中で母は父に訴えたようなことではなく、祖父母のせいで子供から離されていることを泣いているのだ。私がわがままで言うことを聞かないということも父に訴えたのかもしれないが、母の本当の気持ちは、母と私の生活がしっかり結びつかない淋しさを悲しんだのではないかと思った。一人しかいない子供に母として密着できないのは淋しかったろう。そしてそれを見ながらどうすることもできなかった父に今の私は同情している。
私の三番目の娘は今、母の亡くなった年よりも二つ上になっている。私は母を母として考えるより、娘に対する心持に移して考え、母の淋しい気持ちが非常に可哀想になった。若い頃の私は母の不幸を若くして死んだことだと割と簡単に考えていたが、そんな簡単なものではなかった。「母の死と新しい母」の中に、兄が死んで十二年後、母が懐妊したことを知り、嬉しさに私はわくわくした、ということが書いてあった。これは私自身がいかに喜んだかということが書いてある。母がそのことをどんなに喜んだか、今度は祖父母に取られることなく、自分の子として育てられるだろうという喜びに母は震えていたかもしれない。私はその喜びを書くことができなかった。それを察することができなかったのだ。
母はつわりになると、どんどん体調が悪くなっていった。同じ作品中の一節だが、母がだいぶ悪くなって横になっているとき、祖母が私に母の前に顔を出してみろというので、私は母に顔を見せ、祖母は母に「これが誰か分かるか?」と訊いた。母は途切れ途切れに、「色が黒くても、鼻が曲がっていても、丈夫でさえあればいい」とこんなことを言った、とある。私はこれを書いた時、母の言葉を頭が変になった妄語のように思っていたが、そうではないと近頃はっきり思った。私は実際に色も黒いし鼻も曲がっている。これを書いた時はこの言葉を親しみからくる一種の悪口と思っていて、悲しい中にもどこかおかしみを覚えたが、近頃思うにそれは、赤子の頃乳を飲ませながら私の顔を見て、色が黒いことと鼻が曲がっていることを残念に思い、そのことがその時口をついて出たのだろう。
また、こんなことも書いてある。実母を失った当時私は毎日泣いていた。生まれて初めて起こった取り返しのつかないことだったのだ。よく湯で祖母と二人で泣いた。これは祖母が私と一緒に母の死を悲しんで泣いたと昔は解釈しているが、それよりも恐らく祖母は泣く私が可哀想で泣いていたのだと近頃思うようになった。
母の記憶はほとんどない。母の体臭も覚えていない。しかし今でもはっきり思い出せるのが、母の足のふくらはぎに白い太い線のあったことだ。母が女中のように尻を端折り、四つん這いになって縁側を拭いていたときに見たものだ。私はこのふくらはぎの白い線でようやくはっきり母を憶い出すことができる。この線は妊娠線であるらしい。初めての子には二歳で死に別れ、二番目の子は二年で舅姑に取り上げられ、十二年間妊娠せずに、ようやく妊娠したと思うとつわりになり、子を孕んだまま母は死んだ。女として母親らしい感情に満たされることなく死んだ気持ちを、私は六十年経った今頃察することができ、そういう意味で実に気の毒な女だったということがしきりに感じられる。
☆若い頃母について書いた小説に対する自己批判的な作品。小説「死んだ母と新しい母」を中心に、当時の自分がいかに周囲の人々の心境や出来事の真実を表面的にしか捉えていなかったかについて批判を加え、実際には「裏」があったのだ、という発見を記している。若書きの、率直で、ありのままではあるが表層しか捉えられていない作品が大いに評価され、「裏」を描くことが可能になりだした後期の作品が、作者の才能の枯渇とみなされていたのにはどのような事情があるのだろうか。志賀直哉の、また白樺派の肯定的な人間観や、飾らない態度のみが当時の社会に「ウケて」、そこを掘り下げた深い人間洞察を含む、テキストをただ書いてある通りに読んだだけでは理解することのできない表現は歓迎されなかったか、好まれなかったということだろうか。
ふくらはぎの白い妊娠線だけが唯一の母親のはっきりとした記憶である、というようなことは、小さい頃の思い出や、人の記憶に関してそんなに珍しいことではないと思う。何の意味を持っているとも思えない情景や細部は、往々にしてはっきりと記憶に残る。逆に言えばそういったことしか思い出せないということもある。しかし、四つん這いになって「女中のように」縁側を拭く母のふくらはぎを見ていた、ということは、母親は掃除をしながら子供である作者に背を向け、その間子供とは何の干渉も持つことがなかったという状況を示すものであり、いかに作者と作者の母が断絶を強いられていたかということが感じられ、近くにいるのに子供と触れ合うことのできない母の悲しみが強く伝わってくる。
