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雑記

晴耕雨ジョイス—『ユリシーズ』読書会第二回のメモ

 『ユリシーズ』の第二回読書会に行った。「読書会のために京都から深夜バスに乗って日帰りで東京まで来たヤバい奴」として認識されていたようだ。ちなみに第一回は主催者の方に無理を言ってスカイプで中継して頂いた読書会の様子を眺めていた。この読書会の趣旨の一つが、柳瀬氏の訳した『ユリシーズ』を「普通の日常に暮らしている生活者目線で読む」こと(+身体性への着眼)なので、分からなかったらできる限り調べてしまい、どちらかというと研究者目線での読みになってしまう自分には適していないのかもしれないが、とにかく参加者の方々のコメントが鋭く、素晴らしく、自分一人では絶対に思いつかなかったようなことを指摘なさっているので、新しい知見を得るために参加した。それにジョイス研究者の方々が主催者で、世界に誇るアイルランド文学作品の一つなので、勉強を兼ねて。

 分からないことは極力調べた。10年以上前、大学生だったとき「誰も読み切れない本」という噂を聞いて、それならばと集英社版のものを通読した。その時も分からないことだらけだったが、まあこんなものかと特別調べるようなことはしなかった。今回柳瀬訳を読んで、集英社版とのあまりの違いに驚いている。それで分からない部分や思ったことを書き出してみたのだが、あまりにも大量で、とてもそれを読書会で訊き尽くしたり、主催者の方に質問として全て丸投げしたりするのは忍びない。かと言って、せっかく書いたものを放置してしまうのももったいない。ということで、ここに私の「予習」の結果をメモとして残しておくことにする、と思っていたのだが、書き出しているうちにどんどん分からないことが増えたため、「予習+追調査」の記録になってしまった。見る人が見れば、くだらない、なんでそんなことを、と思われるだろう。なのであまり『ユリシーズ』を読むための参考にはならないことを予め記しておく。これは私のためのメモだ。ちなみに、これはこういうことだよ、というご指摘があれば是非コメントやツイッターなどでご教授頂きたい。

 そしてこれは『ユリシーズ 1‐12』柳瀬尚紀訳を読んでいないと何を言っているのか全く分からないと思う。未読の方は疑問部分をすっ飛ばして全体的感想の所だけ読んでいただいたほうがいい。

 

 それでは、大量の「?」。

(ページ表記は柳瀬訳のものです。集英社版(集英社ヘリテージシリーズ、文庫版)は鼎訳、鼎訳巻末の注は鼎訳注として表記します。調べ物のソースはほとんどwikiなどネットの情報です。ソースを出すよう希望する方は別途お答えします)

 

・p.11マリガンの「引っ込んでろい」は鏡の下にあるボウルの中の水に言ったのか?

・p.11「キンチ」→「マリガンがスティーヴンにつけた綽名。意味は判然としないが、(1)小僧を意味する「キンチン」Kinchinの略。(2)「痛み、うずき」を意味するアイルランド俗語。(3)ナイフを鞘に納めるときの擬音、などの解釈がある」(鼎訳注)。マリガンがスティーヴンを何度も使いっ走り扱いしていること、スティーヴンの感じている心の痛み(母の死やイギリスの圧政下にあるアイルランドへの思いなど)、スティーヴンのひねくれた返答のナイフの刃を思わせる鋭さなどのことを考えると、どの解釈も妥当なように思える。

・p.11「喉がらがら」はうがいのことか? 声のことか? うがいだとしたら、水はどこから取ったのか?(まさか石けん水じゃなかろう)

・p.11鼎訳の説明にスティーヴンは信仰を失った、とあるが、マリガンはなぜスティーヴンをいつまでも「耶蘇会の怖い先生」というように今でもイエズス会士のような呼び方をするのか? (「怖い」→fearfulが皮肉だという説もあるが)

・p.12マリガンの「おんや、ありがとさん……それくらいにしておくれ」は口笛に応じた船に言っているのか?

・p.13「切っ刃のキンチ」→「切っ刃」は刀の刃の部分、または腰に差した短刀の意。キンチというあだ名の中でもナイフになぞらえる解釈を前面に出している印象を受ける。

・p.13「きみは溺れかけた人間を助けた男さ」→後の章で詳細が分かる?

・p.14「睾丸締めつける海」→意味が分からない。どういうこと?

・p.15マリガンの「それにしても可愛いだんまり役者だよ!」(鼎訳「それにしても大した役者だ」、原文“But a fearful lovely mummer!”)は、スティーヴンが母の臨終の際に膝をついて祈らなかったこと、自分が母を殺したと言われたことに反論せず、適当にかわしたことに対する皮肉?

・p.15「冷感人種」(hyperborean)→wikiによると、hyperboreanが住むと思われるヒュペルボレイオスは「北風(Boreas)の彼方に住む人」だが、極北の彼方にあるにもかかわらずそこは「一年中が春で、穏和な気候に恵まれ、一日中が夜の無い昼である。永遠の光、光明、に包まれた、幸福に満ち溢れた地(国)で、彼らは自由に空を飛び、病気・労働・心配も知らず、1000年に至る寿命と至福の生を送り、平和に暮らしているという。土地は肥沃で実りは豊か、山は蝶、川は魚、森は一角獣に溢れる。しかし、この地(国)に通じる海峡にある、女性の形をした、岩だらけの絶壁は、夜になると生命が宿って、通りかかる船を全て破壊する」*1。つまりギリシャ神話中の一種のユートピアで、温暖な国。「冷感人種」というより、ニーチェとの関連で「超人」的な意味の方がいいのでは?(ニーチェは『反キリスト者』において、他の誰にもたどり着くことのできない場所で、自身の人生、幸福を見つけた自分たちをHyperboreansと呼び、また『権力への意志』の中においてhyperboreanという語を「超人」の特徴の描写に用いている)*2。また、プロタルコスなど6人のギリシャの古代著作家たちはこれらhyperboreanをギリシャ北方に住むケルト族と同一視していた*3。一方で神話と史実の入り混じった叙事詩的な歴史書『来寇の書』によると、様々な民族がアイルランドの地にやってきて入植・侵略と戦死や天災・疫病等による死を繰り返すが、まずノアの子孫であるグイール・グラスがバベルの塔の崩壊後生れた72の言語からグイール語(ゲール語)を作り上げる。彼の子孫がグイール人(ゲール人)とされ、様々な地を放浪する。彼の子孫ブレゴンの息子イースはイベリアに作られたブリガンディアという町の塔からアイルランドを発見する。また、5番目にアイルランドへやってきたトゥーアハ・デ・ダナーンの一族は「ドルイドの教え、ヒーザニズム、悪魔の知識を学ぶため北の島々(アイルランド)へ赴き、彼らは諸芸の達人になった」*4後、アイルランドを支配するが、このトゥーアハ・デ・ダナーンの一族の後にゲール人アイルランドにやってきて、一族との戦いの後アイルランドを支配し、敗れたトゥーアハ・デ・ダナーンの一族は地下の世界(異界)を支配することになった、とされている*5。この『来寇の書』では特にユートピア的な北の地が描かれているわけではないが、最後にゲール人アイルランドを支配するはるか以前に、ゲール人の子孫がアイルランドを発見していたこと、様々な人々による支配の間、アイルランドにおける文明の発達をうかがわせる記述が散見されると同時に、神話上の存在であるトゥーアハ・デ・ダナーンの一族が統治していた時代についても書かれていることなどから、hyperboreanとアイルランドケルト人・ケルト文化との繋がりを連想させる。

・p.15スティーヴン「苦痛が、いまだに愛の苦痛ではないそれが」→母への愛でない、母の苦しみに寄せる愛ではない苦痛だとすれば、一体何の苦痛?

・p.15「茶色の経帷子」→第四挿話p.108女中が身に着けているとブルームが思っている「焦茶色の擦り切れたスカプラリオ」と関連があるのでは?

・p.16「瘡っ膨れ」→「瘡」…梅毒の俗称。後のg.p.iと関係がある?

・p.16「g.p.i」痴呆性全身麻痺。ニーチェも痴呆性全身麻痺だった。梅毒の症状。だからマリガンはマーテロウ塔のことを色宿と呼ぶのか?

・p.16「こけ犬わんちゃん」→「こけ」…①苔。②うろこ。③虚仮。心の中とうわべが一致しないこと。偽り。思慮の浅いこと。深みのないこと。ばか。(e.g.人を虚仮にする)④肉が落ちてやせ細る。(こける)⑤安定を失って倒れたり転がったりする。(こける)→③、④、⑤はどれもスティーヴンに当てはまりそうな意味に思える。

・p.17「鏡に己の顔の見えぬキャリバンの激怒」“The rage of Caliban at not seeing his face in a mirror”→マリガンがひび割れた女中の鏡に映る自分の顔を眺めるスティーヴンから鏡を取り上げたときのセリフ。ワイルドからの引用。「19世紀のリアリズム嫌悪は鏡におのが顔を見るキャリバンの怒りである。/19世紀のロマンティシズム嫌悪は鏡におのが顔を見ないキャリバンの怒りである」(鼎訳注)より。喩えの意味がちょっとわかりにくかったのだが論理的に考えると、鏡に自分の本当の顔を見るのはリアリズム。本当の自分の顔を見て怒るのがリアリズム嫌悪。鏡に美化された自分の姿を見るのがロマンティシズム。それは自分の本当の顔ではない。だから鏡に自分の本当の顔ではない顔=おのが顔を見ないのに怒るのがロマンティシズム嫌悪。さてスティーヴンはひび割れた鏡に「虱だらけのこけ犬面」を見ている。これはリアリズムだろう。しかし鏡はひび割れている。ひび割れた鏡は本当の自分の姿を映すであろうか? マリガンの言葉は鏡の中に本当の自分の顔が見えないスティーヴンを揶揄しているが、それはロマンティシズム嫌悪であろうか? スティーヴンはロマンティシズムを嫌悪しているだろうか? スティーヴンは自分の逆立つ髪とみすぼらしい顔に愛想を尽かしている。または落胆している、不満に思っている。スティーヴンが詩人ではあっても、リアリズムとロマンティシズムのどちらをより好んでいるかはここまででは分からない。ここでは単に鏡がひび割れているせいでちゃんと自分の顔が映らないことから、マリガンがワイルドの警句を思い出して引用し、からかっているだけなのでは? それか、この先の章を読んだら分かることなのかもしれない。

・p.18「クランリーの腕、こいつの腕」→クランリーは大学時代のスティーヴンの親友。スティーヴンが興奮するとクランリーのがっしりした腕が彼の腕を抑えてなだめた(鼎訳注より)。「こいつ」とはマリガンのことだろう。ここではなだめるクランリーとたきつけるマリガンを対比させているのか?

・p.18「クライヴ・ケンプソープの部屋の青二才どもの銭太りの声……牛津若道なんて嫌だってば」→オックスフォード大学モードリン学寮にいた頃のクライヴのいじめの描写だが、スティーヴンはオックスフォード大学には行っていない(ユニヴァーシティ・コレッジだ)。だとしたらこれは誰の想起? マリガンがクライヴかシーモアから聞いた話か?(ヘインズはここの出身だが、まだこの時点では登場していない)。

・p.18いじめの描写から校庭にいる「マシュー・アーノルドそのものの顔」の庭師へと記述は移り、そこから「我等自身の為……新しき異教主義……中心なる臍(オムパロス)」へと繋がる。→なぜ校庭の庭師から「我等自身の為」に繋がるのか? 誰が、何を思って「我等自身の為」と考えたのか? いじめの描写の前にある、マリガンの「二人で力を合わせればこの島国のために何とかできるんじゃないか」というような台詞からか? 

