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雑記

円城塔『道化師の蝶』

 子供の頃教育番組で、「これはねずみ、これはねずみを追いかける猫、これはねずみを追いかける猫をなでた女の子、これはねずみを追いかける猫をなでた女の子にアメをあげたパン屋さん……」というような言葉遊びを見たことがある。最終的には、最後に出てきた名詞と最初のネズミが繋がる。「これは……~をしたうさぎを噛んだねずみ」のように。

『道化師の蝶』を読んで最初に思い浮かんだのはこの言葉遊びだ。いや、最初にというのは多少語弊がある。最初に感じたのはめくるめく物語の美しさと作品の見えざる手によって運ばれていくような感覚だ。移動によって散らばる人々の着想は蝶となって、言語構造の複雑に入り組んだ枝の間を飛び回り、特殊な呪いの織り込まれた銀糸の網で捕らえられる。蝶は実体を持つものであり、同時に架空の存在でもある。蝶となった人々の着想を捕らえようとするエイブラムスとそのエージェント、各地を放浪しながらその土地の言葉を習得し、たくさんの偽名を使って大量の文書や物語を残した「友幸友幸」なる謎の人物。同様に移動生活を続け、生活の糧に前にいた土地の手芸技術や作品を売り、食べ物と手芸に関する言葉を中心にその地の言葉と新しい技術を習得しては去っていく手芸作家。この人物にとって手芸作品は「言葉」であり、それを「読み解く」ことでかつての土地の記憶を呼び起こす。

 アメリカ人の実業家で、生涯の大半を機内で過ごしたエイブラムスは友幸友幸を捜している。エイブラムス亡き後も、私設資料館が残り、そこで雇われたエージェントたちが友幸友幸の捜索を続けている。手芸作家はその資料館の職員として雇われる。友幸友幸が去った後の部屋には大量の文書とともに手芸作品や工芸道具も残されていて、手芸作家は自分が手芸を読むことができるとアピールして雇ってもらったのだ。手芸作家は資料館に残された手芸作品だけでなく、そこに集められた文書も読んでみるが、あるエージェントが残した文書が何語なのか、何を言っているのかさっぱりわからない。各地を遍歴し、言語習得には自信があるのに、内容につながる手がかりの見当すらつかない。そして手芸作家はそれが人工言語、使う者のない死んだ言語で書かれていることに気づく。物語はここで幻想世界へと変わり、手芸作家の周りには銀糸の枝が縦横無尽に繁茂する。玻璃でできた蝶がその間を飛び回り、ぶつかり合っては砕けていく。そこへ老研究家が現れる。彼はかつて、エイブラムスが捕まえた、実体もあり架空のものである蝶、「アルレキヌス・アルレキヌス」(アルルカン=道化師の意)の鑑定を依頼された人物だ。以前彼はそれが新種であると同定した。彼は手芸作家に、蝶を捕まえられる網を作ってほしいと頼む。網を手に入れた研究家は、エイブラムスに、持ち込まれた蝶が正確には新種ではない、雄の存在が既に確認されている、ここにあるのは雌の個体だと告げ、そういう話ではなかったと憤るエイブラムスに、蝶を捕まえるための網を渡し、捕まえた蝶を解き放つ。手芸作家は蝶となり、見覚えのある男の頭の中に卵を産み付ける。繁殖の方法は臨機応変。卵を産めたということは、自分は雄に出会ったのだろうと蝶は安堵する。卵は男の頭の中で孵化し、「旅の間にしか読めない本があるとよい」という男の着想となる。それはやがて成蝶となって飛び去って行くだろうことを蝶は予想している。

 以上、作品の謎に抵触しないようにまとめてみた。謎と言うべきか、意図的な矛盾や、時系列や筋の混乱と言うべきか。とにかく、さらっと読めばこんな感じだ。でもこの作品は、「さらっと」読めない。「さらっと」読んだのでは面白みが半減してしまう、非常に入り組んだ構造と不可解な内容をふんだんに含んでいる。

 まず、話の流れを作品に忠実に追ってみたい。上にまとめた内容と以下の内容に重複する記述があることはご容赦頂きたい。大体の筋と雰囲気が分かれば十分、という方はここで読むのをやめておいた方がいい。ここからが頭痛のするほど複雑だから。