「盲亀浮木」
*この作品は「軽石」「モラエス」「クマ」「一体それはなんだろう」の四部によって構成されている。
「軽石」:三十数年前、淡路の洲本に海水浴に行った。帰り道、磯伝いに石の上を跳び渡って歩いていると、海面に小さな軽石がたくさん浮いていた。私は恐らく海底の火山の噴火で噴き出した軽石が流れ着いたのだろうと思い、そういうものは初めて見たので興味を感じた。風呂で時々軽石を使うので、使えそうなものを拾いながら歩いた。ある所で、赤子の頭ほどあるものが浮かんでいるのを発見して拾ってみた。そこから五、六十メートルほどのところに、同じくらいの大きさのものを見つけ、それも拾った。その晩、軽石を宿の座敷に広げて見ているうちに、五、六十メートルほど離れたところに浮いていた二つの軽石が、元は一つの石で、それが別れ別れになっていたものだと気づいた。割れ目を合わせると、二つはぴったりと合った。
「モラエス」:私は里見弴たちと三人で、四国を回る六泊の旅をした。鳴門の景色を眺めていると、寒い風に吹かれたせいか頭痛がしたので、モラエスの旧居をその後見に行く予定だったが、私は宿に帰って晩飯まで眠った。私は数日前までモラエスのことは全く知らなかったが、旅行前に雑誌で偶然その名を知り、徳島にある旧居を見に行ってもいいと思ったのだ。モラエスはポルトガル人で、海軍軍人として日本に来た後、日本人と結婚して日本に永住し、孤独で悲惨な晩年を送ったらしい。
この旅をしてからニ、三年経ったある朝、私はモラエスの夢を見て目を覚ました。低い城の石垣の外は芝生になっていて、背の低い松が植えてある外側を竹矢来で囲ってある。どてら姿の大柄な年寄りの西洋人が両手で矢来につかまり、頬ひげ、顎ひげを不精たらしく伸ばした顔を矢来につけて、凝然と中を覗いている。それがモラエスだということが私には分かっている、というただそれだけの夢だった。そして私は伊賀町にあるモラエスの家の夢も見た。家の中は薄暗い六畳間の隅に仏壇があり、人はおらず、仏壇の燈明だけが灯っているという夢だ。私はこういう夢を見たことを起きてから妻に話した。
朝食を済ませると、花野富蔵という方が訪ねてきた。四年前にもらったという紹介状を見せてもらうと、花野氏はモラエスの研究家で、一度あなたをお訪ねしたいと仰っている、という文面だった。私は不思議な気持ちになった。今朝モラエスの夢を見て、まだ一時間ほどしか経っていない。妻に話しておいてよかったと思った。花野氏にこの話をすると、モラエスの姿も家の中の様子もどこか感じが似ていると言ってくれた。花野氏は徳島の出身で、小さな頃からモラエスをよく見かけており、文学をやるようになってからはモラエスをしばしば訪ねるようになったという。
「クマ」:ある日、子供たちを連れて散歩した後に知人の元を訪ねると、犬の子が三匹と母犬が出てきて、ひどく嬉しそうにじゃれてきた。話を終えて帰ろうとしても、娘の一人が一匹の子犬を抱えたまま離そうとしない。飼いたそうな表情がとてもよくわかる。家の子供たちは動物好きで、色々と生き物を飼っていたのだが、我が家では最近ナカという犬が死んだばかりで、翌年東京へ引っ越す予定もあり、東京の住まいが犬に合うかどうか分かるまでは犬は飼わないことにしていたのだが、結局私は負けてしまい、その子犬をもらうことにした。見た感じは汚い駄犬だ。ムク犬だったので名前はクマにした。しかし飼っているうちにその犬の性質が良いことが分かってくると、自分でも意外なほどこの犬がかわいくなった。賢く、下品なところのない犬だった。
しかし昨年の春東京に引っ越し、十日ほど経った頃に、クマは迷子になってしまった。私は子供たちと一緒に、クマの名を呼びながら辺りを探し歩いたが、一向に見つからない。見たことのない電車に轢かれてしまったのか、私たちを探して奈良に帰ってしまったのか、などと心配した。