・p.20マリガン「きみには忌わしい耶蘇会信者の血が流れているからだ。ただしそれが逆に注入されているがね」“Because you have the cursed Jesuit strain in you, only it’s injected the wrong way.”→母親の臨終の際に膝をついて祈らなかったのはこういう理由だからだ、という一文。血が逆に注入されている? “the wrong way”(誤った方法で、反対に、違うやり方で、邪道に)。「忌わしい血」が「逆に」流れているとしたら、それは「忌わしくない血」になるのでは? 逆に流れていてもやはり忌わしい血なのだろうか。となると「逆に」の意味とは? 「忌わしい耶蘇会の血が流れている上にスティーヴンの血はおかしい、邪道だ」という意味だろうか? 「忌わしくない血」だとすれば、「耶蘇会の血は流れているが、耶蘇会信者ではない」という意味だろうか? それとも「耶蘇会の血は忌わしいが、スティーヴンの血は忌わしくない」というマリガンのフォローのようなものなのだろうか? ちなみにJesuitには「陰謀好きな人、ずる賢い人」という含みもあるらしい。wikiによると、「イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。……イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇バチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた」とのこと*6

・p.21「もはや顔をそむけて思い乱れるなかれ……ファーガスが青銅の戦車率いてくる」“And nó more túrn asíde and bróod / Upón lóve’s bítter mýstery / For Férgus rúles the blázen cárs”(詩にあまり詳しくないので正しい強勢かどうかわかりません。また強勢記号のつけ方が分かりません。違ってたらごめんなさい)。イェイツの詩「ファーガスと行くのは誰か?」第2スタンザより。ファーガスはアルスター伝説の王。策略にかけられ王位を奪われる(鼎訳注)。「現世のつまらぬ争いや実らぬ恋などに拘らず、自然の懐で豊かに生きよ、という趣旨の詩」*7。前述のとおりファーガスもまた王位を奪われた者。ちなみにファーガスのこの詩をマリガンは胴声で朗読しているのだと思うが、調べてみるとYoutubeにメロディつきの歌バージョンがあった(ブログ最後に埋め込んでおきます)。

・p.21海面と鏡との結びつき

・p.21「絡み合う強勢、二音ずつ」→ファーガスの詩のことを言っているのだと思うが、波の音と解釈することもできないだろうか? それともこの前文の“Whíte bréast of the dím séa”のこと? 柳瀬訳では「翳りの海の白き胸」だが、鼎訳では「暗い海の白い胸」となっている。鼎訳の方が原文のアクセントに近い気がする。そして「絡み合う」(twining)とは? 強勢がどのような状態になれば絡み合うと言えるのだろう?

・p.21「磯近くと沖合で海面の鏡が軽やかな靴をはいて駆ける足に踏んづけられて白くなる」“Inshore and farther out the mirror of water whitened, spurned by lightshod hurrying feet.”→「軽やかな靴をはいて駆ける足」とは誰、何のこと? ファーガスは戦車に乗っているのでファーガスのことを指しているのではないのではないかと思う。その前文にある静かに過ぎる森影のこと? 詩的表現? この段落は原文でも詩的で美しいが難しい… 

・p.21「手が竪琴弦を掻き鳴らし、絡み合う和音を掻き混ぜる。波白の結ばれた言葉が翳りの潮にゆらめき光る」“A hánd plúcking the hárpstríngs, mérging théir twíning chórds. Wávewhíte wédded wórds shímmering ón the dím tíde.”→ハープ(竪琴)はアイルランドの象徴だが、これは後の段落の自分が歌を歌ったことについての文章と繋がっているのか。一文目は原文の強勢がコンマを挟んで4:4になっている。二文目には8つのアクセントがあり、使われている単語も8つ。二文目のWavewhiteをWave whiteにしなかったのは語数を合わせるスタイル上の問題か。訳の「掻き鳴らし」「掻き混ぜる」の対応や、「白」と「潮」の対応はこの部分のスタイルに寄せた表現か。ちなみに鼎訳の二文目は「白い波頭に組みこまれた言葉たちが暗い潮にほの光る」となっていて、やはり「白い」と「暗い」で音を合わせた感じがある。ちなみに「絡み合う強勢」と「絡み合う和音」の「絡み合う」はともにtwiningなので、訳を合わせたのだろう。「波白の結ばれた言葉」は鼎訳では「白い波頭に組みこまれた言葉たち」。波頭の白と翳りの暗さの対応するイメージ、白い波頭の中に吸い込まれ、織り込まれた言葉が暗い潮の中にきらめくイメージがとても美しい。海の潮が言葉を運ぶ。前述の疑問とほぼ同様だが、ここの言葉はファーガスの詩のことか、波音のことか、後に出てくるスティーブンが歌う歌のことか、それとも一般的な「言葉」のことか。

・p.22「愛の苦い神秘」→「苦い」はその前に出てくる「苦い水」と対応し、「苦い水を湛えた器」(=海)からスティーヴンの母の吐いた苦い胆汁(私は胆汁を吐いたことがないのでわからないが、嘔吐した胆汁は苦みがあるらしい)へと繋がる。さらにこの言葉はファーガスの歌の中にも出てくる。この段落では、自分の部屋で弾き歌いをしていたスティーヴンの歌を母が聞いて涙ぐむ様子が描かれている。最初スティーヴンが歌っているのは本当にファーガスの歌なのかと思ったが、原文を見ると“Fergus’s song: I sang it alone in the house, holding down the long dark chords.”とあるので、やはりファーガスの歌を歌っていたのだろう。となると先程マリガンが朗読していたと思っていたのは単に読み上げただけではなく歌なのか? 屈折し、鬱屈したスティーブンが弾き語りをするのは似合うような似合わないような、という感じもする。近づいてくる母の死に何か感じるところがあったのかもしれない。「愛の苦い神秘」が出てくる部分は“For these words, Stephen: love’s bitter mystery.”となっており、コロンの前は「あの歌詞にほろっとしちゃって、スティーヴン」である。それがコロンでつながれているので、「母が歌詞に涙ぐんだのは愛の苦い神秘だ」(同格)というような意味か、それとも「愛の苦い神秘のせいで母は歌詞に涙ぐんだ」(説明)の意味か? どちらともとれるから詳しく訳していないのかもしれない。なおbitterには「つらい」という意味もあるので、「苦い」は胆汁にかかるが、意味的には「つらい、苦しい」の感じの方が分かりやすいかもしれない。と思って、「苦い」の意味を調べたら、①舌を刺激し、口がゆがむような嫌な味。②不快である。面白くない。にがにがしい。③辛くて苦しい。そのことを考えたり思い出したりするのも嫌である(e.g. 苦い経験)とあった。よく考えたら「苦い」も「苦しい」も漢字が同じだ。そういう複数の意味も汲んで「苦い」としたのかもしれない。

p.22「今はどこに?」という文が段落を変えて唐突に現れる。これは「愛の苦い神秘」のmystery(謎、不思議)から、「そう言えば母の持ち物はどうなっているだろう?」とスティーヴンが考え、その後の段落に続く母のしまい込んでいた持ち物のことを指しているのか? それとも「愛の苦い神秘」自体が「どこにあるのか、どこに行ったのか?」と考えているのだろうか? 

p.22「小僧っこなれど/おいらはどろんと/姿を消せるぞ」“I am the boy / That can enjoy / Invisibility.”前段落の怪傑ターコウの歌の一節だが、「姿を消せるぞ」というのは前の段落の「母の持ち物」についても指しているのだろうか。余談だが、原文のpantomime(またはmime)は、イギリスでは訳の通りおとぎ芝居のことを指す。クリスマスなど何かのイベントの際にちょっとした広場や会場などで行われる、子供でも楽しめるような簡単な芝居のことだ。日本ではパントマイムというと黙劇、無言でほとんど道具を使わず、そこにないものをさもあるかのように見せかけるようなパフォーマンスを連想することがほとんどだと思うのだが、以前某学校で翻訳を習っていたとき、テキストがイギリスのミステリーで、mimeと出てきたのを講師の人がパントマイムと訳していたので、それはおとぎ芝居のことだと意見を言ったが、すでに出版されていて編集でもノーチェックだったのでパントマイムで問題はない、どうしても気になるのだったら「喜劇」程度に訳せばいいのでは、と言われ、聞き入れられなかったのだが、喜劇というとシェイクスピアのような壮大なものまで含むのでやはり違うと思う。今でも根に持っている。以上余談です。

・p.23「吐く息が、屈み込んできて無言の秘めた言葉を告げ」→スティーヴンの夢の中に現れる母。やはり跪いて祈らなかったことに負い目を感じているのだろうか? 「無言の秘めた言葉」“mute secret words”とはどんな言葉だろう?

・p.23「亡霊蝋燭」“ghostcandle”→どんな蝋燭だ?

・p.23「あのどんよりした目が、死から見つめて、おれの魂をゆさぶって屈服しにかかる……屍食らいの妖怪!」→「あのどんよりした目」の持ち主は死んだ母だと思う。しかしその後の、「その亡霊の光が歪んだ顔を照らす」というのは、亡霊の光が臨終の母のゆがんだ顔を照らしているのだと考えられるので、ここの亡霊は死んだ母ではない。一体何の亡霊だろう? 一般的な死者の亡霊だろうか? だとするとこの亡霊は次の段落の「幽鬼! 屍食らいの妖怪!」と同じものだろうか?(まさか自分の死んだ母のことを妖怪とは言わないと思うのだが……)皆がひざまずいて祈る中で、スティーヴンだけはひざまずいて祈ることをしない。P.22の何気ない昔の母の記憶から始まった回想の記述が、夢を相伴って徐々にスティーヴンの心を追い詰めていく緊張感と昂まりがある。ちなみに「百合のごとく耀く……汝を迎えんことを」という臨終の祈りの一節は、ほとんどの“Roman Catholic Rituals”(日本語訳が見つからなかったが、ローマカトリック儀礼書、とでも訳せばいいのか?)と“Catholic Layman’s Missal”(これも日本語訳なし。カトリック平信徒のためのミサ典書と訳せばいいのか?)に掲載されており、後者の方には「司祭が不在の場合、この祈りの言葉は男女問わず死者の関係者によって唱えることが許されている」との記載があるらしい*8。また、Ghoulは辞書によるとイスラム教の伝説で墓を暴いて死肉を食うと言われる食屍鬼。「幽鬼」とは①死者の霊魂、亡霊、幽霊、②ばけもの。妖怪、のこと。なのでGhoulと“Chewer of corpses”はほぼ同義と言っていいだろう。

・p.23「和モーゼ」“like a good mosey”→moseyは元々「ぶらぶら歩く、ぶらつく、ゆっくり歩く」の意で、「ゆっくりやってこい」くらいの意味だと思うのだが、もちろんモーゼにもかけているだろう。モーゼはヘブライ人の男児を殺せというファラオの命のため、幼い頃パピルスのかごに乗せてナイル川に流されていたところをファラオの王女に拾われ、水から引き上げられた。ヘブライ語で「引き上げる」という意味の「マーシャー」にちなんでモーゼと名付けられたという*9。後にマリガンが海の中に入るのに対比して、ここでは水から出るという含意のあるモーゼが使われているのが面白い。

・p.24「泥くさいドルイドどもの度肝を抜いちまおうぜ」“We’ll have a glorious drunk to astonish the druidy druids”→ドルイドケルト祭司。Druidyという言葉は辞書に出てこないし、検索でもそれらしいものが引っ掛かってこないが、「ドルイド的な」くらいの意味なのだろうか? というより、ここでは“drunk”“druidy”“druids”で言葉遊びを楽しんでいる風であり、その辺を訳でも「泥くさい」「ドルイド」「度肝を抜く」でかなり巧く訳に反映させているのではないかと思われる。

・p.24「戴冠式の日」→“coronation day”は俗語で「給料日」の意。

・p.26「蝋燭の言い草があったじゃないか」“as the candle remarked when……”→前述の「溶けちまいそうだぜ」から? しかしなぜ途中で言うのをやめたんだろう?

