宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』/未読ですが思ったこと
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宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』をとりあえずAmazonのカートに入れた。今買うことも、読むこともできない。想像される内容が、過去の傷を再び開く。でも、恐らく闘い抜いたのであろう二人の著者に敬意を表して。いつか、その思索と学びとを享受できるように。
メメント・モリは分かる。自分が今死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。それは多分、受け入れられる。しかし、自分にとって大事な人の突然の、思いがけない死は深い苦しみを残す。私が生きているからだ。
どんなに心からの慰めの言葉や、共感の言葉をもらっても、響かない。苦しみは言葉をはねつけ、それどころか、その出来事が自分に起こった一回限りの現象であることを強く認識させる。結局他者とこの苦しみを分かち合うことはできない、そう考えて孤独を深める。ひどい時には、周りの人々の親切や、理解しようとする気持ちから出た言葉に憎しみすら覚える。親切心に応えられなくて申し訳ないとは思うが、この感情をどうすることもできない。あなたはこれを経験していない。あなたがこれと似たようなことを経験していたとしても、いくら本質的にこの二つが似通ったものであろうとも、私とあなたは違うし、私に起こった出来事をあなたが体験することはできない。逆もまた同じだ。私はあなたの苦しみを体験することはできない。全身の筋肉が強張り、息苦しさを覚える。これは神経が及ぼす身体的症状に過ぎない、そう言い聞かせてやり過ごそうとはするが、なかなかうまくいかない。
いったいなぜここまで苦しむのか? 大事な人であっても、自分だけの「ひと」ではない。その人には親や、兄弟や、親友や、恋人や、配偶者がいたかもしれない。そういった人たちは、自分よりもっと苦しい思いをしているかもしれない。でも自分にとって大事かどうかは、他者から規定される関係性の問題ではない。大事だと思ったら大事なのだ。愛するものを失ったときの悲しみは、それが人であれペットなどであれ、所有欲に由来するものだ、というお坊さんの話を目にしたことがある。確かにそうかもしれないけど、そんなことは分かっている。その人は私だけに関係している人ではない。一体どれだけ私はこの人に依存していたのだろうか、そんなことを思わされる。
私を押し潰し、地面に叩きつけようとするものを見極めようと、迫りくる「それ」を直視する。津波のような何かを。でもそれは、私がそれが何かを解明する暇も与えず、簡単に、いとも簡単に、ごくあっさりと、強大な力で私を押し流し、引き潮の勢いでどこか暗く、深い底へ引きずり込んでしまう。どんなに足を踏ん張って、しっかりと目を開いていようとしても、無理だ。敵わない。
弱さを責めることはできない。私の弱さは責められてもいい。なじられても、嘲られても、叱られてもいい。でも、そういった強大な何かに潰されてしまった他の人の弱さを、私は責めることができない。傍にいて見守っていても、その人は私の存在になど気づかないだろう。邪魔だとすら思うかもしれない。傍らの者が歩み去ることしかできないなら、やはりそれは一人での闘いにならざるを得ない。
この苦しみはそういう出来事が起こったその時に、リアルタイムでやってくるとは限らない。私の場合、死を知らされた時にはそれほどのショックを受けなかった。おそらく心のどこかで予期していたのだろう。しかしその一年後、ぼんやりと音楽を聴いていたとき、まるで後頭部をバットで思い切り殴られたみたいに、もうあの人はいない、あの人と話すことも会うこともできないという事実が私の認識を襲った。全く唐突に、もう他には何も考えられなくなるほど、私の全神経を侵すように、私の全身を大きな手で引っ掴むみたいに。身動きが取れない。何もできず、ただ涙だけが流れる。その一方で、やっと本当にその人の死を悲しむことができた、とも思う。
得体の知れない巨大なものを無理やり飲み込まされたような、この苦しみは消えない。でも私が生きている以上、私も少しは眠るし、何かしら食べるし、歩いたり、知らない人や知っている人と会ったりもする。いくら悲しみの中に閉じこもっていようとしても、生の本能が私にそういうことをさせる。もちろん、引きこもっていたいわけじゃない。早くここから抜け出し、できることなら完全に忘れられればと思う。一時期は、完全に忘れる事すら、その人との距離がますます開くようで辛かった。悲しみだけがその人との絆、最後に残されたその人の手がかりのように感じていた時期があった。
時間に任せるよりしょうがない出来事というのがある。そうやって生きているうちに、新しい出来事や、頼まれごとがあったり、やらなくてはいけないことがあったりして、平凡な日常が、ゆっくりと回りだす。飲み込むこともできないし、自分で動いて何とかできない問題、思い出すと逆に飲み込まれてしまって、他に何もできなくなるような問題は、思い出さないようにするしかない。自分が生きている以上、生きなければならないからだ。思い出して動けなくなっていては生きていけないからだ。後追い自殺など考えなかった。死んだらまた会えるなんてファンタジーを私は信じていない。そんなことをしたところでせいぜい苦しいという念だけを残して死ぬことになるだろうと思う。そんな中途半端な状態は嫌だ。