数日後、子供の虎の巻を買いに、子供と一緒に街へ出かけた。出がけに友人が来たせいで、家を出たのが四時過ぎになってしまった。高田馬場からバスに乗ろうとしたが、最初に来たバスが満員だったので、次に来たバスに乗った。私がバスの窓から何気なく外を見ていると、護国寺の方へ小走りに駆けていく犬がクマに似ているような気がした。あれはクマじゃないか? と言うと子供が立ち上がり、クマだ、クマだ、と大声を出した。私は子供たちに次の停留所で待っているように言い、次で降りてくださいと泊める女車掌を押しのけてバスから飛び降りた。クマの向かっていった方向へ走りながらクマ、クマ、と呼ぶが、犬は振り向かない。追いかけ続けた私はすっかり疲れ果ててしまったが、追いかけている私を見ていたのであろう職工風の若者と、円タクの運転手に助けられ、護国寺の門の前でやっとクマを捕まえることができた。クマは私が予想したほど喜んだ様子ではなかったが、子供たちに会うと、自分が救われたことをはっきり認識したらしく、非常に喜んだ。
その日客があり、その時間まで外出できなかったこと、バスが満員で一台やり過ごしたこと、そのバスでもし反対側に座っていたらクマを見ることはできなかったし、十字路をバスが渡る間、それと直角に駆けていくクマを発見したことは不思議なことだった。それを単に偶然と言っていいのかどうか分からない気がした。
「一体それはなんだろう」:軽石の話は単に偶然と言っていいだろう。モラエスの話は偶然というより心理的なもので、こういう経験は前にもある。昔柳宗悦と出かける約束をしていた日の朝早く彼が家を訪れ、兄が死んだのでこれから上京する、と言いに来たことがある。しかしその時私はそのことを既に知っていると思い、不思議に感じた。私は前の晩、彼の兄である柳楢喬が死んだ夢を見たのだ。彼とは十年以上も会っていないし、私とはおよそ無縁の人なので、その夢がなぜ宗悦のほうではなく私に現れたのか不思議に思った。ただ、クマの場合には何かもっと濃厚なものを感じる。
私は昔禅をやっていた叔父から、盲亀浮木という言葉について聞いたことがある。百年に一度しか海面に首を出さない盲亀が、大洋を漂っている浮木に一つしかない穴のところから首を出したという、ありうべからざることの実現する寓話だという。クマの場合はその話に近いような気がする。
私は何十年か前愛読したメーテルリンクの「智慧と運命」という本に書かれている運命の善意という考えも思い浮かんだ。仮に偶然だとしても、ただの偶然ではなく、何かの力の加わったものであるのは確かだと思うが、その何かとは一体何であるのかについては分からない。
☆日常に起こる不思議な偶然の出来事について語った話。最後の話が各話のまとめになっている。確かに、私たちの身の回りでも稀に聞いたりする類の出来事だ。あの日会社に行っていなければ事故に巻き込まれることはなかった、あの日あの電車に乗っていなければ古い友人と出くわすことはなかった、あの日犬を連れていなければ川で溺れているのを助けられることはなかった、など。作者は不思議な偶然が世の中には起こりうるということを認めると同時に、そういった偶然に加えて、人知では測り知れぬ何らかの「大きな力」が存在することを感じ、それを不思議なことに感じている。この運命にも似た「大きな力」の存在は、「城の崎にて」などでも書かれたような、人間の意図ではどうすることもできない事態の起こりうる作者の世界観にも通ずるところがあるように思える。作者は今で言う「勘の鋭い人」だったのかもしれない。
「沓掛にて――芥川君のこと――」
*芥川君とは七年間で七度しか会ったことがなく、手紙の往復も三、四度で、友とは言えないが互いに好意は持っていた。初めて彼の顔を見たのは、七年ほど前、浅草の活動小屋でのことだった。挨拶はできなかったが、彼が私の作品に好意を持っていることは何となく知っていた。
その次彼に会ったのは、翌年の夏、家に小穴隆一と訪れてきてくれた時だった。彼は我々仲間がするよりも丁寧なお辞儀をした。長い髪が前に垂れ、それをまた手でかき上げるのが、いかにも都会人らしかった。その後会った時もそうだが彼はいつも体調が悪い様子で、非常に神経質に見えた。彼は私が三年ほど小説を全く書かなかったときのことをしきりに聞きたがった。自分がそういう時期に来ているらしかった。私はそういうことは誰にでもあるし、冬眠しているような気分でそのまま書かないでいたらどうだ、と言った。私は事実その後また小説を書くようになったのだ、と言うと、彼は「そういう結構なご身分ではないから」と言った。後で思ったが、私のように小説を書く以外能のない人間は、行き詰ってもまた小説へ戻るが、芥川君のような人は創作で行き詰ると、研究とか考証とかへ移るのではないかと思った。しかし今にしてみれば、彼はやはりそうはなり切れなかったかもしれない。