・p.26「この色宿はどうなってんだ?」“What sort of a kip is this?”→「色宿」は「色遊びするための家。揚屋、色茶屋、女郎屋など」。Kipは安宿の意だが、brothel(売春宿)の意味もある。それまで作品の中にミルク売りの婆さん以外女性の影は見当たらないのに、訳に色宿をとったのは、前述の中枢神経麻痺(痴呆性全身麻痺。ニーチェがかかり、スティーヴンがそうだと言われた)を汲んでのことか?

・p.27「ダンドラムの土地っ子」→鼎訳注によるとイェイツの妹エリザベスがダンドラムに小さな印刷所、ダン・ママー・プレス(後のクアラ・プレス)を設立し、イェイツの詩を出版し、もう一人の妹は刺繍やタペストリーを制作した。「魔女らの手にて印刷」の魔女はこの妹たちを指すが、『マクベス』の魔女たちにもかけている、とある。

・p.27「魚神様」→古代「アイルランドの太陽神の化身は鮭だった。……知恵の鮭の話はアイルランドの神話物語にはよく登場する。アルスター神話群の挿話の一つには、アイルランド大英雄のクーフリンがこの鮭(太陽神の化けた鮭)を捕らえようとしてエルクマールに反対される場面がある」*10。魚神様はこのような伝説を指しているのか? 鼎訳注では神話時代のアイルランド侵入者フォモーリア人(the Fomorians)(「海の底から来たもの」の意)を指すとの言及がある。

・p.27「覚えておいでか、きみは」“Can you recall, brother”→brotherは気軽な「きみ」という呼びかけで用いられるが、「平修士」の意味もある。鼎訳注には平修士が「主として雑役に従事する」とある。マリガンはスティーヴンをどうしても使いっ走りのように考えたいのか?(e.g. dogsbody) スティーヴンを馬鹿にしているのか?

・p.27「グロウガン婆さん」→次に出てくるミルク売りの老女と共に、老婆・魔女のキーワードは第四挿話のそれとともに気になる。(ブルームの思念の中に現れる想像の老婆)

・p.29「老いてひっそりと、朝の世から入ってきた、もしや遣わされた使者か」“Old and secret she had entered from a morning world, maybe a messenger.”→ミルク売りの老婆について。彼女のことを「遣わされた使者」と呼ぶのはなぜだろうと考えていたのだが、マクベスの魔女について調べると、魔女はマクベスに彼の運命の予言を伝えるために魔界から現世へやってきたもの、という意見の記述があったので*11、老婆についてもそのようなものかもしれない。もしそうだとしたら、朝の世界(塔の上の世界)が「この世ならざる世界」となるのだが…… そして魔女は、老婆は一体スティーヴンに何を伝えようとしているのだろう? 彼の旅立ちの運命か?

・p.29「露絹の牛の群れ」“dewsilky cattle”→露に濡れて絹のような毛並みに見える牛?

・p.29「牝牛中の絹、かつまた貧しき老婆、ともに昔の名だ」“Silk of the kine and poor old woman, names given her in old times.”→この段落も非常に難しい。最初「牝牛中の絹」は牝牛から絞られる絹のような乳のことかと思っていたのだが、牝牛中の絹も貧しき老婆も同じものを指しているので、違うだろう。鼎訳注によると、「どちらもイギリスの圧政に苦しむアイルランドの象徴ないし化身で、バラッドに歌われる。前者は「白い背をした茶色の牝牛、牝牛の中の絹物よ」(「牝牛の中の選り抜きよ」とする版もある)の、土地も住まいもなく森をさまよう美しい牝牛。後者は……自分のために命を捨てる若者に会えば絶世の美女に変身するが、イェイツはこの口承に基づいて一幕物の劇『キャスリーン・ニ・フーリハン』(1902初演)を書いた」とある。Kineは牝牛だが複数扱い(牝牛たち)。牝牛たちの中でも絹のように美しいもの、ということか。「ともに昔の名だ」というのは、古代からバラッドなどで歌われてきたことを指すものか。

・p.29「さまよえるしわくちゃ婆、征服者と浮かれた裏切り者の双方に仕える仙女の身をやつした姿、双方に不義を働かれた女、秘め事の朝から遣わされた使者。仕えに来たのか責めに来たのか、どっちなのかはわからない」“A wandering crone, lowly form of an immortal serving her conqueror and her gay betrayer, their common cuckquean, a messenger from the secret morning. To serve or to upbraid, whether he could not tell”→征服者はイギリスのことだろう。さまよえるしわくちゃ婆が前述のとおりアイルランドの象徴ならば、浮かれた裏切り者というのは祖国アイルランドを裏切った者ということか? イギリスと言えばヘインズだが、マリガンがアイルランドを裏切っているようには思えない。この二人のことではないのか? では一体「浮かれた裏切り者」とは具体的に何のことだろう? 「仙女の身をやつした姿」は「卑しい姿に身を変えた不死なるもの」くらいの意味だろう。もしかしてミルク代が貸しになっていることとかけてる?(←仕えに来たのか責めに来たのか、彼にはわからなかった) やっぱりこの段落もよくわからない。

・pp.29-30「スティーヴンは侮蔑の無言で聞いていた。声高に話しかける声に、筍医者に、薬師に、老婆は老いた頭を下げる。おれをこの女は軽んずる。告解を聴いてやり、女の不浄の腰を除く全身に、男の肉体から神に似せずに造られた肉体に、蛇の餌食に、終油を塗ってやろうという声にも。そして今この女を黙らせる大きな声にも、いぶかしげな座りの悪い目つきで。“Stephen listened in scornful silence. She bows her old head to a voice that speaks to her loudly, her bonesetter, her medicineman: me she slights. To the voice that will shrive and oil for the grave all there is of her but her woman’s  unclean loins, of man’s flesh made not in God’s likeness, the serpent’s pray. And to the loud voice that now bids her be silent with wondering unsteady eyes”→スティーヴンは主にマリガンとミルク売りの婆さんとのやり取りを聞いている。ミルク売りの婆さんがスティーヴンを軽んじていると感じられるのは、婆さんが彼には話しかけないからか。「筍医者」はやぶ医者以下のひどい医者の意。薬師も医者。Bonesetter, medicinemanときてコロンがあってme she slights なので(she slights meではない)、やぶ医者、薬師には頭を下げるのにおれには……というのが強調されている。そのあと二回出てくるToがわからない。Listen toか、bows toか、speaks toか、slights toか。訳でも、「声に」どうするのかはっきり表されていない(鼎訳もほぼ同じ)。Slight to での用法はslightが名詞か形容詞で使われていて、ここのslightは動詞だし、目的語はmeなので、toに一番近い位置にはあるが除外すべきか。Bowsのあとにher old headがきているから分かりにくいが、その後がto a voiceなので、bowsの可能性が高い。その声の内容は婆さんをかなり貶める内容だ。そんな声にも頭を下げる、それをスティーヴンは侮蔑しながら聞いているのか。ただしこの声の内容は実際に誰からも発せられたものではなく、恐らくスティーヴンの想像だ。この婆さんならこんな声にも頭を下げるだろうということか? 最後の一文も分からない。スティーヴンが婆さんを黙らせたいという気持ちの表れか? そしてwith wondering unsteady eyesは訳文だと何となくスティーヴンの目つきか、と思っていたのだが(その前に読点も打たれているし)、withのまえにコンマは打たれていない。この「きょろきょろと落ち着かない目つき」をしているのは誰か、何か? Withは何にくっついているのか? Listenedか、bowsか、bidsか。落ち着きのない目つきで聴いているのか、頭を下げているのか、黙るよう命じているのか。距離的に一番近いのはbidsだが、文脈的にはやはり婆さんが落ち着きのない目つきで頭を下げているように思える。今気づいたがよく見ると、マリガンが婆さんに向けたと思われる声は“a voice”、スティーヴンが想像している、架空の声は“To the voice”“to the loud voice”だ。aとtheの違い… どの声も全てthat以下で修飾されているのに。冠詞は苦手なのだが、実際にマリガンが発したと思われる声よりスティーヴンの想像上の声の方が特定性が高いのはなぜか?

・p.31「スティーヴンは三杯目を注いだ」→この辺、3という数字が頻出するように思われる。ミルク売りの婆さんは三日分のミルク代をマリガンに告げる。まただいぶ前に戻るがマリガンは塔の上で周囲の地に向かって三度祝福する(p.11)。まあこの挿話自体そもそもスティーヴン、マリガン、ヘインズの三人が中心になってはいるのだが。だからカップが三つあっても自然な記述だ。お金の話などで他の数字も出てくることは出てくるので、気にし過ぎだろうか? 

・p.32「こちらの不浄なる詩人さんは月一度の快酔浴を怠らないんだ」“The uncleanbard makes a point of washing once a month”→この人たちは入浴代わりに海に入るのか? まだシャワーはない時代だろうか? その後でスティーヴンがヘインズのことを「洗って湯船に浸かってこする連中」と言っているので、バスタブはあって、石けんで体を洗うということもしている人もいたのだろう。ちょっと時代の文化的背景が分からない。アイルランドとイギリスとでどのくらい衛生度が違うのかもわからない。そして「快酔浴」だが「快く酔う浴」だ。原文では“makes a point of washing”(必ず洗う)としか書かれていない。酔うのは海の水に浸かって酔うことを言っているのか、前述の酒宴にかけて酒に酔うことを言っているのか? そしてこの言葉に対してスティーヴンが「アイルランド全土が湾流に洗われてるよ」と言うのだが(湾流はメキシコ湾流)、これはアイルランド全土が湾流で洗われているから自分が洗われる必要はないということか?

・p.32「独知の噬臍」“Agenbite of inwit”→鼎訳「内心の呵責」の意。鼎訳注によると、「中世の修道士マイケルの英訳書(1340)の題名より。その原書はフランスの修道士ロランの『悪徳と美徳の全書、または主の全書』(1279)。キリスト教道徳の百科全書に類するもの。題名は中世の英語」とのことだが、なぜ突然この言葉を使ったのか全く分からない。「独知」とは①自分だけが知っていること。②良心(西周によるconscienceの訳)だが、②の意味で使っているのだろう。噬臍は取り返しのつかないことを後悔すること、臍を噛む(ほぞをかむ)こと。そもそもヘインズがスティーヴンの名言集を編んでみたいと言ったのに対して、なぜ内心の後悔や良心の呵責を覚えるのか? いや、覚えているのは、覚えていると想像されているのはヘインズの方か? アイルランドに対して圧政を続けてきたイギリスの象徴としてのヘインズが、良心の呵責からスティーヴンに彼の名言集を編んでみたいなどとへつらうようなことを言っていると考えているのか? そしてそんなことをしたって「まだここに染みが」あるのだ。いくら洗っても消し去ることのできない、マクベス夫人の幻覚の血の染み。

・p.34「独知の噬臍」→グーテンベルクから引いてきた原文にこの記載はないのだが、版によって違うのだろうか?