しかしその苦しみのトリガーは、今日のように人生でたまに訪れるものだと予感している。本書の存在を知ったのも一つのトリガーである。本に関する著者の記事は読んだが、まだ本書を読んではいない。今の自分にはまだこの本を読むのに耐えられる自信がない。このトリガーが訪れるたび、私はあの津波のようにすべてを押し流す破壊的な力を思い出し、また押し潰され、地面に打ちつけられ、どこか遠く暗い淵に引きずり込まれることもあるだろう。でも恐らく、そのダメージの続く期間は少しずつ短くなっていく。少なくとも、最初の苦しみより強くなることはない。それは今、私がこの文章を書けているという事実で分かる。どのくらいこの繰り返しやってくる苦しみが続くのかは分からないが、最初よりひどくない。数日間か、数週間か、分からないけれども、きっとそのうち、今の感覚だと割と早く、私は元に戻ることができる。そう思う。
自分自身や、自分の大事な人がいついなくなるか分からない、今日いなくなるかもしれないし、明日いなくなってしまうかもしれない、ということを考えることのできない人や、想像できない人、あるいは今まで考えたことも想像したこともない人はある意味幸せだ。生きているものはいつか死ぬ。どれだけ追いかけても、死者だけは生き返らせることができない。それだけは確実なのに、自分の身の回りにそれをあてはめることができない、それをあてはめたことがないというのは、幸せで、危険だ。かと言って、あまり悩みすぎないでほしいとも思う。あまりその危険を意識しすぎると、逆に神経が参ってしまう。だから、ある程度そういうことは意識しないほうがいいと私は思う。幸せな時期は、幸せを思う存分享受したほうがいい。予期していてもしなくても、不幸というものは必ず訪れるのだから、それが訪れたときに、幸せな記憶でたくさんのほうが、よりよく死者を悼むことができるだろう。残された者も、よりよい生を送ることができるだろう。多分。そういった意味で、本当に短い間ではあったが、私をたくさん笑わせ、幸せな気持ちにしてくれたその人にはとても感謝している。感謝していると、本当は生前に言いたかった。それがいろいろな事情のせいで伝えられなかったのが私の中のしこりなのかもしれない。だから感謝の言葉は、なるべくたくさん、感じたらすぐに伝えたほうがいい。その人はいつこの世界からいなくなるか分からないから。
親切で好意に満ちた共感の言葉も人を刺すことがある。かと言って、そういった「寄り添い」をするな、とは言えない。感じ方は人によって様々だからだ。離別に悲しみ、苦しむ人に対してどういった態度を取るのが最善か、というのは本当に難しい。父の二番目の奥さんが若くして亡くなったとき、いつも陽気な父の悲しみようは大変なものだった。私もその人に好感を持っていたので、かなり辛かった。好きなものとか好きな色なんかを教えてもらって、京都に来たらここに連れて行ったら喜ぶな、なんてことを考えていた矢先だった。私は死んだ彼女の仏前と、彼女を失った父に、自分の真意を伝える手紙を書くことしかできなかった。私にはそれしかできなかったし、父はその後完全に復活したので、あの時はそれでよかったのだろう、と思う。一方で、全く関係のない芸術作品などが苦しみを和らげることもある。ちなみに、私が共感したのは、「犯罪「幸運」」という映画で、主人公の東欧の女性は目の前で兵士たちに両親を殺され、レイプされるという過去を持ち、ドイツで娼婦として働くのだが、過去の記憶がよみがえるたびに、太ももにまち針を刺して、その痛みで心の苦しみを紛らわそうとする。私はそんな悲惨な経験をしたわけではないけれど、心の痛みを肉体的な痛みに転化させようとする主人公の気持ちはよく分かった。だからといってそういう方法での解消を勧めるわけではない。心療内科や、精神科でカウンセリングを受けるのがいいと思う。あるいは信頼できる人にありったけの思いをぶちまける。相手のことは気にしなくていい。ただ受け止めてくれる人がいればいい。
どんなにリスク管理をしても、健康管理をしても、人の死は突然訪れることがある。老いという過程を経ることなく。例えば天変地異や、事故、無差別殺人事件などに巻き込まれることだってある。これはもう、誰かがどうこうして防げる問題ではない。Accident will happen. という言葉がある。事故というのは起こるもの、という意味だ。人の死ばかりは、どうすることもできない。受け入れられないものを受け入れ、あるいは受け入れられないけれど傍らに置いておいて、自分は生きることしかできない。
このような体験をした著者の一人の磯野さんの苦しみや悲しみはいかほどばかりか、と、未読ながら辛い思いがするが、私にはやはりどうすることもできない。ただ、このような本を綴ったことに敬意を表し、Amazonのカートに入れただけだ。まだ読めない。けれど、いつか彼女たちの闘いを直視できる日が来ることを信じている。