芥川君は私の「児を盗む話」という短編が西鶴の「諸国物語」の一節から来ているのではないかと言うので、私は「諸国物語」は一つも読んだことがないこと、また、前に書いた「剃刀」というのも似た話がビアズリーか誰かの詩にあること、そして「范の犯罪」は、テーマは反対だがモーパッサンに似たものがあることなどを話すと、彼は後人のためにいつかそれを書いておく必要があるだろうと勧めてくれた。実際に会って、話をした芥川君は、噂で想像していた人とはだいぶ違った印象を受けた。
その後私が古美術の写真帖を作る計画をしていたとき、芥川君にも協力してもらった。赤坂の黒田家の筆耕園と唐画鏡を見に行く時、彼は私の作品に好意を示してくれた。どう褒められたかについては忘れたが、反対に私が彼の作品をどう評したかについては覚えている。それは主に彼の作品の技巧上の欠点のことで、わざわざ言う必要もなかったのだが、他の人に話していたことなので、それを本人に言わないことで不仲になるのを恐れたのだ。彼の「奉教人の死」の主人公が死んでみたら実は女だったということを、なぜ最初から読者に知らせておかなかったか、という点だ。あれは三度読者を思いがけない気持ちにさせる筋だったと思う。筋としては面白いのだが、読者に知らせずにおいて最後に背負い投げをくらわすやり方のせいで、読者の鑑賞がそっちに引っ張られ、そこまでもっていく筋道の骨折りが無駄になり、損だ、と私は言った。読者を作者と同じ場所で見物させておく方が私は好きだ。芥川君のように一行一行苦心して書く人の物なら、読者はその筋道の上手さを味わう方がよく、そうしなければもったいない、というようなことを言った。私はただ無遠慮に自分の好みを言っていたかもしれないが、芥川君はそれを素直に受け入れてくれて、「芸術というものが本当に分かっていないんです」と言った。
「妖婆」という小説で二人の青年が隠された少女を探しに行くところで、二人は夏羽織の肩を並べて出掛けた、というのは大変いいが、荒物屋の店にその少女がいるのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写だと思うが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭もそっちへ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼び戻されると、頭がごたごたして愉快でなく、作者の技巧が見え透くようで面白くない、というようなことも言った。芥川君はこの作品は自分でも嫌になったので、書きかけでやめたのだと言った。
彼は私に最も同情のある読者だった。私は誰の作品もあまり読まず、彼のもあまり読まなかったが、その後彼から時々本をもらうようになった。芥川君は気取り屋だと人に言われていたことがあるが、作者としての芥川君が少し気取りすぎていたのは本当で、アナトール・フランスの影響があったのかもしれない。佐藤春夫が「その窮屈なチョッキを脱いだらよかろう」という意味のことを書いていたことがあるが、私も同感だった。そういう意味ではチョッキを脱いだ別の芥川君がありうるわけで、彼が死んでしまったことは、そういう芥川君を永久に見られなくなったという意味で非常に惜しまれる。佐藤君がそう言った時代からすれば、芥川君自身既にチョッキを脱ぎかけていたようにも思え、なお心残りだ。年も若く、仕事上の謎も多かった。彼が死を決心していた二年間、私はついに一度も彼と会う機会がなかった。
私は芥川君の死を七月二十五日の朝、沓掛へ来る途中で知った。それは思いがけないことだったが、他の人の自殺を聞いた時の腹立たしさはなく、「仕方ないことだった」という気持ちがした。数か月前の雑誌に、芥川君は自分の脳のあらゆる皴に虱が行列を作り、食い入っている想像を書いていた。いかにも心身ともに衰弱した人の想像らしく、私は身震いを感じた。私が会った範囲では、芥川君は始終自身の芸術に疑いを持っていた。だからもっと伸びる人だと私は思っていた。彼の死は彼の最後の主張だったというような感じを受けている。