・p.34「ちぐはぐ。おれはちぐはぐ? それならそれでいいとも、おれはちぐはぐで通す」“Contradiction. Do I contradict myself? Very well then, I contradict myself”→鼎訳注によると「アメリカの詩人ウォルト・ホィットマンの詩集『草の葉』(1855)「自分自身の歌」51より。黒い服でなければならないと言ったのを思い出して」とのこと。確かにホィットマンの当該箇所と、“Do I contradict…… I contradict myself”は全く同じ。しかし何でまたホィットマン…… アメリカの詩については全くの無知なので(アメリカの詩だけじゃないが)、調べてみると「自分自身の歌」は『草の葉』の巻頭詩“One’s-Self I Sing”と、52番まである長編の“Song of Myself”の二つがあり、訳者によって「私自身について歌う」とか「私についての歌」とか訳の異同があるのだが、鼎訳注に指摘されているのは後者の長編の詩の51番のほうだ。全部を読み切れていないのでこの詩と引用との繋がりははっきりとわからないが、『草の葉』についてはホイットマンアメリカの叙事詩を市井の人々に届けようと試みて書かれたもので、聖書の韻律を用いた自由詩の形式をとっている。その内容のあからさまな性的表現から当時は猥褻と批判されたらしいが、高く評価する同時代人の著作家たちもおり、1868年にはドイツ語訳されている(日本に紹介したのは漱石)。また、ホイットマンは同性愛者、あるいは両性愛者であったこともよく言及されているらしい*12。『草の葉』をざっと見たところ、生命賛美や、アメリカの市井の人々の独立不羈の精神を鼓舞するような、力強い印象を感じた。イギリスの軛からの解放という点で、アメリカとアイルランドは何か近い精神を持つのかもしれない。

・p.34「気働きマラキ」“Mercurial Malachi”「メルクリウスみたいに陽気なマラカイ」(鼎訳)→鼎訳注によると、「メルクリウス(ギリシア名ヘルメス)はユピテル(ゼウス)の使者。術策に長け、機知に富む。マラカイはヘブライ語の男子名で、原義はやはり使者。「マラキ書」の預言者の名前でもある。マリガンがギリシアの異教精神にあこがれ、自分の(ヘブライ語の)名前には「ギリシャ風の響きがある」と言ったのを皮肉って。これも矛盾の一つか」。ちなみに英語読みだとマーキュリー。ヘルメスは錬金術では水銀,占星術では水星を指す*13ユングによると「メルクリウスは(錬金術でいうところの、即ち、無意識の)作業(オプス)の始めに位置し、終りに位置する」。また、「メルクリウスは原初の両性具有存在ヘルマプロディートスであり、一旦は二つに分れて古典的な兄―妹の対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光」、即ち、「賢者の石」という形態をとって光り輝く」*14。「気働き」は時に応じて素早く気を遣うこと。機転。「気働きマラキ」という訳は原語の音の響きの重なりを模したものでもあるし、機転が利くというメルクリウスの性質を反映させたものと思われる。マリガンだけが後に海の中に入ること、マリガンのセリフが時に女言葉になるのはもしかしたらメルクリウスと水との繋がり、メルクリウスの両性具有的な性質との繋がりがあるのかもしれない(ただし、台詞が女性っぽくなるのは主に柳瀬氏の訳の上だけで、それはマーテロー塔を色宿と言っていることと関係があるのかもしれない)。確かに物語はマリガンの髭剃りから始まるが、ユングの解釈が何かマリガンの性質と関係があるかどうかは第一挿話だけではわからない。

・p.34「いざ敷居跨イでおん出んとすルカ」「かくて彼、外に出でて、バタリーに会えり」(鼎訳) “And going forth he met Butterly”→原文を見ただけではなぜ柳瀬訳のようになるのかが全く分からないが、鼎訳注によると「「マタイ伝」26.75「ペテロ……外に出でていたく泣けり」のもじり。だが、バタリーは特定しがたい。「バタリーに会えり」met Butterlyは「いたく泣けり」wept bitterlyと語呂を合わせたにすぎないという説もある」とのこと。マタイは分かるがじゃあなぜルカがというのは分からない。たまたま聖書関連の言葉を使って遊んでみただけなのか? ちなみに元となる聖書部分は“And he went out”としているものがほとんどで、“And going forth”としているもので唯一私が見つけられたのはドゥーエイ‐リームズ版(Douay-Rheims Bible)だけだった*15。ペテロがイエスに言われた言葉、「鶏が鳴く前にお前は私を三度否定する」というのを思い出して外へ出て泣いた、という部分だったんだな。

・p.34「ふにゃっとした黒いものがしゃべりまくる手から放られる。/――ほれ、巴里っとしたお帽子、と、言った」“A limp black missile flew out of his talking hands. / --And there’s your Latin quarter hat, he said”→「ふにゃっとした」帽子を「巴里っとした」帽子と呼ばせる訳はマリガンの皮肉を感じさせて面白い上に、“Latin quarter hat”(鼎訳では「ラテン区帽」。スティーヴンが留学していたパリのカルチェ・ラタンにかけている)の皮肉もきちんと反映させている。Missileはミサイルのことだが、飛行物体一般をも指す。“talking hands”「しゃべりまくる手」はマリガンがあたふたと身の周りの物を喋りつつ捜している様を表現したものか。

・p.34「梣のステッキ」“ashplant”→“ashplant”はアイルランドでそのまま杖(ステッキ)のことを指すらしい。鼎訳注によると「トネリコはモクセイ科の高木。ケルト族のドルイド僧が預言や魔除けにこの木を用いた。スティーヴンは自分のステッキを占師(預言者)の杖と呼び(第三挿話、第十五挿話)、また母親の亡霊をこれで追い払う(第十五挿話)」。トネリコ属にはいろんな種類があるが*16、ここでセイヨウトネリコ“Flaxinus excelsior”を指していると考えられる。世界各地の樹木信仰における「宇宙軸」の思想と類似した「世界樹」が北欧神話に多く登場するが、この北欧神話イグドラシルと呼ばれる「世界樹」は多くのシンボル事典でトネリコであるとされており、ゲルマン神話の主神オーディンの馬、魔除け、時間など様々な象徴的意味を持っている*17。読書会ではトネリコは詩人の象徴と説明されていたかもしれない。メモを取り損ねたので違っていたらどなたか教えてください…

・p.35「こら、お座りだ! わんきゃんうるさい!」(鼎訳)「おすわりだ、こら! おとなしくしろ!」“Down, sir! How dare you, sir!”→バスタオルで足元の雑草を打ち払うマリガンの言葉だが、なぜ草に対し犬を叱るような言葉で命令するのだろう? 鼎訳のニュアンスもそれに近い。

・p.35「フランス軍が海にありの頃さ」→鼎訳注によると「18世紀末アイルランドのバラッド「貧しい老婆」の出だし。「ああ、フランス軍が海にいる、貧しい老婆がそう言った」より。フランス軍独立運動を助けに来たのを喜び称えて。「貧しい老婆」は前出の通りアイルランドの化身。すなわちイギリス人ヘインズに対するマリガンのこの説明は針を含む(悪意が込められている)」。読んだ感じそこまでヘインズに対してあてつけているようには見えないが……

・p.36「おれたちはワイルドや逆説は卒業してるんだぜ」→その割にマリガンはワイルドやスウィンバーンなどのことをよく口にする。最初の方でもひび割れた鏡を見るスティーヴンに、ワイルドが生きていたらなあ、というようなことを言っていた。ヘレニズム精神賛美などもイギリス人の当時の著作家たちの唱えていたもので、イギリスを嫌いアイルランドのために何かやってやろうじゃないかなどと言ってはいるがその思想がイギリスからのものを幾度も援用しているという事実は皮肉だ。

・p.36「おい、このいんちきキンチき! 父親探しのヤペテん師!」(鼎訳)「おい、キンチの親父の亡霊め! 父を探すジャフェットやい!」“O, shade of Kinch the elder! Japhet in search of a father!”→shadeはghostの意。いんちきとはスティーヴンのハムレット論に対して言っているのだろう。鼎訳注によると「「父を探すジャフェット」は「フレデリック・マリアットの小説(1836)の題名より。「創世記」ノアの三男ヤペテにもかけて」とある。しかしヤペテは聖書中で、父ノアが酔って裸になったとき、裸を見ないようにして父に服をかけてやったので、ノアに祝福された人物だ(それ以外のエピソードが見当たらない)。ここでなぜヤペテが出てくるのか? ヤペテに含ませた意味よりも、鼎訳注にある小説の題名を使った意味の方が強いのではないだろうか? また冠詞で申し訳ないのだが、“Japhet in search of a father”のaには何か意味があるのか? His fatherとかthe fatherの方が自然なように思えるが……

・p.36「ストラ」→襟垂帯。司教、司祭が祭服を着て首に十字にかける細長い布。

・p.36「そのまばゆい沈黙の一瞬、スティーヴンの目には、二人の派手な衣装にはさまれて己のみすぼらしいくすんだ喪服姿が映った」“In the bright silent instant Stephen saw his own image in chap dusty mourning between their gay attitudes”→鏡がなければ、自分のみすぼらしい姿は実際には「見えない」。ましてや自分の目に自分の姿は映らない。鼎訳でも「(スティーヴンは)自分が……歩いている姿を見た」ここでの“saw(see)”は、 “To perceive or detect as if by sight / to form a mental picture of”(「気づく、分かる、心に思い描く」)の意味の方が強いのではないか? つまり、ここでスティーヴンは自身の外的イメージを内面化して「見ている」のではないか?

・p.37「両の目は」→原文ではいきなり“Eyes”と始まる。文脈から、この目の持ち主はヘインズだと思われる(その後に再びヘインズのセリフが続いていることからも)。ここからヘインズの目が海よりも淡い青色であることが分かる。

・p.37「おいらの生れはすこぶる奇天烈……」→マリガンの歌。鼎訳注によると「ゴーガティの戯作詩「陽気な(だが幾分皮肉な)イエスの歌」第一、第二スタンザ及び最後の第九スタンザの言葉を少し変えて」。第九スタンザ(マリガンの歌の最後の部分)のどこを変えたのだろうと思い、調べると、元の第九スタンザはこんな感じになっている。“Goodbye, now, goodbye, you are sure to be fed / You will come on My Grave when I rise from the Dead / What's bred in the bone cannot fail me to fly / And Olivet's breezy—Goodbye now Goodbye.”*18マリガンの第九スタンザはこうだ。“Goodbye, now, goodbye! Write down all that I said / And tell Tom, Dick, and Harry I rose from the dead. / What's bred in the bone cannot fail me to fly / And Olivet's breezy... Goodbye, now, goodbye!”最初の部分をちょっと変えてるだけだった。ちなみにマリガンの歌う「おどけイエスの歌」を歌ってみた動画があったので、一応最後の方に貼っておく。

・p.37「おふくろユダヤで親父は鳥よ」→マリアは聖霊によって孕んだとされる。そして聖霊の象徴は鳩である。

・pp.37‐38「おいらを神だと思わぬならば……そいつを呷って吠え面かくな」→鼎訳では「おれを神だと思わぬやつにゃ/ワインなんぞはめったに飲ませぬ/ワイン変じた小便飲ませて/ビールをくれと言わせてやるぞ」。原文は“If anyone thinks that I amn't divine / He'll get no free drinks when I'm making the wine / But have to drink water and wish it were plain / That I make when the wine becomes water again”。鼎訳でビールとしているのは、plainにビールの意味があるかららしい。