  ①エイブラムスと「わたし」との機上での会話がある。冒頭の文章を覚えておいてほしい。「旅の間にしか読めない本があるとよい……なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない」。これは「わたし」の言葉だ(以下カギかっこを外します)。わたしは『腕が三本ある人への打ち明け話』を読んでいるが、全然理解できない。隣の席には太った紳士、エイブラムスが座り、銀糸で織られた小さな捕虫網のようなものを取り出す。エイブラムスは全く本を読まないという。そして、人間の思考は移動速度についていかれず散らばるもので、この網は飛散した思考や着想を捕らえるのだと説明する。実業家であるエイブラムスは手広く事業を拡げ財を成し、その事業における初期の大ヒット作『飛行機の中で読むに限る』は書評家が鞄の中に入れっぱなしにしていたのが偶然他の客に回し読みされて大きな反響を呼んだものだった。彼はあるインタビューで、自らのアイディアの元について尋ねられたとき、かつて飛行機の中で、実体はあるが架空の蝶を捕らえたことを話す。目には見えるが、捕まえるとすぐに指をすり抜けてしまうのだ。その蝶を何とか鱗翅目研究家の元へ持っていくと、新種の蝶と断定され、格子型の区切りの中に様々な色の現れるその羽の模様と生態から、アルレキヌス・アルレキヌス(アルルカンは道化師の意)という学名をつけられた。エイブラムスはその蝶にちなんで自らの名をA.エイブラムスとした。

 ②以上の話は、「わたし」が友幸友幸によって無活用ラテン語で書かれた『猫の下で読むに限る』を翻訳したものである。友幸友幸が行く先々で残した文書や物語が同一人物のものであると断定されたのは筆跡鑑定に拠っており、また、男性と仮定されているのは彼が居住していたとみられる部屋でアジア系、恐らく日中韓の男性の出入りが多数目撃されたことによる。無活用ラテン語は数学者によって考案された人工言語であり、話す者のほとんどいない、死せる言語だ。友幸友幸が無活用ラテン語で記した物語はこの『猫の下で読むに限る』だけである。他の場所ではその土地の言語を使って文書を残していた彼がなぜ無活用ラテン語を用いたかについては様々な憶測がなされ、謎に包まれたままである。彼がなぜ無数の地域を渡り歩いて、その土地の言葉を習得し、また他の土地に移っていったのかも、何を生業として生計を立てていたのかも分からない。エイブラムスは一時期不動産業に手を出しており、そこで見つけられた様々な工芸道具と大量の文書に興味を持ち、人を使って友幸友幸を追跡し続ける。

 ③話は手芸作家へと移る。手芸作家であるわたしは(ちなみに「わたし」は手芸作家と自称していない。ここでは便宜上この人物のことを手芸作家と呼ぶ)各地を放浪し、異国の技術を売り、新たな技術とそれにまつわる言語を習得しながら暮らしを立てている。一カ所の滞在期間は数時間から一年と幅がある。昼には手芸の技術を学び、夜には昼間習った技術を紙に移し、覚えたての言葉を、耳から聞いた通りに記して文章を書く。異国の手芸技術について書いたものは、出版社に持ち込んで金を得る。技術を教えてもらったお礼に、物語を書いて、教えてくれた人の名前を著者としてプレゼントすることもある。

 ④ここで突然舞台はシアトル―東京間の飛行機内に移る。わたし(手芸作家)はある女性が銀糸で織られた捕虫網のようなものを持っているのを目にする。それはかつて自分が作ったものだと一瞬思うが、そうではなく、未来の自分が作るものだと気づく。未来のわたしがどこかの部屋に置き忘れたその網を、その女性は偶然手に入れ、機中で残りの人生の大半を過ごすのだ。そのことがわたしには分かる。不法労働者のための部屋をあっせんする慈善事業をしているこの女性は読書家なのだが、なぜかそのことを恥じていて、隠している。わたしの隣の人が、移動の間にしか読めない本の話を始め、彼女の網がその着想を捕らえる。彼女はその話をどこかで聞いたことがあると思い、思い出す。彼女はわたしの去った部屋で見つかった原稿を公開してみようかと考える。今わたしが耳にしている『腕が三本ある人への打ち明け話』は、彼女とその隣の人が話している物語だ。この話は公表されるが、誰も理解できない。この話はわたしが書いたものだ。

 ⑤エイブラハムの日本人エージェントが語り手となる。場所はサンフランシスコだ。彼は資料館へレポートを提出しに来た。彼は宝石、編み物、刺繍、言葉には同じ「柔かさ」があると考える。彼はかつて友幸友幸を真似して、無活用ラテン語で『飛行機の中で読むに限る』という作品を書き、レポートとして資料館に提出したことがある。彼は言語構造の可能性について思索する。そしてレポートを受付の女性に渡し、資料館を去る。