☆作者と芥川龍之介との交流を描いた話。友人と言えるほどの仲ではなく、師弟関係でもないが、二人は互いに作家として好意を持っている。作者曰く、芥川は志賀の作品に「最も同情のある」読者だったらしい。芥川龍之介と志賀直哉が繋がることなど全く知らなかったのだが、少し調べてみると、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、谷崎の「物語の面白さ」が小説の質を決めるという説に対して反論し、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として彼は志賀直哉を称賛していたという。
芥川の作品と言えば、初期の『鼻』や『杜子春』など、古典や説話物を題材としたものが有名だと思うが、後年の作品は私小説的な傾向を帯びるようになったらしい。志賀直哉が彼を評価していたのは、自分の作品の傾向に近い後期のものだったのではないかと思われる。出来事に対する自らの心境の変化を一人称で描く私小説が主観的なものであるのに対し、三人称の小説は世界を俯瞰する客観性を持っている(どちらももちろん例外はあり、現代ではこの枠組みを超えた小説も多く描かれているが)。昔話の再話には限界がある。作風の成長、深化ということを考えると、いずれそこを抜け出して、自らの創意に基づいた、自分独自の作品を書き上げなければならず、そのとき彼の構えていた「スタイル」にも変化が生じうる。芥川は谷崎への反論として「物語の面白さ」以外の小説の価値の存在を指摘し、その代表として志賀直哉の作品を挙げた。志賀直哉は主に私小説を中心に書く作家だ。彼の作品を称賛しつつも、その真似をしただけでは自己の発展に、小説全体の発展にはつながらない。芥川は、私小説を超え、なおかつ「物語の面白さ」によらない小説の在り方の模索に行き詰まっていたのではないだろうかと思う。
「リズム」
*優れた人間の仕事に触れると、精神が鼓舞され、自分もこうしてはいられないと感じ、愉快になる。一体こういう作品の何が自分の中に響いてくるのか。それは内容とか形式ではなく、リズムだと思う。リズムが弱いものはいくらうまくできていても、内容が良くても、くだらない。作者が仕事をしているときの精神のリズムの強弱が重要なのだ。マンネリズムが悪いのは、繰り返しによってうまくなると同時にリズムが弱るからだ。
ある雑誌の文芸時評で、広津和郎が「今更諸君の芸術が功利主義と結婚するとは考えられない。それよりも、うまい文学を書く以外文学に何の意味があろうという気持ちで進んでくれた方が、諸君の道であるとともに我々の望むところである」と書いていて、「諸君」の中の一人に私も入っているのだが、自分は「うまい文学」の「うまい」という意味が気にかかるので、「うまい文学」以上に目標を置いて精進しなければならないと思っている。「うまい」ということは小説家の目標にはならない。うまくなれば、そういう小説はいくらでも書ける。いくらでも書ければ「うまい」ということに魅力はなくなる。作者自身にとって魅力のない仕事を続けるのは行き詰まりだ。既成作家の行き詰まりとは、うまくなりすぎて、リズムが衰えてきたという意味だ。
芸術が功利主義と結びつかない、とも考えない。作品が芸術主義であっても、それが読者の精神を高揚するほど立派なものであれば、それが功利主義と結びつかないとは言えないからだ。功利主義、つまり自分の作品の普遍性というものを完全に否定しては仕事はできないと思う。自分には分からないが、どこかでよい実を結ぶ、そう信じない芸術家はいないと考える。
最近感心したものは、西鶴の大下馬と織留だ。落ち着き払っていて、リズムが強い。浮世の些事を書いて、読む者の精神をひきしめる。シャルル・ルイ・フィリップの「野鴨雑記」もリズムが強く、捨身なところがいい。熱情的な点もいいが、ちょっと熱情的すぎて不安心だ。この点では西鶴の突っ放した書き方の効果は強い。両者とも、いきなり堀を飛び越して向こう岸に行って、また続けるような「うまい」所があるが、これを技巧と考えるのは浅い。これは彼らのリズムだ。作者からすればこれは意識的にしたのでも、無意識にしたのでもない。
武者小路実篤の「二宮尊徳」も大変面白かった。尊徳の捨身なリズムの強い生活には非常にいい刺激を受けた。勝海舟の「氷川清話」では、尊徳が一本気の土百姓として簡単に扱われているが、今日になってみれば、一家を再興し、村を興すために十年も捨身で働いていた尊徳が、当時時代の一方を一人で背負っていた海舟より、はるかに根本的な生命ある仕事をしていたと思うと面白い。尊徳を西郷隆盛や海舟の上に置き、世界に誇っていい偉人だという武者小路の説には賛成だ。