・p.38「メルクリウスの帽子をふるわせる疾風」→ここにもメルクリウスへの言及がある。

・p.39「きみは信者じゃないわけ?……無からの創造とか奇蹟とかペルソナとしての神とか。/――信仰には一つの意味しかないね」→原文では“You’re not a believer, are you? I mean, a believer in the narrow sense of the word. Creation from nothing and miracles and a personal God. / ---There’s only one sense of the word, it seems to me”きみは信者(believer)じゃないのかと訊くヘインズに対し、その言葉にはたった一つの意味しかないとスティーヴンは答える。その言葉とはbelieverのことだが、訳中ではヘインズの言葉は信者、スティーヴンの言葉は信仰になっている。鼎訳ではスティーヴンの言葉を「その言葉」とそのまま訳している。なぜ信者を信仰に変えたのだろう? スティーヴンがもし「信者には一つの意味しかない」と言ったら、それはそうだね、となる。信者とは信じる者のことだ。しかし、(キリスト教の)神を信じる者であるということと、無からの創造や奇蹟、ペルソナとしての神を信じることは宗派や聖職者、時代によっては別物になるだろう。スティーヴンが「信仰には一つの意味しかない」と言うことで、彼の持つ彼自身での解釈の、独特な「信仰」の存在が暗示されているのではないか? ちなみに信仰について調べてみると、キリスト教の中でも様々な定義やその時代の神学者や哲学者たちによる独自の解釈が見られる。

・p.39「信じるか信じないか、二つに一つだよね……きみの目の前にいるのは、と、スティーヴンはむっと不愉快になって言った。自由思想のおぞましい実例だよ」→原文では“Yes, of course, he said, as they went on again. Either you believe or you don’t, isn’t it? Personally I couldn’t stomach that idea of a personal God. You don’t stand for that, I suppose? / ---You behold in me, Stephen said with grim displeasure, a horrible example of free thought”。スティーヴンの台詞、きみの目の前にいるのは自由思想のおぞましい実例だよ、という部分だが、鼎訳では「このぼくは……自由思想の忌まわしい見本だってわけか」となっている。「きみの目の前にいるのは自由思想のおぞましい実例だよ」とすると、スティーヴン自身が自由思想のおぞましい実例であることを認め、それをヘインズに教えているような発言になるが、鼎訳のほうだと、ヘインズの言葉から自分がそのような存在であることを認識・確認させられているような印象を受ける。つまり前者では「自由思想のおぞましい実例」と最初に認識しているのはスティーヴンの方であり、後者だとヘインズの方からそういう考えをスティーヴンが与えられた、という印象になる。原文をそのまま訳すと、「きみが僕の中に見ているのは自由思想のおぞましい実例だ」となるが、それを「きみは僕の中に自由思想の恐ろしい実例を見ているんだね」というふうにちょっとだけ変えると、どちらかというと鼎訳に近い意味内容になる。逆に「きみは僕の中に自由思想のおぞましい実例を見ているんだよ」とすると、柳瀬訳の方に近くなる。これが翻訳の面白いところであり、恐ろしいところでもある。おそらく柳瀬訳と鼎訳とでの、解釈の違いだろう。果たしてどちらがジョイスの意図した表現に近いのだろうか?

・p.39「使い魔」→伝承やファンタジーにおいて、魔法使いや魔女などが使役する魔物、精霊、動物などのこと。*19

・p.39「今はあいつの塩辛いパンを食らう身」→ダンテ『神曲』「天国篇」第17歌58より。他人の世話になって生きる身を嘆いている。原文は“Now I eat his salt bread”。ダンテの神曲の該当部分は、“How salt the savour is of other's bread”(本当はイタリア語だが英訳を参照した)*20。言うまでもなく長大な作品なので、天国篇すらすべて読んでいないが、該当部分の日本語訳をざっと読むと、邪悪な党派のために追放された主人公は、すべてのものを捨て去らねばならない。「他人のパンがいかに辛く/他人の家の階段の上り下りがいかに辛い道であるかを身にしみておまえ(主人公)は悟るだろう」*21。凡庸で卑劣な同志たちは主人公の恩を仇で返し、悪事を働くが、最終的には主人公ではなく彼らが辱めを受けることとなる。だから理不尽に非難を浴びて貶められても、最後には自分の道を貫いたほうが自分のためになるだろう、ということを神(?)が主人公に説いている。スティーヴンの思索の手がかりになればいいが……

・p.39「おれの鍵だ。おれが借り賃を払った」→読書会でも言及された部分。鼎訳注によると「スティーヴンの内的独白の中のこの台詞は、マリガンならこう言うだろうとスティーヴンが思ったもの。また、すべてスティーヴン自身の言葉であるとする考え方も当然ある。一方の解釈に、借金で身動きが取れず(第二挿話)、ズボンや靴まで恵んでもらうスティーヴンに12ポンドの家賃が払えるはずがないという根拠があり、他方の解釈には、塔を自分で借りたからこそ、「鍵もやっちまえ、何もかも」(柳瀬訳では「鍵もくれてやれ。いっそ全部」)とか、「王位を奪う奴」(柳瀬訳では「簒奪者め」)などの台詞が生きるという理由がある。いずれにしろ、塔の使用権をめぐるスティーヴンの心理は屈折している」。どちらの解釈が妥当かというのは分からない。そして当時の貨幣価値がいまいち分からない。一度自分で整理して計算してみたほうがいいかもしれない。ミルクの値段、臓物の値段、バイト代、学校の給料、家賃。食料品の物価は安くても、家賃の相場は高いという可能性もある。スティーヴンとマリガンは共同生活をしている、と鼎訳の注釈にあるが、現代の感覚で言えばシェアしてたなら半分ずつ出さないのだろうか? つまり一人6ポンド。スティーヴンが金に困っているということはこの挿話から分かるが、マリガンの経済状況がどうなっているのか、なぜ二人は共同生活をしているのか? 前にスティーヴンがマリガンの家を訪れたとき母親の死に様をひどく言われた、というエピソードがあったが、家を訪問できるくらいならマリガンの親の家はそれほど遠くないところにあるのではないのか? だとしたらなぜ実家から学校へ通わないのか。その辺の事情も(後で明らかになるのかもしれないが)よく分からない。

・p.40「狂乱の女王」→鼎訳中によるとローマ・カトリック教会のことを指しているとしているが、ローマ・カトリック教会がなぜ年老いて妬み深い、狂乱の女王、女性として喩えられるのだろう?

・p.40「権勢を誇示する呼称のかずかずが……星の世界の化学反応のようなもの」→ここから「ちぇっ! ばかばかしい!」までが非常に不可解、というか、スティーヴンが自分は三人の主人(ローマ・カトリック教会、イギリス、マリガン)に仕えていると言うのに対し、ヘインズが自分たちも確かにアイルランドを不当に扱ってきたことを感じているが、それは歴史に罪があると返した後で、なぜスティーヴンが教会の異端者たちと彼らの追放・迫害に思いを馳せるのか、さらにマリガンが口にしていた空虚な嘲りの言葉がなぜそこに絡んでくるのか、スティーヴンの思索が追えない。その上神学的な内容で、専門用語もよく分からないので、どうしてもキリスト教について調べることになってしまう。そしてキリスト教について調べだすと芋づる式に分からないことが増えていくので、大体大変なことになる。以下この部分の文章をざっくり内容ごとに区切って精査してみた。 

①権勢を誇示する呼称のかずかずが、スティーヴンの記憶に高らかな勝利の鐘の音を打ち鳴らす。→「高らかな勝利の鐘の音」は鼎訳では「耳ざわりな勝利の鐘」となっている。原文では“brazen bells”で、brazenには「真ちゅうの、図々しい、厚かましい、力強い、堂々たる、決然たる」等の意味があるので、どちらの訳でもいいわけだが、スティーヴンのローマ・カトリック教会に対する反感のようなものをどの時点で出すかという意味で二つの訳文は微妙に異なる印象を与える。

②また一にして聖、公、使徒伝来なる教会。→鼎訳注によると「ニケア・コンスタンティノープル信教」より。アリウスらの異端に対して、最終的に三位一体を宣言した信仰信条(381)。ミサ曲の「クレドー」の本文としても用いる」。アリウスについては後述。ニケア・コンスタンティノープル信教は東西両教会で広く使われるキリスト教の基本信条(基本信条はキリスト教徒としてこういうことを信じてますよというようなことを神の前で祈り・告白の言葉として唱える信仰宣言のようなものだと思う)。使徒信条、使徒信経、クレドは同義。東方教会では使徒信条は使われない。使徒信条という名は、この信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることに由来する。ニケア・コンスタンティノープル信教は325年にニケアで行われた公会議(教会の偉い人たちの会議だろう)で定められたニケア信条を、381年にコンスタンティノポリスで行われた公会議で改定した信条。毎主日(日曜日)のキリスト教の礼拝では必ずこの信条と『主の祈り』が使われる。西方教会では一般に参加者全体が声を出して暗唱するか、祈祷書などを見て朗読する。*22訳文と同じ日本語訳が見つからないのだが、見つかったものから引用すると、この部分は「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」*23という一文の一部であるようだ(英語訳では“We believe in one holy catholic and apostolic Church”)。それぞれの国の教会の考え方や解釈によって若干訳は違うらしい。日本カトリック司教協議会ではこのような訳を使っている。作品訳中の「公」というのがぼんやりとしか分からなかったのだが、結局catholicの訳語らしい(catholicには普遍的な、万人に共通の、偏らない、というような意味が元々ある)。

③まどろこしく成長し変化する祭式と教義は己の珍奇な思想にも似て、星の世界の化学反応のようなもの。

教皇マルケルスのミサの使徒信経、→鼎訳注によると、「パレストリーナ作のミサ曲(1567)。多声教会音楽の傑作で楽器を用いない。ただし「使徒信経」symbol of the apostlesは、「ニケア・コンスタンティノープル信経」とは別。パレストリーナのミサ曲の「クレドー」は後者を用いている。スティーヴンの言う「使徒信経」は広義の解釈によるのか」。教皇マルケルスは二人いるが、ここに出てくるのは二世のほう。この教皇マルケルス二世は党派争いと政争に阻まれてなかなか出世できず、在位がたった22日間という短命な教皇だった*24パレストリーナ作のミサ曲はYoutubeに上がっていたのでページ最後に埋めておく。使徒信経がなぜ“Symbol of the Apostles”なのかと思ったが、このシンボルは現代英語のシンボルの意味ではなく、ラテン語の“symbolum”(意味はsign, token)ギリシャ語のδύμβολον(意味はtoken for identification)から来ている。「自己証明のしるし」くらいの意味か。

⑤交じり合う声が、ただ人声のみで朗々と肯定して歌う。→「肯定して」“in affirmation”のaffirmationは、「肯定、正しいと断言すること、(聖書によらない)宣言、(宣誓に代わる,法廷での)確約,証言」とあるのだが、この聖書によらない宣言というのがちょっと気になる。もしかしたら単なる法廷の用語かもしれないが、嘘偽りなく証言をするということを誓うときには聖書に手を置いて誓う。おそらくこの聖書によらない宣言、確約というのはキリスト教徒ではない人の誓いのことを言っているのではないだろうか。だとしたら、キリスト教的な文脈でこのaffirmationを使うのにちょっと違和感を感じる。でももしかしたらこれは後代の語用で、ジョイスの時代には特に意味はないのかもしれない。ちなみに柳瀬訳では「肯定」としているが、鼎訳では「信仰のあかしを歌う」としている。何となく解釈の違いを感じる。またaffirmationという言葉はニーチェと結びつきがある。考えすぎ?