 ⑥資料館を訪れたわたし(手芸作家)は、このエージェントとすれ違う。もちろん赤の他人で面識はないので、すれ違うだけだ。資料館にはエイブラムスの広範な興味を反映して、種々雑多なコレクションがある。作家は自分の作品が書いたものも、作ったものもここに収集されているのを知っている。わたしは手芸が読めることをアピールし、資料館の職員になる。集められた作品を手に取り、過去に訪れた土地を想起する。そしてさっきすれ違ったエージェントの残した原稿を読もうとするが、わたしにはそれが何語なのか全くわからない。これだけ諸国を渡り歩いて、さまざまな言語を習得してきたのに、見当もつかない。宝石のことを言っているのか、刺繍のことを言っているのか、わたしは考える。そして、これは生き物の使う言葉ではない、用いる者のない、死んだ言語だとわたしは予感する。これは呪いだとわたしは悟る。

 ⑦ここで現実世界は幻想世界へシフトする。わたしの周りに銀糸でできた枝が広がり、その間を玻璃の蝶が飛び回る。蝶たちは互いにぶつかり合い、否定しあい、粉々に砕けてわたしの足元に散らばる。そこへ鱗翅目研究家が現れる。彼は蝶を捕まえるための網を作ってほしいとわたしに頼む。わたしは手ごろな銀糸の枝を切り取り、歯で噛んでみるが、金属的な香り以外には何も感じない。

 ⑧研究家はエイブラムスが座っているテーブルへ戻る。彼はエイブラムスが発見したのは新種の蝶ではなく、すでに同種の蝶の雄が見つかっていることを本で示す。そして蝶を捕まえるための網と、捕まえた蝶のどちらかをエイブラムスに進呈すると申し出る。エイブラムスは絶句し、聞いていた話と違うと怒るが、結局氏にとっては着想を捕らえるものである網を渡され、蝶は放たれる。

 ⑨手芸作家であるわたしは放たれる。つまり、わたしは蝶である。道化師の蝶であるわたしはイエスとノーを翻しながら、入り込むべき人形(ひとがた)を探す。蝶は自分では考えることができないからだ。わたしはペーパーバックを読んでいる、見覚えのある男の頭の中に入り、詰まっていた言葉を外へ放り、卵を産み付ける。言葉を食べて卵は孵る。男は「旅の間にしか読めない本があるとよい」という着想を抱き、それを展開し始める。わたしたちの繁殖方法は定まっておらず、臨機応変だ。わたしが卵を産めたということは、雄に出会ったのだろう。そう思ってわたしは安堵する。なにごとにも適した時と場所と方法があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない、とわたしは思う。

 

 すべて読んでくださった方はお気づきだろうと思うが、この筋と内容にはいくつもの謎がある。

・手芸作家とは友幸友幸なのだろうか? 手芸作家については性別は一切明らかにされていない(だから今まで「彼」とか「彼女」と書けなかった)が、⑨で雌の蝶に変化したことから、女性なのではという感じもする。両者の間にはあまりにも共通点が多い。移住生活を繰り返し、残された部屋に大量の文書を残し、数えきれないほどの種類の言語を習得する。手芸作家は資料館に集められた手芸作品や文書が自分のものだと分かっている。

 しかし、資料館には多種多様なコレクションが存在するので、手芸作家の検分していた作品群が友幸友幸のものであると断言はできない。そして友幸友幸は男性だと推測されている。また、彼も作家も共に物語を書き、それに様々な著者名をつけているが、作家の場合それを手芸技術を教えてくれた人にプレゼントしているともある。そうした場合、部屋にそういった作品は残らないのではないだろうか。それとも相手を部屋に呼んでそういう作品を読ませたのか。

 そして、手芸作家の書いた『腕が三本ある人への打ち明け話』は、友幸友幸の書いた『猫の下で読むに限る』の中に出てくる物語だ。もし作家と友幸友幸が現実に存在する人間であるとすれば、友幸友幸は作家の作品を知っていることになる。二人は別々の放浪生活者であるということになる。しかしなぜこんなにも似通った二人の放浪生活者を作品中に登場させなければならないのだろうか? その必要はあるだろうか? その意図は何か?

 さらに、友幸友幸は無活用ラテン語で『猫の下で読むに限る』を書いたとされているが、手芸作家は無活用ラテン語であると思われる文章が読めない。果たして本当に『猫の下で読むに限る』を書いたのは友幸友幸なのか?