時代の流れに乗って仕事をする人間は、その時時代の流れが無ければ何もしなかったかもしれないという弱みがある。尊徳は時代の流れとは没交渉で、むしろ時代の流れに合っていなかった。それでも尊徳は一本槍で、捨身に進んでいかなる時代にも普遍である教えを身をもって残した。実に強い。
☆小説論、芸術論。この前に収録されている「沓掛」の芥川へのアンサーともとれる。物語の筋の面白さ、「うまさ」より、作品に現れる作者の「精神のリズム」を志賀は尊重する。これはいわゆる「文体のリズム」とは別物なのだろう。文体のリズムは技巧のうちに含まれるのだろう。
素晴らしい作品の「リズム」とは一体なんであろうか。確かに、面白かった、というだけで後になって何も残らない作品はたくさんある。一方で、細かい点は覚えていないが、深く心を動かす作品がある。これは完全に個人的な意見だが、そういう作品に共通する性質の一つとして、力強さがある。力強さ、という一言が不適切ならば、作品に描かれ、表される様々な感情や思索の深さや強さであり、それは例えばその内容がただ記述されるだけでは響かず、それを感じたり、考えたり、行ったりしている作中人物の身体表現や情景描写と繋がることによって効果を増す。形而上的なものが身体化されて、あるいは一つの情景となって表現され、それらが見事な一致をみたとき、それは読む者の心を深く動かすのではないかと私は思う。志賀の「リズム」論と無理やり結びつけるならば、それは人間に必ず備わっている身体と精神の「拍動の一致」のようなものなのではないかと思う。
――志賀直哉の「寂しさ/淋しさ」を考える――
- 志賀直哉は一八八三年(明治十六年)生まれの白樺派の作家で、私が改めて説明するまでもなく近代小説の大家であり、「小説の神様」として崇められている。教科書などでその作品を読んだことのある方も多いだろう。内村鑑三に師事し、キリスト教と大正デモクラシーの影響を受けているせいか、作中にはいわゆる根っからの悪人のような人物は出てこない。特に取り柄はないが、ちょっとユニークなところのある、どこにでもいそうな市井の人々や、徹頭徹尾誠実で、率直な人物が多く描かれており、そのような人物の描写や心境の変化の過程の描き方は名人技と言える。
また、彼の文章は簡潔で、切り詰められた名文として広く認識されている。しかし、よく読んでみると、必ずしもいわゆる「名文」で埋め尽くされているわけではなく、また、余分な言葉を極力切り詰めたがゆえに、非常に難解な文章になっている部分もあると思う。例えば、「城の崎まで」のこの文章を読んでほしい。
で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、余り変らない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で希う所が、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方が本統で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それは仕方のない事だ。
これは作品中で、山手線に轢かれた自分が友人に、医者は自分の傷が致命傷だと言っていたかと訊いて、致命傷ではないと言われて非常に元気になった。もし致命傷だと言われていたら、恐らく自分は弱っただろうが、普段考えるほど死の恐怖には襲われないような気がする。そしてもし致命傷だと言われても、自分は串を刺されて川に投げ込まれた鼠のように助かろうと努力をしただろうと思うが、もし今自分がそういう状態に陥ったらどうなるだろうか、ということを考えている部分なのだが、正直に言って文章として良いとはあまり思えない。ただ、これが作者の偽らざる、率直な思いをしたためた結果なのだろうとは思う。何度も読み返してみて、それでもよく分からない部分もあるので、自信はないが書き直してみると、「今また致命傷を負うような事態に陥ったらどうなるだろうかと考えると、やはりあの鼠と同じような努力はするだろうとも思うが、ありのままの自分でいようと願う自分であるだけに、致命傷がそこまで自分の行動に影響はしないだろうとも思う。それはどちらも真実で、影響を受けても、影響を受けなくてもいいのだと思った。それは仕方のない事なのだ」というような意味になると思う、のだが…… と、このように「簡潔で美しい」文章だけではないことが読めばわかる。