⑥その歌声の背後で戦闘教会の見張番天使が、あの老女王に楯突く異端の始祖から次々と武器を取り上げて嚇した。→「戦闘教会の見張番天使」はミカエルのこと*25。「『公教会祈祷文』の「ミサの祈り」に、「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、悪魔の凶悪なるはかりごとに勝たしめたまえ」とある」(鼎訳注)。日本語の「公教会」とはローマ・カトリック教会のこと。「老女王」という部分は原文ではherとしか書かれていないのだが、前段にある「狂乱の女王」(=ローマ・カトリック教会)を受けているのだろう。ちなみに鼎訳では単に「教会」としている。解釈はほぼ同じだ。

⑦司教冠をずり落さんばかりにして逃げる大勢の異端者たち。

⑧フォティウスやマリガンと同類の嘲笑う者の群れや、→「フォティウス…コンスタンティノープル総主教(815年頃~895頃)。東方正教会の聖人。聖霊発出について教皇ニコラウス一世と論争。「聖霊は父と子よりいで」とする複数発出論に対して、「聖霊は父よりいで」とする単数発出論を唱え、東方正教会の立場を明らかにした」(鼎訳注)。ざっと調べると、フォティウスについては「嘲笑う者」のような説明は出てこない。異端ではあったが、古代ギリシア文化の復興に注力し、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の興隆をもたらしたとある*26正教会的な立場からローマ・カトリック教会を「嘲笑った」ということか? 

⑨それにアウリウス、生涯をかけて子と父の同一実体説に戦を挑んだ男→「アリウス(アウリウス)…アレクサンドリアの司教(250頃~336)。三位一体論をしりぞけ、キリストは神の最高の創造物であると主張してその神性を否定。ニケア公会議(325)にて異端とされた」(鼎訳注)。アウリウスは古代最大の異端節の創始者とも呼ばれている。彼は子であるキリストが生まれた者であれば、父なる神と同質ではありえない(ヘテロウシオス、父と子は異質)とするユダヤ教同様の厳格な唯一神教を説いた。それに対し主教アレクサンドロスなどのニカイア派(ニケア派)はキリストの誕生を人間の誕生と同一に考えるべきではないとし、父と子は同質(ホモウシオス)とする三位一体論を説いた。アリウスの主張は公会議で異端とされたが、彼の死後もその教えを支持するアリウス派が残り、さらに分裂した上にニケア派と宮廷を巻き込む複雑な宗教政治的紛争を生じさせることとなる*27

⑩それにヴァレンティヌス、キリストの現世肉体説をてんから相手にしなかった男、→「ヴァレンティヌス…アレクサンドリア生れ(160頃没)。グノーシス説によって霊的キリストと歴史的イエスを切り離した」(鼎訳注)。現世肉体説はキリストがあくまで霊的な存在で、現世的な肉体を備えたものではないとする説だろう。ヴァレンティヌスはキリスト教徒というよりもグノーシス主義者と言ったほうが正しい。グノーシス主義について細かい点を省いて説明すると、世界は下級の造物神デミウルゴスが制作したもので、悪に満ちている。人間は肉体、魂、霊から成り立ち、霊は肉体と魂に閉じ込められている。真の神を知る知識(gnosis)が霊の救済に必要、という考え。発想の根源はネオプラトニズムプラトン哲学にもさかのぼる(ここで遡ると大変なことになるので遡らない)。この段落で大事なのはヴァレンティヌスの三位一体の考え方だと思うんだが、ヴァレンティヌス自身の考えも、ヴァレンティヌスの考える三位一体のことも、調べてもなかなか出てこない。その上ヴァレンティヌス自身の考えなのかヴァレンティヌス派(ヴァレンティヌスの弟子のような人々。ヴァレンティヌス死後にも活動した)の考えなのか判然としない部分もたくさんある。本人の言なのか後世の説話の発展なのかは分からないが、ヴァレンティヌス(派)の考えと後世のグノーシス主義の解釈を大まかにまとめると、低次アイオーン(aion, aeon 期間、時代、永遠などの意味もあるが、擬人化され神格として扱われることもある。まとめると人間を超える超霊的原理、または超霊的世界・圏域を意味する)の一つであるソフィア(Sophia、知恵の意)は原父(propateer、プロパテール。イエスが祈った「父なる神」であり、「真の神」でもある。旧約聖書の神ヤファウェは「偽の神」とされる)を知ろうとして、プレーローマ(Pleerooma、至高のアイオーン界(充満界)。プロパテールを囲んで真の宇宙を構成する高次アイオーンによって構成された圏域。この世界にある現実の宇宙は「悪の宇宙」とされている)から堕落する。同じくアイオーンである救世主キリストと既に結びついていたソフィアは、人間イエスの洗礼の際に彼の中へと下り、イエスは救世主となる。すなわち確かに「キリスト」は霊的存在として、イエスは人間として別々に認識されている。余談だがグノーシス主義は調べると考え方が非常に面白い*28

⑪そしてアフリカ人の奸智に長けた異端の始祖サベリウスは父なる神がみずから己の子なる神だと主張した。→「サベリウス…リビアの出身と見られる(260頃没)。父と子と聖霊は単一の神の三つの様態であると主張」(鼎訳注)。この注だけでも大体わかるのだが、詳述するとサベリウスは神が唯一の、かつ分けることのできない神聖な位格で、父、子、聖霊はこの唯一の神の三つの異なる現れ、様態に過ぎないと主張している*29。つまり、神=父でも神=子でもないので、「父なる神」「子なる神」という言い方は若干不正確だ。ちなみに鼎訳ではこの部分を「父御自身がみずからの御子であると主張した難解なアフリカの異端指導者サベリウス」と訳している。原文の該当箇所は“and the subtle African heresiarch Sabellius who held that the Father was Himself His own Son”となっている。Father、Sonなどが大文字なので訳に問題はない。位格(Person)が違えばそれぞれの位格は別の存在で、様態、現れ(mode, manifestation)が違うだけだとその各現れは同じもの、本質的に同じ存在、という理解でいいだろうか? その辺に拘らなければ、「父なる神がみずから己の子なる神だ」という言葉は、父も子も根本は唯一の位格である神から発したもので同じ存在、と解釈でき、サベリウスの主張とも相違はない。おそらくスティーヴンのこの言葉はサベリウスの主張を(他の異端者たちのものと同様)ざっくりまとめたものだろう。しかし、subtleという言葉を柳瀬氏は「奸智に長けた」とし、鼎訳では「難解な」と訳している。Subtleは「頭の切れる、理解しがたい、狡猾な、邪悪な」というような意味があるので、どちらの訳も正しいと思うのだが、やはりここにも二者の解釈の若干の相違が表れているように思える。このサベリウスは第二挿話にも出てくるらしい。

⑫マリガンがついさっき嘲りながらこのよそ者にしゃべっていた言葉のかずかず。むだな嘲り。→恐らくこの「言葉のかずかず。むだな嘲り」はマリガンがスティーヴンのハムレット論(「ハムレットの孫がシェイクスピアの祖父で、彼自身が自分の父親の亡霊だということを代数で証明するんだ」という話)を馬鹿にした言葉を指しているだろう。今まで気づかなかったが、このハムレット論はハムレット論というより、「スティーヴン自身が自分の父の亡霊だという主張はハムレットの孫がシェイクスピアの祖父だというくらい馬鹿げている」という意味の嘲りなのか?

⑬空談を織る者すべてを必ずや空虚が待ち構える。→「空しい言葉を操る者たち。甲斐のない仕事を続ける者たち。出典に「イザヤ書」19.9「白布を織るものは恥じあわて」他をあげる説もあるが、直接の関わりがあるとは思えない。第二挿話の「織るがいい、風の織り手よ」を併せてみると、むしろ古来の諺「言葉は風にすぎぬ」(Words are but wind)がスティーヴンの念頭にあるようだ。『オクスフォード版イギリス諺辞典』では13世紀初頭の『尼僧の戒律』やシェイクスピア『間違いの喜劇』他の用例をあげている」(鼎訳注)。イザヤ書(旧約)はイザヤが見た幻について預言と警告的な内容が書かれている。問題の部分はエジプトについての託宣で、エジプトは主の力によって内政的にも外交的にも争いが起こり、天の恵みは得られず民は苦しみ国は弱体化するが、終末には主と和解し、民は主を崇め、エジプトは祝福される、というような筋だ。該当箇所の原文は“the weavers of fine linen will lose hope”で、民の苦しい生活の様子が書かれているだけなので、確かにあまり繋がりがあるとは言えない。一方で『間違いの喜劇』だが、該当部分の某翻訳書を読むと原文とあまりにも違う。誤訳なのか、意訳しすぎなのか… 『間違いの喜劇』は双子の兄弟アンティフォラスと双子の召使いドローミオの物語。兄アンティフォラスと兄ドローミオは航海で行方不明になってしまうが、難破先のエフェソスで成功し、すでに結婚もしていた。そこへ兄を捜しに来た弟アンティフォラスと弟ドローミオが現れて大混乱になる*30。問題の部分は弟アンティフォラスが兄の妻に兄アンティフォラスと間違えられ、兄の代わりにその家の主人になってしまい(もちろん弟ドローミオも兄と間違えられる)、後から帰ってきた兄アンティフォラス本人と兄ドローミオが門前払いをくらうシーン。面白いので原文を出してみる(ユリシーズと関係なくてすみません)。

ANTIPHOLUS OF EPHESUS: Go, fetch me something: I’ll break ope the gate. / DROMIO OF SYRACUSE : (within) Break any breaking here, and I’ll break your knave’s pate. / DROMIO OF EPHESUS : A man may break a word with you, sir, and words are but wind, / Ay, and break it in your face, so he break it not behind. / DROMIO OF SYRACUSE : (within) It seems thou want’st breaking. Out upon thee, hind!”*31

これを訳してみた。

「兄アンティフォラス:何か道具を取って来い。門を壊して開けてやる。/弟ドローミオ:(家の中から)壊せるもんなら何でも壊してみろ、俺はお前の頭をぶっ壊してやるからな。/兄ドローミオ:人間というものは約束をぶち壊すものですからね。それに約束ってのは風のように気まぐれなものにすぎませんから。/おい、ついでにお前の鼻がぶっ壊れるような屁をひっかけてやるぞ。後ろの穴が壊れないようにな。/弟ドローミオ:(家の中から)どうやらぶち壊されたいのはお前みたいだな。出ていけ、犬野郎め!」

(意訳も入ってます)。ここでのwordsは恐らく言葉というより、兄アンティフォラスが妻と交わした愛の誓い、約束のことだと思うが、第一挿話のこの部分でのwordは「空っぽな言葉、無駄話」の意の方が近いだろう。それでもこの格言“Words are but wind”が引き合いに出されるのは、特に間違いの喜劇との関連を考えると、アイデンティティの混乱、失われたアイデンティティの片割れを探す旅、という言葉に尽きるのではないだろうか。つまり、第一挿話ではスティーヴンと父を、『間違いの喜劇』では双子同士を並列させ、互いに自分が何者であるか、相手が自分にとってどういう存在であるかについて悩ませる、という共通点がある(ユリシーズのほうでは父はまだ出てきていないが…)。ちなみにこの格言はスウィフトも使っている。

