透明な火照り
北杜夫の『牧神の午後』を読んだ。六編の短編小説のアンソロジー。でもその中の「病気についての童話」は四つの掌編から成っているので、全部で九編の小説が含まれていると言っていい。まず旧仮名遣いが美しいのもさることながら、作品全体を通して何かこう濁りのない透明感と、熱病的な、はかない夢幻性がある。面白かったものとしては、「パンドラの匣」。当時のちょっと斜に構えた女学生が美しい親友の悲惨な零落ぶりを目にしたり、男を知ったり愛に悩んだりしながら成長していく話。パンドラの匣の底に残されていたのは希望なんだけど、それが神々の最も意地悪な贈り物だったんじゃないか、と考えるところが面白い。美しいのでちょっと引用します。
「希望――あたしはハツと気がつきました。希望こそ神々が送つたもつとも悪辣な代物ぢゃなからうか。パンドラの匣からとびだした諸々の毒虫よりも、やさしい顔して最後に現はれた「希望」の方がもつと曲者ぢやなからうか。この希望に瞞されて、人々はのたうちながら生きようとするのだ。愚かに光明を信じて益々傷だらけになるんだ。どこに救ひがあつた? 瞞されてゐるんです。はやく死んぢまへばいいんだ。」
(ああブログが縦書きだったなら…)ちなみにこのパンドラの匣の寓話、私は初めて知ったときに、様々な悪いものが箱から飛び出して世界に広まり、希望だけが飛び出さずに箱の底に残ったなら、希望は箱の底に残ったまま誰にも取り出されず、どこにも広まらなかったんじゃないのか? と見当違いな読み方をしていました。
表題作「牧神の午後」は、そのタイトルと、牧神が午睡から目を覚ます、という出だしから、間違いなくドビュッシーの「牧神の午後のための前奏曲」に着想を得たものと思われる。音楽と同様、アルカディアの森の描写が大変けだるげで、清冽で美しい。
あとびっくりしたのが、「病気についての童話」の中に収められた「百蛾譜」。私はこの本を中学生の時から探していた。こんなところで出会うとは… 当時BSで美しいアニメーションとともに日本文学を朗読する、って番組があって、その中で百蛾譜が取り上げられていて、その美しさと病的なはかなさのようなものにすっかり魅入られてしまったのだ。物語としては、病弱で昆虫の好きな男の子が、木の間にシーツのような白布を張って、アセチレン燈でそれを照らすと、図鑑で見たような目もあやな蝶や蛾が集まってくる。その色とりどりの羽と金色の鱗粉の中で意識が遠のいていって、ああ僕は死ぬんだなぁ、と思ったら夢だった、というシンプルなものなんだけど、描写が素晴らしい。思うんだけど実体験がないと書けないことって結構ある。私なんかは北海道の火山岩の中からはいずり出てきた人間なので、森や山で昆虫採集なんてしたことがない。だからアルカディアの森も夜の木々の間に群れ飛ぶ蝶や蛾も書けない。北杜夫さんに限らず昔の人って、例外もいるだろうけど子供時代に山野を駆けまわって遊ぶことができたんだろうなと思うと羨ましい。