また、白樺派の多くの作家たちに共通する特徴として、理想主義的で、ネガティブなものもポジティブなものも、ありのままの世界を受け入れる肯定的な世界観・人間観を持っているという点がある。志賀直哉は白樺派の代表のような作家なので、もちろん作品の大半はこのような特色を持っているのだが、彼のユニークな点として、人間の力の及ばない、人間の意志ではどうすることもできない、偶然や運命に左右される世界の事象の不思議に思いを馳せている作品が多いように感じられた。これはやはり内村鑑三やキリスト教の影響なのだろうか。
最後に、この短編集を読んで一番気になったのが、「淋しい」という言葉を作者が多用していることだ。「寂しい」と「淋しい」の両方を使っているが、数は「淋しい」の方が圧倒的に多い。辞書の上では、「寂しい」と「淋しい」の間に意味的な差はない。「寂しい」が常用漢字で、意味は①あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて、満たされない気持ち。物足りない。②人恋しく、物悲しい。孤独で心細い。③人けがなく、ひっそりとしている。心細いほど静かだ、とされている。ただ、ネットで多く書かれていたのは、「寂しい」の「寂」は「静寂」や「侘び寂び」の「寂」であり、どちらかというと③の意味が強い。対して「淋しい」の方は「淋漓」(水、汗、血などがしたたり流れるさま、勢いなどが表面にあふれでるさま)、や「淋」(ⅰ.さびしい。ⅱ.性病の一種。ⅲ.したたる。ⅳ.そそぐ、水をそそぐ)などの言葉の意味から連想されるように、水=涙がとめどなく流れ落ちるようなさびしさを表しており、②の意味が近いと思われる。しかし、志賀の繰り返し使う「淋しい」には、こういった定義や解釈を超えた感情や含意があるのではないかという印象を受ける。作中での「寂しい」と「淋しい」の使い分けだが、いまいちはっきりしなかった。ちなみに、「寂しい」という言葉が使われているのは、「老人」「速夫の妹」「荒絹」だけで、作品内で二つの「さびしい」が併用されることはない。制作年代によって使う言葉を変えたようにも思えない。上に挙げた三作品と、「淋しい」を使っている作品の発表された年代には大きな違いが見られないからだ。また、上記三作品が他の作品と特別趣旨を異にしているわけでもない。
なぜ志賀がこの二つの「さびしい」をはっきりと分けて使ったのかについて、私は分からない。あまり深く考えなければ、すべて「物悲しい」と置き換えても大体意味は通るのだけれど、せっかくこれほどまで作者が「さびしい」という言葉を使っているのに、それを全て同じ意味にしてしまうのは作品を味わう上でもったいない。そこで「さびしい」という言葉に自分で違和感を覚えたり、「さびしい」以上の何かが込められていそうな部分を敢えて抜き出し、それぞれの「さびしい」の意味を考えてみた。以下に箇条書きで挙げてみる。
・「荒絹」
荒絹は呪いの歌を耳にし、「いやな寂しさに心を襲われた」→孤独で心細い感情を感じた上で、不気味に思う気持ちも含まれているように思われる。
・「老人」
遊女には若い金持ちの客と、年よりの金持ちの客がついていたが、最終的に年寄りの方に身請けをしてもらったことに対して、遊女の馴染みであった若かりし日の主人公が「それを打ち明けられた時彼は寂しい気がした」→人間のあさましさに対する失望からくるやるせなさか、それとも自分の良心と遊女の気持ちとの隔たりに対する悲しみか。
・「速夫の妹」
大人になったお鶴さんが、お母さんの代わりに礼状の返事のはがきを寄こすが、その文章が「どこまでも真面目でへだてのあるのが自分には寂しく感ぜられた」→昔の彼女と、成長し変わってしまった今の彼女との隔たりに対する悲しさが感じられる。
・「小僧の神様」
議員が小僧に寿司を食わせた後で、一人帰る時、「変に淋しい気がした」。月日が経つと、議員の「淋しい変な感じ」はいつの間にか消えた→これは中でも独特な用例だと思う。小僧と別れるのが淋しかったのではない。その後に綴られている議員の自らの心境の分析では、人にいいことをしてやったという意識が、「本当の心」から裏切られ、批判され、嘲られていると考えている。つまり、自分の偽の心が真の心から懸隔した不快感を示していて、この「淋しい」は一般に考えるより悪い意味を持っているのではないだろうか。