⑭陣立をした教会の天使たち、戦闘時となれば槍と盾をもって教会を守るミカエルの軍勢によって威嚇され武器を奪われ壊滅されるのみ。→陣立は戦闘隊形、兵員整備、軍団構成などの戦法のこと。

⑮そうだ、そのとおり! 鳴りやまぬ拍手喝采。ちぇっ! ばかばかしい!→「ちぇっ! ばかばかしい!」は「フランス語の慣用句。スティーヴンはローマ・カトリック信者の立場に立って雄弁を繰り広げてから、「神の御名」においてあっさり否定する」(鼎訳注)。「ばかばかしい!」の“Nom de Dieu”を翻訳してみたら、“For God’s sake”と出てきた。だから鼎訳注で「神の御名において」否定すると言っているのか。

 ここまでこの二段落を詳しく見てきたのは、「キリスト教の三位一体の教義、特に子と父の同一実体性」の教義の問題が、スティーヴンの自己理解と自身の芸術の理解にとって非常に重要である、と述べる記事が見つかったからだ。異端の教義の種類は多岐にわたるにもかかわらず、確かに上に挙げられた異端者たちを見てみると、皆三位一体説、特にキリスト教における父である主と子イエスとの関係性に独特な考え方を持つ者たちだ。最初は話のつながりから、ヘインズの「イギリス人がアイルランドを不当な目に合わせてきた、それは歴史に罪がある」という言葉に反応してこのようなことを考えているのかと思ったが、思索は飛躍したようだ。ここまでを見て、スティーヴンが自分と父親を同一視しているとまでははっきり断言できないまでも(マリガンはそれをほのめかすが)、父親に対して何らかの特別な、独特な感情を抱いているのは明らかだ。この二段落でスティーヴンは古代のキリスト教異端者たちに自分を重ねている。それは父と子の同一性というテーマでもそうだし、自分の「主人」であるローマ・カトリック教会への反感というテーマでもそうだ。彼らを教会を守るミカエルによって駆逐し、更に大衆の思いを代弁するような口ぶりでそれを称えた後に、「神の名において」思いっきり落とす、という非常に手の込んだ、自虐かと思ったら最後に手のひらを返してしっかり叩き返す、というような思索の推移が表されているように思う。この複雑さはほとんど執念深いと言ってもいい。問題の記事の最後を訳して挙げてみる「「テレマコス」ではスティーヴンをテレマコス、そしてハムレットという、不在の父に身を捧げる二人の不幸な息子たちと象徴的に同一視している。ハムレットテレマコスと同様、イエスはありふれた人間社会の中に生きる一人の若者で、その人生は霊的な、不在の父親との関わりにおいて意味を持っていた。この関係は、いかに人生がその精神的な可能性を表現させられることになりうるかを示唆している――そしてこれはスティーヴンの美学の中心的な関心でもある」*32

・p.41「下手回し」→帆船の運用法。逆風帆走の際に、帆と舵の操作で船首を風下側に回し、風を受ける舷を変えて針路を変更すること。ここに出てくる溺死した人のことはよく分からないが、多分後になって出てくるのだろう。そういえばスティーヴンはマリガンのことを溺れている人を助けた男と言っていたが、誰を助けたのかもまだ分からない。

・p.42「かわいいの」→ミリー・ブルームのこと。親の目の届かない若者の一人暮らしで異性と遊んでしまうというのは(そしてそれを巧妙に親には隠そうとするけど親の方は薄々きづいている)どこの国でも同じなのだろうか。フォトガールは普通の宣伝用写真から、ポルノと言えるようなものまで様々な被写体になっていたらしい。ポルノ写真はポストカードとして流通していたようだ。

・p.42「速射でばっちりか? 短時間露出だな」→原文は“Snapshot, eh? Brief exposure”。これは下品なジョークですよね… Snapshotには、狩猟用語で手当たり次第の連射、という意味もある。写真の「露出」については詳しくないし、調べてもあまり分かりやすい説明が出てこなかったのだが、要するに露出時間が短いとカメラに入る光の量が少なくなるということだろう。それがどういう被写体の撮影に向いているのかは分からない。が、ここではあまりそういうことは関係ないと思う。Exposureには「(陰部の)露出」という意味もある。推測だが、速射でばっちり、短時間露出、という言葉は、「手当たり次第に女の子に声をかけて、速攻で(ミリーを)モノにした」というような意味を写真用語にかけて言っているのではないか?

・p.42「ヘインズとスティーヴンにちらちらっと……十字を切った」→額と唇と胸骨を指す十字の切り方は、「額は父、唇は子、胸は聖霊を表し、本来はミサにおける福音書朗読の際に行う十字の切り方」(鼎訳注)。ヘインズ達に目配せしてから十字を切るというのは、何となくこの海から出てきた聖職者(と思われる人物)を馬鹿にしているような印象があるが、どうなんだろう?

・p.42「シチューにされに行くんだ」→鼎訳では「猛勉しに向こうへ行くんだって」。原文は“Going over next week to stew”。海の中でマリガンと話を続けている若者がシーマーという恐らく共通の友人か知り合いのことを話している場面なのだが、「シチューにされる」のはこのシーマーでいいんだろうか? 海の中の若者によると、このシーマーは医者になるのをやめて、軍隊に入ると言っている。そしてカーライルの赤毛の娘、リリーと桟橋でいちゃついていた。Go to stewには“to be troubled or agitated”という意味がある。悩まされに行くのか、いらいらさせられに行くのか、動揺させられに行くのか… そんな感じの意味だと思うのだが、鼎訳の「猛勉しに行く」が分からない。医者になるのをやめたなら猛勉する必要はないのでは? それとも軍隊で「猛勉」するのか? そして「シチューにされに行く」のは結局リリーが妊娠したかもしれないからその話をしに行く、ということなんだろうか? ちなみにこの後でマリガンが「赤毛の女はまぐわひ狂いなり」と言っているが、「赤毛の女は身持ちが悪い」というのは昔から言われていたことなのだろうか? 様々な文学作品で「赤毛の女」はあまり良くないキャラクターや独特な人物として描かれている。赤毛の女の表象の変遷を調べてみると面白いかもしれない。関係ないが私の好きなラファエル前派の作品にはたくさんの赤毛の女たちが描かれている(ラファエル前派の描く女性は大抵赤毛で、顔が割と角ばった四角の輪郭をしていて、首が長い)。恥ずかしながら単に画家たちが赤毛の女性が好きだったのだろうと思っていたが、よく調べたら何か理由があるかもしれない。

・p.43「おれは超人だ」→「超人:ニーチェツァラトゥストラはかく語り』(1883-85)。十二番目の肋骨がないから最初の人間アダムであり、それゆえ超人だとふざける。神は睡眠中のアダムの肋骨を一本取りだしてイヴをつくったという「創世記」の話」(鼎訳注)。超人については第一挿話前半部分で「冷感人間」(ヒュポレボレイアスの人間)としても言及される。ここではドイツ語でウーベルメンシュと言っているので、「冷感人間」と厳密には異なる含みを持っているのかもしれない。神は死んだと宣言し、人生の意義を価値や伝統の継承や、そういったものに依存することではなく、個人としての創造的な生に求めたニーチェの思想は、スティーヴンの言動から推測される彼の信条や思想に通ずるものがあるように思われる。

・p.43「歯牙無きキンチ」→原文は“Toothless Kinch”。スティーヴンには抜けていた歯があったのだろうか? もしあったとしても歯医者に行く金はなかっただろう。Toothlessには“weak, having no capability of enforcing something”という意味もあるので、「しがない」(まずしい、つまらない、取るに足りない、みすぼらしい等の意)という訳はかなり近い。本当に「しがない」のことを「歯牙ない」と書くのかと思ったら違っていて、「祥が無い(さがない)」が語源だった。「歯牙無い」は柳瀬氏の造語。

・p.43「あたいのシミーズ」→「フランスでは主として男のシャツのことを言う。フランス帰りのスティーヴンにあてつけたか」(鼎訳注)。鼎訳のほうではここのマリガンの台詞は男言葉なので、男のシャツを念頭に置いているのだろうが、柳瀬訳では女言葉なので、ふざけて(あるいはあてつけて)自分の脱いだ服のことをシミーズと言っているだけで、特定の衣服を指すものではないのではないだろうか? あまり関係ないが今の日本語でシミーズ(あるいはシュミーズ)は限りなく死語に近いと思う。売ってはいるだろうが、耳にすることはまずないし、知っている限りで自分の周りでも日常的に使っている人はいない。今のシミーズと当時のシミーズがどれほど違うのかは分からないが、少なくとも現代のシミーズは、サテンっぽいつるつるとした生地でできていて、キャミソールを膝上丈くらいに伸ばしたものだと思う。もしかしたらパーティードレスのような服の下に着けるのかもしれない。

・p.44「着衣、脱衣」→これについて第一回の読書会のときにどういう含みがあるか話していたと思うのだが、メモを取り損ねた。誰か分かる人がいたら教えてください…

・p.44「貧者よりくすねる者は主なる神に貸し与う」“He who stealeth from the poor lendeth to the Lord”→もととなる詩句は「箴言」19:17「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ」であり、この後に「その施しは主が償われる」とつづく。元となる原文を探した中で使われている言葉が一番近いのはDouay-Rheims Bibleの“He that hath mercy on the poor, lendeth to the Lord”。「箴言」は様々な教訓や格言を集めたもの。ソロモンによって書かれたとされているが、複数の作者の存在が指摘されている。本当にありとあらゆる事柄についての教えが載っているので、ここに「箴言」が出てくることにあまり深い意味はないと思う。しかしこの言葉の後に「ツァラトゥストラはかく語りき」が続くことから、貧者から「くすねる」という言い方がいかにもキリスト教弱者道徳を蔑んだニーチェらしく感じられる。

・p.44「未開アイルランド人種に笑みかける」→鼎訳では「とっぴなアイルランドふうの表現に微笑しながら」となっている。原文は“Haines said, turning as Stephen walked up the path and smiling at wild Irish”。問題は「wild Irish」だ。柳瀬訳のほうでは単にスティーヴンのことを指して未開アイルランド人と言っているように訳しているが、鼎訳でこの言葉は、恐らくマリガンの言った(あるいはこれまでスティーヴンやマリガンらアイルランド人が口にしてきた)アイルランド風の表現のことを指している。Wildには「野蛮な、未開の、乱暴な、自分勝手な、興奮した、でたらめな、とっぴな」等様々な意味があるが、「とっぴな」という意味で使うときは案や計画(plan, imaginationなど)を修飾することが多いので、あまり人を修飾する時の意味にはならないのではないか、と思う。ただ、ジョイスの時代にはそういう用例があったかもしれないので、断言はできない。また、この後の段落にスティーヴンがヘインズの微笑みに対し不信感を表すような言葉が続くので、とっぴなアイルランド風の表現に微笑みかけたとするとちょっと繋がりが悪い。ここは柳瀬訳のほうがいいと思う。

・p.44「牡牛の角、馬の蹄、サクソン人の笑み」→「アイルランドの諺。用心すべきもの。スティーヴンがヘインズの微笑を見て連想する。他に、「牡牛の角、犬の歯、馬の蹄」というのもある」(鼎訳注)。やはり生活の知恵からきているというか、動物に関する格言や諺はアイルランドに多いのだろうか?

・p.44「百合のごとく耀く……輝かしき童貞らの汝を」→pp.22-23の母の臨終と死についての回想の象徴、そしてその際に膝をついて祈らなかったことについての複雑な心境の象徴ともいえる儀礼書の祈りの言葉が再び現れるのは、海の中から出てくる聖職者を目にしたからだろうか?