・④で、なぜ手芸作家は自分が未来に捕虫網を作ることが分かるのか。④の部分は作品の中でとりわけ異彩を放っている。何故捕虫網を持っている女性の過去や未来を知っているのか? ④は①より前に来るのだろうか? 移動の間にしか読めない本の話をしているのはエイブラムスとその隣の「わたし」ではないかと思うが、これもまた友幸友幸の作品内での話である。手芸作家は友幸友幸の物語中の人物なのだろうか? そうであれば、必然的にエイブラムスもエージェントも、作品すべてが友幸友幸の創作ということになってしまう。作家はエージェントとすれ違っているし、エイブラムスの資料館で働くことになるのだから。これは友幸友幸が書いた、友幸友幸を探す友幸友幸の物語なのか? そうなると作者の存在はどこへ行く? 

・エイブラムス氏の性別が分からない。氏は子宮がんを患っていたという記述があり、④に出てくる捕虫網を手に入れた女性は人生の大半を機内で過ごすことになると作家は語る。エイブラムスは本を読まないと断言しているが、機内の女性は読書家だが、本を読むことを隠しているとされている。すると機内の女性はエイブラムスなのだろうか。

 しかし、④で旅の間にしか読めない本があるとよい、と話す人物の隣に座っているのは確かエイブラムス氏だ。ただそういう話をしている人物と①に出てくる人物が同じであるとは限らないし、何度も繰り返すが①は友幸友幸の物語である。エージェントの話や友幸友幸の物語その他の中で、エイブラムスは男であると表記されている。前項の「作品すべてが友幸友幸の創作である」という仮定を認めるならば、なぜ氏の性別を混乱させる必要があるのだろうか。その意図は何か。

・蝶の繁殖の方法が定まっていないというのは、作家と友幸友幸のように各地を旅して臨機応変に言葉や技術を習得し、生きのびていくことを指しているのだろうか?

・手芸作家と友幸友幸が別人物である場合、両者とも道化師の蝶の人形で、両者がどこかですれ違ったときに繁殖が行われたのか? しかし手芸作家は最後に蝶へと変化している。人形は実在に変化するだろうか?

・そして冒頭の文章と末尾の文章はほぼ同一である。つまり、終わりへ来ると最初に戻るのだ。読者は最初の謎に戻ることになる。

 

 このように、すべての仮定は否定され、矛盾は解けず、謎は明かされない。入り組んだ枝の間をはためきぶつかり合って砕ける玻璃の蝶のように。それなのにしっかりと物語の体を成している。そこらの筋の通った作品よりも、はるかに堅固に、かつしなやかに。もちろん人間同士の心の機微や、社会問題に踏み込んだものではないし、優れたSF装置や仕掛けが出てくるわけでもない。手芸作家や友幸友幸のように、だれにも頼らず一人生きる者、エージェントやエイブラムスのように自分の考えで単独行動を主とする者の、突き放すような文体が心地よい。また、個体の死、肉体的な、リアルな死についての話を避けることで、作品は純粋に形而上的なものになっている。物語の手でどんどん先へと運ばれ、気がついたら元の場所に戻っているという事実にめまいすら覚える。芥川賞を取ったらしいが、どんな賞にしてもそれを受けるのにふさわしい傑作だと感じる。

 本書には「松ノ枝の記」という作品も収録されているのだが、それについての詳しい感想は勘弁してほしい。これを書くだけでも相当な精読と書き出しを必要としたので。ちょっとだけ紹介するとすれば、構成の緻密さは「道化師の蝶」ほどではないが、複雑さを孕んでいることに変わりはなく、少しだけ太古のロマンを感じさせる。それだけ述べておく。

 ちなみに、私はこの作品をどこかで読んだことがある。読み始めたとき、既視感に襲われた。おそらくすべてを読んだわけではない。この本を読んでみようと思ったのは柴田元幸さんのMONKEYに円城さんが寄稿されていて、面白そうな作家だなと思ったからだ。最初は似たような設定の海外小説を読んだのだろうかと思ったのだが、見覚えが強かったのは「友幸友幸」「フェズ刺繍」という固有名詞だったので、そうではないのだろう。本屋で立ち読みしたのだろうか? しかし私は基本的に9割方買おうと思っている本しか立ち読みしない。文芸誌や書評を読んだのか? でも私は文芸誌は読まない。書評を読んだとしても、これらの固有名詞がその中に出てくる確率はあまり高くない。一体私の既視感は何に由来するのだろうか?