・「范の犯罪」
妻を殺すことを考え、本当の生活がしたいと夜中苦しんだ後、考え疲れてぼんやりしていると「悪夢におそわれた後のような淋しい心持」になった→これも前掲と同様で、普通悪夢を見ても「淋しい」気持ちにはならない。夢の内容は自分の意志で決定できるものではなく、生理現象なので、見る見ないについてはどうすることもできない。自分の意志に反して、自分の意志と関係なく働く精神や神経が自分を苦しめ、不快にしている。つまり、自分の精神や神経が自分の意志と一体化していない。精神・神経と自らの意志との懸絶のもたらす苦しみを表しているのではないだろうか。
・「雨蛙」
宿で著作家たちと皆で談話中、せきは「淋しい眼つきで人々の顔を見較べていた」→せきは無学で無口な女である。会話についていけない疎外感からくる淋しさを表しているのではないだろうか。
著作家と一夜を共にし、体を奪われたせきの「打ち砕かれた淋しい心」→これはせきの夫である賛次郎がそのように想像しているのであって、実際にせきがそのことをどう思っているかとは別なのだが、恐らく当時の感覚で言えば、著名人ではあれど見知らぬ男に人妻が夜這いのようなことをされたら、確かに心は打ち砕かれたであろう。しかし「淋しい」というのはどういう心持ちを指しているのか。せきの本心を抜きで考えると、取り返しのつかないことが起き、貞操が傷つけられた、自分の意志とは不本意なことをさせられた状況が想像される。ここでは、自分の意志と、起こってしまった出来事との隔たりのもたらす悲しさや辛さを表しているのではないかと思われる。
・「城の崎にて」
書ききれないほど「淋しい」が出てくる。そのほとんどは物悲しさや静かさの意味に置き換えられると思うが、作者は「淋しくて、静か」な死に親しみを覚えている。その意味でここでの「淋しい」にはあまりネガティブな意味は込められていないように思われる。この「淋しい」は「静かさ」と対になっていて、死すべき運命にあるすべての生き物の無常への思いや、生死を決定する偶然の出来事に対する、人間の力の及ばない悲しさや奇異の念、そして死んだものたちが土の下であったり、人知れぬ海岸であったり、川底なりで、誰とも何の交渉もなく、ひっそりとただそこに在るという「心地よい淋しさ」など、一つの作品の中で複数の意味を持たせている印象がある。
他にも何ヵ所か「さびしい」という言葉は出てくるのだが、辞書通りの意味で通るものが多かったので割愛する。上に挙げた例を検めてみると、この作品中の「さびしい」という言葉には、それがポジティブな意味にしろネガティブな意味にしろ、「本当は一体になりたいものとの隔たりを感じている状態」を表していると考えられる。そして、作者は「寂しい」と「淋しい」の言葉の使い分けに、それほど意味を持たせていなかったのではないかという感じがする。志賀直哉はなぜここまで「さびしさ」を強調したのか。他人と分かり合えないさびしさのみならず、自分の心の乖離状態にまでさびしさを感じている。現代的な感覚で言えば、他人と分かり合えないことなど日常茶飯事だし、むしろ分からないことの方が当たり前で、分かり合えるというのはとても幸せなことだ。また、人間の心は多面的なものなので、何か一つの想念を抱いたとしても、無意識のうちにそれを批判したり否定したりする心は当然存在する可能性があると考えられる。現代人にとって、一つの思いを一心不乱に信じ続けるなど逆に無理な話だ。それは宗教に近いだろう。そこでやはり志賀直哉の、そして白樺派の、人間性への限りない信頼とキリスト教の影響が出てくるのではないだろうか。
いつの時代も、何かを信じている人というのは強い。我々人間は理解し合い、連帯しうるものである。そしてキリスト教的な自己の超克の試みは、絶えず己の心を検閲し、邪な思いを駆逐しよう、乗り越えよう、悔い改めようとする。そういった考えや行動が、人間同士の断絶や、自身の内心の相克に苦しみ、それを乗り越えようと格闘する。志賀直哉の繰り返す「さびしさ」は、共にあるべきものの間に距離が開くことを苦しく思い、これらの相反し隔たるものを同一化したい、一体化させたいという強い気持ちの表れなのではないだろうか。