・p.45「簒奪者め」→「スティーヴンの内的独白。彼は自分を『オデュッセイア』のテレマコス及びハムレットに見立て、ヘインズやマリガンを『オデュッセイア』の求婚者たち、ハムレットの叔父に見立てている。その他、第一挿話と『ハムレット』一幕一場の関連をあげるなら、寒気のきびしい真夜中と穏やかな初夏の朝、エルシノア城の胸壁とマーテロ塔の胸壁、父の亡霊と亡き母の思い出、黒い喪服、狂気(ハムレットは狂気を装い、スティーヴンはマリガンによれば「痴呆性全身麻痺」)、忠実な友ホレイショーとバック・マリガン、などがある」(鼎訳注)。第一挿話のまとめ的な注だ。ここに挙げられている「関連」は、対比と類似とに分けられると思う。テレマコスとの関連についてはオデュッセイアを読んでいないので何も言えないが、ネット上にも「スティーヴンはハムレットと自分を同一視している」とする記述が多く見られる。しかしスティーヴンが自分をハムレットに「見立て」、ヘインズやマリガンをハムレットの叔父に「見立てている」、という言葉ではちょっと足りないのではないかと思う(注釈なので仕方がないのだけれど)。確かにスティーヴンが自分をハムレットとみなしていると思わせるような関連は注釈にあるように多々あるし、彼の内的独白はハムレット的心境を強く想起させる。外的、客観的事実についてはどうだろうか? 黒い喪服は母の死のため着なければならなかったもので、スティーヴンが好んで着たものではない。アイルランドがイギリスの支配下にあるという事実はスティーヴンにどうこうできる問題ではない。好むと好まざるとにかかわらず、アイルランドに生まれた以上、イギリスから受ける、受けてきた苦汁は共有しなければならない。友人たちがスティーヴンを本当に馬鹿にしているのか、それとも彼らの言動は裏のない親密さの表れなのかは何とも言えないが、スティーヴンは自分が軽視されていると感じている。このような客観的記述からも、スティーヴンが「ハムレット的」に描かれていることは否めない。しかし、スティーヴンはハムレット的自己を認識している。自分がハムレットのようだと分かっている。そしてこの時、自分でそれを認めた時点で、彼はハムレットではない、とも言えるのではないだろうか? なぜならハムレットハムレットを認識しない。もし客観的記述のみで彼が自分をハムレットのように思っていると読み手が判断できれば、スティーヴンは自分をハムレットに見立てている、だけの説明で十分だろう。しかしここには彼の自己認識の記述があり、それはジョイスの打ったくさびのように思える。さらに、スティーヴンは詩人であり、鬱屈してひねくれた若者特有の精神を持つ芸術家だ。ジョイスの描くスティーヴンの記述からは、スティーヴンがハムレットとして自分を「装い」、割とそんな自分に満足しているのではないかと思わされる(その陶酔は絶頂に達したかと思いきや、ちょうどいいところでマリガンの間の抜けたシャレによって破られる。緊張と緩和が笑いを生む)。つまり、ハムレットとしてのスティーヴンの裏に隠されたスティーヴン自身の本質が別に存在するのではないか、と考えさせられる。それは第二挿話以降を読んでみないと分からない。

<全体的雑感>

・読書会では第一挿話を「塔の上」「塔の中」「塔の下」の三パートに分けて読んだが、「塔の上」→「塔の中」→「塔の外」の流れの中には、ざっくり「死」→「生」→「船出」の流れがあるのではないかと思う。「死」はマリガンの黒魔術的な髭剃り、母の死の回想、「生」は朝食作りと食事、新鮮なミルク、今日の予定の確認、「船出」はマリガンの海水浴、スティーヴンからマリガンへの鍵の譲渡、スティーヴンの「今日は家に帰らない」という言葉から連想された。しかし「死」の中にも「船出」はある。というか、死は一つの旅立ちでもある。そういった意味で、最初のパートは既に最後のパートを予感させる。この時、海は陸へ、陸は海へと転換される。

・普通最近の文芸翻訳の暗黙の了解に、「擬音語をなるべく使わない」というのがあるのだが、柳瀬訳は擬音語だらけだ。鼎訳を見ればいかに擬音語が柳瀬訳と比べて少ないかが分かると思う。原文の方にそこまで擬音語を絶対に使いたくなるような単語が多いわけでもない。この作品をコメディとしてとらえるならば(そしてこれはコメディだという解釈を知ったのは最近のことで、柳瀬訳を読んで確かに納得させられたのだが)、擬音語の多用は分かりやすさやリズムのよさ、ちょっとした滑稽さやばかばかしさを生むのに効果的だろう。でもいたずらに擬音語を増やしても駄目なのだ。柳瀬訳の擬音語を多用した文章の効果を考えると、柳瀬氏が相当苦心して(というと氏に怒られそうではあるが)大量の擬音語を配置したな、と思わせられる。そのプロセスを知りたかった…

・第四挿話では会者定離輪廻(Metempsychosis)というややこしい言葉が出てくるが、第一挿話でこれに対応するのは痴呆性精神中毒(general patalysis of the insane)だろうか? それとも冷感人種(hyperborean)だろうか? どちらもややこしい言葉だが、痴呆性精神中毒のほうはg.p.i.という風に省略されているからな… 金の口持つ者(Chrysostomos)の可能性もある。

・自然現象やモノが、さりげなく言葉の中で擬人化されている。→e.g. P.11「目覚めかけた丘陵」、p.12「白血球どもが少々ざわついておりまして」、p.15「湾と水平線の輪が鈍い緑の液体のかたまりを抱える」、p.18「砕かれて飛び跳ねる草茎」、p.21「磯近くと沖合で海面の鏡が軽やかな靴をはいて駆ける足に踏んづけられて白くなる」、p.24「暖かな日差しが海面いっぱいにはしゃぐ」、p.25「燻る石炭の煙と脂身を炒めた烟がぷわぷわ踊って渦巻く」、p.34「そっくり返るカラーとおさまりの悪いタイを着けながら、その両方に話しかけ、𠮟りつけ、ぶらさがる懐中時計の鎖にも声をかける」、p.34「しゃべりまくる手」、p.39「その石突きがとことこついてきて、すぐ後ろできィィきィィっと鳴く」、p.41「おいら浮かんで来たぜ(むくれ土座衛門の言葉)」etc.詩的表現として面白い、美しい、という印象もあるが、作品中に出てくるすべてが(生物も無生物も)登場人物の一人なのだという感じも与えられる。

・マリガンがほとんどいつも「バック・マリガン」と表記されているのは、第四挿話のM組(ミリー、モリー、ミスタ・ブルーム)にマリガンを入れないため?(このことはもしかしたら第一回の読書会でどなたか指摘していたかもしれない)

・「スティーヴン嫌い」が読書会中で話題になったが、私もスティーヴンは好きだ。割とマリガンも好きだ。ヘインズについては、まだ何を考えているのかいまいち判断できない(アイルランド的不信感)。どなたかも仰っていたが、皆二十歳前後の若者であることを考えると、妙に感受性が強かったり、人の好意を素直に受け止めないスティーヴンの性質は非難すべき類のものではなく、逆に身に覚えすらある(私は若き芸術家ではないが、青春時代ってそういう性向を持っている人は割と多いと思う)。笑顔で話しかけたらそっけない対応をされるから嫌われているのかと思いきや、後になって唐突に話しかけてくるようなタイプだ。全体的に人を見下している感があるが(医学部だからか?)陽気で卑猥なジョークも不快なジョークも思ったことをポンポン口に出すマリガンもいい。いいように使われないよう注意が必要だが、友人になれば明るくて楽しい。うざい時はうざいと言ってもあまり本人は気にしないタイプだ。二人とも、意表を突くようなことを言われると顔を赤くするのも可愛くていい。

 


Who Goes with Fergus? [YEATS poem set to music, electronic mix]

ファーガスの歌。メロディはこれを歌っている人が作ったものかどうかは分からない。

 


Zane Campbell with Liz and Iris - "The Ballad of Joking Jesus" - Live at The Lofts at 2nd & LOMA i

おどけイエスの歌。不覚にもかっこいいと思ってしまった。

 


パレストリーナ 「教皇マルチェルスのミサ曲」 タリス・スコラーズ Missa Papae Marcelli

パレストリーナ教皇マルケルスのミサ曲」。

 

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柳瀬さんの本に鼎訳注を貼りつけている。草葉の陰からダッシュしてきた柳瀬さんや丸谷さんにフルボッコにされそうな状態。

 

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9より引用。

*2:http://m.joyceproject.com/notes/010040hyperborean.html参照。

*3:https://en.wikipedia.org/wiki/Hyperborea#Celts_as_Hyperboreans

*4:https://archive.org/details/leborgablare03macauoft/page/151/mode/1up?view=theaterhttps://archive.org/details/leborgablare04macauoft/page/109/mode/1up?view=theater

*5:『来寇の書』はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%9D%A5%E5%AF%87%E3%81%AE%E6%9B%B8を参照。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A

*7:https://poetry.hix05.com/Yeats/yeats08.fergus.htmlより。

*8:http://m.joyceproject.com/notes/010082liliatarutilantium.html参照

*9:出エジプト記』1:15-2:10。ただし「ヘブライ語の読みであるのでエジプト人が付けるのは不自然なためか、ヨセフスやフィロンなどは……「エジプトの言葉で『水』をモーウ、『水から助けられた人』をエセースといい、モーセ(原文はギリシャ読みの「モーセース」)は『水の中から引き揚げられた人』という意味」であるとの解釈もある(秦剛平『書き換えられた聖書 新しいモーセ像を求めて』京都大学学術出版会、2010年、pp.48-49より。)

*10:フェイロンアイルランド岩波書店、1997年、p.37

*11:https://shakespeare.hix05.com/tragedies3/macbeth02.witches.html参照

*12:ホイットマンと『草の葉』についてはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3参照

*13:https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9-130819参照

*14:ユングによる言及はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9より。

*15:https://biblehub.com/drb/matthew/26.htm

*16:https://en.wikipedia.org/wiki/Fraxinus参照

*17:https://www.karakusamon.com/ki_i.html参照

*18:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Song_of_the_Cheerful_(but_slightly_Sarcastic)_Jesus参照。

*19:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E3%81%84%E9%AD%94参照。

*20:https://www.gutenberg.org/cache/epub/8799/pg8799-images.html#cantoIII.17参照。

*21:ダンテ『神曲 天国篇』平川祐弘訳、河出文庫Kindle版)、2014年、pp. 2681‐2689より。

*22:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E4%BF%A1%E6%9D%A1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1参照。

*23:https://www.cbcj.catholic.jp/2004/02/18/7451/参照。

*24:https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Marcellus_II参照。

*25:ギフォード注より。

*26:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%B7%8F%E4%B8%BB%E6%95%99)参照。

*27:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9-27953参照

*28:http://flamboyant.jp/eschatology/esc022/esc022.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Valentinus_(Gnostic)

https://www.cogwriter.com/valentinus.htm

https://en.wikipedia.org/wiki/Valentinianism

http://mirandaris.in.coocan.jp/gnosis.html参照。

*29:https://en.wikipedia.org/wiki/Sabellius参照。

*30:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%AE%E5%96%9C%E5%8A%87シェイクスピア『間違いの喜劇』小田島雄志訳、白水社Kindle版)、2008年、1227の465-475参照。

*31:https://ayearofshakespeare.com/2014/02/10/参照。

*32:http://m.joyceproject.com/notes/010119trinity.htmlより。